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『そして、ひと粒のひかり』

2007年02月17日
20070217232035.jpg 第77回アカデミー賞・主演女優賞ノミネート


子が親を殺したり、親が子を殺したり。
そんな事件が、日本に限らずどこの国でも珍しくない今日この頃ですが、本当は親は、子を命懸けで守る生き物なのです。

特に、母親は。
(別に父親と比較してどうこう言いたいのでは無いですよ、念の為)

母親という生き物は、子と文字通り一心同体の期間を過ごす為、子に対して並々ならぬ感情を抱いてしまうのです。
それは愛情であり、所有権の様であり、嫉妬のようでもあり・・。
とにかく、その“一つの生を分かち合った”感は、何物にも例え難い貴重な体験で、だからこそ生まれ来た子を、自分の分身のように、自分以上に大切にしたいと思うのだと思うのです。

本来は。

この作品の主人公・マリアも、行き当たりばったり&無計画の様な人生を過ごしていたのですが、自分のお腹に宿る子供の存在をハッキリ自認した事で、初めて自分自身の人生を自分の足で歩み始める決意をしたようです。

あらすじ・・
南米コロンビアの田舎町に住むマリアは、まだ17歳ながらバラ園で出荷作業の職に付き、一人で家族を養っていました。
しかし、惰性で付き合っていたボーイフレンドの子を身篭ってしまい、つわりが酷くて仕事も退職してしまったマリア。
家族に妊娠の事を言い出せない為、お金を稼ぐ手段を考えなくてはいけないマリアは、ひょんな事から知り合った男に麻薬の運び屋の仕事を紹介されます。

それはとても危険な仕事。
しかしマリアは、それを引き受けるしかなかったのです。

初めての海外旅行。
お腹いっぱいに飲み込んだ、小さな麻薬の粒と小さな赤ちゃんと共に、アメリカ行きの飛行機に乗り込んだマリア。
彼女は無事、仕事を終える事が出来るのでしょうか・・。


南米には、若い女性が麻薬の粒を飲み込んでアメリカに運ぶ闇の仕事がある。と言う話は、聞いた事がありました。

この作品は、監督のジョシュア・マーストンさんの綿密なリサーチの下作られているそうですので、運び屋稼業の細かい描写がとてもリアルです。
きっと、こんな風に何人もの(何百人?)人間が、お腹に麻薬を詰め込み、海を渡っているのでしょう。
確かにバレっこ無い仕事でしょうが、そぶりがチョットでも怪しく、税関に呼び止められでもしたら、速攻アウトですね。
そんな危険な仕事を、引き受けてしまうマリア。
べらぼうな大金をちらつかされたら、引き受けるしかないマリア。
彼女の生き方が、あまりに適当(と言うか行き当たりばったりと言うか)で、ちょっと引いてしまいました。

もっとよく考えようよ。
他に何か仕事があるでしょうよ。
もっとお母さんにぶっちゃけて相談した方がいいよ。
それより何より
きちんと避妊しようよ! ねぇ!

そうツッコミたくなる、おばちゃん体質なアガサです。(いや、まんまおばちゃんか?)

マリアはまだ17歳なのに、母親もシングルマザーの姉も彼女におんぶに抱っこ状態で、養ってもらって当たり前!と言う、どうにもこうにも頼りにならない存在です。
ボーイフレンドもまだまだただのガキ。
という訳で、どいつもこいつも当てにならないガラクタばっかりなマリアの周辺。
若さに任せての勢い勝負だろうが、考え無しの行き当たりばったりな行動だろうが、マリアにはそれしかないから仕方ないのです。

同じく運び屋に転職した、マリアの親友・ブランカや、運び屋の先輩たちと共に、アメリカに渡ったマリアでしたが、その先輩・ルーシーの体内で麻薬が溶け出してしまい、ルーシーは死んでしまいます。

そこから物語は一気に急転し、売人に運び出されるルーシーの死体を見てしまったマリアは、「次に殺られるのは自分たちだ!」と、安直に考え、嫌がるブランカを誘ってモーテルから脱走。
以前にルーシーから聞いていた、NYに住むルーシーの姉の元に泣きつきます。

動転したとは言え、普通に考えたら絶対ヤバイと思われる「売人から逃げる」行為に、友達まで誘ってしまうマリアはとことん浅はかで、ちょっぴり腹が立ってしまいました。
ドリフ大爆笑88´風に言う所の、志村!後ろ後ろ!状態です。
もう、間違いなく消されますね。
郷の家族共々抹殺されます。

しかし、巡り巡って結局売人の元に帰って来たマリアとブランカを、売人たちはあっさり釈放。
その上、約束通りの報酬まで払ってくれます。
電波少年風に言うと、売人・・好感触といった感じでしょうか。

数々のラッキーに恵まれて、無事仕事を終えたマリアとブランカ。
しかし、ふと立ち寄った産婦人科で、体内の赤ちゃんのエコー写真を見たマリアの中では、何かが変わり始めていました。
空港でブランカを見送り、一人アメリカに残る決意をしたマリアの表情は、とても大人で凛としたいい表情で、これから先に彼女を待ち受けるものがどれだけ過酷であっても、お腹の子と共に生きてゆく覚悟を決めた彼女なら乗り越えてゆくんじゃないか・・、と思いました。

やはり、母は強し。
もしくは、母としての覚悟を受け入れたものは強し、と言うべきでしょうか。

色々考えさせられて、なんだか心に残る作品です。

あと、麻薬が詰められた白い粒を見て、『ごっつえぇかんじ』の「産ませてよ・・」を思い出した事は、野暮すぎるので胸の中にしまっておこうと思います。
(↑しまえてないし)

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『ブロークン・フラワーズ』

2007年01月25日
20070123212938.jpg  2005年カンヌ映画祭・グランプリ受賞作品


ジム・ジャームッシュ
・・・それは映画界のオシャレ番長である。

街のオサレな雑貨屋やカフェに行けば、かなりの高確率で飾れている、彼の作品のポスター。
『ストレンジャー・ザン・パラダイス』、 『ダウン・バイ・ロー』、 『ミステリー・トレイン』、 『ナイト・オン・ザ・プラネット』、 『デッドマン』・・・。
どれも、作品を観たことは無くても一度は聞いた事があるであろう、オサレなタイトルばかり。
オスカーに縁遠い変わりに、カンヌでは常連さんという所も、とってもオサレ。
もはや、表参道や代官山付近では“ジム・ジャームッシュ”はオサレの代名詞。
合コンで最近観たDVDの話題になったら、「俺はジム・ジャームッシュの『コーヒー&シガレッツ 』が良かったな」なんてさりげなく映画通をアピールすれば、“センスいい男子”の称号は勝ち得たも同然です。
(※すべてアガサの独断と偏見による

ところがですね、ところがですよ。
私は映画人生で2度、映画館で意識を失った経験がありまして、その一本は『アベンジャーズ』なのですが、なんともう一本が、他ならぬジム・ジャームッシュの『デッドマン』なのであります。

上映時間と目が開いていた時間とを比較すれば、もう一つの夢の世界に迷い込んでいた時間の方が長かったのは火を見るより明らか。
つまり私は、
1800円払って昼寝をしに行っていた
と言う訳なんですね。

どれだけセレブやねん。

まぁ、ありがたいことにアート系の映画のパンフには、大概の場合“シナリオ採録”と言う物がついていまして、あとでそれを読む事で作品の流れは掴めたんですが、

世の中ではそれを映画鑑賞とは呼びませんね。

しいて言うなら読書です

私の映画人生の黒歴史をさらけ出すのはコレくらいにして置いて、本題に入りましょう。(ここまでが前置きなのか?!)

『ブロークン・フラワーズ』のあらすじ・・・
コンピュータ関係の事業で一山当てたドン・ジョンストンは、若いお姉ちゃんをはべらかして悠々自適な日々です。
しかし、“ちょい悪オヤジ”と言う流行語が飽きられてきたのか、はたまた結婚に対して逃げ腰なドンに嫌気が差したのか、若き恋人は家を出て行ってしまいました。
そんなしょんぼりしていた(でも追いかけもしない)ドンの元に届いた、一通の手紙。
ピンクのレターセットに、赤いインクで書かれた手紙には、
「あなたと別れて20年が経ちますね。
私の息子も、もう19歳。
ホントの父親を探しに、旅立ってしまいました。
ちなみにあなたの子です。
てな訳で、あとはヨロシク!」


にゃ・にゃにおう?!

その手紙を隣人で悪友のウィンストンに見せたところ、「手紙の主を突き止めようぜ!」と言う事になり、早速20年前に付き合いがあった元恋人をリストアップ。
5人の候補者のうち1人は既に他界していた為、残りの4人の元を訪ねて、“息子情報”を探る事に。
ピンクの花束を携えて、1軒づつ訪ねるドン。

1人目のローラは、20年ぶりの再会を大歓迎。
露出狂の可愛い娘も出てきて、家中フェロモンで窒息状態です。

2人目のドーラは、20年ぶりの再会に戸惑い気味。
愛妻家の旦那も交えて、この世で最高に気まずいディナーの幕が、今あがります。

3人目のカルメンは、20年ぶりの再会に淡々と応じます。
動物セラピストとして大忙しの日々を送るカルメンは、ドンの花束も、夕食の誘いにも応じるつもりはなさそうです。

4人目のペニーは、20年ぶりの再会に怒り爆発です。
ギャーギャー叫ぶわ、集まってきた男連中にタコ殴りにしてくるわ、取り付く島もありません。

5人目のはずだった彼女のお墓の前で、やっと心の平穏を取り戻すドン。
何の成果も得られず家に帰ったドンを待ち構えていたのは、新たに届いたピンクの手紙。
それを見たドンは、ウィンストンに「手紙の主探しを止める」宣言をします。
諦めきれないウィンストンを後にし、いつものカフェで寛ぐドンは、窓の外に一人の若い男性を見つけます。
何故だか胸騒ぎがして、表に出たドン。
声を掛けて話をするうちに、ドンの中に妙な確信が沸いてきます。
「こいつは俺の息子に違いない」
さあさあ、父ちゃんの胸に飛び込んで来な。
恥ずかしがる事は無いさ、母ちゃんから全部聞いてるんだ。
父ちゃんを探してたんだろう?俺こそがその父ちゃんさ。

妄想全開のドンでしたが、いかんせん根拠の無い確信だった為に、相手はドン引きです。
ドンなだけにドン引き。(←駄目押し)

ドンを「ゲイかキ●ガイ」と勘違いした男性は、スタコラサッサと逃げ出しました。
その時、途方に暮れるドンの前を一台の車が通りかかります。
車の窓から顔を覗けていた若い男性は・・・
「俺にクリソツじゃねぇか!!」

誰も彼もが疑わしい。
誰も彼もが俺の子なのか?
これは、ドンの人生に対するツケなのでしょうか?
それともステキな贈り物なのでしょうか?


予告編を観た時から、面白そうな雰囲気が漂っていました。
主演は“とことんダメ中年だけど、なんだか憎めない”男を演じさせたら天下一品のビル・マーレイ。
彼の(新旧)恋人たちを演じるのは、シャロン・ストーンにジェシカ・ラングにティルダ・スウィントンにジュリー・デルピー。
なんてゴージャスなキャスティングでしょう。
ダメ中年が人生を振り返る、ロード・ムービーかつヒューマンコメディは、私を大いに魅了し、出来れば劇場で観たかった。
お金と時間があれば、劇場に行きたかった。

行かなくてよかったー!!(鑑賞後の結論)

危うく、またもや映画館でセレブなお昼寝タイムを過ごす所でした。
そんなに疲れていた訳ではないのですが、気が付くと私は時間旅行へと旅立っていたのです。
「おかしいなぁ・・ さっき観始めたばっかりなのに、どうしてカウンターが1時間も過ぎているんだろう・・・?」
どこかの時間泥棒が、私の貴重な1時間を盗んでいったようです。

でも大丈夫。
DVDにはチャプター機能と言う物があるので、簡単頭出し。
その後も繰り返される、時間泥棒との戦いを制した私が、何とか辿り着いたラスト。

画面に映し出された、ドン(ビル・マーレイ)の長いアップは、何を語っていたのでしょうか。
そのうち自分を訪ねてくるかもしれない、実の息子。
ホントは存在しないかもしれない、実の息子。
そんな息子の存在は、これから先のドンの人生をどう変えていくのでしょうか。
ニコリともせず、しかし悲壮とも言えない表情で空を仰ぐドンは、もしかしたら家を出て行った若い恋人を、この後迎えに行くのかもしれませんね。
自分だけの気ままな生活を続けてきたドンでしたが、人生と言うのは常に誰かと交わっているものですし、そうする事で生まれる感情が、人生の醍醐味なのではないかと、私は思います。

ドンも、息子と言う存在の可能性を肌で感じたことで、他人と深く向き合うようになってくれるといいな・・・と、親戚のおばちゃんのように心配してしまいました。

ちなみに、エンドクレジットを観るとビル・マーレイにクリソツだった男性は、ホーマー・マーレイだと言う事が判りました。

リアル息子かぁ・・・
そりゃ似てるわなぁ。
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『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』

2006年12月21日
20061220004837.jpg 2005年製作


ハリウッドきっての渋男、トミー・リー・ジョーンズ。
顔に刻まれた皺のなじみ具合と言ったら、樹齢300年の松の木の表皮のよう。
『指輪物語』に出てくるファンゴルンの森のエント族に、ノーメイクで混じっていても気が付かないのではないでしょうか。

・・・例えがマニアック過ぎて、申し訳ない気持ちで一杯です。
判り易く言うと、木みたいな顔だということです。

・・・全国2万5千人の、トミー・リー・ジョーンズファンの方々を敵に回したような気がして、居た堪れない気持ちで一杯です。

そんな木みたいな顔をした(←懲りてない)トミー・リーの初監督作品にして、カンヌ映画祭最優秀男優賞&脚本賞受賞作品 『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』 を鑑賞しました。
トミー・リーの顔にも負けない、渋い作品でした。

あらすじ・・・
メキシコからの不法入国者・メルキアデスが何者かに殺されます。
仕事を共にし、堅い友情で結ばれていたピートは犯人逮捕を警察に求めますが、何故か歯切れの悪い保安官。
それもその筈、犯人は若き国境警備官・マイクだったのです。
身内を庇い、事件をうやむやにしようとする国家公務員たちに見切りをつけ、ピートマイクを誘拐。
一度埋葬されていたメルキアデスの遺体を掘り起こさせ、メルキアデスの故郷・“メキシコのヒメネスという村”へ運ぶ旅に同行させます。

それはメルキアデスが生前、親友ピートに頼んでいた約束を果たす為・・。
異国の地、不法滞在地ではなく、自分の生まれ故郷である美しい土地で待つ、家族達の元で弔われたいという、メルキアデスの遺志を果たす為・・・。


シンプルなこの物語は、登場人物もシンプル。
ピートと言う、孤独で頑固で義理堅い男。
マイクと言う、幼稚で自己中心的で友情も愛も知らない男。
メルキアデスと言う、温厚で心が優しくて寂しい男。
この3人の男(内一人は死者ですが)の内面が、淡々と映し出されていきます。

女性も、
町唯一のダイナーを夫と共に切り盛りしつつも、満たされない体と心(主に体)を補う為、常連客と日替わりで関係を持つレイチェルと、
夫のマイクについて町に越しては来たものの、何の娯楽も無い田舎町にウンザリし、自分を理解しようともしない夫にも失望し、レイチェルと共に主婦売春に走るルー・アン
が人間ドラマに深みを加えていますが、それはあくまで賑やかし程度で、ドラマのメインはとことん
男が人間性に目覚め、友情を果たす旅が全てなのです。

旅の中で、ピートは掘り起こした遺体を外出着に着替えさせ、寝食を共にし、腐り始めた顔に集ったアリを握りつぶし、遺体相手に心の内を打ち明けています。

何故そこまでするの?
どんな出来事を経て、そこまでの友情が育ったの?


そんな疑問が何度も浮かびますが、それに対しての明確な答えはありません。
涙モノの友情エピソードが披露される訳でもなく、ピートが何か胸の内を吐露するシーンもありません。
ただ何気ない、メルキアデスとの出会いや、交わした会話。
それが何度も差し込まれるうちに、自然と伝わって来る二人の信頼関係。
友情って、そういうモノなのかもしれませんね。
ドラマティックなエピソードだけが、友情を厚くする訳では無いのです。
付き合っていくうちに、「この人は裏が無いなぁ」とか、「この人はなんかウマが合うなぁ」とか感じるようになり、それがかけがえの無い友人になって行くものなのかもしれません。
そして、メルキアデスとピートは、2人が心の深い所に抱えている孤独をお互いに感知し、より心を許す仲になったのではないでしょうか。

遺体を運ぶ旅の途中で、そんな孤独なメルキアデスの秘密が明らかになります。
生前ピートに話していた、メルキアデスの故郷・ヒメネスは、存在しなかったのです・・・。

姉さん事件です!ヒメネスが見当たりません!!

と、ピートが言ったかどうかは定かではありませんが(恐らく言って無い)、この事実は何よりもメルキアデスの孤独をピートとマイクに突き付ける事になります。
遠い異国の地で、心を許した友達についたささやかな嘘。
その嘘は、メルキアデスにとってはきっと真実だったのです。
その真実を支えに、孤独で不安定な暮らしを何とか生きていた。
そんなメルキアデスを、誰が責められるでしょう・・。

ピートとマイクは、そのせつない嘘を本物にします。
そうする事で、メルキアデスの願いは本当に叶えられる事が出来たのです。

そして、苦しい贖罪の旅を強いられる事に最初は抵抗し、自分の犯した罪を正当化する事しかしなかったマイク。
彼もまた、旅を続けるうちに色んな人間に助けられ、妻への本当の愛情に気付き、自分の罪と本気で向き合う事が出来るのでした。
人を殺すのは悪い事だ。
と言葉にするのは簡単ですが、その罪の重さを本当に実感する為には、これくらいの苦しみが必要なのかもしれませんね。

皆、少しずつ不幸せで、少しずつ癒されない心を抱えている。
そんな切ない作品でしたが、映画の目線がとても優しく、最後は救われるような気持ちになれる、いい作品でした。

しかし、男連中の自己再生への旅を尻目に、女たちは薄情極まりない行動を繰り広げます。
マイクの妻、ルー・アンは夫に見切りを付けてさっさと町を出ますし、ピートと関係を持ち、愛を打ち明けていたレイチェルは、本気になっていたピートに冷や水を浴びせる一言。

女・・・ やっぱりコワイ!!

ところで、旅の途中に農作業を手伝うピート(トミー・リー)の隣に座っていた老婆が、トミー・リーをそのまま98歳にしたような顔だったのですが・・・。
トミー・リーの本当のお母さんだったのかもしれませんね。
・・やはり男の子は、お母さんに似るものなんでしょうか。
樹齢800年の樫の木のようなお婆ちゃんでした。
つまり木のような (以下略)

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『太陽』

2006年12月09日
20061207170017.jpg    ※同時(脳内)上映 『火垂るの墓』 



小学校の時、“天皇は日本の象徴”だと教わりました。
この作品の中ではまだ、“天皇は神”とされていました。

ほんの60年ほど前の事です。
日本という儚い小さな国の人々は、よく判らない理由で、よく判らない戦争に命を懸け、よく判らない土地で死んで行きました。
なんでも死に行く兵士たちは、「天皇陛下万歳」と叫んで果てたそうです。
よく判りませんが。

戦争と言うのは、始めた人以外にとってはよく判らないモノです。
しかし、始めた人以外が最も多く犠牲になり、彼らを亡くした家族や親しい人が、流さなくていい筈の涙を流す羽目になります。

はるか遠く、ロシアの地で作られた今作 『太陽』 は、そんな戦争に終止符を打とうとしている、ある“現人神”が主人公になっています。
“現人神”ヒロヒトは神の子孫。
だから人であるけど人ではない。 日本という国の“神”なのです。
“神”の朝食は洋食です。
服は従者が着せてくれます。
ドアも全て従者が開けてくれます。
御前会議も召集出来ますが、発言権はあって無きが如しのようです。
“神”に周囲は逆らいませんが、結局周囲の思うとおりに行動するしかないのが“神”のようです。

そんな“神”が、国を救う為に最後の決断をします。
それが“神性の放棄”というもの。
彼を神だと信じて(信じる事を前提として)、命を散らせてきた者達や全てを失ってきた者達にとっては、「それを言っちゃおしまいよ」的な一言ですが、それを宣言する事で多くの命が助かり、彼もまた、自由を手にすることが出来るのです。

あらかじめ断っておきますが、あくまでこれはロシアの作家アレキサンドル・ソクーロフが作り上げたフィクションであり、決してドキュメンタリーではありません。
作品はあくまで簡潔に、“ヒロヒト”の日常を映し出しながら終戦までを描ききります。
まるで一日の出来事のように、あっけなく。

実際の昭和天皇がどのように過ごしていたのか知りませんし、本当の所、戦争責任と言うものが誰にあるのか、その時の日本で軍の上層部の一人一人の行動を覗き見してみない事には判らないでしょう。

ただこの作品の中で、敗戦濃厚な状況下において相手国から戦争責任を突きつけられ、大きな重圧に一人耐える“ヒロヒト”の姿は、ひたすら小さく、頼りなげで、とてもじゃありまえんが絶対君主とは思えません。
感情を表に出さず、周囲の者の気持ちをたて、終始穏やかに振舞う“ヒロヒト”は、絶対的な忠義心に守られてはいるものの、その暮らしに光は無く、爆撃から身を守る筈の退避壕はまるで牢獄のようです。
「誰からも愛されていない」という思いと「民を犠牲にしてまで続ける戦争の意義」と言う物に苛まれ続けた“ヒロヒト”は、誰よりもこの国の事を憂いて、民族の誇りを持ち続けていたが故に、国民の救済と引き換えに、戦争の責任を自ら取ろうとします。

フィクションとは言え、とても好意的な描写で、日本人である事に誇りを感じてしまいました。

作品は、外国圏の監督が撮ったとは思えないほど、絶妙な間で構成されており、ところどころには“ヒロヒト”と“従者”のかけあい漫才のようなシーンもあり、思わず笑ってしまいます。
幻想的な焼け野原のシーンは非常識なほど美しく、監督の中に戦争美化の意識があるのではないかと疑りたくなる程です。

しかし、そんな“悲惨な現実”からは程遠いような映像から、強く強く伝わって来る“一つの国の絶望”
逃げ惑う人々や餓えに喘ぐ子供の姿は一切出て来ないのに、脳裏に浮かぶのは『火垂るの墓』のような情け容赦ない戦争の現実。(まぁあれもフィクションだそうですが)

“ヒロヒト”一人の苦悩を描く事で、その裏で流されていた多くの血や涙を感じさせるソクーロフ監督の表現力に、ただただ感服いたしました。
“ヒロヒト”を演じたイッセー尾形さんは勿論の事、
僅かな出演ながら、この映画のメッセージを全て表現しきったと言っても過言ではないような、素晴らしい演技を見せてくれた桃井かおりさん
そして忘れちゃいけない私の心の恋人・佐野史郎さま
史郎さまの力の抜けた、しかし圧倒的な忠義心を感じさせる誠実な演技が、この作品の“神”の苦悩を引き立たせているのは間違いないでしょう。
私の愛情を差し引いても、間違いないでしょう。



・・・で、時は流れて、 
“神”と呼ばれていた“ヒロヒト”の子孫は、今は“象徴”とされています。
“象徴”の朝食が洋食なのか、着替えはさすがに自分でするのかは知りませんが、政治に対しての発言権は相変わらずありません。
“象徴”に周囲は逆らいませんが、結局周囲の思うとおりに行動するしかないのが“象徴”のようです。

一体何が変わったと言うのでしょう。

余りにもその言動に“自由意志”が感じられない“日本の象徴”
その方々がこの作品をご覧になったのかも判りませんし、取り巻く環境を想像するに、鑑賞出来るとは思えない“象徴”って、一体何なんだろう・・・ と思わずにはいられません。
少なくとも、最近の「男系がどう・・」とか「女系がどう・・」とかのゴチャゴチャに対してくらい、「じゃかましいわぃ!」と一言仰せになっても良いのではないかと思いますが。


ともあれ、色々と考えさせてくれ、とても心の栄養になる一本でした。
DVDが出たら、もう一度観たいと思います。
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『カビリアの夜』

2006年11月27日
20061127210215.jpg  1957年 イタリア作品


※ 今回のレビューは、過去に無いほど長文になっておりますので、くれぐれもお気をつけ下さい ※


イタリアの巨匠、フェデリコ・フェリーニの最高傑作 『カビリアの夜』 です。

『8 1/2』や『甘い生活』など、とっつきにくい印象があるフェリーニですが、この『カビリアの夜』は『道』に並ぶ判り易さですので、どなたでも安心して観られると思います。
かく言う私も、初めて観た時から完全に心を掴まれて、心のベストテンに常に輝く大好きな一本となっていて、落ち込んだ時はつい観たくなるのです。

ローマで娼婦を生業としているカビリアは、少々気性は激しいですが、根は純粋で優しい心の持ち主です。
自分の職業にもプライドを持っており、自堕落な生活を送る娼婦と違い、自分で一軒家を持ち、ローンをもうすぐ払い終わるのが何よりも自慢でした。
しかし、プライドはあるものの、“娼婦”である事の将来性には、何の希望も見出せないのも事実。
男に引っ掛かり、お金を騙し取られる事も珍しい事ではありませんでした。

ある日、カビリアは普段と違うシマに出掛けます。
そこは少し高級な娼婦が立つ場所。
華々しく着飾った娼婦たちに、冷たい眼で見られながらも、いつもと違う何かを期待しながら立っていると、偶然にも映画スターに声を掛けられます。

自分の生活からは、想像も出来ないほどの格の違う世界に、目を輝かせるカビリア。
いつもなら間違っても入れないような高級レストランで、いつもなら見下される筈の給仕にかしずかれ、カビリアは夢心地です。
彼の豪邸に連れてゆかれ、口にした事も無いような豪華な料理を出されるカビリア。
嬉しさの余り、涙が止められないカビリアでしたが、彼女の夢のような体験は、いきなり打ち切られる事になります。
映画スターの別れた筈の恋人が、急に戻って来たのです。

バスルームに追いやられ、息を殺すしかないカビリア。
結局、冷え冷えとしたバスルームで一夜を過ごし、自分が寝るはずだった上等なベッドに横たわる美しい恋人を横目で見ながら、屋敷から追い出されるのでした。

そんな時、カビリアは一人の男性がホームレスの人々に施しをして廻る所に遭遇します。
何の見返りも求めない、純粋な心に打たれ、カビリアは何かを感じるのでした。
丁度その頃、彼女の仲間たちが聖母マリア寺院に参拝する事になり、カビリアも救いを求めて巡礼に出掛けます。
大勢の貧しい人たちが押し寄せる参道。
皆が口々にマリアの名を叫び、失神する者まで出る始末。
しかし、いくら聖母マリアの名を呼んだ所で奇跡など起こる筈も無く、カビリアが味わったのは苦い失望だけだったのでした。

厳しい現実を乗り越えてゆくだけの毎日。
そんなカビリアは、フラリと立ち寄った劇場でオスカーという男性に声を掛けられます。
会計士をしているというオスカーは、警戒心から心を開かないカビリアにひたすら尽くし、自分の想いをぶつけます。
始めはオスカーの言葉を疑ってかかっていたカビリアでしたが、所詮寂しい女です。
何度もデートを重ねるうちに、オスカーに心を開き、自分の職業すらも受け入れてくれたオスカーのプロポーズを受ける事にします。

過去の自分を捨て去り、オスカーと共に新しい人生を歩む決意をしたカビリアは、必死の思いで手に入れた我が家や家財道具も全部売り払い、心配してくれていた親友に別れを告げ、全財産を手にオスカーのもとに駆けつけます。
自分の人生に初めて訪れた幸せを、心から噛み締めるカビリア。
しかし、そんな彼女を見つめるオスカーの眼差しは、今までの彼とは違っていました。

オスカーもまた、今までの汚い男たちと同じ、彼女のお金だけが目当てだったのです。
全てを悟り、立っている事もままならなくなったカビリアは、地面に突っ伏し、オスカーに懇願します。
「私を殺して! もうこんな人生生きていたくない!」
しかし、そんなカビリアに最後の引導を渡す勇気も無く、お金を奪って逃げるだけのオスカー。

何もかも失い、ただ呆然と立ち上がり、歩き始めるカビリア。
行くあても無く、“それが本能だから”と言うだけで足を進める彼女の周りには、いつの間にかたまたまそこに居合わせた若い男女たちが、陽気な音楽でカーニバルを始めていました。
何の事情も知らない彼らは、カビリアの側を踊りながら横切り、彼女に笑顔で歌いかけます。

そしていつしかカビリアは、そんな彼らに微笑み返しているのでした。


まだまだ続くレビューの続き。
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