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『白いリボン』感想  と、大人の影響力について。

2011年03月21日
白い

あらすじ・・・
第1次世界大戦前夜の北ドイツ。 迫り来る戦争の足音がまだ、人々の暮らしを脅かすには至っていなかった頃。
静かだった村は、ひとつの事件をきっかけに不穏な表情を顕にし始める。
まずは乗馬を楽しんでいたドクターが、何者かに仕掛けられた針金によって落馬。
そして、地主である男爵の納屋で、小作人の妻が転落死。
男爵の幼い息子の連れ去り事件に、男爵家の荘園を襲う不審火。
知的障害を持つ子どもにふるわれた無慈悲な暴力。
目の前で起こる全ての出来事に村人たちは目を瞑り、ひたすらに普段通りの生活を送ろうとするのですが・・・。


さすがは不愉快帝王ハネケ!と喝采を贈りたくなる程、悪意に満ち満ちた物語。
モノクロに仕上げられた美しい景色とは裏腹に、出て来る大人は全員嘘つきのエゴイストのロクデナシ揃い。
従順な子どもたちは、大人しそうな眼差しの奥に理解不能な翳を宿す。
悪戯か、はたまたれっきとした殺意か。 その動機は、その真意は。 何もわからないまま、上っ面だけ取り繕いながら暮らしは続く。
そして戦争の始まりが告げられる。狂気が正気とみなされる時代の到来が。

お っ か ね ぇ ー ! !

むき出しにされた悪意から身を守る盾は、さらに強固な悪意なのか。
大人は「悪い事をした」子どもを折檻し、子どもは自分よりもさらに弱いこどもに暴力をふるう。
罪を指摘された大人はその罪を認めず、他人を貶め、異性を侮蔑する。
そんな大人の姿から、こどもたちは無言のまま、何を学ぶのだろうか。

この映画に登場する村は、本当におっかない村です。
絶対に住みたくない。 もう一回言おう。 絶対に住みたくはない。
ただ、自己中で欺瞞に満ちた彼らの姿は、決して特別ではない、という事も事実。
第1次大戦前、つまり、100年くらい昔の話なのですが、ここで描かれている「悪意」は、今でもそのままそっくり現存している「ありふれた悪意」なのですよね。
他人の暮らしなんて知ったこっちゃない。 自分さえよければそれでいい。 臭いものには蓋をしろ。 出る杭は迷わず打て。 ひざまずけ。 命乞いをしろ。 小僧から石を取り戻せ。 

自分の暮らしを守りたい一心で突き進んでいるうちに、いつの間にか片脚を突っ込んでしまっているかもしれない深い穴。
人でなしになるには、大した経験も資格もいらないのだろうな、と。
不幸ゲージを振り切るような災いの数々を前にしても、平然と暮らし続ける登場人物の姿が、色々な出来事を「対岸の火事」と割り切る私たちの姿に重なり、冷え冷えとした気持ちになってしまいました。

本作で起こる事件の数々について、作中、誰が犯人だ、とはハッキリ言及されません。
「我が子に暴行した犯人がわかった!」と息巻いて町を飛び出していった母も、出て行ったきり、そのまま戻る事はありませんでした。
なんとなく、子ども達が怪しいような雰囲気が漂うのは、語り部が彼らの担任教師だから。
よそものである教師の目線で描かれるから、子どもは常に何かを隠しているような暗い目をして、大人はもっぱらモンスターペアレントであること徹する。
もしかしたら、犯人は大人なのかもしれない。
子どもが「何を考えているか判らない」ことは、「犯罪」の証明にはならないじゃないか。
描かれ過ぎない部分が憶測を誘う。
そうあって欲しくない、と願う気持ちが邪推を招く。
ハネケはそんな気持ちに先回りして、「ぼくは観客のみなさんを信じてるんすよ。敢えて描いていない部分も看破してくれるっしょ」と言い切ってくれています。
さすがはハネケ先生! 観る前からへこみますねコレね! (※理解出来なかったらどうしよう、理解出来なかったらすみません、生まれてきてすみません、等)

アガサ思うに、きっと、子どもたちが犯人なんだろうけれど、その罪は子どもだけもものではなく、大人のものでもあるんですよね。

子どもたちは、とても感度のいいアンテナを持っています。
大人たちの優しさも、希望も、良心も、嫉みも、悪意も、絶望も、どんな周波数で飛ばされた感情も、すべて拾ってしまう、すぐれたアンテナです。
「あいつの家は貧しいから汚い」という目で見ていると、子どももいつの間にか同じ目で見ているし、「都合の悪い事は隠しておけばいいんだ」という態度を取っていると、いつの間にか嘘や誤魔化しの上手な子どもになっている。
子どもたちが歪んでいる、というならば、一番歪んでいるのは大人の心なのではないでしょうか。

子どもに「いい子」になって欲しければ、腕や髪に白い「純潔」のリボンを巻きつけるのではなく、まず自らが、正しい態度をとらなければならないのではないでしょうか。
白いリボンを巻く大人の手が、欺瞞やエゴで真っ黒に汚れていては、何の意味もないのではないか。
「親」が、というよりも、「大人」が持つ影響力と責任の大きさを改めて感じさせられた作品でした。

大人が始めた戦争(争い)の火を、憎しみの種を、子どもに引き取らせるだなんて。
そんなバカげた事を、一体いつまで続けるというのか。
本作の舞台である1910年代からちっとも変わっていない。
もう、ずっとずっと昔から続けてきた事なんだから、いい加減気付いてもいい頃なんじゃないのかなぁ。




で、ちょっと話がズレるかもしれないのですが、「大人の影響力」つながりという事でもうひとつ。




改めて書くまでもないのですが、先日大きな震災で数え切れない程の方が被害に遭われました。
被災していない岡山の地で、ボケた頭で考える以上に、いや、遥か及ばない程に、現地の方々の悲しみや痛み、苦しみは計り知れないものがある事と思います。
一人でも多くの命が救われる事を、そして、一日も早く様々な物資が、援助が、被災地の皆様の手に届く事を、心から祈っております。
薄っぺらい言葉で申し訳ありません。 でも、ほんとうにほんとうに、どうか暖かい春が訪れますように。

あの日から、一体自分に何が出来るのか、どうすればいいのか、ずっと考えていました。
そして、義援金や救援物資以外に出来る事、しなきゃいけない事がある事に気付きました。
それは、子どもたちにこの想いを繋ぐ事。

まだ幼い子どもたちに、自分が直に体感しなかった揺れや災害の恐ろしさを理解させる事は難しいと思いますし、すべきではないのかもしれないと思います。 (子どものアンテナは底知れない不安も感じ取ってしまうからです)(我が家のちびっこは、私たちが見ていた災害のニュース映像から情緒不安定になってしまいました)(気をつけるべきだったと反省しています)
ただ、大きな災害が起こった事と、それによって沢山の方々が困難な状況にある事は伝えられるし、私たちに何が出来るかを教えてあげる事も出来る。

大人が買い占めたトイレットペーパーを物置に突っ込んでいれば、子どもも「そうするものなんだ」と思う。
募金箱にさりげなくお金を入れていれば、子どもも「そういうものなんだ」と思う。
困っている人の前を見て見ぬフリして通り過ぎていれば、子どもも「関係なければ放っておけばいいんだ」と思う。
困っている人に手を差し出していれば、子どもも「困っていたら助け合えばいいんだ」と思う。

親だから、親ではないからというのではなく、私たち大人がすべきなのは、デマを吹聴する事でも、身勝手に生きればいいんだと示す事でも、面白おかしく不安を煽る事でもない。
苦しんでいる人がいる時は、自分が出来る限りの事をするんだよ、と自分がお手本になって見せてあげる事なのではないでしょうか。

余りに大きい爪あとを残して行った今回の大災害。 街を作り直すには、10年、20年とかかる事でしょう。
今の幼い子どもたちが、大人になっても「助け合おう」と自然に思えるように、喉元を過ぎても熱さを忘れないように、ずっと言葉をかけ続けようと思います。
とりあえず、我が家では1年間、毎日寄付する事にしました。
ちびっこの手にお金を持たせて、レジ横や役所の窓口などの募金箱に入れさせています。
1円しか寄付出来ない事もあるし、1000円の事もある。
大切なのは、金額の多寡ではなく、続ける事なんだ、と。
1年経った時、子どもの心にどんな気持ちが生まれているかわかりません。
ただ、「助け合う」のは照れくさい事でもかっこつけな事でもない、当たり前な事なんだ、と思うようになって貰えれば、と。

どうせ与えるんなら、誰かの役に立つような影響を与えたいものですよね。

大人である自分に出来る事を、これからも出来る範囲でやって行こうと思います。


とても大切な記事・・・遠くにいる素人の個人でもできること - 深町秋生のベテラン日記 遠くにいる素人の個人でもできること - 深町秋生のベテラン日記




-余談-
って、「あたしんちは寄付とかばっちりやってんだかんね(金額的には全然ばっちりじゃないんだケド)」アピールをしてしまうトコロに、自分のおちょこさ加減を痛感してしまうのですが、自己満足でもいいと思うんだ。 赤十字社を通じて何処かの手助けになって、尚且つ自分も「何かをやってる」感に浸れるんなら、それでいいんじゃないかと思う。 売名でも、偽善でも、自己満足でも、それが誰かの役に立つんなら、大いに結構な事じゃないか。 ま、さすがに恥ずかしいので今後は粛々と「出来る事」をしますけどね! ホントすみません!

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