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『メランコリア』

2012年09月01日
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(※私と放電)

物事には必ず「終わりの時」がやってくる。
そんな事はわかっている。
それなのに、なぜ、人はその「時」を悲しんだり恐れたりするのだろうか。
それはそのタイミングを、自分で選ぶ事が出来ないからなのかもしれない。
「まだ終わってほしくない」
「まだ終わりたくない」
「まだ終わるわけにはいかない」
そんな個々の願いは、いつだって無残に打ち砕かれる。

命もまた然り。
いつかは必ず終わるものだけれど、往々にしてその「時」を選ぶ事が出来ない。
誰かに残されてしまう事や、誰かを残してしまう事。 それはときに、自分自身の死よりもつらいのではないかと思う。

しかしもしも、もしも誰一人残る者がいないとしたら?
「終わりの時」がいちにのさん、で、この地球上に一斉に訪れたとしたら?
それはもしかすると、これ以上ないほどの完璧なハッピーエンドなのではないのだろうか。

という、ネガティブシンキングが1周も2周もして最終的にポジティブシンキングになっちゃった!みたいなディザスター・ムービー『メランコリア』を鑑賞しました。

物語の主人公姉妹の名前がつけられた2パートで構成された本作。
第1部の「ジャスティン」では、有能なコピーライターのジャスティンが、リッチでハンサムで優しい男性・マイケルと結婚し、その披露宴を姉・クレアの夫・ジョンの豪邸で行う様が描かれます。
が、この披露宴は新郎新婦を含めた出席者全員にとって悪夢のような一夜となってしまう。
まずは、主役の2人の到着が遅れた為、披露宴が2時間遅れでスタート。(もちろん出席者は全員待ちぼうけ)
会場に着いた2人を急かす姉を尻目に、愛馬の顔を見るべく馬小屋に直行する新婦・ジャスティン。(もちろん出席者は待ちぼうけ)
なんとか宴は始まったものの、早い段階から目が泳ぎ始めるジャスティン。ザ・心ここにあらず。
来賓のみなさんのかったるい挨拶が終わり、友人代表による楽器演奏が始まると、ふらふら~っと庭に出てゆき、そのままゴルフカートで脱走するジャスティン。(もちろん出席者は全員待ちぼうけ)
死んだ目のまま戻ってきたジャスティン、今度はケーキカット直前に客間へ閉じこもり、そのまま長風呂を浴び始める。(もちろん出席者は(ry
クレアやジョンの説得も虚しく、時間だけが悪戯に過ぎてゆく。 飲むしかない出席者。
やっとの事で出てきたジャスティンを迎え、(みんな大人なので)なにごともなかったようにケーキカット開始。
その後もちょいちょい白目になったり、グリーンに連れ出した部下を押し倒してコマしたり、上司に暴言を吐いたりしながら出席者完全無視の結婚披露宴は続くのですが、なんとか全スケジュールを終えたジャスティンを残し、出席者はもちろん、ウェディングプランナーも、夫も、父も、姉も、誰もかもがそそくさとその場から立ち去ってしまうのでした。

まあね、一言でいえば、 そんなに気乗りがしなかったのなら、何故けっこんしようと思ったジャスティンよ! てコトになるのですけどね。
ジャスティンはジャスティンなりに、「幸せ」になろうと努力していたと思うのですよ。
周りが求めるように、お姉さんに望まれるように、お父さんの期待に応えるために、「笑顔」を顔に貼り付かせて「幸せ」にたどり着こうとがんばった。
でも、無理だった。
みんなが思う「幸せ」は、彼女にとっては「死の宣告」に等しかったのではないか。
お姉さんとお義兄さんがセッティングした「幸せな結婚披露宴」は、ジャスティンにとって「世界の終わり」だったのだと思います。
そして、そんな「終わりの時」にジャスティンの傍に寄り添っていれくれる人は、誰も居ない。

続く第2部の「クレア」では、式から数週間過ぎたある日、鬱状態が悪化して日常生活を送る事すら出来なくなってしまったジェスティンを姉・クレアが自宅へ招き入れる所から始まり、なぞの巨大惑星・メランコリアが地球に衝突するまでの5日間が描かれます。

自分自身では制御できない衝動によって、お膳立てされた「幸せ」をぶち壊してしまったジャスティンは、当初一人で歩く事も食事をする事も出来ないほど憔悴していましたが、地球へと接近してくるメランコリアと比例するかのように、日毎精気を取り戻して行きます。
その一方、テキパキと披露宴を執り行っていたクレアは、メランコリアが地球にぶつかるのではないかという恐怖に苛まれ、情緒が不安定になって行く。
夫のジョンは彼女を怯えさせまいと自信満々に振る舞うも、陰では非常時の食料やエネルギーを備蓄。
みんなその「時」をおそれて暗い顔になっている。 
ジャスティンを除いて。

ということで、第1部では「(ジャスティンにとっての)世界の終わり」、そして第2部では「(みんなにとっての)世界の終わり」が怖いほど美しい映像と共に淡々と映し出されて行くわけですが。
第2部でジャスティンが驚くほどに冷静なのは、既に「世界の終わり」を経験しているからなのではないかと思いました。
それは、「自分の結婚披露宴」であり「脳裏に現れては消えるイメージ群」であったりするのですが、ともかく、今までずっと「どこに居てもどこにも居れなかった」ジャスティンにとって、「世界の終わり」など騒ぐほどの事ではなかった。
そしてジャスティンは、「どこに居てもどこにも居れなかった」のは自分だけではない、という事も見抜いていた。
誰もが心に抱えているからっぽな部分。
それを無理矢理に満たしたり、満ちているフリをしたりして生きている醜悪な生き物。
こんなもの、滅んでしまっても仕方ない。
ジャスティンは心の中で、そんな風に思っていたのではないでしょうか。

しかし、「ヒャッハー!地球上のやつらぜんいん絶滅しろ!」なんてただ皮肉っぽく思っていた訳でもない。
愛しい存在である甥・レオを安心させる為に嘘をつく時だけに見せた、苦しそうな、悲しそうな表情。 
純粋な瞳を向けるレオを強く抱きしめ、涙をこらえるように顔を歪ませるジャスティンを観て、彼女は決してその「時」を待ち望んでいたわけではなかったのだなぁ、と思いました。

そしてジャスティンは、「終わりの時」をせめてステキに迎えようと考えたクレアの提案に、ハッキリとNOを突きつける。
一度目の「世界の終わり」の時には出来なかった拒絶をし、愛する者と一緒に、心穏やかにその「時」を迎えようとする。
最後の最後になり、取り乱す余り息子の手を離し、頭(自分自身)を抱えるクレアとは、あまりに対照的な姿を見せるジャスティン。
ああ、やはりこれは、ハッピーエンドだったのだなぁ。
ジャスティン(ラース・フォン・トリアー監督)にとって、これ以上ない幸せな「終わりの時」だったのだろう。 そんな気がしました。 

第2部で描かれる世界は、実はジャスティンの精神世界(想像の世界)だったのではないか、という見方も出来ます。
第1部で言及された事とは異なる情景があったり、彼女たちが暮らす邸宅の敷地以外の場所が全く登場しなかったり、地球滅亡の危機の割にはものすごくまったりとした時間が流れていたり、もしかしたらそう(現実ではない)のかなぁ・・と思う部分は沢山ありました。
ただ、現実だったのか心の中だったのかは、あまり関係ないのですよね。
心に病を抱えたジャスティンが、周りとの軋轢から負ってきた傷を癒し、苦悩を捨て、自分の意思で人生を選択するまでの過程。
そしてたどり着いたハッピーエンドが、本作だったのではないかと思いました。

何の仕事をしているのかさっぱりわからないけど超お金持ちなキーファー・サザーランドさんのゲスっぷりや、出てきただけで胡散臭いステラン・スカルスガルドさんと息子のアレクサンダーさんによる男前親子夢の競演や、嫌味ったらしいウェディングプランナー役のウド・キアーさんなどなど見所も満載。
あと、なんと言っても、常にジト目でこちら(カメラ)を見つめてくるキルスティン・ダンストさんの情緒不安定さ加減がね、悪夢のようで素晴らしかったです。 (←褒めてます。全力で褒めてます。)
躁鬱の切り替えといい、第2部での達観したようなジト目といい、彼女なしでは本作は成り立たなかったのではないでしょうか。
本当に見事でした。

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(※渾身のジト目)


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