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悼まないことにした。

2014年02月11日
Twitterをしていると、時々、誰かの死を悼むつぶやきを目にすることがある。
大好きだった誰かへの言葉。
憧れていた誰かへの思慕。
タイムラインをとうとうと流れる追悼の声。
だけれどわたしは、自分が見聞きしたことのある誰かの死を知っても、それをつぶやこうとはしなかった。
つぶやいていた人たちを責めているのではない。
ただ、自分が本当に好きな人を亡くした時しか、哀しみの声をあげたくなかったのだ。

そして、先週、もしも本当に好きな人を亡くしてしまう時がきたら、自分には声をあげることなどできなかったのだな、ということを知った。


フィリップ・シーモア・ホフマンさんのプロフィール欄の、その生年月日は、2014年2月2日でしめくくられたままだ。
何度見返しても、更新ボタンを押しても、日付は消えない。
なぜなら、彼は「亡くなって」しまったから。

どうして? どうして? なんで? どうして?
そのニュースを見た瞬間、わたしの頭の中は誰に聞くでもない疑問で溢れかえっていた。
手がぶるぶると震え、涙とも鼻水ともわからないものが顔を覆った。
吐き気がした。 いや、吐いてしまったのかもしれない。
どうして? どうして? どうしてこんなことに?

ネットの記事は早すぎる死を惜しむ文字で埋め尽くされ、わたしのからだは、シーモアさんが「亡くなって」しまったという事実に切り刻まれてゆくようだった。
身を振り絞りながら、わたしはそのことについてひたすら考えた。
亡くなった? いなくなった? でも、今でもシーモアさんはここにいるのに? いるのに「亡くなった」とは、一体どういうことなのだ?

そう、シーモアさんはいなくなっていない。
『男が女を愛する時』で、初めてシーモアさんという存在を覚えた頃から、何度も脇役として見かけては「あ、また出てる」と嬉しい気持ちになった頃から、わたし好みのぽっちゃり体型にシフトしていった『ツイスター』や『ハードエイト』の頃から、ずっとシーモアさんはここにいつづけている。
沢山の監督に愛され、愛くるしい笑顔や、ゾクゾクするような冷淡な表情や、匂い立つ色気や、ほんとうにダメな人や、にくめない人や、沢山のへんたいや、さみしい人や、あたたかい人や、数え切れないほど多くの人生を演じてきたシーモアさんに、これまでだって今だって、いつでもすぐに会うことができるではないか。
ある時は記憶の中で。
そうでなければ、デッキにディスクを入れることで。

シーモアさんは「生きて」いる。
それなのに、シーモアさんが「亡くなった」なんて、そんなおかしな話があっていいものか。
もしかしたらわたしは、こんなこと、知らなくてもよかったのではないか。


「亡くなった」シーモアさんの、今後公開されるであろう作品を、「遺作」とはどうしても呼べない。
「亡くなった」シーモアさんが、今まで出演してきた作品に言及する時、「素晴らしかった」と過去形でなど語りたくない。
シーモアさんは過去の人ではない。
シーモアさんは「亡くなって」などいない。
いなくなってもいない。 冷たくなってもいない。 その眼差しは、まだあたたかいままなのだ。


数日を経てわたしが出した結論は、シーモアさんの死を悼まないということだった。
死を認めないのではない。 
知らないままでいようと決めたのだ。

愚かだと思う。 ちっとも前向きではないと思う。
けれども、もう少しだけ、プロフィール欄を見ても画面がみるみるぼやけてこなくなるぐらいまでは、後ろ向きでもいいじゃないか。
シーモアさんの演技を観た時、哀しみなんて無粋な感情に素直な感動を邪魔されない為に、あと5年か、10年か、もしかしたらわたし自身が亡くなるまで、シーモアさんはここにいると思い続けてもいいじゃないか。
最近寡作になったなぁ、とか、そんなふうに思っていてもいいんじゃないか。

だからわたしは、悼まないことにした。
今までもこれからも、シーモアさんの作品が楽しみでしょうがない。


シーモア、可愛いよシーモア。



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