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『先生を流産させる会』

2013年10月01日
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うさぎ小屋を覗き込む少女たち。 
目の前には、生まれたばかりでまだ血にまみれたままの赤ちゃんうさぎ。
「キモいよね」「キモいね」
突如、小屋の中から赤ちゃんうさぎをむんずと掴み上げる、ひとりの少女。
彼女はものも言わず傍にあった滑り台に上り、てっぺんからその赤ちゃんを投げ落とす。
べしゃり、という音と共にへしゃげた小さな命。
何が起こったのか? 
どうしてこんなことを? 
こわい、けど、こわがってもいいのだろうか?
どうすればいいのかわからない少女たちは彼女を見上げ、「ははは」と、おずおずと笑う。
ひとりの声にもうひとりが加わり、不安げな笑い声に自信が漲り始めた次の瞬間、頭上から浴びせられる冷水のような声。
「なにがおかしいの?」
ぐしゃり、と押しつぶされる少女たちの心。

おそろしい。
これはおそろしい映画を観始めてしまったぞ。
本編が始まってわずか数分、ガラス越しに差し込む陽光で充分すぎるほど暖められた部屋の中、わたしはすこしだけ、いや、かなりゾっとしていました。
そして観終わった今、おそろしさは虚しさへと変わっています。
からっぽだ。
彼女の心の中はからっぽだった。
そして今も、からっぽなのだ。


2009年に名古屋で起きた事件を参考に作られた本作は、その題名の身も蓋もなさ具合や、実際の事件との相違点などから大いに話題となっておりました。
元となった事件では男の子だった加害者たちを少女に変えるのは、いくらなんでも「いかにも」じゃないか。
そんな意見も数多く見受けられました。

そう、たしかに「思春期の女の子」「担任の先生の妊娠」「初潮」というキーワードは女の子ならではのものでしょう。
「女性」と「女の子」の境界で、もやもやとした気持ちを持て余している中学生の少女たち。
まだ、「妊娠=生命の誕生=めでたい!」としては処理できず、「妊娠=セックス=キモい!」の辺りでクダを巻くしかない「複雑」なお年頃。
そんな彼女たちと、数年前にそこを通り過ぎたばかりの女性教師と、年数が経ちすぎて記憶すら残っていない(というか抹殺してしまっている)母親との、おそろしく噛み合わないやりとりが繰り広げられる、という部分は、「男子→女子」へと設定変更したからこそ生み出されたものだと思います。
ただ、もっと深い、根本的な部分は、「男の子」だろうと「女の子」だろうと、なんだったら「子ども」ではなく「大人」であったとしても、同じだったのではないかと思えて仕方なかったのですよね。

先生のお腹に宿った命を「なかったこと」にしてしまおう、と提案するミヅキ。
うさぎの赤ちゃんを投げ捨て、常に暗い瞳をし、滅多なことで表情を変えず、机の上を踏み歩き、幼い子どもに買い物カートを投げつける彼女は、一体どういう女の子なのでしょうか。
わたしは、彼女自身が「なかったこと」にされている子なのではないか、と思ったのです。
劇中一切登場しなかった(なかったことにされていた)ミヅキの両親。
名簿に記された携帯は番号違い。 自宅の電話は不通。 保護者会にも不参加。
そんな彼らの「不在」は、そのまま彼らの中の「ミヅキの不在」でもあると思ったのですよ。

もしかしたら、ミヅキには「なかったこと」にしてはならない理由が、本当にわからなかったのではないか。
なぜなら、自分(彼女)自身が「なかったこと」にされているから。

どうして? なにがいけないというの?
答えを求めているような、挑みかかるような眼差しを先生へと向けるミヅキの姿を前に、わたしはなんだか息が詰まる思いがしました。
この問いに答えてあげられる大人はいるのだろうか?
ミヅキに、他ならぬミヅキに、「なかったこと」になんて出来ないし、してはならないのだ、と説明できる大人が、この世界にいるのだろうか?

「なかったこと」にされるということは、子どもだけの話とは限りません。
わたしたち大人の世界にも存在していることです。
大切にされなかった為、どうやって大切にすればいいかわからない。
愛されなかった為、どんな風に愛すればいいかわからない。
心の中の「何か」が欠けてしまっている時、その埋め方を自分だけで見つけることは、とても困難です。
大きかったり幼かったり、男だったり女だったりする世の中の「ミヅキ」たちにぽっかりと開いた穴を、誰がどうやって埋めればいいのでしょうか。
これは決して、「子ども」特有のお話ではない。
もっと根深く、もっと何処ででもありうるお話なのではないかと思うのですよ。

特殊ではないのはミヅキだけではなく、彼女の周囲とて同じことで。
理解できない出来事や不安な気持ちに直面した時、笑ってやりすごすしかない、という現象は女の子だけなのか。 それを大人の世界では「お追従笑い」と呼ぶのではないか。
一瞬で何かに夢中になり一瞬で忘れ去ってしまう、という少女たちの移ろいやすい心が孕む残酷さは、まさしく大人がよくみせる「喉元過ぎれば・・」そのものではないか。
先生の給食に異物を混入させるミヅキたちに見てみぬふりを決め込むクラスメイトと、駐車場で危険な遊びに耽るミヅキたちに何の注意もしない警備員に、どんな違いがあるというのか。

この作品に登場する、ズルくて、罪悪感が控えめで、その場しのぎで、したたかに生きている女たちは、そのままわたしたちの世界の住人でもあるのですよ。
そして、それについてゆけない加害者の「ミヅキ」や被害者の「先生」といった渦中の人間たちは、いつも置いてけぼりになる。
からっぽのままで。 欠けたところを埋められることもなく。

ああ、しんどい。
ホントしんどいですよこの映画。
もっと救いがほしいよ! せめて映画の世界ぐらいはさぁ!

「仲間」たちに見捨てられたミヅキと先生が対峙するクライマックス。
「お腹の我が子を殺されたら、その相手を殺す」と宣言していた先生は、ミヅキを殺すのではなく救いの手を差し伸べます。
生徒たちに命の尊さを説くでもなく、命を授かったことの喜びを伝えるでもなく、終始ヒステリックに騒ぎ立てるばかりだったこの先生は、そもそも一体何のために教師という職を選んだのだろうか・・・とひたすら疑問に思いながら鑑賞していたわたしは、「ああ、よかったなぁ」と少しホっとしました。
「復讐ではなく赦しを、攻撃ではなく保護を選んだ先生の姿から、ミヅキが何かを見出してくれればいいな・・」と。
「先生やるじゃん・・・あんた根っからの教師だったよ・・・」と。
しかし、その後ミヅキと接したソーシャルワーカーは、彼女が犯した罪は「殺人」ではなく「不同意堕胎罪」であるとフォローだかなんなんだかわからない説明をし、おざなりな態度で時計をチラ見。
肝心の先生はというと、こちらもまた、その辺の川原にミヅキを連れてゆき謎儀式を始める有様。
ミヅキに掘らせた穴に、胎児が入っているらしき箱をおさめ、こんもりと盛った土の上に風車をぶっ刺して合掌。

いや・・ そんな・・川原って・・・  飼ってた金魚が死んじゃったんじゃないんだからさぁ・・・

鑑賞後に調べてみると、この「土葬シーン」は内藤瑛亮監督の出身地で古くから行われていた埋葬方法からきており、お墓を掘る人(他人)と埋葬される人(親族)、つまり人と人との結びつきという意味が込められているそうですが、ちょっとね、わたしにはわからなかったですね。
突然なんの儀式が始まるのかと思いましたよね。
あと、風車どっから出したん。

埋葬を終え、風車を眺めるミヅキの瞳は相変わらずうつろでした。
「なかったこと」になんて出来ないのよ、と言われた彼女の脳裏に浮かんだのは、肯定か、はたまた否定だったのか。
もしかしたら「わからない」なのではないだろうか・・。
だって彼女の周りには結局まだ、曖昧な大人たちばかりがひしめいているから。
そう思ったわたしは、なんだか虚しくなってしまい、切に願わずにはいられなかったのでした。

神様どうか、この哀しい出来事が、彼女が探し求める答えへの第一歩になりますように。
彼女が、自分の存在を、命の存在を肯定できるきっかけになりますように。



-おまけ-

・ 茶色くしなびた向日葵、蟻にたかられた鳥の骸、寒々しい廃ホテルといった「死」のイメージと、その中心に佇む、「新世紀のダミアン」と呼びたくなるようなミヅキの禍々しい存在感がとても印象的でした。

・ ヒステリックな先生はさておき、うだうだしている5人の少女がとてもすばらしかったです。 

・ 超モンペとして登場するおかあさんの描き方が、「いかにも」毒母って感じでモヤっとしました。 もちろん、行き過ぎたおかあさんではあるのですが、わたし自身にも娘がいるだけに、「おかあさんはおかあさんで、いろいろ心配なんだよ!」となんとなくフォローしてあげたくなってしまいましたねぇ。

・ 「子どものため」なら世の中のルールなんてお構いなしなおかあさんは、「子どもを殺されたらやり返す」と公言していた先生の十数年後の姿なのではないか、と思いました。 「我が子第一!よその子なんか知らん!」という根っこの部分はいっしょ。 先生はそのことに気づいたが故に、最後の最後で方向展開することに成功したのではないでしょうか。

・ そんな先生には、今後も「どうしてなかったことにしてはいけないのか」ということをミヅキに教えてあげていって欲しいものですね。 ていうか、やっぱ最後の謎儀式しっくりこないわー。 「教育」として行うなら、本物の墓地で、ちゃんとした葬儀を行ってみせる方が「死」を認識させやすいと思うのですけどね。 ちょっとなー川原はないなー。 





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