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すきもの主婦が選ぶ映画映画ベストテン2018

2018年12月16日
おひさしぶりですアガサです。
いつもお世話になっております大人気ブログ・男の魂に火をつけろ! 様による年末恒例企画に今年も参加させていただく所存です。




今年はわりと早い段階で「おっ!今年は映画の映画か~」と思っていたはずなのに、気づけば参加締切日当日、しかもタイムリミットまであと2時間ですよ。
人生ってば不思議なことだらけ!この世はでっかい宝島!!

ワッシュさんによる対象作品の基準を拝見しますと、本年大ヒットしました『カメラを止めるな!』のように「映画の撮影」をテーマとした作品以外にも、劇中映画が登場するような作品や映画のスタッフが主人公の作品、映画館を舞台にした映画やドキュメンタリーなどもオッケーとのこと。
これは難航しますね・・・・ (※のこり2時間で難航を余儀なくする人生観)


と、いうことで、悩み始めるとキリがないのでパッと思いついた作品を10本選んでみました。
以下、わたしが選んだ「映画」の映画ベストテンどうぞ~!!





  1. カイロ紫のバラ (ウディ・アレン監督 1986年)
  2. エルム街の悪夢 ザ・リアルナイトメア ( ウェス・クレイヴン監督 1995年)
  3. ニュー・シネマ・パラダイス ( ジュゼッペ・トルナトーレ監督 1989年)
  4. ジェイ&サイレント・ボブ 帝国への逆襲 (ケヴィン・スミス監督 2003年)
  5. インランド・エンパイア (デヴィッド・リンチ監督 2007年)
  6. ブリグズビー・ベア (デイヴ・マッカリー監督 2018年)
  7. セルロイド・クローゼット (ロブ・エプスタイン&ジェフリー・フリードマン監督 1997年)
  8. 地獄でなぜ悪い (園子温監督 2013年)
  9. ROOM237 (ロドニー・アッシャー監督 2014年)
  10. スクリーム3 (ウェス・クレイヴン監督 2000年)







1位の『カイロ紫のバラ』は、「映画」の映画というくくりでなくても、ウディ・アレン作品の中でベスト3に挙げてしまえるぐらいすきな作品です。 とにかくロマンティック。そしてせつない。 「映画の映画」と聞いてまっさきに思い浮かぶのはこれ!

2位の『エルム街の悪夢 ザ・リアルナイトメア』は、高校時代どっぷりはまったエルム街の7作目にして最後の作品。(このあとリメイクされていますがそれはカウントしたくない・・・) エルム街の女神ヘザー・ランゲンカンプさんやミスター・エルム街ロバート・イングランドさんが体験したであろうエルム街あるあるネタがちりばめられ、過去作品のオマージュもてんこもりのザッツ・エルム街テイメント。 長年のファンにはたまらない一本となっております。 初見の方はどうかだかわかりません。

3位の『ニュー・シネマ・パラダイス』も、ベタといわれようとなんといわれようと絶対にはずせない一本です。 というか、この作品と『ショーシャンク』が色々な場所でなにかにつけバカにされるの、すっげえ納得いかないんですよね。 アブラカダブラ・・・! 音楽もさいこう。

4位の『ジェイ&サイレント・ボブ』はですね、ほんっっっっっとにくだらない映画です。最大級の褒め言葉としての「くだらなさ」。 おおまじめにおおふざけをやることのすばらしさ、そしてケヴィン・スミス監督の映画愛に胸をうたれます。

5位の『インランド・エンパイア』は、この作品に出てくる映画セットのまがまがしさがだいすきなので入れてみました。 話はまったくわかりません。 そして、わからないなりにあれこれ考えてますます迷宮にまよいこむ。 なんどでもおいしい映画をありがとうございます監督。

6位の『ブリグズビー・ベア』のいとおしさは異常です。 ひさしぶりに「いい映画の映画を観たぞ!」という気持ちになりましたし、この作品に出てくるひとたちをぜんいんまとめて抱きしめたくてたまりません。 とくにグレッグ・キニアさん!

7位の『セルロイド・クローゼット』は、それまでぼんやりと観ていた映画の見方についてガツンと頭を殴られたような作品でした。 長いハリウッドの歴史の中で、性的少数者とその愛はどんな風に隠され、どんな風に描かれてきたか。 今こそ多くの方に観ていただきたいすばらしいドキュメンタリーです。

8位の『地獄でなにが悪い』も、「いい映画の映画」でした。 血が噴き出し、手足がとぶ撮影現場、しかしそこは反社会的組織がスタッフを務める現場だった・・・。 悪趣味で過剰で、「すきな映画が撮りたいんだよ!」というどうしようもない衝動があふれかえった怪作。 ラストも感動。

9位の『ROOM237』も、記憶に残るドキュメンタリーです。 どう残っているかというと、これを観て以来キューブリック監督の『シャイニング』を観るたびに役者さんのうしろに映りこんでいるものやホテルの間取り、空に浮かぶキューブリック監督の顔などが脳裏をよぎって本編どころではなくなるレベルの残り方です。 いい迷惑です。 いい迷惑なんですけど、なんつうか、ひとつの映画をここまで愛せるのってどうかしてる いいもんだなぁと思いますね。 とても面白いので興味がある方はぜひ。

10位の『スクリーム3』は、そもそも『スクリーム』シリーズが「映画の映画」であり、1作目がべらぼうにおもしろいことを踏まえたうえであえての『3』です。 そりゃもうさいこうなのはだんぜん1作目なのですが、キャストご一行さまが訪れた撮影スタジオの主として登場するキャリー・フィッシャーさんに敬意を表し10位に入れました。



以上です。
それではワッシュさん、集計の方大変でしょうがどうぞよろしくお願いします!






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2018年上半期えいがまとめ

2018年06月23日
ご無沙汰しております、アガサです。

はやいもので2018年ももう半分が終わろうとしているようです。
このブログの更新も、月2だったのが月イチに変わり、いまではそれすら叶わぬように・・・

そこで今回は、なんとか更新頻度を水増ししようと回復させるための臨時企画「2018年上半期えいがまとめ」をお送りしようと思います! まとめに入ろう!困ったときはまとめに入ろう!ババッとまとめてサクっと更新しよう!!

・・・と軽い気持ちでパソコンを開いたのですが、ふだん鑑賞のメモを残しているのはFilmarksというスマホアプリでして、そこのデータをブログに貼る方法がどうにもこうにもわからないのですよね。(できないのかも)
ひとつひとつ手入力で書きうつすしかないのかよ!ぜんぜんサクれてない!むしろ根気との勝負!
とはいえ他に更新するネタもないのでがんばります!
あ、上半期ランキングは最後に書きます!

参考・・・フィルマークス/アガサ

【2018年一月に観たえいが】
■ バイバイマン
「バイバイマン」第1弾ポスター
あらすじ・・・「バイバイマン」という単語を声に出したり頭に思い浮かべるだけで続々と死にます。

・ よりによって新年一発目がコレとかどうなん自分? と思わず真顔にならずにはいられない2018えいがはじめの一本。
・ 生まれと育ちの一切が謎に包まれたさよならおじさんが、具合の悪そうなワンコを連れて人々の恐怖を貪りにやってくる意欲作です。
・ 概念や量子力学などのくすぐりワードを散りばめつつ、人を狂わせたり死に至らしめたりするのは果たしてなんなのか、と考えさせるおもしろホラー。
・ 霊感少女の使い方が勿体なかったり、銃で撃っても血が出なかったりと、パンチが足りない部分も多々あるけれど、脇役がめちゃ豪華で得した気分でした。

■ アイム・ノット・シリアルキラー
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あらすじ・・・近所のおじさんが異形のものでした。

・ 自分はなんであるか、と自問自答し続けるふたりの主人公。
・ 社会に溶け込むため定めたマイ・ルールを守り、必死で生きていく姿が痛ましい。
・ 「アイム・ノット・シリアルキラー」という互いの心の叫びを理解し合えるのは、ふたりだけだったのかもしれない。
・ 主人公の男の子の暗い瞳が印象的でした。 いまだについ「ドク」って呼んじゃうクリストファー・ロイドさんの繊細な演技もすばらしかった。

■ エルストリー1976 新たなる希望が生まれた街
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あらすじ・・・『スター・ウォーズ エピソード 4』の出演者や関係者に話を聞きに行くドキュメンタリー。

・ エキストラを含むいわゆる「中の人」へのインタビューだけで一本映画が作られる。 これがスター・ウォーズ。 これぞスター・ウォーズというほかない作品。 わたしはたのしく鑑賞しました。

■ 皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ
『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』キーアート
あらすじ・・・ひょんなことからスーパーパワーを手にしたチンピラが、大いなる力にともなう大いなる責任の意味を知ります。

・ ヒーローが高いところに登りたくなるのは、神の目線に近いからなのだろうか・・・ とぼんやり考えました。
・ 落ちても死なないとわかっているからなのかなぁ。 まあ、たぶんわたしもヒーローになったらどっか高いところ登っちゃうと思うけども。 そしてかっこよく落下したい。 最終的にヒーロー着地をキメたい。
・ と、いうことで、「真似したくなる映画はいい映画だ」が持論なわたしにとって、これもとてもいい映画でした。
・ 超人的な力を手にした冴えないおじさんが、強盗で自分の生活を救い、近所に住む身寄りのない女性を救い、目の前にいた見知らぬ親子を救い、離れたサッカー場の観客を救い、これから救ってゆくのであろう街を見下ろすラストシーン。
・ 大いなる力に宿る責任と向き合い、愛した女性との約束を守るべくマスクを被るその姿にたまらなくグッときました。 これすごいすきなやつですね。
・ スーパーヒーロー、純愛、マフィア、アクション、貧困、いろんな要素がてんこ盛りで、なおかつバランスもとれている優れた映画だったと思いました。

■ キングスマン:ゴールデン・サークル
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あらすじ・・・だからオレは言ってたんだよね!「どっこい生きてた」パターンでもぜんぜんオッケーだよ?ってさ!

・ おじいちゃん風、ドジっ子風、すご腕エージェント風、おとうさん風、スタイリッシュ紳士風などなど、多種多様なコリン・ファースさまをこれ一本で摂取できる夢のような作品でした。
・ ハイになれるし中毒性もあるし、合法ドラッグと言ってもいいのではないだろうか。もっとくれよ。いろんなコリン・ファースさまもっとくれよ。
・ 今もっとも入りたい隙間ナンバー1 「スーツ姿のハリーの肘の内側と腰のくびれ」
・ コリン・ファースさまとタロンくんの絡みはほぼ泣いた。
・ わたしが前作のラストで観たかったのはこれなんですよ! エージェントとして成長したタロンくんとコリン・ファースさまの共闘!なのにあんな退場の仕方させるんだもんなー! あの頃は怒りのあまりひどいこと言ってごめんね・・監督・・・ もう怒ってないから・・ぜんぶゆるすから・・・かえすがえすもセンキュー・・
・ テイタムの扱いはあれでいいのか。
・ 本作に限らず、かっこいい組織が出てくる映画は軒並みそうなんですけど、優秀な組織のはずなのに主人公以外のエージェントがポンコツばっかなの、そろそろどうにかなんないんですかね。
・ 円卓(じゃなくて長机)にずらりと雁首並べてバーチャル会議してた他のエージェントなにしてるんだよ。 「わーミサイル飛んできた」じゃないだろ。 危機管理どうなってんだよ。 使えるエージェントが若手とベテランふたりだけって組織として不安多すぎだろ。
・ あと、本作における「女性への関心のなさ」はかなりひどい。
・ なんやねんポピー。 あまりにどうでもいい描かれ方で盛大にしらけてしまいました。
・ ポピーはまだ悪役として見せ場らしきものがあったものの、ジンジャーなんかは完全に空気でしたよね。 マーリンに並べるためだけに出したのかっていう雑な出演シーン。
・ しかし彼らはまだましな方で、さらに上を行くぞんざいさだったのがロキシー。 ただ、わたしは絶対ロキシー死んでいないと思っていて、爆撃の瞬間ベッドの下に飛び込んでいたので、そのまま脱出シューターかなにかでひそかに逃げおおせていると信じています。 そうだよな監督?ええ?わかってんだろうなアアン?
・ マーリンのかわゆさ大爆発!
・ 萌えの刺激が致死量を超え、力尽き果てた全世界のマーリン・ファンが各劇場のスクリーン際に打ち寄せられた模様です。
・ そのうえで、マーリンの見せ場をあんなことにしたマシュー・ヴォーンを、おれは絶対にゆるさない。 絶対にだ。

■ シング・ストリート 未来へのうた
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あらすじ・・・いじめられていた少年が音楽の力で未来を切り開きます。

・ おにいちゃんがすごくすてき。
・ どんよりとした海原に漕ぎ出すラストシーンにすこし『卒業』を思い起こしましたが、荒波でびしょ濡れになりながらもまっすぐに前を見据える主人公はきっとだいじょうぶ。 音楽の才能を、自分を信じて進めばきっとだいじょうぶ。 女の子とはたぶん数か月で別れると思いますが、まぁ、些細なことですよ! どどんまい!
・ バンドメンバーもほんとキラキラしててすばらしかった。 少年の頃のコリー・フェルドマンに似た男の子、めちゃくちゃよかった。

■ ノクターナル・アニマルズ
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あらすじ・・・十数年前に別れた夫から猛毒小説が送られてきます。

・ 小説は、文字は、時として凶器になる。 
・ 目に飛び込んだ瞬間神経を切り裂き脳に焼き付き、目を閉じても鮮明に、何度も何度もおぞましいシーンを再現させてしまう。
・ すぐれた小説は一度読んだら最後、忘れることを許してくれない。 読者の心に一生消えない跡を残してゆくものなのだ。
・ 別れて以来19年間連絡を断っていた元妻に、元夫が小説を送ってきます。 
・ 小説の主人公は、妻と娘を無法者に嬲り殺された弱々しい被害者。 
・ 被害者に寄り添うのは、彼に法に則らない正義を果たさせようとする男らしい保安官。
・ このふたりはどちらもが、元夫自身なのだろう、と思いました。
・ そして、無法者に惨殺された妻は元妻であり、娘は彼女が勝手に堕胎した彼の子ども。 さらに、作中妻と娘を彼の人生から奪っていった無法者もまた、小説の受け取り主である元妻なのではないか。
・ 登場人物はみな、彼と、彼から見た彼女の分身。 そう、この小説は彼から彼女への復讐なのだ。 彼の希望を潰し、人生を修復不可能なほどに壊した元妻への。
・ もしかしたら、元夫もまた保安官のように、末期ガンを患っているのかもしれない。
・ 「自分には先がないからケリをつけたい」という保安官の言葉は彼の原動力でもあり、持てる力のすべてを込めて書かれたこの小説の一文字一文字はきっと、いつまでも彼女の中から消えることはないだろう。
・ 彼の中にひそんでいた激しさを、彼女がもう少し早く見出だせていれば、ふたりは幸せなカップルになっていたのでしょうか。
・ 夫婦だった頃には気づかなかった元夫の一面に心を掻き乱され、劣情を抱くようにすらなってしまう元妻が、いそいそと彼好みなようにメイクをなおし出かける姿はどこか滑稽でした。
・ そして、彼が来るはずのないこととその理由に彼女が気づいた時、この復讐は完成したのでしょう。 
・ ただ、元妻もまたある種の犠牲者であることも忘れることはできません。
・ エバーアフターな未来を夢見る彼女に理想を押しつけ、「幸せ」という名の不幸になる呪いをかけた、悪い魔女のような母親に、なんらかの報いがあってほしいと願わずにはいられませんでした。
・ すべてを失った小説の主人公は、元夫自身だが元妻でもあるのかもしれない。
・ 手放してしまった愛も見捨ててしまった過去も、もう取り戻すことはできないんだ、という現実を受け入れることで、彼女は新たな人生を歩き始められるのではないでしょうか。 なにものにも縛られない人生を。
・ ・・・みたいなことを思いながら、帰宅後ずっと反芻していました。 すごくおもしろかったです!

■ 新宿スワン
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あらすじ・・・チンピラがドチンピラになります。

・ 歌舞伎町はこわいなぁ。

■ アニー・ホール
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・ 午前十時の映画祭で数十年ぶりに鑑賞しました。 「途中入場は絶対にやなんだよ!」とウディ・アレンがまくしたてるシーンで、現実のおばあちゃんがスクリーンを横切って途中入場してきてちょっとおもしろかったです。

■ シングルマン
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あらすじ・・・愛する人を亡くし死を決意した大学教授のもとに新たな愛が訪れます。

・ 死を決意した途端生が輝いて見え始め、生を受け入れようとした途端死が訪れる。 なんとも皮肉で不条理だけど、それが人生なのかもしれません。 それは、タイミングが異なるだけで、必ず誰もに訪れる未来。
・ ラストが本当にショックで、観た瞬間声にならない悲鳴が漏れてしまったほどでした。 つらい。 めちゃくちゃつらい。
・ けれども、生涯愛し続けられる唯一無二のパートナーに出会え、死が二人を分かつまで濃密に愛し合い、そのわずか数ヶ月後に、今度は美しく魅力的で自分に想いを寄せてくれている人たちと出会い、彼らとかけがえのない時間を過ごしたのち、心臓発作で亡くなるという結果だけみれば、主人公の人生は幸せなものだったといえるのかもしれないなぁ・・とも。
・ それはある意味、奇跡だと思うから。
・ コリン・ファースさまマジ至高。
・ ホルトくんもその他の俳優さんも衣装も美術も超美麗。 なんやここは。スチール写真のみで構成された高度なパラパラ漫画か。(※ほめ言葉)
・ どうせどうあがいてもいつか失うものなのだから、世界の美しさに気づけるよう、ひとときひとときをいつくしみながら過ごしたいものですね。

■ ジオストーム
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あらすじ・・・天候を操る衛星がバーンってなって地球がドーンってなります。

ブログに書いた感想

■ I AM YOUR FATHER アイ・アム・ユア・ファーザー
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あらすじ・・・もしかしたら世界で一番有名かもしれないスーツアクター、デヴィッド・プラウズに密着したドキュメンタリー。

・ 製作者の目線がプラウズさん側に寄りすぎて、音楽の使い方を含め公平性に欠けた部分もあるドキュメンタリー。
・ けれど、「中の人」に対するリスペクトがひしひしと感じられるので、最終的には「これもありかなぁ」という気持ちになりました。 情にほだされて、ついうっかり「ルーカスフィルムはプラウズさんゆるしてあげればいいのになぁ」と思ってしまう有様です。 わかりやすい人間です。
・ 幻のプラウズ版アナキンシーン。 権利の関係で本作中ではフッテージが使えないことがわかっていながら「こんなん作ったんスよ!」とがんがんアピールしてくるのは、もしかしなくてもそれを観たがるファンが山盛りいることがわかっていての所業だと思うので、なんつうか、いやらしい監督やで・・・ 闇売買するつもりちゃうか・・・そらもうえらい高値がつきまっせ・・・

■ ダークタワー
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あらすじ・・・選ばれし少年が救世主を探すため、夢に出てくる世界を旅します。

・ よくまとめたなぁ、と素直に感心しました。 とびぬけておもしろくはなかったけれど、おどろくほど退屈なわけでもない。そつない映画という印象。
・ キングの世界ではおなじみなアレコレが出てきてにんまりしました。
・ しかし、これだけいい役者さんをそろえたのにこれだけっていうんじゃあもったいないですね。 どうすんだろこのシリーズ。

■ ゲット・アウト
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あらすじ・・・白人の恋人の実家にはじめて招待された黒人男性がさんざんな目に遭います。

・ 交際期間わずか5ヶ月にして彼女の両親に会いに行く、今時なかなか筋の通った若者クリス。
・ ただひとつ気になるのは、クリスが黒人で彼女が白人だという点。
・ 果たして、「リベラル」を自認しているという彼女の実家は、娘の初めての「有色」の恋人クリスを受け入れてくれるのでしょうか? というおはなし。
・ こいつはすごい映画ですね! 不穏さが徒党を組んで押し寄せてきた!! 逃げて―!みんな逃げてー!!
・ ちょっとした顔見せ程度のはずが、彼女の両親を含めたエスタブリッシュメントな白人の集いに強制参加させられてしまうクリスくん。
・ そこで飛び交う「オバマ最高」「ウッズ最高」といった黒人賛美を、彼らの差別意識をカバーするためのいわゆる「I have black friends」なのだろうと思わせておいてからの裏切りがとにかく秀逸でした。
・ 尊敬ありきの黒塗りどころではない、ガチもんのなりきりですからね。 執念というべきか怨念というべきか。 よく作ったなぁこれ。
・ ストーカーにありそうな「自分がほしいものはなんとしてでも手に入れたい」心理なのかもしれませんが、なんともありがたくない話ですね。
・ そして、そんな老人たちとは少し異なり、トロフィーハンティング感覚で獲物(黒人)を狩るクリスの白い恋人。 実はいちばん恐ろしいのは彼女なのかもしれないなぁと思いました。
・ 老人コミュの中に日本人がひとりだけいたけれど、彼の黒人への憧れは白人が持つ「白人様からあえて黒人へ」ではなく、アメリカ社会において「黒人>アジア人」という位置関係がある上での変身願望なのだろうか。
・ こっそりスマホの充電コードを抜いておく、という地味ながら効果抜群な嫌がらせがよかった。
・ あれ、マジで困るからね! 我が家も寝る前にさしておいた充電器が夜中の内にこっそり抜かれていて、朝になっても充電できてへんやんけ!って時々なるんですよ! 犯人ですか? 自分の充電器をどっかになくしちゃって、探す代わりにおかあさんのに目をつけた娘の仕業です!
・ シンメトリーな邸宅が逆にそこに住む人々の歪さを強調していたり、白人に差別された時黒人がみな手に手を取って助け合うわけではなかったり、すみずみまでホントによく出来たホラーだったと思いました。





はい、というわけで、途中でうすうすお気づきの方もいらしたかもしれませんが、1月分だけでこんな分量になってしまったので続きはまたの機会ということで・・・。
次回「2月に観たえいが」でお会いしましょう!





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『スリー・ビルボード』

2018年03月04日
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■ 「母」 ミルドレッド・ヘイズ

朝起きて、朝食を食べ身支度を整え家を出て街に向かう。
そのたびに、娘はレイプの末殺され遺体に火をつけられた、という現実を突きつけられる。
なぜなら、娘が発見されたのは、家から1キロも離れていない目と鼻の先ともいえる場所だったから。
毎朝、毎朝、道路を走るたびに、娘の不在とそのむごい最期を思い出す。
そして、仕事を終え、家に帰るとき、再びそれは繰り返される。
娘があげたであろう悲鳴と、助けを求める声と、肉の焼ける臭いが耳と鼻から離れない。
実際に聞いてはいないのに。
実際に嗅いではいないのに。
実際に聞いていれば、助けることができたのに。
実際に嗅ぐ前に、クズどもを撃ち殺すこともできただろうに。
いや、それ以前に、娘をひとりで出かけさせたりはしなかった。
反抗的な娘との激しい言い争いの際、売り言葉に買い言葉でつい発してしまった「レイプでもなんでもされればいい」という一言。
絶対に取り消せない悪魔との契約のようにそれは実行され、犯した間違いから救ってくれるはずの神はひたすら沈黙する。

どう過ごせばいいのだろう。
そんな悪夢のような毎日を、どう生きてゆけばいいのだろう。

ミルドレッド・ヘイズが悪夢から抜け出るただひとつの道は、犯人が捕まることだった。
娘を殺したのは自分ではない、と自分自身を赦すことのできる唯一の道。
到底受け入れられない現実を受け入れ、前に進むことのできる唯一の道。
怒りや哀しみや後悔や喪失感や、ありとあらゆる不条理な感情をぶつけられる相手が明らかとならない限り、ミルドレッドの地獄は終わらなかった。
だからミルドレッドは待ち続けた。
玄関のドアがノックされ、出てみるとそこには信頼できる警察署長がおり、「犯人を逮捕しました」と告げてくれる日が訪れることを願っていた。
一か月、二か月、三か月。
捜査が進展しないまま月日は残酷なほどさりげなく過ぎ、黒く焦げた遺体のあった野原には青々とした草が生い茂る。
かろやかに季節が移りゆく中、人々の記憶の中から陰惨な事件の影は消える。
七か月後、残っていたのは「かわいそうなミルドレッド」だけだった。
「あの」、「例の事件の」、「気の毒なミルドレッド・ヘイズ」。

どう過ごせばいいのだろう。
そんな悪夢のような毎日を、どう生きてゆけばいいのだろう。

ミルドレッド・ヘイズは、もういちど街の連中を事件の渦中に引き戻すことを選んだ。
自分だけが取り残されているのなら、やつらもここに引きずり込めばいい。
嗅ぎたくない臭いを嗅がせ、忘れ去りたい暗闇を見せつける。
「あんたたちは思い出したくないだろうけど、娘はレイプされ、殺され、焼かれ、そしてどうしたことか犯人はまだ捕まっていないんだよ。 それ、どう思う? あんたたちが住む街で起きたことなんだけど、どう思う? もしかしたらあんたたちの隣人かもしれないけど、それでも平気なわけ?」

人は見たくないものは見たくないし、知りたくない事実は知りたくない。
「かわいそうな人」には同情するけれど、自分の「道義」に反する人には敵意を抱く。
いまやミルドレッド・ヘイズの周りは敵だらけだ。
けれど、それがどうしたというのだ。
敵だらけだったのは、今に始まったことではないじゃないか。
それに、彼女の一番の敵は、自分自身ではないか。


■ 「父」 ビル・ウィロビー

朝起きて、朝食を食べ身支度を整え家を出て街に向かう。
そのたびに、自分の余命はあとわずかなのだ、という現実を突きつけられる。
あと何回、愛する妻と愛し合えるだろう。
あと何回、かわいらしい娘たちの額におやすみのキスをできるだろう。
病院で採血をし、結果を待つすこしの時間がたまらなく無意味でこの上なく苦痛な数十時間にも感じられる。
どうせ結果は同じだということを、自分も医者も看護師も街の人たちもみんなわかっている。
もしかしたら神様がもたらす奇跡の兆しがどこかに現れやしないかと、目を凝らして前を見つめるけれど、24時間はビル・ウィロビーの命を少しばかり削り取り、いつもと変わらぬスピードで過ぎてゆく。
ベッドに入るのがこわい。
明日も同じように瞼を開け、朝の光を眩しく思えるかわからないから。
まだ死なないかもしれないけれど、もう生きられないかもしれない。
堂々として威厳に満ち、誇りをもった「父親」として生きられないかもしれない。
もはや「眠り」はビル・ウィロビーにとって安らぎではなく、ロシアンルーレットのようなものだ。
カチリ、今日は目覚めた。 
カチリ、明日はどうだろう。

どう過ごせばいいのだろう。
そんな悪夢のような毎日を、どう生きてゆけばいいのだろう。

ビル・ウィロビーが悪夢をやり過ごすただひとつの道は、平穏に暮らすことだった。
やさしい妻に癒され、子どもたちと出来る限り食卓を共にし、街の平和に貢献する。
みなに尊敬され、信頼される警察署長として、最後のひとときまで誇りをもって過ごす。
トラブルばかり起こす出来の悪い部下もいるし、やる気のない部下もいる。
けれど、街の人々はみなビル・ウィロビーに好意的で、事件や事故も田舎町に相応な程度のものばかり。
自分が身を置いているここは悪夢の中ではない、幸せな夢の途中なのだ、と思い込むことで、このまま何事もなく静かに暮らし、静かに人生を終えたい。
見たくない現実からは目を逸らしたっていいじゃないか。
だって自分はもうすぐ死ぬんだから。

しかし、本当はビル・ウィロビーもわかっていた。
逸らそうと気づかないふりをしようと、生きている限り現実からは逃げられないことを。
大切な娘を無残に殺された母が、自分たちからの実のある報告を待ち続けていることを。
生い立ちと成長過程に問題を抱えた部下が、このままではきっとこの先も成長することなく人々から憎まれ続けるであろうことを。
警察署のリーダーとして、父親代わりの上司として、ビル・ウィロビーは彼らに対し責任があった。
ああ、できることならゆるしてほしかった。
だって自分はもうすぐ死ぬんだから。

被害者の母親が、警察署長を個人攻撃するかのような看板を事件現場近くに立てたとき、ビル・ウィロビーが抱いたのは、怒りでも恐れでもなく罪悪感と悔しさだったのではないかと思う。
そして、卑怯なやりかただということは承知の上で、捜査の滞りの裏には自分の病気があった、という個人的事情を話した。
自分でもそれとこれとは別だとわかっているけれど、街のみんながそうであるように、彼女も同情的な眼差しを向けてくれるかもしれないと期待する部分があった。
すがるように見つめるビル・ウィロビーに被害者の母がかけたのは、「そんなの知ってる」というひとことだった。
彼女は、知っているからこそ、宣戦布告をしたのだ。
逃げ切らせない、という覚悟。
たしかにあなたは死ぬのかもしれない、ベッドの上で、家族に囲まれて。
でも、うちの娘はもうとうに亡くなっているんだよ、よっぽどのまぬけか道に迷った者しか入ってこないような田舎道で、助けもなく、たったひとりで、凌辱され、焼かれて、という怒り。
それらを突きつけられたビル・ウィロビーは、残された時間の中もういちど事件に向き合い、なんとか成果をあげようとするが、手がかりも解決の糸口もないということもまた、変えようのない現実。

捜査に行き詰った事件と、治療の施しようのない病。
逃げられようのない現実、直視しないようにしてきた現実と向き合ったビル・ウィロビーは、はじめて自分と被害者の母との間にある共通点に気づいたのではないかと思う。

「かわいそうな母」と「かわいそうな父」に街の人々が向ける憐れみの眼差し。
最初のうちは、そのやさしさをありがたいと思うこともあっただろう。
みんな自分の味方なんだ、と心強く思うこともあっただろう。
けれど、その言葉や視線は徐々に煩わしいものへと変化してゆく。
なぜなら、同情は犯人を見つけてくれないし、病巣を小さくしてもくれない。
「だいじょうぶよ」 「お気の毒にね」 「応援してるよ」 「がんばってね」
必死に闘う彼らの上に、文字通り、毒にも薬にもならない言葉の数々が虚しく降り積もる。
自分が感じている孤独と被害者の母のそれが同じものなのだと悟ったビル・ウィロビーは、彼女の共犯者になった。

ビル・ウィロビーが家族に残したつもりで、実際置いて行ったものは、深い悲しみと自責の念と一生消えない心の傷だけだった。
いつ終わるとも知れない闘病生活で苦労をかけたくないなんていうのはただの言い訳で、苦しみたくないし無様なさまを見せたくないというのが本音だったのだろうから、いっそそう書き残してくれた方が家族は受け入れやすいように思うけれど、ビル・ウィロビーは最後まで「威厳のある父」でいたかったのだろうから仕方ない。
被害者遺族の「罪」を後押しすることで、彼女はより一層苦境に立たされるし、街の人々の感情を訂正しないまま逝ってしまったせいで、いがみ合いは続く。
ある部分ではどんでもなく迷惑なことをし、ある部分ではひとりの人間の人生を転換させる重大なことをし、街に大きすぎる影響を与えたまま、ビル・ウィロビーは自ら人生を終えた。
それがどうしたというのだ。
オレはすきにする。
君らもすきにしてくれ。


■ 「息子」 ジェイソン・ディクソン

朝起きて、朝食を食べ身支度を整え家を出て街に向かう。
そのたびに、母を頼もしく思い、母を疎ましく思い、母をいとおしく思う。
不幸な事故で父を亡くし、女手一つで育てられたジェイソン・ディクソンの価値観は、おもに母によって定められている。
母が否定するものは、自分も否定すればいい。
母が予想したことはたいがい当たっているし、母のアドバイスには得るところがたくさんある。
だからといって、母に支配されているわけではない。
母は自分がいないと生きてゆけないのだから、自分の方が立場は上なのだ。
言いなりになんかなっていない。
自分が母を守っているのだ。
男なんだから当然じゃないか。

ジェイソン・ディクソンと母の関係はかなりいびつで、街の人々もみなそれを知っている。
おまけに、ジェイソン・ディクソンがもっとも知られたくない個人的な情報も筒抜けだ。
「ほらみてごらん、バカのジェイソン・ディクソンだよ。 あの強烈なおかあさんに首根っこおさえられてるんだよ、気の毒にね。 それにほら、男なのに男がすきなんだってよ、かわいそうにね」
ジェイソン・ディクソンに向けられる眼差しにもまた、同情と憐れみが混じっている。
そしてそれらは彼を救ってはくれない。

ジェイソン・ディクソンは鈍くて、ある意味純粋で、彼なりの正義を持っていたのだろうと思う。
気に食わないやつは殴っていいという正義であり、尊敬する人を守るためなら他人を傷つけても構わないという正義。
母に教わった価値観で暴力を振るい、父のように慕っている署長がそんな彼の独善を戒めてくれるのが常だったので、その片方が欠けたとき、ジェイソン・ディクソンの正義が暴走するのは、至極当然なことだったのかもしれない。
周囲からの同情と憐れみに、恐怖までもが加わってしまった今、ジェイソン・ディクソンは職を失い酒浸りになって周りから敬遠され、木がうっそうと生い茂る高台の小さな家で、母親とふたり生きてゆくしかないのか。
自業自得と言い切るにはあまりに救いがないジェイソン・ディクソンの人生。
それを変えたのは、「父」からの手紙だった。

そんな一通の手紙で、人生は変わるものなのだろうか。
たった一通の手紙で、価値観が動かされることなどあるのだろうか。
ふつうは、そう簡単なことではないと思う。
けれど、きっとジェイソン・ディクソンの中には、「父」だけが気づいていた善き部分があったのではないか。
警察署に火がつけられ身体が炎に包まれる中、ジェイソン・ディクソンはいちど灰になった。
ジェイソンの表面を覆っていた「独善」や「虚勢」の殻が燃やされたことで、黒く焦げた土壌から再び芽が生えるように、彼の奥深くにあった善き部分が表に出てきたのではないか。
憑き物が落ちたかのように、ジェイソン・ディクソンは善き部分、「弱いところ」「素直なところ」「悪をゆるせないところ」「人を愛するところ」を隠さないようになる。
罪悪感から泣き、感謝から泣き、母を想い泣き、目の前の悪に怒り、自分の無力を嘆き、他人の痛みに苦しむ。
ジェイソン・ディクソンは再生した。
そして、「父」の期待と「母」の想いに応えるため、起死回生の勝負に出る。
これが実れば自分は救われる。
これが実れば自分は赦される、と信じて。


■ 三枚の看板

娘の弔い合戦とばかりに街を敵に回すミルドレッドは、他人の痛みをかえりみないモンスターかあちゃんのように振る舞っているけれど、そのかたく結んだ唇を見れば、本当は常にギリギリのところを歩んでいることがわかります。
夫に対しても娘に対しても「自分の信念」を貫いてきたゆえに、その両方を失ってしまい、それでもまだ、彼女が信じるやり方でけじめをつけるしかないミルドレッド。
看板は彼女にとって怒りの表明であるとともに、娘の墓標でもあったのではないでしょうか。
赤い花の寄せ植えを看板に手向け、そこに現れた鹿に話しかけるミルドレッドの穏やかな表情。
あの看板は娘が殺された証で、生きた証で、誰にも忘れさせないという決意の証だった。
燃えあがる看板はミルドレッドの目に、まるで娘がもういちど燃やされているように映ったのかもしれない。
いや、わたしの目には、そう映りました。
もうやめて! あの子の火を消して! どうしてこんなひどいことを!
(消火を)もうあきらめなよ」と声をかける息子・ロビーに懇願するように「ロビー!」と叫ぶミルドレッド。
なんど娘をうしなえばいいのか。
なんど娘を救えない無力さに打ちのめされなければならないのか。
悲痛すぎる声に、涙がとまりませんでした。

ずっと誠実に生きてきた正しい人・ビルは、「明日朝起きたらパパがいる」と信じていた娘の気持ちや、夫の苦しみを分かち合い寄り添い続けてくれた妻の想いを裏切り、ミルドレッドが責められることを承知の上で逃げ切った。

粗野で愚かで差別主義的なディクソンには、自分の母を想い、娘を失った母を想うやさしい部分があった。

息子に悪影響しか与えてなさそうな毒母は、暴行を受けボロボロになった息子を前におろおろと狼狽え、「手当をさせておくれ」とただ泣きじゃくる。

人は見たくないものは見たくないし、知りたくない事実は知りたくないものです。
同時に、「こう見られたい」自分と「こんな風にだと思われたくない」自分があるのが人でもある。
ある場面では寛容で、真逆の場面では不寛容。 他人に攻撃的だけど、自分が打たれると弱い。
かっこいところや勇ましいところは見られたいけど、情けないところや臆病なところは見られたくなかったり、いい人間だと思われたいけど、本当はエゴのかたまりであることは知られたくなかったり。

世の中には人の数だけ看板があるのでしょう。
どちらかの面だけで人を判断できないし、するべきではない。
裏も表もひっくるめてのわたしであり、あなたなのだから。


■ 車の中

放火事件の加害者であるミルドレッドと被害者であるディクソンが同乗する車の中。
罪を告白するミルドレッドにディクソンは赦しを与えますが、そんなディクソンもまた、別の事件では加害者で、ミルドレッドは被害者であったりもする。
誰かを傷つけ、誰かに傷つけられたふたりが、互いを赦し合い、同じ目的に向かって進んでゆく。
まだ気持ちは同じではないし、またどこかで反発し合うかもしれないけれど、その先の行動について「時間はたっぷりあるから、おいおい考えよう」と話し合う。
憎み合っていたとは思えないほど、おだやかな表情をみせるミルドレッドと、焦る様子はなく遠くを見つめるディクソン。

この社会で生きているわたしたちもまた、ひとつの車に乗り合わせたようなものなのかもしれませんね。
時に共感し合い、時に批判的になり、傷つけたり、傷つけられたりを繰り返すわたしたち。
でも、降りる訳にはいかないんですよね。
どんなに気に食わない人がいようと、どこかの惑星に移住でもしない限り、この時代、この世界で一緒に生きてゆくしかない。
だったら、見えていない、見せられていない看板の裏があることを意識し、思いやったり歩み寄ったりする方がいいじゃないですか。
ふたりの姿は、わたしたちが持つ可能性そのものなのではないかと思いました。
そして、そんなラストを用意してくれたこの作品を、心からすばらしいと思いました。

フランシス・マクドーマンドさんの前を見据える眼差し、サム・ロックウェルさんの瞳からこぼれる涙、ストローをたてられたオレンジジュースをわたしは忘れない。 
墓標にたむけられた赤い花を。
眠っている母の髪をやさしくなぜる指を。
怒りをあらわにする勇気を。
誰かを赦す勇気を。



― 追記 ―

・ 母と姉のやりとりを見ていた息子は、母の後悔や罪悪感を誰より理解していたから、どれだけ母が暴走しても(反発はすれど)見放さなかったのですよね。 きっと学校では相当ひどい扱いを受けていただろうに。

・ 父が家に乱入してテーブルをひっくり返した瞬間の、包丁を手にして背中を取る一連の動きもあまりにスムーズで、母と父が一緒に暮らしていた頃、こういったやりとりは幾度となく繰り返されていたんだろうし、そのたびに息子は母を守ってきたのかなぁと思いました。 息子、えらいね。 やさしいね。 家族を一度にうしなったのは、息子も同じなのにね。

・ やさしいといえば、看板屋さんのレッドですよね。 そんなに正義に燃えるタイプではないけれど、ミルドレッドの素性を知った瞬間きちんと仕事をして、おまわりさんの脅しにも屈さないし、バーで煽ってくるディクソンも上手にかわすし、あんな酷い暴行を受けたにも関わらず、相手が加害者と知っても親切をやめないし、包帯だらけのディクソンからよろよろと離れ、ぶるぶると震える姿からのオレンジジュースには打ちのめされました。 しんどかったよね・・・トラウマがよみがえって、ホントは呼吸するのもしんどかったんだよね・・・ レッドつよい・・・ レッドはエビングの良心やで・・・

・ レストランで看板放火の真犯人が明らかとなった時、シャンパンを手にとったミルドレッドは元夫をぶち殴りに行くのだろうと思ったんですよね。 そりゃそうだ、あいつはそうされて当然だ、って。 でも、自分が見下していた元夫の若い恋人の口から「怒りは怒りを来す」という言葉がでたことを知り、たとえそれがただの偶然だったとしても、ミルドレッドにとっては天啓みたいに感じられたのではないか、と。 期待していない場所からふいにあらわれた神様からのしるし。 自分は彼を赦さなければならないし、彼は彼女の人生に責任を持つべきなのだ、娘にできなかった分まで。 

・ もちろん、その直前、彼女が同じく心の中で見下していたジェームズからかけられた一言も、なくてはならない言葉だったと思いますけどね。

・ 自分が目星をつけていた男が犯人ではなかったとミルドレッドに報告するディクソン。 迷うようにすがるようにショットガンを抱きかかえていたのは、もしもミルドレッドが自分を赦してくれなければ命を断とうと思っていたからなのではないか。 署長の期待にも応えられず、遺族の願いも叶えられないクソ野郎の自分には、生きている価値はない、と思っていたのではないか。 もしかしたら、母親も道連れにしようとしていたのではないか。 このシーンは、ディクソンが電話を切るまで本当にどきどきしました。 

・ 燃やされた看板を消火させられなかったミルドレッドは、炎の中から事件のファイルを命がけで救い出したディクソンをとっくに赦していたのかもしれませんね。 自分の代わりに娘を助け出した。 灰にさせなかった。 だから、結局進展しなかった捜査について、ミルドレッドはディクソンを責めず、静かに耳を傾けたのかもしれないなぁと思いました。

・ 娘の事件とは無関係だったけれど、似たような犯罪をおかしている可能性は濃厚であった男に対し、私的制裁を匂わせるディクソン。 ミルドレッドはしばしの沈黙の後、同意を示しました。 受話器を頬にあて涙を流すディクソンと、もういちど鹿が現れてくれないかと願うように野原を見回すミルドレッドの姿が、いまだに頭から離れません。 どうか、彼らに救いを。 彼らが目的地まで突き進んでしまうのか、どこかで引き返すのかはまだわからないけれど、そこでかわされる会話から希望がうまれることを願っています。
  



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すきもの主婦が選ぶ映画オールタイムベストテン 2017

2017年12月14日
大人気ブログ・男の魂に火をつけろ! 様による年末恒例企画、「映画ベストテン」。
2007年の「オールタイムベストテン」から今まで、多くの映画ファンやワッシュさんのブログのファンが思い思いのベストテンを投票し、毎年さまざまなジャンル別ベストテンが選ばれて来ましたが、今年は10年という節目を迎えられたということで、再びオールタイム・オールジャンルのベストテンをあげてみようじゃないか、という運びとなったそうです。

と、いうことで、ここ数年タイミングが合わず気づいたら投票締め切り後だった、ということの多かったわたしも、今年はなんとか参加させて頂ければ・・と思った次第ですよ! どういうことだよ! そういうことだよ!


改めまして、以下がマイ・オールタイム・ベストテンです。
過去にジャンル別ベストで選んだことのある作品も混じっており、正直、毎回同じ作品ばっか選んでねえかオレ・・?という気持ちもなくはないのですが、ここは細かいことは一切気にせず、「いかに自分がその作品から影響を受けたか」「定期的に摂取せず(観直さず)にはいられないほどすきである」を基準に、これぞわたしのオールタイムベスト!という10作品を挙げてみました。 ご査収のほど、お願い申し上げます。



  1. インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説(1984年日本公開)
  2. グーニーズ(1985年日本公開)
  3. ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還(2004年日本公開)
  4. スター・ウォーズ エピソード6 ジェダイの帰還(1983年日本公開)
  5. ゾンビ(1979年日本公開)
  6. ウェスト・サイド物語(1961年日本公開)
  7. バック・トゥ・ザ・フューチャー(1985年日本公開)
  8. グレムリン(1984年日本公開)
  9. 恋人たちの予感(1989年日本公開)
  10. パラノーマン ブライス・ホローの謎(2013年日本公開)







『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』(1984年、アメリカ、スティーヴン・スピルバーグ監督)
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アクション、アドベンチャー、ユーモア、ロマンス、オカルト、適度なグロ、キー・ホイ・クァン、と映画に必要なものがすべて詰められた完璧な作品。
中だるみのシーンは一切なしの、ノンストップ娯楽作。
インディとショーティの関係には親子・師弟・バディとしての愛情も込められており、高飛車ウィリーとのロマンスにいまひとつノレなかった人もそっちで大満足できることうけあいです。
御大スピルバーグの天才的な画作りも、巨匠ジョン・ウィリアムズの音楽も最高オブ最高。
インディ・シリーズはレイダースも最後の聖戦も大傑作ですが、人生で一番影響をうけたといっていい本作がオールタイム・ベストワンです。


『グーニーズ』(1985年、アメリカ、リチャード・ドナー監督)
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魔宮の伝説が完璧な作品なら、こちらもわたしにとっては完璧な一本。
小学6年生だった年の暮れ。 たくさんの人でごった返す劇場内。
友だちとはぐれないように、母にもらったお金を落とさないように、と気をつけながら席に着くと、徐々に暗くなってゆくスクリーン。
画面に浮かび上がるドクロ。カメラがドクロの目に吸い込まれてゆくと、スピルバーグとドナーの名前。
いまでもあの瞬間の心臓のドキドキは忘れられません。
子どもが憧れた「冒険」のすべてがそこにあり、しかしそれは単純な「遊び」ではなく、大人でもどうにもできないような「生活に関するのっぴきならない事情」を大人に代わって子どもたちが回避するための「戦い」でもあるという。この優れたドラマ性。
「はみだしもの」たちが見せる一発逆転劇に、彼らと同年代だったあの頃も、親かそれ以上の年齢になった今でも、同じように胸が熱くなります。
心の中では『魔宮の伝説』と同率ナンバーワンですし、もしも年代性別問わず誰かに一本自分の一番すきな映画を紹介するとするならば、わたしは『グーニーズ』を選びますね!


『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』(2004年、ニュージーランド・アメリカ、ピーター・ジャクソン監督)
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『旅の仲間』も『二つの塔』も最高ですが、どれか一本選ぶならわたしはやっぱり『王の帰還』。
王である以前に、小さい人たちの勇気と決意と覚悟に人生観を変えられた馳夫さんとして、勝ち目のない闘いにのぞむアラゴルン。
おのおのの能力を認め合い、種族間に存在し続けてきた遺恨を二人でぶちこわしたレゴラスとギムリ。
ホビット庄での平和な日々とはあまりにかけ離れた、血なまぐさい戦闘に放り込まれ、人間たちの愚かさや弱さに翻弄されながらも、友だちの使命を支えるため奮闘するメリーとピピン。
死にかけたおかげでツヤツヤストレートヘアを手に入れたガンダルフ。
報われない愛を指輪にそそぐゴラムとスメアゴル。
その他のみんなもホント最高。エオウィンもファラミアもエオメルもセオデン王もみんな最高。何度観ても、後半ほぼ泣きます。
フォー・フロド!


『スター・ウォーズ エピソード6 ジェダイの帰還』(1983年、アメリカ、リチャード・マーカンド監督)
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ルークのかっこよさなら『新たなる希望』、ハンソロのかっこよさなら『帝国の逆襲』、毛玉ちゃんのかわゆさなら『ジェダイの帰還』ということで、シリーズ3本の中で一番繰り返し観た『エピソード6』を選んでみました。 
後悔はありません。
毛玉ちゃんを差し引いても、レイアがジャバ・ザ・ハットにエロい恰好をさせられたり、砂漠で派手な闘いがあったり、ヨーダが成仏したり、森の中でのスピーダー・バイクを使ったチェイスがあったり、ハンソロがこんがり焼かれそうになったり、ルークとベイダー卿が親子でタッグを組んだりと、かなり盛り沢山かつ見どころの連続みたいな作品だったと思いますね。
ちなみに、特別篇はわたしの中でなかったことになっていますので、評価はあくまでオリジナル版の『ジェダイの復讐』に向けたものです。


『ゾンビ』(1979年、イタリア・アメリカ、ジョージ・A・ロメロ監督)
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死ぬまでに一度は行ってみたいモンロービル・モール。


『ウェスト・サイド物語』(1961年、アメリカ、ロバート・ワイズ監督・ジェローム・ロビンズ監督)
ウエスト・サイド物語
ミュージカル映画もだいすきなので、どうしても一本いれずにはいられない。
でも、一本には絞れない。さあどうしよう、とだいぶ考えたのですが、迷ったときは、一番繰り返し観た作品を選べ、ということで『ウェスト・サイド物語』です。
天才バーンスタインの音楽も最高、ジェローム・ロビンズの振り付けも最高、俳優たちの迫力あるダンスも最高、社会風刺の込められた悲劇的なストーリーも最高。
本作のトニーとリフは、数十年後に『ツインピークス』の住人としてカムバックしました。色んな意味で感慨深いです。


『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985年、アメリカ、ロバート・ゼメキス監督)
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マーティとドクとデロリアン。
今さらこの傑作について何を言えばいいというのか。
「映画」の喜びがそこにある。


『グレムリン』(1984年、アメリカ、ジョー・ダンテ監督)
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世にクリスマス映画は数あれど、わたしの中で不動の一位はこれ!『グレムリン』!
モグワイの凶暴なまでのかわいらしさと、グレムリンたちの邪悪な立ち振る舞いが幾重にも層になった、娯楽のミルフィーユのような傑作ファンタジー。
最終的にはグレムリンもかわいいなぁと思えてきます。 一緒に映画館でハイホー歌いたい!
ただし、小動物たちの心癒される光景に油断していると、フィービー・ケイツの地獄のクリスマス話に横っ面を張らますので、くれぐれもお気をつけください。
キー・ホイ・クァン(ショーティ)を模した少年が出てきたり、スピルバーグがカメオ出演していたり、悪魔のいけにえリスペクトなチェーンソーが出てきたり、隅々まで楽しさが詰まっています。
わたしが本格的に映画をすきになったきっかけの作品です。


『恋人たちの予感』(1989年、アメリカ、ロブ・ライナー監督)
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男女間の友情は成立するのか?をテーマに、美男美女でもない、お金持ちでもない、特別に不器用なわけでもない、ごくごく「ふつう」の男女の10数年間を描いたロマンティック・コメディ。
もうね、わたしはこの作品がだいすきなんですよね。
たぶん恋愛映画の中で一番すきだと思います。
どこを切り取っても絵になってしまうニューヨークの景色、ステキな音楽、メグ・ライアン史上最もキュートなメグ・ライアン、通じそうで通じないふたりの気持ち、最高にモジモジします。
心の栄養補給にぴったりです。
男女間の友情、って日本のドラマや漫画でも一時期流行った気がしますが、ずっと一緒にいるカップルの間にあるのって、恋愛感情だけではなくなると思うのですよね。
すきという気持ちと同じぐらい、助け合いたいとか笑い合いたいという気持ちもあって、それはとても友情に近いもので。
パートナーのことを「一番身近にいる親友」と呼べるのって、幸せなことなのだなぁと、この歳になるとしみじみ思うのでありますよ。


『パラノーマン ブライス・ホローの謎』(2013年、アメリカ、サム・フェル監督・クリス・バトラー監督)
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ストップモーションアニメーションの金字塔。
もしも、まだ観たことがないという方がおられましたら、どうかわたしにあなたの92分間を預からせてください。
きっとどこのお店にも置いてあるはずです。
ソフトを手にとり、デッキに入れ、お気に入りの飲み物を用意し、画面に映し出される物語に耳と目と心を傾けてみてください。
手書きでもCGでもなく、一コマ一コマ気の遠くなるような作業の積み重ねによって作られた繊細な物語は、きっとあなたの感情を揺り動かしてくれるはずだと、わたしは信じています。

以前書いた感想・・『パラノーマン』





年代を見て頂ければわかるように、ほとんど1980年代になってしまいました。
まぁ、しょうがないですよね。 
一番多感な時期に観た作品ほど、一番影響を受けるものですし、なによりも深いところに刻まれるものですよ。
それにしても、毎回思いますが、すきな映画を10本に絞ることも難しさよ・・。
過去に選んだことのある作品を極力除いてもこれですよ!
できることなら、最近観た作品の中でピカイチだった『新感染』やキャプテン・アメリカ3部作、欧州ホラーや韓国のえげつないやつとかも入れたかったです。 

また十年後ぐらいに考えたとき、80年代の作品を外さずにはいられないほどのめりこめる作品に出会えているといいなぁと思います。
それではワッシュさん、集計の方大変かとは思いますが、どうぞよろしくお願いいたします!



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『沈黙-サイレンス-』

2017年02月08日
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小学校の近くに、教会があった。

そのことに気づいたのは四年生の頃だっただろうか、とにかく、あるときクラスメイトから「日曜学校って知ってる?」と聞かれてはじめて、自分の学区内に教会があることに気づき、また「日曜なのに学校とはこれいかに」と大きな衝撃を受けたのを覚えている。
興味をひかれたのはわたしだけではなかったのだろう、初めて訪れた日曜日の教会は、両親を説き伏せて参加許可を取り付けたわたしや姉と同じように、手に献金用の小銭を握りしめた子どもたちであふれていた。
どの子がどこまで真剣に「キリスト教」に関心があったのかはわからない。
きっと多くはあくまで「興味本位」。 または「話のネタ」だったのだろう。
わたしももちろんそうだった。 
「教会」に足を踏み入れるまでは。

ほんのりと薄暗い礼拝堂に整然と並べられたベンチ。
染み渡るように鳴り響くオルガンの音色。
わかるようでわからないけれどたぶんありがたいことを言っているであろうことだけは疑いようのない牧師さまのお話。
その魅惑の低音ボイス。
まだ「おごそか」という言葉を知らなかったわたしは、自然と心が落ち着くような、なにかに守られているようなその感覚だけで、あっという間に「教会」をすきになっていた。
ただ、割と早い段階で気づいたのだが、その「すき」はあくまで「教会」の雰囲気と装飾と西洋文化に心地よさを感じていただけのことで、本来の目的である「日曜学校」部分に関しては、不真面目の限りを尽くしていたわたしは、母親から献金用にもらった小銭をちょろまかして駄菓子屋に行ったり、創世記をわかりやすく説く牧師さまに、「その話に恐竜が出てこないのはおかしいじゃないか」、といかにもかわいげのない子どもらしい横やりを入れたりしながら、教会通いを謳歌していた。
教会はすきだし、クリスマスのお芝居も歌をうたうのもボランティア活動もたのしい。
でも、キリスト教のおしえはいまいちわからない。
クラスメイトが次々と日曜学校から離脱してゆくなか、それでもなんとなく通っていたわたしを、ある日教会は拒絶した。

いや、ちがう。 拒絶されたのではない。
教会のおしえのひとつを、わたしが拒絶したのだ。
きっかけは、「あなたの家にある仏壇を拝んではいけません」という牧師さまの一言。
わたしが仏壇に手を合わせるのは、仏教を信じていたからではなく、祖父に語り掛けるためだったので、そのおしえはとても納得の行くものではなかった。
「拝んでいるのは仏さまじゃない、ご先祖さまですよ」と反論したが、帰ってきた答えは同じ。 
「ご先祖さまでもダメです。」
包容力のかたまりのような場所だと思っていた教会が、とても偏屈で、とてもわからずやな存在に思え、わたしのなかの「教会熱」は一気に冷めた。

今思えば、「仏さま」とは成仏したご先祖さまのことで、それを祀るのが仏壇なのだからキリスト教から見たら完全にアウトな存在だろう。
「神さまといったらみなさまご存じのあの神さまだけで、他に神はないですよ」と教えているのに、「仏さま」に手を合わすとは何事か、と言われたらぐうの音も出ない。
だから、正しい対応は「違うやい、仏さまじゃなくおじいちゃんだい」ではなく「ならばここまで」なのだ。
あなたの宗教は正しい。 
わたしの信条も正しい。 

異なっていても、相手を矯正しようとすることはない。 ただそれぞれが信じる道を進めばいい。

だってこの世で起こるたいがいの不幸は、それを無理に変えようとしたときに起こるではないか。



マーティン・スコセッシ監督の『沈黙-サイレンス-』は、江戸初期の長崎において実際に行われていたキリスト教徒に対する弾圧を描くことで、生きるとは何か、強さとは何か、信仰とは何かを問いかける物語だ。
最初にことわっておくけれど、わたしはキリスト教に詳しくない。
キリスト教を信じてもいない。
もっと言えば、そもそもなんの宗教も信じていない。

そんなわたしが、もっぱら、今までに観てきた映画からのみ導き出した「キリスト教」は、「都合よく信徒の危機を救ってくれたり奇跡を起こしてくれたりする」便利屋ではなく、「生前しっかりリスペクトしておけば、どれだけ罪を犯していても死んだあと天国に行く手助けをしてくれる」優しいパイセン的なイメージだ。
救ってくれるのはあくまで死後の話。
神さまもイエスさまもマリアさまも、生きている信徒が襲われようと、貧乏で飢えようと、病気にかかろうと、紛争地域に生まれようと、ウィルス感染メールをうっかり開こうと、決して助けてくれない。
ただ、そういった無作為に襲い掛かる不幸に遭遇したとき、濁りなき心で神さまの存在を疑うことなく、真摯に祈りをささげれば、あなたの魂は救われますよ、と。
祈り方もかなりフリースタイルで、教会で祈ってもいいし、ロザリオに祈ってもいい、布団の中でひとりひっそり祈ってもいい。 とにかく、負けないこと投げ出さないこと逃げ出さないこと信じ抜くことが一番大事なのだ、と。
だからなのだろうか、作中キリシタンたちが現世ではなくパライソ(天国)に希望を見出そうとするのは。

わたしの認識の中ではさらに、キリスト教は「痛みを恐れない」という体育会系な一面を持つ。
なぜなら、キリスト教カースト(キリスト教でカーストというのもおかしな言い方だが)のてっぺんであるイエスさまご本人が、弾圧・密告・拷問という苦行のフルコースの末、残酷なさらしあげの最高峰である磔の刑を受けているから。
その教えを守り、神の子と崇めたてる信徒たちが少々の痛みに耐えられなくてどうするのか、と。
自分たちが受ける拷問なんて、イエスさまが受けた鞭打ちに比べればなんぼのもんじゃい、と。
だからなのだろうか、作中キリシタンたちがどんな残忍な仕打ちにも耐えようとしていたのは。

そして、わたしが知っているキリスト教では、信仰を守るための死は最高の名誉・殉教として称えられる。
キリスト教のみを唯一の宗教と言い切るための死、文化が違う場所での宣教が招いた軋轢による死、不当な弾圧への異議としての死、それらを誇り高く迎えたものは神さまに祝福され、聖人として敬われることすらあるという。
だからなのだろうか、作中キリシタンたちは信仰のために死ぬことを受け入れていた、と語られていたのは。

もう一度ことわっておくけれど、わたしはキリスト教に詳しくない。
あの日以降教会を訪れた回数も、片手で足りる程しかない。(それも、にわかクリスチャンとして結婚式をあげようというミーハーな思惑があってのことだ)
しかし、教会のおしえのひとつは拒絶したけれど、キリスト教を信じる人を否定する気持ちは全くない。

踏み絵を踏むことを拒否し命を捧げたものと、踏み絵に足をのせ生き延びたもの。
仏教や神道に救いを見いだせずキリスト教に改宗したものと、極楽浄土や八百万の神を信じ続けたもの。
信仰の危機に陥ったとされる恩師に真意をただすため周囲の反対を押し切って遠い島国に行ったものと、激しい宗教弾圧に恐れをなして行かなかったもの。
誰が正しいのではなく、誰が間違っているのでもない。
この物語に出てくるのは、ただ自分が信じたものを守るために、懸命に生きた人々だけなのだ。

ある登場人物が「この国(日本)は植えられた種の根を腐らせる沼だ」と語るシーンがあったが、わたしはそうは思わない。
沼に順応し、沼から養分を吸収し、生き抜くために根の形を変えた種は、最初に植えられたものと同じようには咲かないかもしれない。
しかし、枯れていった仲間たちの命を引き継いだその根は忍耐強く沼にしがみつき、あかあかと太陽に祝福されたそのつぼみは、いつか美しい花を咲かせるのではないだろうか。
踏み絵を踏むことで仲間に蔑まれ、司教からも見放され、いつまたお上から疑いの目を向けられるかわからない、という四面楚歌な状況の中、それでもひたすらに自分たちが信じる「キリスト教」を守り、そのおしえを後世へと残そうとした「隠れキリシタン」と呼ばれる人たちこそ、その花なのではないか、とわたしは思う。

宗教を信じないわたしは、簡単に「命と踏み絵、どっちが大切かっていったら命に決まってるじゃん」と言ってしまう。
「踏み絵?オッケー、踏む踏む!」と。 「命あっての信仰じゃないの」と。
しかし、そもそも「信仰」とはなんなのだろうか。

もしかしたら、「信仰」とは「神さま」を信じるのではなく、「神さまを信じる自分」を信じることなのかもしれない。
「自分は正しいのか?」と疑問を抱いた瞬間、自分の魂は神さまの指の隙間からすべり落ちてしまう。
だから一心不乱に信じる。
「自分は絶対に脱落しない」と信じる。
「自分が神さまを裏切らない」ことを信じる。
「自分は甘言に惑わされることなく、圧力に屈することなく、神さまの存在を疑わずにい続けることができる」、と信じる。

踏み絵を踏むということは、そんな自分への裏切りであり、自分がそれまで捧げてきたものを無意味にしてしまう行為。
だからモキチたちは踏まないことを決めた。
たとえ命を失おうと、「神さまを信じてきた自分」を見捨てなかった。
自分たちが歩んできた道は間違っていないと証明するために。

キチジローもまた、「自分が神さまを裏切らない」ことを信じていたのではないか。
たとえ嘘をつこうと、言われるがまま銅板に足を擦りつけようと、卑怯者となじられようと、自分の心は変わらずにいられると信じていたのではないか。
だからキチジローは踏み絵を踏んだ。 生きて「一生神さまへ祈り続ける」ために踏んだ。

信仰を守るために死を選んだものと、信仰を守るために生き続けたもの。
彼らの信念は、形は違えどどちらも強い。
一貫しているのは「自分の選択を信じた」ということ。

そんなモキチたちとキチジローの間にいたロドリゴ。
ロドリゴは、うわさに聞いていた「弾圧」のすさまじさを直接目にし、「聖書に印刷された教え」や「ストイックな修行」や師から授かった「ありがたい説教」が、そこでは何の役にも立たないことを実感させられる。
敬虔な信徒たちが「信仰」のために死んでゆくのに、自分はそれを止められない。
そもそも止めてはいけないものだと教えられているし、自分も同じ立場になれば死を選ぶからだ。
しかし、繰り広げられる虐殺はあまりにむごい。
つらすぎる現実を正当化してもらいたくて、ロドリゴは「神さま」に語り掛けるけれど、その問いに返事はない。
神さまはいちいち返事をしないタイプだからなのか。
神さまも一緒に苦しんでいるから返事をするひまがないのか。
いや、ロドリゴ自身が答えを出せないからだと、わたしは思う。

「こんな酷い拷問も、神さまのなんらかの思召しがあってのことに違いない」
「無駄に苦しんで死んでいっているようにしか見えないけれど、神さまなら納得のいく答えを出してくれるに違いない」
「自分が信じる神さまなら、弱き者を助けてくれるに違いない」
ロドリゴの中をグルグル同じ問いが駆け巡る。 でも、天啓はひらめいてくれない。 ひたすらつらい思いや理不尽な思いをするばかり。
「本当に自分は神さまを信じていていいのか?」
信仰の揺らぎは、自分自身への疑い。
空を仰いでも答えは出ない。
なぜなら、「神さま」は、自分の中にいるから。

日本という沼に飲み込まれたロドリゴは、そこで信仰の芽を途絶えさせないよう必死に暮らすキリシタンたちの姿を見、師であったフェレイラの改宗を受け、ついに自分なりの答えを導き出したのではないか。
ポルトガルにいる仲間たちとも、隠れキリシタンとも違う、ロドリゴなりの信仰。
「自分なりの形で神さまとつながり続ける」、というやりかた。
たとえ表に出さなくてもいい。 心の中は誰にも見えないのだから。
もしかしたら、ロドリゴは家族にさえ本心を明かしていなかったのかもしれない。
しかし、ロドリゴの妻は、そんな彼の信仰心に気づいていた。
仏教徒として埋葬されようとしていたロドリゴの手のひらに、誰にも気づかれないようそっとロザリオを忍ばせた妻。

裏切りものと呼ばれていたキチジローを救ったのは、パードレとしての「資格」を失ったはずのロドリゴ。
そんな彼を救済したのは、キリスト教とは無縁な日本人の妻。
誰が、どこで、どんな風に、が重要なのではない。
わたしは、その行為によって救われる人がいる、ということが大切なのだ、と思った。
それがどんな名前の宗教であろうとかまわない。
そもそも、誕生した時とまったく同じ形で信じ続けられている宗教など、この世にあるのだろうか。
受け取る人によってさまざまに解釈が変わって当然だし、それを信じることでその人が救われているのなら、それでいいじゃないか。

モキチたちを、キチジローを、ロドリゴを、世界のたくさんの人たちを見守る「神さま」。
形にこだわるのではなく、もっと大きな愛で苦しみ迷っているものたちを救ってほしい。
本当の「寛容さ」で包んであげてほしい。
いまこそ、それが必要なのではないか、と思う。

ただ、それを必要としていない人に無理強いするのだけは、かんべんな。


― おまけ ―

・ 役者さんがみなさんすごかったです。
・ 映像も神さま目線の乱れうちですごかったです。
・ わたしはホントに無宗教なので、ロドリゴが聞いた神さまの声も、ロドリゴが「神さまを裏切ろうとしている自分を赦すために自ら思い描いた声」だと思ったのですが、まぁ、いろいろなんでしょうね。
・ キリスト教の不寛容さというか押しつけがましさみたいなものは、日曜学校での一件や過去に観た映画のあれこれで感じ続けていたのですが、本作でも冒頭フェレイラの棄教を知って「んな訳あるか」「もしそうだとしたらすぐ行って目を覚まさせてやらねば」「俺たちならそれができる!」みたいな、その自信はどこからくるんだ的な熱意にうわあってなりました。
・ 告解さえすれば何度だって罪を赦してもらえるゾ! というキチジローの考えを都合がいいととらえることもできるけど、わたしが認識していた「キリスト教」もそんな感じだったんですよねぇ。 たとえば旧約聖書と新約聖書で違ったりするんですかね。
・ 偶像崇拝を禁じながらも、踏み絵や教会の宗教画や十字架などを大事にするのは、神の姿をかたどった偶像ではなく、あくまで信仰のシンボルだからオッケー。 っていうか、そもそも「神さま」の姿はすごすぎて形にできないし、という理解ですが、合ってますか。
・ あと、本作に限らず不条理な事柄について神に問う系の映画って、「神さまは我々人間とはレベルの違いすぎる存在だし、我々が考えるような浅いことを神さまが考えるはずないし、神さまがどんな考え方かなんて推し量れるはずもない」で終わっちゃうことが多い気がするんですけど、みんなほんとにそれで納得してるんですか。 自分との闘いだなぁ。
・ わたしは、神さまはいないと思っていますけど、いたらいいな、とも思っています。 どこかで見守ってくれているとうれしいな、と。
・ どこかで見守られているかもしれないと思ったら、恥じないように生きたいってなるじゃないですか。 それを神さまと呼ぶか、仏さまと呼ぶかは自由だし、あるいは、私が生まれる前に亡くなったおじいちゃんであり、わたしや子どもたちに命をつないできてくれたご先祖さまたちを想像してもいいのかもしれませんし。
・ とにかく、自分の生きる力を信じたいし、自分の選択を信じたいし、自分の後悔のないように生きたいものですよね。
・ 信じる「神さま」の種類で揉めるのだけは、ホントむなしいから気づいた人からやめて行ってほしいです。 でもなぁ、どの経典にもたいがい「自分とこだけがオンリーワン」って書いてあるもんなぁ。 「神さま」は器がでかいのか小さいのかどっちかにしておくれ!
・ そう考えると、わたしがいちばんしっくりくるというか、好感が抱けるのは「八百万の神」ってことになりますねぇ。 ひとつに絞るから揉めるんだから、全部「神さま」ってことにしよう、そうしよう!
・ みんななかよくしようぜ!




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