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『デンデラ』

2011年09月21日
デンデラ4

あらすじ・・・
年に年を重ねたおとな系女子のみなさんが、とある事情から山ガールになり
デンデラ
(※ 参考画像・山ガール)

途中、ハンター系女子やガーデニング女子や、
デンデラ3
(※ 参考画像・ハンター系女子)

美魔女たちと合流し、
デンデラ2
(※ 参考画像・美魔女)

一緒にスローライフ系コミュを作り、夜毎の女子会を満喫していたのだけれど、ある日ママ女子系の肉食系女子が乱入してきて
Ursus_arctos_.jpg
(※ 参考画像・肉食系女子)

「子どもの為にお肉を下さい」とごり押ししてきた事から、楽しかった日々が一気にサバイバル女子生活へと変貌してしまうという、復讐系なおかつ闘う系のお話系です。


そして婆さんは野に解き放たれた!!

平均年齢80歳のおばあちゃん軍団が、踏みにじられた自らの尊厳を取り戻す為竹やりを持って立ち上がるアクション巨編『デンデラ』を観てきました。
70歳で一方的に「人生終了」宣告をされ、人里離れた雪山に捨てられてしまうおばあちゃん方を演じるのは、浅丘ルリ子、倍賞美津子、山本陽子、草笛光子、角替和枝、赤座美代子などなど、日本の女優界の牢名主的存在の錚々たる皆様。
パキっとしたアイラインがチャームポイントのルリ子が、ナチュラルメイク&ボサボサ頭で槍を振り回す姿や、いつも眩いばかりの光源を伴って登場しているイメージの強い草笛光子が、実年齢よりも20歳以上も年上の役をぎりぎりミイラ直前の如き老けメイクで熱演している姿は圧巻で、その他の女優さんもみな美人オーラを封印し、とことんリアルな婆さん、言うなれば、飼いならされていない野生の婆さんになりきって野山を駆け回っている光景が、本当に素晴らしいと思いました。
ノーモア・皇潤! ノーモア・サメ軟膏! くたばれサセミン野郎! という掛け声が聞こえてきそうな生命力溢れる演技の応酬は、観る者の胸に大きな爪あとを残してゆくことでしょう。
年をとるなら、カラオケ喫茶でおじいちゃんと合コンするようなお婆さんじゃなく、こういうお婆さんになりたいものですね、ぼくは。

昔の日本で実際に行われていた「姥捨て」という風習。
食い扶持を減らす為、生活水準を保つ為、役に立たなくなった人間に現世からの引退を強要するというとても非道な風習に「NO!」を突きつけ、命続く限り生き続ける事を選択した本作のお婆ちゃんたちに、感銘を受けると同時にちょっとビックリしてしまったアガサ。
なぜなら、これはアガサ独自の考えですが、「老いる」というのはひとつづつ「執着」を捨てていく事なのかなぁ、と思っていたから。
結婚をしたり、子を育てたり、体力が落ちていったり、食べる物の濃さが薄まっていったり、食が細くなったり、性欲が枯れていったり、順番にこだわることを諦めたり・・。
年を重ねるにつれ、多くの人は「自分の引き時」みたいなものを意識するようになるのではないかなぁ、と。
しかし、デンデラ(山奥に拓かれた婆さんたちの桃源郷)の婆さんたちは違った。
彼女たちは、「死ぬタイミング」を人任せになどしない。 
石にかじりついてでも生き延びて、いつかその時が来るまで一心不乱に生を全うする。
眩しいと思いました。
婆さんたちのギラギラとした命の輝きが、心底眩しいと思いました。

と、ここまでは、ひたすらに「すごいお婆ちゃん」の姿に関心しきりだったアガサなのですが、JKJ(ジュクジョ)49の面々は徐々にその荒々しい野心を顕にし始めることに。
彼女たちが胸に潜めていた目的。 
それは、自分たちを粗大ゴミ扱いした村に復讐することだったのです!
これはアガサも驚きましたけど、デンデラに拾われて間が無いルリ子も驚いていましたよね。というかちょっと引き気味でしたよね。
いやいやいや、ちょっとまって奥さん! と。
その村には自分たちが産んだ子どももおるんちゃうの! と。 我が子を手にかけるおつもりなのか、と。
そんな良識派のルリ子に、デンデラの長・草笛光子が返した一言。
「自分の子は殺さないわよ。まぁ、他の誰かが殺すだろうし」

・ ・
・ ・ ・ 狂 気 ! ! !


もうね、完全にヒットマンの目ですからね、光子。 
何が光子をそこまで駆り立てたのか、と。

30年前に山に捨てられ、何もないところから裸一貫デンデラを立ち上げた光子。
そもそも、山に捨てられる婆さんたちには、「村の平穏な暮らしの為安らかに死んで行く」という最後のお勤めが課せられていた。
「生き延びる」ことは、「不名誉」であり「不誠実」な事とされていたのです。
ルリ子も、そんな想いから最初はデンデラのみんなに反発していました。「なぜ死なせてくれなかったのか」と。
しかし本当は、ルリ子を含め、婆さんたちはみな生きたかった。
「生きてはならない」自分たちが「生き続ける」ことに正当な理由を与える為、光子は「復讐」を選んだのかもしれません。 たとえそれが狂った選択肢だったとしても。

「産んで育てる人」という役目を終えた者ゆえの暴走だったのか、生き続ける為の選択だったのか、ともかく、内部分裂を経ながら婆さんたちが恐ろしい計画を実行しようとしたその時、さらに過酷な試練が彼女達に牙をむいて襲い掛かってきます。

肉食系女子こと、クマのおかあさんの襲来です。
Ursus_arctos_5.jpg
( (´・(ェ)・`)クマー!)

デンデラの皆と同じように、ただ「生き続ける」為だけにデンデラに襲い掛かったクマ。 なすすべなく蹂躙される婆さんコミュ。
囲炉裏端に転がる婆さんの手足。 引き摺り出された臓物。 噴き上がる血飛沫。
未だかつて無い大スペクタクルな映像に、隣の席で和やかに鑑賞していらしたご高齢のご婦人方の精神状態が心配でならなかった事は言うまでもありません。(上映後は案の定微妙な顔つきで退場されていました)
試練はさらに続き、死傷者を出しながらもコグマを仕留め、母クマも山に追いやり、なんとか体制を立て直そうとする婆さんたちに、今度は圧倒的な自然の力が立ちふさがります。
婆さんコミュは壊滅寸前。 デンデラをまとめあげていた光子まで喪ってしまった婆さんたちは一気に老け込み、あんなにも輝いていた目はどんよりと曇るばかり。
しかしその一方、「死ぬはず」だった自分の人生に付け足された「望んでいなかった延長戦」に戸惑ってしまい、立ち居地を決めかめていたルリ子は、この一連の試練を経て、初めて自分の意思で「生きる」ことを決意します。

人は、目的があるから生きていくのか。
生きていくために目的を作るのか。
目的がなければ、生きる意味はないのか。
目的を失って尚、ギラギラと目を輝かせ、遮二無二生きてゆこうとするルリ子を観ながら、「生きる」ってこういうことなのかもしれないな、と思いました。 
今、この命があるから生きていくんだ。 というね。
ごちゃごちゃ言ってるんじゃないよ、と。

あと、それ以上に、子を喪っても、体中に深い傷を負っても、住む場所を荒らされてもなお、雄を誘い肉を喰らい産んで殖やして行こうとする母クマの姿がね、偉大だなぁ・・と思いましたよね。
デンデラ婆さんたちは、自分たちが産んで育てた村を襲おうとした時点で、このクマに敵うはずなど無かったのかもしれません。
でも、きっと婆さんたちは後悔などしていなかったのではないでしょうか。
彼女達が終えたのは、生かされた人生ではなく、自分の意思で生きた人生だったから。

「役立たず」のレッテルを貼られた人間の最後の反撃が胸に強く響き、「生き物」という大きなジャンルの中で精一杯の死闘を繰り広げる婆さんの奮闘に熱くなる、とてもおもしろい作品だったと思います。
若い人も老境に差し掛かった人も、みんな観に行くといいよ!


― 追 記 ―

・ どこかのコミュニティからガッサリ捕獲してきたかのような、見事な野良婆さん揃いだった面々の中、一人だけ「小奇麗」な雰囲気を醸しだしていた倍賞美津子が、少し残念でした。 言葉も、標準語の人が無理になまりを使ってるような不自然さでいっぱいでしたし。 もっとこう、吹っ切れて欲しかったですねぇ。

・ クライマックス、クマとの因縁の対決に挑むルリ子は、エイリアン・クイーンを前にしたシガニー・ウィーバーみたいだなぁ、と思いました。 第3の性、覚醒・・・!

・ そんなルリ子なのですが、対・クマ戦に際してなんらかの作戦を練っているのかと思いきや、とりあえず棒切れで殴りかかろうとしたり、やばそうになったら一目散に逃げ出したりと、いくらなんでもなノープランっぷり。 せめてさぁ・・ ブービートラップ的な何か・・ほら、落とし穴とかさぁ・・。 精神論で勝てる相手じゃないからね!クマだからね!


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『魔夏少女』

2011年09月01日
d1721.jpg

あらすじ・・・
それは、綾が小学6年生の夏に始まった。
誰かから嫌がらせを受けた時。 誰かに対し怒りを感じた時。 突如相手の体から噴出す血。
罪の意識から、夜毎悪夢にうなされ、激しい頭痛や不眠症に悩まされるようになる綾。
母・美都子はそんな綾を心配し、自分が勤める病院で精密検査を受けさせるが、何の異変も見つからない。
担当医の佐藤から精神科の医師を紹介され、動揺する美都子。
母の心配をよそに、綾の状態は益々悪化してゆき、ついに最悪の事態が起こってしまう・・・。

1年後。 
横浜にある美都子の実家近くに居を移し、すっかり以前と同じような明るさを取り戻したように見えた綾。
しかし、彼女を苦しめていた怪現象は収まるどころか、より一層残酷さを増して再開する事になる。
しかも、彼女はそれを、楽しんでもいるように見えるのだった。
気に入らない存在を、次々と血祭りに上げる綾。
誰よりも母を慕い、母の愛を独占したいと願っていた彼女が次に狙ったのは・・・?
そして、悩みぬいた末美都子がとった行動とは・・・?


1987年にTBSで放送されたドラマ。
母・美都子を演じるのは原田美枝子さん、魔夏少女・綾を演じるのは、当時天才子役として一世を風靡しまくっていた小川範子さん。
伝説の昼メロ『愛の嵐』でヒロインの子ども時代を演じたり、『3年B組金八先生』スペシャルで15歳の母を演じたり、藤田まことさんの子どもになったり、と1980年代の「子役部門」のおいしいところをガッサリさらっていっていた印象の強い、「ノリピー」こと小川範子さん。 そう、アガサの中で「ノリピー」とは、碧いうさぎのあの人ではなく、小川ノリピーなのである。今までも、これからも。

母・美都子と娘・綾は、一卵性母子と言ってもいいのではないかと思うほど仕草も性格もそっくり。
お互いを想う気持ちも非常に深く、ちょっとやそっとでは壊れないような絆で結ばれている・・  ・・・はずだったのですが、綾が「願うだけで他人を破壊する事ができる」能力に目覚めてしまったことから、その関係は徐々にズレ始める事に。
前半、能力をコントロールする事が出来ず、罪悪感から精神のバランスを大きく崩してしまっていた綾が、初潮をイメージさせるシーン(ある事件の後、美都子が綾の体を洗ってあげる際、体についた血が足を伝って排水溝に流れ落ちる)の後は自由自在に力を操り、周り中に血の雨を降らせてゆくようになる、なんてのは『キャリー』そのものですし、変わり果てた娘を前に、「今まではなんでも理解出来ていると思っていたのに、何を考えているのかさっぱりわからなくなった」と恐怖と不安の混ざり合った眼差しを向ける母の姿は『エクソシスト』の母・クリスと重なって見えます。
「思春期を迎えた娘と母」のぶつかり合いを描いた2大名作のおいしい所を上手にくみ取りつつ、今のテレビでは天地がひっくり返っても実現不可能な血祭り騒ぎを惜しみなく挟み込む・・。 いい意味で貪欲だと思います!いい意味で!

そして本作はただの二番煎じに終わる事無く、とある「もしも・・・」に対して、深く、重く踏み込み、ひとつの答えを導き出している所が素晴らしいと思うのですよね。
それは、「もしも、我が子が怪物になってしまったら」という事。
「自分の愛する子どもが何らかの犯罪に巻き込まれて被害者になってしまったら・・」
という不安はいつも親の胸の片隅にあると思うのですが、そこには常に、
「我が子が加害者になってしまったら・・」
という恐怖も、表裏一体となって存在しているのではないでしょうか。
だって、子育てには明快な正答がないから。

今、我が子に掛けている言葉は間違っていないのか? 
今、我が子に接している態度に問題はないのか?
自分では「きっとこれでいいんだ」と、「こうするしかない」んだと思ってやってきた事が、ある日すべて崩れ落ちてしまったら、一体どうすればいいのか?

以前、神戸児童殺傷事件の犯人・少年Aの父母が書いたとされる手記を読んだ事があるのですが、その時猛烈な違和感と共に、もやもやとした不安に襲われたことを強く覚えています。
前者は、「こんな子育ておかしいだろうに、なんで誰も気付かなかったのか」という憤りに似た感情で、後者は、「でも、私の子がこんな風にはならないって保障はどこにもないのではないか」という疑問。
加害者になった後に、異論を唱える事は簡単です。
問題は、子育て真っ最中に、違和感に気付く事の困難さなのだと思うのですよ。

もちろん、その手の疑問や不安にいちいち怯えていては子育てなんて出来ないし、周りの声や心の声に耳を傾けながら手探りで頑張るしかないのですが、その先にどんな結果が待ち受けているかなんて、誰にもわからないだけに、もしも、自分がやってきた事が間違いで、我が子が「加害者」になってしまった時のことを思うと、胸に鉛を流し込まれたような気持ちになってしまいます。
会話する事もままならず、差し伸べた手も払いのけられた時、邪悪な事に喜びを見出す怪物と化してしまった我が子を前に、一体何をどうすればいいのか。
『キャリー』の狂信的な母親のように、ひたすら忌まわしいものとして刃を向ければいいのでしょうか。
それとも、罪を罪とせず、一緒に地獄に堕ちる覚悟で娘を庇い、怪物のしもべとして生きてゆけばいいのでしょうか。

綾の気持ちを理解しようと努め、犯してしまった殺人を隠し、なんとか共に暮らしてゆく道を模索する美都子。
しかし、幼さゆえに自分の力に酔いしれるばかりで母の思いをわかってくれない綾に対して、徐々に愛情を恐怖が上回るようになってしまう。
そんな美都子がとった行動。
それが正しいのかどうか、私にはわかりません。
ただ、かたく抱きしめ合い、穏やかな表情で火に包まれる母子の姿(←オチばれにつき反転)を見ていると、なんだかとても胸が苦しくて、母から娘への、娘から母への愛に涙がひたすら溢れてしまいました。


と、言う訳で、『キャリー』の衝撃と『エクソシスト』の怖ろしさと『スキャナーズ』の頭バーンを上品にミックスした、とても優れた人間ドラマだった本作。
若かりし頃の永瀬正敏による気合の入りまくったヘンタイ演技が楽しめたり、原田美枝子と黒田福美の2大フェロモン女優がもっさい三宅裕司を奪い合うという釈然としない展開があったりと、他にも見所たっぷりな良作ですので、もしも機会がありましたら是非! 
(ビデオは廃盤になっているようですが、時々CSのTBSチャンネルで再放送している模様)(もしくは、うらびれたレンタルビデオ店で捜索してみるという手も)


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『ゼブラーマン ゼブラシティの逆襲』

2011年06月15日
ゼブラ

あらすじ・・・
2025年。ゼブラシティと名を改めた元・東京都では、犯罪抑止活動の一環として朝夕5分間ずつ、警官が自由に人を殺してもいいという“ゼブラタイム”を儲け、民間人の処刑に勤しんでいた。
記憶を失った状態で、そんなゼブラシティに放置されていた中年男・市川新市は、街のルールがわからぬまま警官隊に襲われたものの、偶然通りかかった介護士の市場に助けられ、ゼブラタイムの被害者が集まるコミュニティへと連れて行かれる。
実は市川新市は、15年前エイリアンに襲撃された東京を救ったヒーロー・ゼブラーマンであり、現ゼブラシティ知事・相原公蔵の娘であるユイとは切っても切れない間柄であるのだが、記憶喪失であるがゆえに、なかなか自分のとるべき行動に辿り着けないでいた。
そんな中、コミュニティで匿われていた少女・すみれと交流をきっかけに、再びゼブラーマンとしての力を取り戻した市川新市は・・・


仲里依紗たんの無駄な頑張りキタヨコレ―――!!

劇中、ゼブラウーマンに扮した里依紗たんが「5分だけ、5分だけ、スッキリしたいわ」と熱唱するシーンがあるのですが、ホント5分でいいからスキっとしたかったですよ。勘弁してくださいよ。全編に渡って生煮え状態ってどうゆう事なんすか。ちゃんと加熱調理しといてくださいよ。

6年前に作られた前作『ゼブラーマン』は、「信じれば夢は叶う」をテーマに、ヒーローに憧れている冴えない中年男性が信じたお陰でスーパー能力を発揮したり、信じたお陰で空を飛んだり、信じたお陰でしまうまに変身したり、要は信じたお陰で見事リアルヒーローになるという、信心溢れるお話でした。
では、前作の舞台だった“2010年”に合わせて製作された本作『ゼブラシティの逆襲』は、一体どのようなお話だったのか。
物語の舞台は、2025年という微妙な近未来世界。
革新派の都知事が独自の政策を進めた結果、“東京”は周囲の町村と合併し“ゼブラシティ”という一大都市に生まれ変わり、新しく導入された“ゼブラタイム”によって犯罪率が著しく低下。 世界で類を見ない程の安全な街になっていた。
毎日朝夕5分ずつの粛清タイムは、警官が目に付いた民間人をなぶり殺しにするだけではなく、国会議員のパワハラ&セクハラや医師の人体実験をも容認しているので、泣き寝入りを強いられる犠牲者が後を絶たないそうなのですが、そんな政策でなぜ、犯罪率が激減したというのか。
それはですね、人間は誰しも「善」の心と「悪」の心を持っており、そのうちの「善」を礼賛するのではなく、あえて「悪」の部分を認める事により、人は自らを肯定することが出来、結果不用意な「悪」に走る事がなくなるというわけなのですね。

あー・・なるほどねー なる・・・ほ ど ・・えないよね! ゴメン、えないえない!それ全然ほどえないわ!

要するに、「悪くてもいいんだよ、にんげんだもの」ということなのかもしれませんが、それで犯罪が減るとかないわー。むしろヒャッハーな展開だわー。バギーの注文殺到だわー。
しかし、一度は「うそうそ!ホントは目障りな人間(汚物)を自由に処分(消毒)して世界征服したかっただけ!」と本音とむき出しにしながらも、クライマックスでは再び「やっぱ自己肯定イイネ!」という人間賛歌に落ち着いてしまう。 なぜなら、それが今回のテーマだったから。 誰だって二面性があって当然だよ。悩むこたぁないよ。という力強いメッセージが込められているから。

というわけで、そんな二面性をわかりやすく視覚化する為に、善の部分を哀川翔演じる白ゼブラ、悪の部分を里依紗たん演じるゼブラクイーンに振り分け、その2人の闘いと苦悩と融合によって、先の「自己肯定イイネ!」へと帰結させるのですが、コレもし視覚化しなかったら、哀川翔が
「お前は悪くないよ・・そう・・そうだよ・・オレは悪くない・・だよね・・うん・・なんだそうか・・あはは・・うふふ・・」
と一人で会話しているという、世にも切ない状態になってしまいますよね。 わかった、わかったから柚子茶でも飲んで一回落ち着こう!みたいな。よっ!一人相撲名人!

そもそも前作で主人公がヒーロー開眼した際も、自分の中の二面性に思い悩むというくだりがあった訳ではなく、本作の冒頭において「おまえ、悩んでたんだろ?」と悪い人に水を向けられ「え・・あぁ・・うん・・ええっ?」と煮え切らない態度のまま遠心分離機にかけられてしまうような有様なので、一番肝心な「ゼブラーマンの心の中の葛藤」が見えてこないのですよね。
いつの間にか拉致され、よくわからないまま二分割され、過去の記憶を失い無垢な瞳をきょろきょろさせるだけの白ゼブラからは、何も伝わってきませんでした。
ボンテージに身を包み、非道の限りを尽くす黒ゼブラがとても魅力的な存在だっただけに、光(=善)の部分の弱さは致命的だったのではないかと思います。
あとね、汚れない心を表そうとしたのか、哀川翔にやたらと間の抜けた演技をさせていたのもね・・「きょとん!」みたいなね・・「なにがなんだかわからないんですう」みたいなね。 ゆ る ふ わ か !

出発点(罪悪感に揺れる主人公の苦悩)がぼんやりしている為、その後の善悪の対比が際立たず、ひたすらがんばる里依紗たんの勇姿だけが脳裏に刻まれた本作。
見れば見るほど、「なんで作ったんだろう・・・」と思わずにはいられない、非常に残念な続編でした。
いっそのこと、無理やり主人公に続投させるのではなく、ゼブラクイーンを主役に配して、哀川翔はカメオ出演くらいにしちゃってもよかったのではないか、と思ってしまいました。
三池崇史監督も、結局のトコロ里依紗たんにボンテージを着せたかっただけなんじゃねえの、と。
悪のヒロイン・ゼブラウーマンとして、レディガガ風メイクで踊り狂う里依紗たんが撮りたかっただけなんじゃねえの、と。
だったらもうさあ、全編ゼブラクイーンだけでいいよ!ゼブラクイーンにヤクザキックしてもらうからいいよそれで!コンチクショウ!

まぁ、「壮大なカーテンコール」くらいの気持ちで観るのが一番なのかもしれませんね。


最後にいくつか気になった点を記して、今回の感想はおしまいにしたいと思います。

・ 浅野さん!いつの間に歩けるようになってたの!

・ ヒーローに憧れたココリコ田中が、虐げられて踏みにじられれも尚ゼブラーマンのマスクに手を伸ばすシーンがあるのですが、これって前作で哀川翔が能力を発揮するシーンと同じ構図になっているのですよね。 だったらなぜ、ココリコは能力に目覚めなかったのか。 弱き者を救う為体を張ってヒーローになろうとしたココリコが不憫でなりませんでした。 なっちゃいねーなー。

・ 浅野さんのエロいナースかあちゃんはどこに行ってしまったんだ・・!

・ 「人畜無害な哀川翔」を演出する為か、まばたきする際「ピョコン!ピョコン!!」という効果音がついていたのだが 猛 烈 に ダ サ い 。

・ 「時計じかけのオレンジ」リスペクトなメイクのガダルカナル・タカが 猛 烈 に ダ サ い 。

・ なんだかんだすったもんだの末、再び姿を現したエイリアンを前に共闘を決意した白と黒がついに一体となり、完全体のゼブラーマンとな・・・
ゼブラ2
・・らないんでやんの。 赤黒なんでやんの。やーいやーい!おまえのかあちゃんでべそー!!
(←困惑が隠せない)

・ ゼブラなのに赤黒、そして白黒つけずに丸く収めるというオチに色々な意味で衝撃が隠せなかったアガサだったのでした。 あやまれ!笑福亭仁鶴師匠にあやまれ!


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『自殺サークル』

2011年06月11日
suicidecircle1.jpg
狂った世界に投げっぱなしジャーマン!


(※ 以下ネタバレを含んでいます)




あらすじ・・・
5月26日。 
新宿駅のプラットフォームから女子高生54人が一斉に投身自殺を図るという事故が発生。 ほぼ同じ頃、とある病院で夜勤中だった看護士2名が窓から飛び降りて死亡。
5月27日。 
それぞれの事故現場から血のついたスポーツバッグが発見される。 中身はどちらも、切り取った人間の皮を繋ぎロール状に巻いた物体。
5月28日。 
都内の高校で、学生が相次いで屋上から飛び降りるという事故が発生。一連の事故について捜査していた刑事・黒田は、これらの死は事故ではなく事件であると推測するも、亡くなった人物たちに関連性が見当たらず、主張は退けられる。
5月29日。 
ビルの屋上から男性が飛び降り、偶然その下を歩いていた自らの恋人の上に落下するという事故が発生。 女性は軽傷で済んだものの男性は死亡。 そして、その遺体の表皮の一部が、ロール状に巻いた物体と一致する事が判明。 勤務を終え、帰宅した黒田は、息子から一斉自殺に関連していると思われるサイトの存在を知らされ、そこに自分の名前を書き込む。
5月30日。 
黒田刑事宛てに、一本の電話がかかってくる。 声の主は幼い子どもと思われ、「あなたとあなたの関係は?」という問いかけと共に、再び同じプラットフォームで同じ時間に50人が自殺する事を予告。 黒田刑事は事件性を強固に主張し、新宿駅に大掛かりな警戒態勢を敷くが、何事も起こらないまま予告時間が過ぎる。 未発に終わった事件に思いを馳せつつ帰宅した黒田刑事を待っていたのは、家族全員の変わり果てた姿だった。 打ちひしがれた黒田刑事に追い討ちをかけるように、くだんの子どもから再び電話がかかり、家族を救えなかった事を淡々と詰られた黒田刑事は、自ら命を絶つ。
5月31日。 
一斉自殺に関与していたらしきサイトへの書き込みから、これらの事件がとある男性の扇動によるものだった事が発覚。 自ら逮捕を望んでいたようにも思われる男性・ジェネシスが素直に投降した事により、一連の事件は収束を向かえたかのように思われた。
6月1日。  
大阪城から200人の女子高生が集団飛び降り自殺を図り、事件は振り出しに戻ることに。 5月29日の事件で軽傷を負っていた女性が、事件後初めて恋人の実家を訪れる。 そこで彼女が目にしたのは、生前男性が夢中になっていた小学生ボーカルグループ“デザート”のポスター。 ポスターをじっと見つめていた彼女は、ある部分に秘密が隠されている事に気付き・・・。
6月2日。  
“デザート”のコンサート会場に向かう女性。 そこで彼女を待ち受けていたものは・・・。


どことなく、「現代版・ハーメルンの笛吹き男」のようなお話でした。
ネズミは出てこず、笛を吹くのも男ではなく怪しげな魅力を放つJS(女子小学生)ですが。
どこからやってきたのか、どこ小に通っているのか、沖縄アクターズスクール系なのか、ハロプロ系なのか、プロデューサーは飛べない豚なのか。 
数々の謎に包まれたスーパーJSユニット“デザート”は、たちまち多くの日本人の心を掴み、さらにその中の一部の人たちに危険なメッセージを発信します。
そのメッセージは、「Suicide」。
かくして、JSの歌声に引き寄せられた人々は、その先で待ち構える謎の児童集団との面談を経た後、自分の中の「命を粗末にしたらあかん!」という常識を踏み越え、各々のプラットフォームから軽やかに飛び降りることに。
しかし、結局最後の引き金を引くのは自分自身であり、笛吹きJSも児童面接官もあくまでメッセージを奏でているだけなのですよね。
なので、解決もしないし、犯人も捕まらない。
刑事にとっては、「勝てる気がしない」闘いとなる訳です。 観ている者にとっても然り。 負けるわー。マジへこむわー。ローリー(寺西)さんマジ空気だったわー。

「あなたとあなたの関係は?」という、謎かけみたいな問いに深く頭を抱える人と、「関係もへったくれもないんじゃい!私は私自身なんじゃい!」と即答出来る人。 
両者の違いが、笛の音色の魔力から醒めるか否かを左右するのかしないのか。
その答えすら明らかにせず、余りにも沢山の?マークを残したまま終わってしまう本作は、なるほど、観た人から猛烈に嫌われるのもわかるような気がしますが、アガサはキライじゃなかったです。

アガサは自殺を考えた事がありません。  
身近に自ら死を選んだ友人・知人もいませんので、「自殺」をリアルに実感出来ているのか、と聞かれると、きっと出来ていないのだと思います。他人事と捉えてしまっていないかどうか、自信もありません。
しかし実際、日本では毎日90人弱の方々が命を絶っているという事実がある。
絵空事でもなんでもない、事実として。
その中には、心底思い悩んで命を絶った方もいるでしょうが、直前まで誰にも、何にも感じさせず、普段通りの生活を送っていた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
本編にも、とても象徴的に「無表情な人々」や「特に問題を抱えているように見えない人々」のカットが挟み込まれており、「普通」に見えるようで心に「死」の翳が差している人々が、ここには確かに存在するんだよ。と声高に主張されているようで、とても不安な気持ちになってしまいました。

SOSを出す事もなく、ふと、命を絶ってしまう瞬間が存在する世界。
とても悲しい世界で、どこか狂っている世界。(亡くなった方が、という意味ではなく、亡くなるという道を選ばせている世の中全体が狂っている、という意味で)
そんな狂った世界に、
「まぁ、生きるなら生きて、いくんなら勝手にいけば?」
と豪快にジャーマン・スープレックスをかますような本作は、実は突き放すどころか肩をわしわしと掴んで
「おい!ダメだぞ!自分で生きなきゃダメだぞ!」
と声をかけてくれているような気がしてなりませんでした。

まぁ、それは私の勝手な思い込みかもしれませんが、しかし少なくとも、「自殺を止めたくても止められない」というもどかしさや無力感を強く感じるのではないかと思いますし、そこから改めて、私たちを取り巻く世界のオカシサに気付かされるのではないでしょうか。

結局のトコロ、JSボーカルグループと児童集団の関係性も、それらとローリーの関係も、人肉を剥して繋いだ「人の鎖」の意味も、なんで電話をかけてきた児童が「げふん・・げふん」と痰絡んだ声ばかり出していたのかも、血まみれの娘はどこに行っちゃったのかも、カンナで削った皮って(後で繋いでたのと比べて)長すぎじゃね?という件も一切合切謎だらけで終わっちゃいましたけど、アガサはキライじゃなかったですよ。
なんでヒヨコ?とか、なにその処刑人スタイル?とかも思いましたけど、キライじゃなかったですよ。
唯一キライだったのは、「大阪城からJK200人が集団ダイビング」という極めつけのネタがセリフで触れられただけだった点ですけどね。 そこはなにがなんでもスクリーンに焼き付けるべきだろ!(←人間性を疑う叫び)

とまぁ色々と若干茶化した目線で書いてしまいましたが、正直言うと、実際に身近にそれを経験された方や、「死」を誇張して描くという事に違和感を抱かれる方には、受け入れがたい映画なのではないか、と思っています。
その一方で、観終わった時のもやもやは、もしかしたら監督が抱えているもやもやなのではないか、という気もしています。
このもやもやの正体と向き合っていく事が大事なんじゃないか、という気も。


とりあえず、本作の続編的立ち位置の作品として『紀子の食卓』という映画があるそうですので、なんとかしてそちらを鑑賞してみたいものですね。(我が家の近辺のレンタル屋さんは全滅でした)

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『ソラニン』

2011年06月02日
ソラニン
「ゆるいしあわせ」でいいじゃない。

あらすじ・・・
大学を卒業して、可愛い彼女と同棲して、自分のアルバイト代と彼女の給料で穏やかな暮らしを満喫することが出来て、気の合うバンドメンバーと月に2回スタジオにこもって楽器を鳴らして、毎日へとへとに疲れて、毎日そこそこに癒されて、そんな日々です。 
しあわせな日々です。 
しあわせな日々なんだけど。
なのにどうして、こんな胸がつまるような感覚に襲われるんだろう。
どうして、こんなに息が苦しくなってしまうんだろう。


っつって、家に帰ったら宮崎あおいちゃんが「おかえりー」なんつってカレーとかボルシチとか作ってくれてる分際で言うかコノヤロォォォォォォォオ!!!!

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自分は、思い描いていたような人生を送れているのか。
そもそも、どんな人生を思い描いていたのか。

そんなふうに悩んだ事がない人などいないのではないかと思うほど、ものすごく馴染み深い葛藤の物語。
本作の若きカップル、芽衣子と種田は、決してド貧乏ではなく、愛が冷めた訳でもなく、トモダチに恵まれていない訳でもなく、傍から見れば「リア充の中のリア充」にしか見えないような2人で。
未来が大きく広がっているだけに、無限の可能性を秘めているように感じられるだけに、自分の進むべき道に迷い、捨てきれない夢に心をかき乱されてしまいます。
いやぁ、なんというか、食うに困るような状況だったら、意外とこの手の悩みって浮かんでこないものなんですよねぇ。考える余裕があるからこそ、あれこれ考え込んでしまう事ってあるんだろうな、と思います。
で、人生に正解がないように、悩みにも万能の答えなどない訳で、多くの先人たちの様にもやもやしながらも試行錯誤を繰り返して過ごして行けばよかったものの、このカップルはもがいてもがいてもがいた末に、ひとつの悲劇を迎えてしまう。
もうねぇ、心の叫びが抑えられませんよね。 なにやっとんじゃぁぁい!!!とね。 
宮崎あおいちゃんと同棲できて、それ以上なにが望みなんじゃい!
浴衣姿のあおいちゃんと花火しながらキャハハウフフとか、それはおまえ人類の夢じゃろがい!! と。
人間の欲望は限りがなさすぎてベリー・スケアリー ネ!

と、思わず本題から離れて興奮してしまいたくなるほど、可憐で儚くて妖精のように美しかった宮崎あおいちゃん。
どこにいても、何を言っても、ぜんぶ抱きしめたくなるよあおいちゃん。
愛されるよりも愛したいよマジであおいちゃん。
愛のためにわがままにぼくは君だけをあおいちゃん。

もうやめる。もうやめるからもうちょっとだけついてきて欲しい。

で、芽衣子役をそんな宮崎あおいちゃんが演じる、という点は、ものすごく素晴らしくもあり、ものすごく物足りなくもあったと思うのですよね。
あおいちゃんが持つ透明感というか、「なにをしててもマジ天使」という特性が、若きカップルの迷いだとか苦悩だとか行き詰まり感を薄めてしまう。
どのシーンもきれいすぎるのですよ。
たとえば、あおいちゃんがタバコを吸って「社会の荒波にもまれてる」感を出そうとしても、鼻からけむりまでは出さない訳で。絵になる程度にくわえてるナーとしか思えなかったり。
彼氏が行方不明になって5日間ゾンビみたいな生活を送っていた割には、ゆるふわヘアーがキープされていたり。
故意に「寓話っぽさ」を演出していたのかもしれないのですが、もっとこう、煮詰まって、どろどろになって、ぐちゃぐちゃになって欲しかった。
そして、そこから顔を歪めながら這い出す過程が見たかったです。

いや、あおいちゃんのそういうプレイが見たいとかじゃなくて。 ちがうちがう。 いやまぁ見たくなくはないけど。 そういうんじゃなくて。 邪推ヨクナイヨー!

喪失までの「どこか現実味がない」感じを一気に取り戻すかのように、喪失後はどのシーンも「感情」を強く掴まれてぶんぶんと振り回されるような感覚に陥るほど、激しく、痛く、美しいシーンばかりで、これでもかというほど涙が搾り取られますので、余計にもうちょっと前半に刺すような痛みがあればなぁ・・と思ってしまいました。
ま、これは好みの問題でしょうけどね。
あと、好みついでに言うのですが、クライマックスにあおいちゃんが彼氏が遺した歌を熱唱するシーンがあり、この歌が魂をゆさぶるような素晴らしい歌だったのですよね。
原作者の浅野いにおさんが書いた詩も、アジカンの後藤正文さんが書いた曲も、あおいちゃんの声も、どれもホントにホントの最高で、特に
「さよなら それもいいさ どこかで元気でやれよ」
からの振り絞るような、叫ぶような歌声は、そこに至るまでの全てのシーンを思い起こさせるようで、体がビリビリしびれてしまいました。

なので、ここでエンドクレジットでもよかったのではないかなぁ・・と。
(本編ではこのあと、芽衣子の引越しのシーンがあります)
出来ればこの歌の余韻にひたっていたかったです。


若者たちが、迷いの末に見つけた答えは、答えの中のひとつは、とてもありふれたもので、とても小さいもの。
失わないと見つけられないのかもしれないけれど、出来ればそうなる前に、大切な人と一緒に見つけることが出来るといいなぁ、と思いました。

最後になりましたが、種田役の高良くんの正統派メガネ男子っぷりも眼福だったものの、ベーシスト役のサンボマスター・近藤洋一さんの奔放メガネの方がよりアガサの好みである事を告白して、今回の感想はおしまいにしようと思います。 何にせよ、メガネをかけて楽器を弾く男子はさいこうですね! 今日もいいメガネ成分をありがとうございました!



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