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『ホテル・ルワンダ』

2007年05月29日
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この憎悪はどこから湧き出てくるのでしょうか。

“人が人を殺したくなる” という感情。
その感情の根源は、何なのでしょう。

「愛する人の命を理不尽に奪われた。」
「死んでしまいたい程の苦痛を与えられた。」

様々な理由から悲しみが湧き、悲しみから怒りが生まれ、怒りが憎悪に変わる。
その過程ならば、まだ理解出来るかもしれません。

でもそれが、 “気にくわないから” 、ただそれだけの理由だったなら・・・。 

1994年、アフリカ・ルワンダ。
長年に渡り確執を続けていた多数民族・フツと、少数民族ツチとの間で、和平条約が締結されました。
しかし、その矢先、フツ族出身の現職大統領が暗殺され、その犯人はツチ族だとの情報がばら撒かれます。
フツ族の過激思想派は、ラジオで市民を扇動。
一斉蜂起したフツ族は、目の上のたんこぶだったツチ族の一斉粛清にかかるのでした。

ベルギー資本の高級ホテルで支配人を任されていたフツ族のポールは、ツチ族の妻タチアナと子供たちを助ける為、また、彼を頼って集まって来た多くのツチ族を助ける為、あらゆる手段を使ってフツ族の虐殺の手から逃れようとしますが・・・。


その昔、アフリカのルワンダという国で仲良く暮していた一つの民族が、欧米人の勝手な都合から3分割されました。
その中でも優越をはっきり付けられていた(貧しい)フツ族は、(裕福な)ツチ族に対して深く根深い差別意識を抱いていました。
そしてその不条理な怒りは、大統領の暗殺をきっかけに、民族淘汰の血塗られた道を突き進むのでした。

長年の確執・・・。
言われのない差別・・・。
理由は色々あるのでしょうが、私にはそれは「気にくわない」と言う一言にしか思えません。
「俺たちの土地に侵入してきたから気にくわない」
「俺たちより偉そうだから気にくわない」

昔々、聖書の時代から、「気にくわない」だけで殺し合う事件は後を絶ちませんし、国を挙げての殺し合いもいまだに起きているのが現実です。
私はそんな事件を見聞きするたびに思うのです。
「俺たちの土地って何?」 と。

肌が何色だろうと、背が高かろうと低かろうと、目が細かろうと大きかろうと、私たちはみんな同じ“人間”なのです。
どんなに(アナタが)イヤだろうと、その事実は変わらない。
「俺たちが先に住んでいた土地だから、お前ら入って来るな!」と言われても、私たちに出て行く先などないのです。
出て行った先にも違う国があり、その先にもまた違う国があり、そのどれもから拒絶されても、最終的にこの星から出て行く事など出来ないのです。
残念ながら。
同じ星の土地を分け合って生きているからには、それなりに譲歩し、判り合って生きてゆくしかないのに、相も変わらず人間は主張し、排除しようとするばかり。

人間は昔も今もこれから先も、「気にくわない」からと殺し合い、奪い合う生き物でしかいられないのでしょうか?
そんな哀しい生き物なのでしょうか?
ホントに?
本当に??

この作品で描かれる、同じ人間同士の容赦ない大虐殺は、とても正気の沙汰とは思えませんし、実際、当事者の人々は狂気の間に立っていたのでしょう。
自分たちと何ら見分けの付かない、同じ人間を、躊躇なくなぶり殺しにし、その遺体を道端に放置する。
どんな仕打ちを受けたら、そこまでの残酷な行為が出来ると言うのでしょうか。
どんな憎悪があれば、人間をそこまでの行為に駆り出すことが出来るのでしょうか。

判りません。
判らないけど、それらは現実に起こっている行為なのです。

ずっと観たかったこの作品をやっと鑑賞出来ましたが、観ている間中、私は自分が責められているような気持ちでいっぱいでした。
そこに映し出された光景は、人間の愚かさ、醜さ、浅はかさ等、目を背けたくなる現実ばかりだったからです。
自分さえよければいい人間。
簡単に扇動される人間。
「命を奪う」という事に慣れてしまう人間。
心の中で、相手の人間にランク付けをしてしまう人間。

多くのツチ族をホテルに匿い保護していた、フツ族のポールでさえ、廊下やロビーの固い床で赤ちゃんと添い寝する母を尻目に、自分たちの家族は柔らかいベッドでひとときの休息を得ていました。
それは、自分の「支配人」と言う地位に、優越感を感じていたからなのではないでしょうか。
ベルギーにあるホテルの本社から、間接的に見放され、自分もまた特別な存在ではなく、ただの「その他大勢のアフリカ人」だと思い知らされるポールでしたが、結局ポールとその家族は無事ベルギーに亡命出来たそうです。
そこに、人間のランク付けは確実に存在しています。
そして、その事に人間は慣れていってしまうのです。

外国で起きる内戦や大虐殺のニュースを見て、「酷い事が起きていたんだなぁ」 と思うのもまた、私たちが“人間のランク付け”や“命の軽視”に慣れてしまったいるという事。
恐ろしい現実からこのまま目を背けて、楽しい事だけを見ていて、その先に何があると言うのでしょうか。

いわゆる“平和ボケ”した私たちに出来る事は、まずは目を逸らさない事なのではないかと思います。
それがどんなに自分たちの恥ずべき所を抉り出すとしても。

ルワンダやソマリアやイラクや世界のあちこちで起きている殺戮や憎悪の根源は、私たちの中にも確実に流れている“人間の本質”そのものなのですから。
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『クイーン』

2007年05月17日
20070516205637.jpg 第79回アカデミー賞・主演女優賞受賞


世の中には、知りたい情報や、知らなくていい情報や、知りたくもない情報や、様々な情報が溢れかえっています。
明らかに供給過多なそれらの情報は、私たちになにを与えてくれるのでしょうか。
どんな有益な情報が、そこにあるというのでしょうか。

有名人の交際相手が誰だろうが、不倫してようがしていまいが、豪邸を購入しようが売り払おうが、それが私たちになんの関係があるというのでしょうか。
関係はなくとも、どんなくだらない情報であろうとも、とりあえず知っておきたい・・・と言うのが、人間の原始的な本能だという事は判っています。
だからこそマスコミと言う職業が成り立っているという事も。
まぁそれでも、
ジャガー横田の夫婦円満の秘訣なんかは、正直どうでもいいのではないかと思いますが。

そういうどうでもいい事を、「さぁさぁ皆さん、大ニュースですよ!だ・い・に・う・す!!」とばかりに、情報の大盤振る舞いをしてくれるマスコミに散々クイモノにされ、死に至ってしまった20世紀最大の悲劇のヒロイン・ダイアナ元妃に散々振り回され、これまた踏んだり蹴ったりな目にあった20世紀最強の君主・エリザベス女王の映画を観て参りました。

あらすじ・・・
息子・チャールズ皇太子とその嫁ダイアナの離婚から1年。
イギリスの首相はトニー・ブレアに変わり、女王はと言うと、いつもと変わりない公務に追われていました。
そんなある日、パリから飛び込んできたのは、「元嫁・ダイアナ 事故死」の一報。
動揺するチャールズを尻目に、至って冷静な女王。
しかし、そんな冷静な女王に対して、日に日に高まってくる国民感情。
激しさを増す「女王バッシング」の中で、女王が下した決断とは・・。


アガサの中のダイアナ元妃の記憶と言ったら、なんと言っても小学生の頃テレビにかぶりつきで見た、チャールズとの結婚式。
あとは、来日した時に着ていた水玉のワンピース。
その後のなんだかんだは、殆ど知りません。(なにせ興味がなかったのもので)

気が付いた時は、パリでの衝突事故が起きていました。
そして、その後に巻き起こった一連の大騒ぎ。
パパラッチが無闇に追い回したから亡くなったのか、ダイアナ元妃が自ら招いた災いなのか、それともフリーメイソンの陰謀なのか。
いまだに謎に包まれた事件の真相はさておき、当時「何も悪くないのに悪者扱い」された、ある意味では一番の悲劇のヒロインだったのがエリザベス女王だったのではないでしょうか。

そもそも、息子・チャールズとはとっくに離婚済みだったダイアナは、既に民間人であり王族とはなんら無関係無い存在。
一国の女王が、ただの民間人女性の死に反応する必要など無いでしょう。
それは、普通に考えればそんなにおかしくは無い理論なのですが、いかんせんダイアナフィーバーで少々頭のネジが緩みかけていたイギリス人が相手なものですから、エリザベス女王は一気に窮地に立たされてしまいます。
私たちのダイアナが亡くなったってのに、冷たい女だわねぇ!」
「そうそう、いくら気に喰わない嫁だからってねぇ」
「涙の一つも流さないなんて、あの女の中に赤い血は流れていないのかしらねぇ」

などと、国民総出で言いたい放題。

女王の冷静さは、王家の伝統やしきたりを曲げる事無く、元・家族(現・民間人)の葬儀を終えたい、ただそれだけから来ているのであって、「嫁VS姑バトル」のような下世話な下心から来ているのでは無いのです。
皆さん、橋田壽賀子に毒されすぎですよ。と、その頃のイギリス国民に会えたら言い聞かせてやりたかったですね。

だいたい、ダイアナを喪ったショックが大きいのは判りますが、どうして彼女を追い詰めたパパラッチに対するのと同レベルで、女王陛下までバッシングするのでしょうか。
理解に苦しみます。
「誰かを責めないと気が済まない」なんて、第3者が言う事では無いでしょう。
気が済もうが済まなかろうが、第3者はただ見守るしかない。
それが家族の問題と言うモノなのではないのでしょうか。
自分の気持ちが納まらないから、一番判り易い所に怒りの矛先を向ける。
それは誰がどうみたって、ただのエゴです。

確かに、目の上のたんこぶだった元嫁亡きあとのエリザベス女王は、身内を亡くした遺族と言う感じではありませんでした。
その夫・フィリップ殿下にも哀悼の念はこれっぽっちも無く、妻(女王)相手に「ボクの可愛いキャベツちゃん」等とバカトーク全開です。

・・・よりにもよって 「キャベツちゃん」 て・・。

頭か?
それは頭(髪型)の事なのか?

もう少しひねりが無いと、いい芸人にはなれんぞ!(芸人になりたい訳ではない)

だってせいせいしたんだもん。 だって今は他人だもん。と言うサバサバ感が隠し切れない(隠してもいない)エリザベス女王夫妻が、ダイアナショックに盛り上がる国民の槍玉にあげられたのも、仕方が無いと言えばそうかもしれません。
でも、そのサバサバ感を「=冷酷無比」と印象付けたのは、エリザベス女王の固く引き締められた唇だけのせいでは無く、マスコミの力に寄るところが大きいのではないでしょうか。

報道のやり方一つで、大衆を右に向かせる事も左に向かせることも、はたまた盲目にする事すら朝飯前な、マスコミというもの。
結局、ダイアナ元妃もエリザベス女王も大衆も、マスコミの撒き散らす「報道の自由」とやらにまんまと踊らされていただけなのかもしれませんね。
私たちももっと目を開いて、目に飛び込んでくる情報を吟味、選別して行かないと、知らない間にとんでもない所へと導かれてしまっているかもしれませんよ。

“オスカー作品賞ノミネート”と言う事で、かなり格調高い一本なのだろうと思っていましたが、鑑賞してみると意外に近寄りやすい作品で、取り扱っている内容はとことんハードなクセに、要所要所にコミカルな部分もあり、その垣根は決して高くありませんでした。
かといって、「皇室スキャンダル」と言う下世話な裏話の再現フィルムと言う訳でも勿論無く、女王役のヘレン・ミレンはさることながら、
マブレア首相(マイケル・シーン)の純粋な情熱、
ブレア夫人(ヘレン・マックロリー)の女王に対する微妙な敵対心、
フィリップ殿下(ジェームズ・クロムウェル)の妻に対する不器用で昔気質な愛情、
チャールズ皇太子(アレックス・ジェニングス)の狡すっからさ加減など、
確かな演技力を持った俳優たちの説得力に溢れた見事な演技のお陰で、『プロジェクトX ~イギリス王室が直面した危機とその回避への道のり~』と言う感じの真面目な娯楽作に仕上がっていたのではないでしょうか。

結果、おいしい役どころだった実際のエリザベス女王が、この作品を評価しているらしい、というのは判りますが、実際のイメージ通りな小ズルイ中年男だったチャールズ皇太子までが、そこそこ評価しているらしい、と言うのが・・・どうもねぇ・・・

・・・チャールズ?  ・・ホントに内容判ってる?

最後に、鑑賞した劇場は本日女性サービス・デーだったのですが、女性(中高年)でひしめき合ってほぼ満員状態だった中、なんと果敢に入場していた若い男性の方が・・・。
同性のアガサでさえ、むせ返るような熟女パワーの巣窟に、たった一人で飛び込んでいた勇気ある君。
そんな君に幸あれ!
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『アメリ』

2007年04月17日
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※ 美容院でアメリになる筈が、板倉亮子マルサの女)や片桐はいりになってしまう、と言う罠。


夢みる乙女の、胸キュンラブストーリー 『アメリ』 でございます。

公開時には世界中の恋する乙女がアメリに憧れ、街中のカフェはそんな乙女達がクリームブリュレの表面をスプーンでコンコンする姿で溢れかえったと言う・・。

そんな都市伝説を持つ、 『アメリ』 でございますよ。(都市伝説じゃないか)

『ロスト・チルドレン』が大好きなアガサにとって、ジャン=ピエール・ジュネ監督の大ヒット作『アメリ』は、取るものも取り敢えず鑑賞していた筈の作品でした。
それが、今日に至るまで避けて通っていたと言う。
一体何故か?

簡潔に言うと、天邪鬼だからなのです。
以上です。
余りに大ヒットして、余りに雑誌でも特集されて、余りに「恋する女の子必見」みたいなノリになっていると、逆にテコでも観たくなくなるのが女心と言うもの。
・・言わないですか?

そんなアガサの呪われたサガの為、長らく未見だった『アメリ』を、この度やっと鑑賞しましたので、今回は万感の想いを込めてレビューをお送りしたいと思います。

あらすじ・・・
幼い頃から、両親の愛を受けずに育ったアメリ。
飛び降り自殺者に激突された母が即死してからは、一層陰気になった父親とひきこもり生活を余儀なくされていたアメリ。
その唯一の娯楽は、ムカつく隣人にちょっとした嫌がらせをする事と、空想の世界に羽ばたく事。
そんなアメリも成長し、今はモンマルトルのカフェでバイトをしながら、一人暮らしを満喫していました。
満喫とは言っても、相変わらず半ひきこもりで、空想だけがオトモダチ状態だったアメリ。
しかしある日、自室の壁の中から偶然見つけた、40年前の住人の持ち物を何とか本人に渡し、その本人の幸せそうな笑顔を見た事から、現実の人生と触れ合おうと言う気持ちが芽生え始めます。

自分の周りのチョッピリ不幸せな人々に仕掛けを施し、その結果として皆がチョッピリ幸せになれるよう手配したのです。

そして、みんなが微妙に笑顔になって行く中、アメリが出会った一人の男性。
それは初めての恋であり、運命の恋だったのです・・。

果たしてアメリの元にも、小さな幸せは訪れるのでしょうか・・?


変質者の魂を、オシャレなファッションと小粋なフランス雑貨に包み込み、
妄想特急アメリ、ここに見参!!


これはかなりギリギリの所で踏み止まっているようですが、なかなかどうして結構な変質者ですぞ。
どれだけクリームブリュレや小洒落たフレンチファッションを纏おうと、このアガサの眼は誤魔化せぬわい!!

アメリが周りの人々に仕掛ける内容はと言うと、
あの八百屋の店長は、いつも店員をバカ扱いしてムカツクから、家のスリッパを小さいサイズに入れ替えてやろう。
あの体の弱い老人は、いつも部屋に篭りっきりだから、アメリ特別編集の「人生賛歌ビデオ」を送りつけちゃおう。
あの寂しい大家さんは、昔捨てられた夫の事を今でも引きずっているから、偽の手紙で励まそう。
あの元カノに付きまとうストーカー男には、新しい恋を与えるのが一番だから、ウチの店で彼氏の居なさそうなおばちゃんとくっつけちゃおう。

などなど。

つまり、不法侵入器物損壊文書偽造ストーカー幇助、などなどのプチ犯罪を何気なく散りばめながら、お節介を焼いてくれている訳ですね。
何人かはホントに有り難がっているので、まぁ良しとしますが、自宅を荒らされ放題の八百屋さんとか、知らないうちにストーカーと縁結びされていたカフェのおばちゃんとか、洒落にならないパターンもちらほら・・。
しかも、みんなには判らぬ様、コッソリやっているから更に悪質。

いいぞアメリ! 今、おれのハートにはビシビシ来ている・・!
お前の変質者っぷりがな!!(興奮の為、若干意味不明)

まぁ、これくらいを変質者とは呼ばないかもしれませんが、アメリがスタイリッシュなエビちゃん&もえちゃん的なアチラ側ではなく、あくまで奇人変人大集合的なコチラ側だと言う事は、まず間違いないと見ていいと思います。

そんな可愛げのある変人・アメリが、一目で運命の恋に落ちてしまう男性・ノニ。
これがまたガッチガチの変人で、勤務先はポルノグッズの専門店とお化け屋敷(骸骨役)で、趣味は証明写真集め。
人目もはばからずスピード写真の機械の下を探ったり、ゴミ箱を漁ったりしては、捨てられた見知らぬ誰かの証明写真を収集するニノ。
アメリがなぜ、こんな変質者変わり者を好きになったのかは判りませんが、とにかく何かがピーンと来たのでしょうね。

きっと類が友を呼んだんでしょう。
私に言えるのはそれだけです。

と言う訳で、プチ変人同士のアメリとノニの恋は、誰も間に入れない(入りたくない)相性バッチリの恋の筈だったのですが、いかんせんアメリもノニも「半ひきこもり」の「コミュニケーション能力不足」なものですから、必要以上に回りくどいやり方でしか、関係を進展させる事が出来ません。
暗号、尾行、除き見などを駆使してのデート大作戦は、まさにオシャレなゲームのようで、そのお茶目な仕掛けに夢見る乙女達はドキドキワクワクです。

やっぱりいつの時代も、恋と言う物には尾行が付き物なんですよね!!

・・私が言ったんじゃないですよ。
私の友達の友達が・・ (モゴモゴ)

映画全編を彩る、カラフルな装飾の数々。
アメリやカフェの店員さんが何気なく着こなす、華麗なるフレンチファッション。
雑誌から抜け出たようなセンス溢れるインテリアに、絵画のようなフランスの街並み。
そしてその上で繰り広げられる、不器用な男女の恋物語。
完璧なマーケティングの元に作られたような、女受け要素タップリの舞台装置を備えた『アメリ』が、世界中で大ヒットしたのは至極当然のように思います。

しかし一方、そのオシャレ地獄の裏側では、
「アメリの目の前で、教会から飛び降りた自殺者が母親に直撃」
したり、冒頭一発目のシーンが
「呑気に浮遊していたハチが無残に車に踏み潰されて車道にはらわたをぶちまける」
シーンだったりと、さりげないエゲツなさが散りばめられており、上辺の“キュートさ”と奥底の“ドス黒さ”のさじ加減がとても絶妙に仕上げてあり、さすがはジャン=ピエール・ジュネと言った感じです。

数ある胸キュンシーンの中でも、アガサの心拍数が一番ハネ上がったシーンは、“骸骨マスクを付けたノニとアメリの接近シーン”でした。
2人の距離感から、尋常でない色香がギュンギュン伝わって来る、映画史上に輝く名シーンだと思います
きっと、ジュネ監督も気合入りまくって撮ったに違いありません。
そうなんでしょ、ジュネ。素直におっしゃいよ。(←何様?)

それにしても、ここまで楽しい作品だとは思っていませんでしたので、観終わった時は自分の天邪鬼さを恨んでしまいました。
ただ、、もしもリアルタイムで鑑賞していたなら、人一倍成りきり体質のアガサですので、間違いなくその後の美容室で「アメリっぽく。」とリクエストしていたであろうと思いますので、少なくとも生涯2度目の“マルサ体験”を回避出来た事は嬉しい限りです。

※一度目・・「学園天国」の小泉今日子を目指した結果、板倉亮子調査官が誕生した。(アガサ20代前半当時)
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『過去のない男』

2007年03月31日
20070328153605.jpg  第55回カンヌ国際映画祭・グランプリ&女優賞受賞


なんだかここ最近、拷問だの流血だのばっかり観ているような気がして来ました。
心なしか、世帯主さまからの目線も以前に増して冷たくなって来た様な・・。

・・いいのか? 私。
・・・いいのか? 家庭崩壊。

・・い く な い ! !

そこでこの度、“アガサ更正プログラム”を発動する事を、閣議決定致しました。
流血より恋愛を!
グログロよりエロエロを!
(ちょっと違うか)

心暖まる癒しの映画で、春らしく装いも新たに生まれ変わった“新生アガサ”を、とくとご覧あれ!!

アガサ更正プログラム NO.1 『過去のない男』
あらすじ・・・
とある駅に降り立った、一人の男がおりました。
男は、ベンチで休んでいた所を暴漢に襲われ、一切の記憶を無くしてしまいます。
名無しの男に温かい手を差し伸べるのは、貧しくもつつましい生活を送る夜間労働者の家族。
周りの人々に助けられて、名無しの男は人並みの生活を送るように。

ある日男は、貧困層に食料の配給を行う“救世軍”の女性メンバー・イルマに、電撃的な一目ぼれをします。
恋の力で、男はどんどん行動的になり、周りの人々にまで影響を与えるような、生命力に満ち溢れた男性へと変身して行きます。
そして、イルマとの愛も日に日に深まって行くのでした・・・。
偶然巻き込まれた銀行強盗事件から、男の過去が蘇ってしまうまでは。

男はどこから来て、どこへ向かうはずだったのでしょうか・・?
イルマと男の恋は、無事成就するのでしょうか・・・?


過去のない男の過去が明らかになる時、そこには衝撃の真実が・・・
・・・・・・

・・・ない!!!


記憶を無くした男”、と言うと、“その過去はとってもドラマティック”である事が映画として欠かせないと思うのですが、そこはさすがはアキ・カウリスマキ作品。
記憶を失っている間と、取り戻す間の緊張感が、同じくらい皆無な所が素晴らしい。

登場人物の中の誰も、男の過去にこだわらない。
と言うか、みんな関心が無い。

と言う訳で、観ているコチラも当然興味が湧きません。
この作品は、ただの男が一人の女性に恋をして、人間的にどんどん自信を付けて行く、ただそれだけの物語なのです。
ただそれだけの物語が、とても可笑しく、とても切なく、とても温かい。

計算し尽くされた独特の“間”と、ゾロゾロ出てくる無表情な登場人物。
くすぐったいような、ささやかな笑いで、心がホッと和むのを感じます。

そして、主人公の男(推定年齢47歳)と、彼と恋に落ちるイルマ(推定年齢42歳)。

加齢臭カップル、ここに見参!!

恋を知らない行き遅れのおばちゃんと、お金も職も名前も無いダサイおっちゃん。
そんな2人は、お互いに意識しながらも愛を口にする事も出来ず、マゴマゴと戸惑うばかり。
「一緒に帰ろう」、その一言が言えなくて、マトモに目を合わせる事すら恥ずかしい団塊の世代。

ダサイですか? カッコ悪いですか?

でもそんな2人を観ているだけで、もうどうにもロマンティックが止まらないアガサ。

震えるぞハート!
燃えつきるほどヒート!!
(意味なし)

観ているコチラがテレビの前で一人テレテレモジモジしてしまう様な、不器用な行き遅れ達の真っ直ぐな恋物語。
月9の3倍はトキメクこと請け合いです。

ドラマティックな出来事も、大ドンデン返しも、当然ながらグログロも無い、クスっと笑えてジーンとする大人の御伽噺に、スプラッターで毒されたアガサの心が、少し癒されたようなそんな気がしています。

とても地味ですが、何だかとてもホッとするとてもステキな作品でした。







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『白バラの祈り/ゾフィー・ショル、最期の日々』

2007年03月07日
20070305234101.jpg 第78回アカデミー賞・外国語映画賞ノミネート作品



太陽の光は、いつも平等に、私達の元に降り注ぎます。

正義無き戦争で、無残に命を亡くして行く者にも。
その戦争を指導し、自らは温かいソファの上で寛いでいる者にも。
その戦争を、支持している者にも。
その戦争に、命懸けで反対している者にも。

その光の平等さは、時に残酷です。

1943年のドイツで、ナチの蛮行を止めさせる為の反政府運動に打ち込んでいた、女学生ゾフィー・ショル
彼女が、ただただ理想に燃える一人の革命家だった時も、
投獄されてただただ死を待っている時も、
太陽の光は同じ様に、彼女に降り注ぎます。

その光もまた、二度と自由を得る事が出来ない彼女にとっては、残酷な光の様に思えます。
しかし、その光はまた、心の自由と解放を得た彼女に降り注ぐ、祝福の光でもあるのです。

体は死んでも、志は死なず。
ゾフィーが選んだ誇り高き死が、ドイツの沈黙する国民たちをどれ位揺り動かしたのかは判りませんが、少なくとも彼女が接し、彼女が言葉を投げかけた人々の心には、沈黙する事を強いられていた“良心”が、再び蘇ったに違いありません。

そして、この映画を観た私達にも・・。

ゾフィーは頑なに涙をこらえて、凛とした態度でナチの尋問に挑みます。
しかし、そんな彼女が唯一隠れて涙を流さずには居られなかったのが、家族の存在でした。
自分と、同じく革命に命を捧げた兄・・。
子供達が国家に盾突いたとあっては、その親にも厳しい追及の手が及ぶ事は避けられないでしょう。
年老いた母の身を想い、トイレで身を絞って泣くゾフィー。
しかし、彼女の父も母も、そんな彼女に励ましを贈り、「あなたを誇りに想う」と、死にゆく彼女に微笑みかけます。

もし、私がゾフィーの親だったら・・。
みっともなくていい、卑怯者でいいから、生き延びて欲しい。
正義を心のうちに秘めて、良心の声に耳を塞いででも、生き続けて欲しい。
そう思ってしまうでしょう。

気高い志によって支えあう、その家族の姿に、私は圧倒されました。

当時のドイツには、少なからず存在したであろう、その家族の姿に。



今の日本には、独裁者も居なければ、恐怖政治もありません。
ですから、近くて遠い例のアノ国の国民が、本当に味わっているであろう苦しみは、所詮画面や雑誌の中の出来事の様で、どこか現実味に欠けて感じるでしょう。
同じく、第2次大戦下のドイツの人の苦しみも、『アンネの日記』や『シンドラーのリスト』の出来事でしか無い様に感じるかもしれません。

しかし、少し前。
ほんの65年程前の日本に目を向けてみれば、「治安維持法」と言う物によって、国家に逆らう思想の持ち主が投獄・処罰されていたと言う事実があるのです。

言いたい事も言えないこんな世の中じゃ・・・ポイズン!!

・・・反町先生も投獄決定です。

私たちは、独裁者にも、いわゆる恐怖政治にも支配されない、自由な生活を手にしていますが、その自由は誰によって定められた自由なのでしょうか。
お釈迦様の手のひらで飛び回っていただけの孫悟空と、私達の違いはどこにあるのでしょうか。

世の中には常に、狡猾な一部に人間によって定められた方向があり、私たちは知らず知らずのうちに、それに従わされているのかもしれません。

私達は、もっと考えなければ・・。
そして心の耳を、良心の声から遠ざけないように、研ぎ澄ましていなければ・・・。

穏やかな支配と言う名の恐怖はいつでもそこにあり、その恐怖はいつでも私たちを沈黙させる事が出来るのではないでしょうか。


ゾフィーの祈りは、私達への祈りなのかもしれませんね。

心を打つ、素晴らしい作品でした・・。

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