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『メアリと魔女の花』

2017年08月31日
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(※ 以下の感想は、数十年に渡り『小さな魔法のほうき』を愛し続けてきた、いち主婦の主観に基づいていますので、「そういうんじゃなくて純然たる映画の感想が知りたいんだよ」、という方にはおすすめしません。)


小学校の図書室に、『小さな魔法のほうき』という本があったのでした。

その本は、「何の予定もない夏休み」という、子どもにとって悪夢に等しい退屈な日々を、「近所に誰も知った子がいない親戚の家」という、これまた子どもにとっては拷問に近い環境で過ごさなくてはいけなくなった少女・メアリーが、黒猫に導かれた先で見つけた不思議な花の力によって、たった一晩だけ魔法の力を手にし、目のくらむようなスピードで空を駆け上がり、世界をふさぐ壁のように厚い雲をくぐり抜け、近いようで遠い魔法学校に入学してしまう、という、子どもにとっては夢のような物語でした。
特別な才能をもっておらず、どちらかというと貧乏くじを引いてしまうタイプで、好奇心は旺盛だけど何をやっても失敗ばかりのメアリー。
しかし、たまたま手についていた不思議な花の金粉を、ちょっと拭おうと小さなほうきになすりつけた瞬間、ほうきは命を吹き込まれたように、あるいは眠りから醒めたように、メアリーを乗せて雲のしぶきをまき散らしながら空を切り裂いてゆくのです。

わたしはもう、夢中でした。
魔女になりたくて、魔法の世界に間違って飛び込んでしまいたくて、図書室でそんな物語ばかり探していたわたしにとって、『小さな魔法のほうき』は福音でした。
衣装ダンスに入り扉を閉め、目をつぶって分厚いコートの間に手を差し込んでばかりいたわたし。
今度こそはひんやりとした空気に触れるはず、ナルニア国の街灯のランプが見えるはず、と熱望しては叶わなかったわたしは、衣装ダンスの代わりに野草を摘み、その汁を庭ぼうきになすりつけるようになりました。
この花は違った、でも、どこかにあの花があるかもしれない、と思いわたしは野草を探しました。
あの花。
「龍の舌」、「魔女の鈴」、「ティブの足もと」、そして「夜間飛行」とも呼ばれるあの花にさえ出会えれば、特別な力のないわたしでも、ほうきにのって空を飛べるかもしれないのですから。

もちろん、本気で「夜間飛行」が存在していると思っていた訳ではありません。
けれど、「夜間飛行」はたしかにあった。 
わたしの想像の世界で美しくひっそりと咲いていた。
その姿だけでわたしは夢をみることができたのです。
『小さな魔法のほうき』は、「魔法はあるかもしれない」という最高の夢を、「今は出会えていないだけで、いつか出会えるかもしれない」という、いつまででも抱えていていい夢を与えてくれたのでした。

そんな『小さな魔法のほうき』が、『メアリと魔女の花』というタイトルを与えられ、長編映画としてお目見えする事になりました。
制作はスタジオポノック。
スタジオジブリが解散したのち、そこに属していたスタッフたちと共に作られたスタジオです。
ジブリではないけれど、ジブリとは全く別物というわけでもない。
ポスターや予告から、観客は自然とジブリを連想し、スタジオもまたジブリを思い起こさせるような作品に仕上げた。
結果、賛否はありました。
当然でした。 
ジブリであってジブリでない、別物といいながら過去のジブリのよりぬきシーンのようだった本作を、ジブリ抜きで評価しろというのは難しい話だと思います。
お客さんは目に見えたものだけで判断します。
ポスターに「魔女、ふたたび」と書いてあり黒猫が出てくるのですから、「魔女の宅急便みたいだなぁ」、と思うでしょう。
魚のようなものが大量に飛びかかるシーンを観れば「ポニョみたいだなぁ」、と。
「ハウル」のように燃え盛る火、「もののけ」のような動物、「湯婆婆」のような魔女、「ラピュタ」のロボット兵のようなモブキャラ、どこかで観たことあるようななにかの連続を、盛り沢山でサービス満点ととる人や、既視感だらけでワクワクしないととる人がいるのは当たり前ですよね。

盛り合わせでいいんです。 既視感たっぷりでもいいんです。 物語が生きてさえいれば。

わたしは原作がすきすぎるゆえに、鑑賞するまでは「原作と比べることはするまい」と思っていました。
そういう観方はとても不公平だから。
原作にアレンジを加えている部分はあまりにも微妙だったけれど、プラスどころかナイマスにしかなってないんじゃないかと戸惑いましたけど、それらは一旦横に置いておこうと思ったのですよ。 「そんなに原作ばんざいなんだったら原作だけ読んどけよ!」って話になっちゃうから。
けれど、そうやって封じていた気持ちを、それ以上抑えられなくなるようなセリフが出てきたのです。
終盤、メアリの口から飛び出したそれは、「子どもたちに向けて作られた」とされる『メアリと魔女の花』にとって、とてもふさわしいとは思えないセリフでしたし、魔法の力を信じて、小説に夢を託して生きてきたわたしにとって、とうてい受け入れられない言葉でした。

「魔法なんかいらない!」
メアリはそう言ったのです。


魔法なんか、いらない・・?
いやいやいや・・・魔法・・ いるでしょ!! ていうか、魔法あるでしょ!! 平凡な少年少女がある日突然魔法世界に飛び込むでしょ! 退屈な日々が一変するでしょ! 悪い魔女やいい魔女が跋扈してるでしょ! 今は遭遇できていないけど、いつか不思議な大冒険に出会えるはずでしょ! 朝起きたら埋めたどんぐりから芽が出てるでしょ! 
夢だけど!夢じゃなかった!
夢だけど!夢じゃなかった!!
トトロいたもん!!ホントにいたんだもん!!ウソじゃないもん!!!


そうか、と思ったのですよね。
『メアリと魔女の花』は、魔法を捨てる映画だったのか、と。
最初から、その結末を描くために作られた映画だったのか、と。

魔法のほうきで空を突っ走るメアリの姿に疾走感がなく、なんだかボヤーっと飛んでユルーっと移動しているようにしか見えなかったのも。
魔法学校の紹介のくだりがあまりに単調で、「魔法ってたのしそう!」「魔法を使ってみたい!」と思えるような描写がなかったのも。
一心不乱にレクリエーションにいそしむ学生たちが顔のない泥人形のようだったのも。
屋台に並べられた食べ物に、いわゆるジブリ飯と呼ばれる自然とよだれを催すようなうまげなモノがなかったのも。
メアリに「わーすごーい!」と言わせるだけで、実際の見た目にはすごいと思えるような施設がないので全然「すごい感」に共鳴できなかったのも。
魔法と、その世界を魅力あるステキなものとして描くつもりがなかったからなのだとしたら、納得がいきます。

「魔法」は思いあがった人間が生み出した悪魔の道具。
適切に使えば便利だけど、欲深い人間は必ず暴走する。
コントロールできると過信して、しかしもちろんできなくて、大きな力に飲み込まれて甚大な被害を生み出してしまう。
あからさまに原発を意識している炉心溶融シーンからも、それは強く伝わってきました。

そして一方で、「魔法」は「偉大過ぎる宮崎駿監督」と「傑作を生みだしてきたスタジオジブリ」を表しているもの、という見方もできます。
多くの観客をワクワクさせ、夢を見させ、憧れさせ、興行収入記録を塗り替えてきたスタジオジブリ。
何度も引退と復帰を繰り返す宮崎監督に、その後継者候補と目されていたアニメーターたちは少なからぬストレスを感じ続けてきたのではないでしょうか。
何を作っても「宮崎駿」と比べられる人生。
「絶対に越えられるわけがない」という暗黙のプレッシャー。
宮崎監督・ジブリを尊敬はしているけれど、そろそろいい加減比べられることなく自由にアニメを作りたい。
だからこそ、本作はさんざんジブリの寄せ集めのようなシーンを盛り込みつつ、最後はそれを「捨てる」、と、「もういらない」、と主人公に語らせた。
呪縛からの離脱と自立宣言、という意味では、『メアリと魔女の花』のクライマックスはとても話の筋が通っていると思います。

でもそれ、お客さんであるちびっこキッズたちに関係ありますかね?

興奮しすぎて「ちびっこキッズ」だなんつって「頭痛が痛い」みたいな言葉を使ってしまいましたが、マジでそれ、関係ありますかね?
「魔法」に込められたのが「便利過ぎる技術」なのか「宮崎監督」なのか、どっちでもいいんですけど、「子ども向けに作りました」って言っている映画に大人の都合を込め過ぎてはいないですか?
いや、別に「子ども向けなら小難しいこと抜きでワー!ドカーン!ボカーン!みたいな単純なことだけやってりゃいい」なんて、そんなこと言いたいんじゃなくてですね、子どもに向けたメッセージとして、「魔法という便利なものを失っても、あなたにはあなたにしかないすばらしいものがある。それは勇気です!」みたいなね、そういうやつ大歓迎なんですよ、わたしはね。
でも、それをやるんなら、
① まず最初に「魔法さいこう!」の部分があって、それを観た子ども(大人でもいいんですけど)に「すげえ!こういうのやりたい!!」って思わせて、
② 次に「魔法の危険な部分」を匂わせて、「あれっ?魔法だいじょうぶかな・・・?」って思わせて、
③ 「実は魔法にはこういう一面もあるんですよ」って思いっきり残酷な部分を出して、ちびっこキッズたちを絶望のどん底に叩き落として、
④ 「逆境の中、裸一貫でどこまでできるかな?」と煽られた主人公が精神論で困難を克服し、それを観たお客さんが「魔法がなくても、自分の力を信じよう」ってなんかポジティブになって、
⑤ 最後は「魔法が消えてしまった・・・ と思わせておいて・・・実は・・・?!」っていう希望溢れるシーンで終わってほしい。
本作には、圧倒的に①がない。 
そんで、割と一気に③に飛ぶので、魔法はスペシャルなものではなく、不気味な泥人形やマッドな博士が操るただの怪しい技術のように映るのです。
まぁそうですよね、魅力的に描くつもりがなかったのなら、そうなりますよね。

魔法に頼るな? 結構ですよ。 頼るなっていうなら頼りませんよ。
っていうか、頼ろうにもそもそも現実世界に魔法なんかないですし。
大人は理不尽だし、政治家はうそつきばっかだし、正直者は損するし、がんばっても報われないし、夢も希望も体力もお金も搾取されて終わりですよ。
魔法に頼るな? ふざけんなですよ。 映画の中でぐらい、夢見させてくれよって話ですよ。 スクリーンの中に魔法を探してなにがいけないんですか。 
みんなトトロのお腹にしがみつきたいし、メーヴェにのりたいし、竜の巣をくぐり抜けてラピュタにたどり着きたいし、屋根裏で蛇が飲み込みあっている表紙の本を読みながらファンタージェンに行きたいし、ホグワーツで組み分け帽子をかぶりたいし、吸血鬼や狼男と闘ったり、「おまえこそが選ばれし者だ」って言われたいんですよ。
楽しいばかりではない、ほろ苦いところもある、時には耐えられないほどの悲劇が起こったりもする、だけどこの世では経験できないワクワクやドキドキや夢や希望を感じることができる。 
それが魔法のすばらしさだと、わたしは思いますし、だからこそ「魔法なんかいらない」という言葉がどうしても引っかかったのです。
その言葉を使った、そういうメッセージを詰め込んだ作品を作りたいならどんどんやってくれればいい。
ただ、『小さな魔法のほうき』を下敷きにやってほしくなかった。

散々なことばかり書いてきましたが、これは最初にも書いたように、あくまで『小さな魔法のほうき』を心のバイブルに育ったわたしの主観です。
わたしは失望してしまいましたが、この作品から希望を感じ取ったり、ワクワクしながら映画館をあとにする子ども(や大人)がたくさんいることをホントに願っています。
わたしの目には「なんやこれ静止画か」と映ったほうきの滑空シーンも、誰かの目にはちょうさいこうのスペクタクルシーンであるかもしれない。 
せっかく映画館でジブリっぽい映画を観に行った人々が、がっかりではなく「いいじゃんこれ!」と思いつつ、なんだったら売店でティブのぬいぐるみを買って帰ってくれるようなことになればいいですね。
そして米林監督には次こそ、呪縛だのなんだのを詰め込まなくてもいいような、本来の意味で自由な作品を作っていただきたい、そのチャンスが与えられるといい、と割と本気で思っています。

あと、もしよかったら図書館か本屋さんで『ちいさな魔法のほうき』手にしてみていただけるとうれしいです。
短いお話しながら、本作以上に魔法の魅力と危うさとメアリの漢気が詰め込まれためちゃくちゃおもしろい小説ですよ!!!!



― 追記 ―

・ シャーロット大叔母さんの存在がマジで謎! 映画独自のアレンジとして、シャーロット大叔母さんが実は若い頃魔女で、問題の花の種を学校から盗み出した張本人である設定が登場するんですけど、そこから数十年、シャーロット大叔母さんはどうやって生きてきたんですかね?

・ 魔法学校から足抜けしてカタギになった瞬間、記憶が全部とんじゃったんですかね? どうやって実家に帰ったんですかね? メアリの親の姉妹らしいですけど、魔女だった間はどういう位置づけだったんですかね? 家出少女的なやつ? ハリポタのペチュニアおばさんとリリーみたいなやつ? あの赤いお屋敷はもともと誰の家なの?

・ 別の場所に隠れ家的なコテージありましたけど、あそこから魔法学校に通っていたんですかね? あのコテージは数十年間電気とかつきっぱなしだったんですかね? 大叔母さんの魔力がなくなっても電気はとまんなかったんですかね?

・ 夜間飛行は一般的な花だったのか、ゼベディさんだけが知っていたのか、あの花を観た瞬間大叔母さんは記憶を取り戻したのか、カタギの間も記憶があったのか、コテージとお屋敷の鏡はどういうしくみで繋がっているのか、なにもかも謎です!

・ 予告の段階で、わたしがいちばん「お!これは期待できるかも!」とハッとしたのは、振り返る赤毛の少女のカットだったのですが、それが映画の割とドあたまに出てきて、しかも大叔母さんの若かりし頃で「やるじゃん!」と思いました。 というか、本編でわたしのテンションがあがったのはドあたまの怪盗シャーロットのシークエンスだけだったとも言える・・・ 全編あのテンションでやってくれればよかったのになぁ。

・ ピーターがメアリに「赤毛のサル」と言うシーン、メアリが「ベーだ!」と舌を出す返しも含めて『トトロ』でいうところの「やーいおまえんちおっばけやしきー」だと思うんですけど、圧倒的に可愛げがないというか、ピーターに「照れ」みたいなものが微塵もないので、ただ初対面の人をサル呼ばわりするだけの失礼な人にしか見えなくて、ピーターの印象さいあくでした。 そのあとダメ押しでもう一回サル呼ばわりしてましたからね。 後半、まさしく文字通り赤毛のお猿さんに救われるシーンがあるので、伏線っちゃあ伏線なんでしょうけど、あのタイミングでサル呼ばわりはねえだろ。 無邪気に暴言吐く人かよ。 こええよ。

・ 「自分の赤毛がコンプレックスだったメアリ→赤毛のサル呼ばわり→魔法学校で赤毛を絶賛される→赤毛悪くないかも→魔法学校は悪の巣窟だった→やっぱ赤毛クソ→赤毛のお猿さんを身代わりに逃走成功」 赤毛コンプレックス解消のカギはお猿さん次第だった・・・?!

・ うまく説明できないけど、「そうじゃない感」がすごい。

・ 原作ではコンプレックスは赤毛ではなく「メアリー・スミス」という偽名ナンバーワンみたいな名前ということになっていて、ジョニー・スミスというこれまた日本でいうところの山田太郎みたいな名前を持つ主人公が出てくる『デッドゾーン』と同じく、コンプレックスがうまく活かされた物語になっています。 というか、原作はマザーグースをはじめとした言葉遊びが随所に使用されていて、それがまたすごくおもしろいんですよね! 小説ならではのたのしさなので、映像化には不向きな仕掛けではありますし、赤毛に焦点をあてたやりかたはいいと思うのですが、サルにたとえるのはどうなの・・・ 校長先生に赤毛を褒められるシーンもあるんだし、サルうんぬんを入れなくても魔女としての特別な才能のあるなしだけでコンプレックスの克服を物語れたんじゃないのかなぁ・・。

・ っていうかね、ホント原作はね、ほうきのシーンといい、魔法学校でのやりとりのシーンといい、メアリが義侠心にかられて学校に戻るシーンといい、かわいそうな実験動物のシーンといい、動物大脱走のシーンといい、超低空飛行でのほうきチェイスといい、全編すごく「ジブリ的な映像化」向きな作品だと思うのですよね。 だからこそ西村プロデューサーは『ちいさな魔法のほうき』を選んだのだろうと思いましたし。 でも、出来上がった作品はそうではなかった。 

・ 集団逃走のシーンはどうしてもののけ並みの大スペクタクルになりえなかったのか。 ほうき飛行はどうしてフラップターでのシータ奪還シーン並みに疾走感を溢れさせられなかったのか。 もしくはしなかったのか。 ワクワクのかぎは、この辺にあったような気がします。 

・ わたしは、もっと圧倒的に動く絵が観たかったのです。 問答無用で胸を突き動かされるようなエモーショナルなアニメーションが観たかった。 すでに今年に入って、わたしはいくつかの作品でそれを観ていたから、余計にそう思ったのです。 宮崎監督の呪縛? 脱ジブリ? そんなことはどうでもいい。 せっかくこんなにおもしろい原作を使っているのだから、ことごとくエピソードを殺すのではなく、もっと魅力的に描いてほしかった。 勿体なさ過ぎるじゃないか、こんなの。

・ ということで、もし機会がありましたら原作を一度手にとっていただきますよう、重ねてお願い申し上げます。 わたしがおすすめなのは、文庫本ではなくハードカバー版。 赤星亮衛さんの挿絵が本当にステキなのですよ!



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