ブログパーツ

たとえば“すき”とか“きらい”とか。

2011年02月22日
毎年沢山の国で沢山の映画が作られて行く中で、なんだかとってもみんなの心に引っかかってしまう映画が生まれる事があります。

『告白』のように。

先月、すわアマデミー賞外国語部門ノミネート?!とマスコミがぬか喜びしたり、日本アカデミー賞で作品賞を獲ったことから、収まっていた“告白・論争”が再び盛り上がった・・・と言っていいのか自信はないのですが、というか、極めて局地的な現象だったのかもしれませんが、まぁともかく、最近アガサの周りでは『告白』に対する様々な思いが渦巻いておりました。

で、アガサは『告白』、すきです。
以前に書いた感想では、とにかくたか子を絶賛しまくっていたような覚えがありますが、それ以外にも、ミラー越しの歪んだ画や、無邪気に水溜りにダイブする女子高生や、唐突もなく挟み込まれるダンスシーンの狂った感じや、必要以上に薄っぺらい殺害シーンといった、悪意のある画が頭に焼き付いてうずまいて、観終ったアガサの胸にいや~な一撃を残して行ったのですよね。 「やばいものを観た!」と叫びたくなった。
ゆえに、すきです。
一方、『告白』のことがキライでキライでしょうがない、という方も数多くいらっしゃるようで、そういう方がよく口にされていたのが

「『告白』は映画じゃない」

というひとことで。

アガサには、これがどうにもよくわからなくてですね。
いや、映画じゃん、と。
起承転結があって、あくどい画があって、すさまじい演技があるのに・・・ え、これ映画なんじゃないの? と。
先日、そんなもやもやを感じながらtwitterを眺めていたトコロ、ismuubiiさんkatokitiさんsamurai_kung_fuさんがまさにその“ここがへんだよ『告白』は!”話をされておりまして。
samurai_kung_fuさんが、『告白』における演出のヘンテコな点を細かく解説して下さっていて、目から鱗がボトトトーッ!!と零れ落ちてしまったのでした。
コレ、本当に物凄くおもしろい内容ですので、興味がある方は是非samurai_kung_fuさんのツイートをご覧になってみて下さい。(こともあろうに丸投げ)

お恥ずかしい事に、アガサは映画の文法、というか、演出法や読み解き方をろくすっぽ知りません。
“イマジナリーライン”の意味も、昨日初めて知りました。 恥ずかしついでに告白すると、“フラッシュバック”とか“マクガフィン”の意味もいまひとつよくわかりません。 フラッシュバックってアレだっけ?画面がちゃかちゃか切り替わるって意味だっけ? マクガフィンは、意表をついて焼き菓子の一種なんだと思うよ。端っこがカリっとしていておいしそうなやつ。たぶん茶色。

とまぁ、そのような状態なので、映画に出てくるサインを、自分のわかりやすいように解釈してしまって、本来こめられた意味と別のモノに勘違いしてしまうことって、今までにもすごく沢山あったんだろうと思います。
そういう時、細部を解説してくださる方々の存在はすごくありがくて、目から鱗が落ちた時の快感もこたえられないものがあるのですよね。
『告白』に関しても、samurai_kung_fuさんのお陰で引っかかっていた「映画じゃない」という部分がすとんと落ちたような気がします。
なるほど、たしかに観る人が観たら、この作品は悶絶してしまうような居心地の悪さがあるのかもしれませんね。 「なにやっとんじゃー」と。
本当に感謝の気持ちでいっぱいです。 あと、純粋に憧れます。 samurai_kung_fuさんのように映画を読み解けたら、2度、3度と映画を楽しむ事が出来ると思う。 ようし!オレももっと向上心を持つぞ! 目指せマクガフィン王! (←たぶん使い方ちがう)

で、ここからが本題なのですが。 (↑脅威の長文前フリ)

すきな映画のことはもっともっと知りたい、シーンのひとつひとつに込められた意味を知りたい、と思うものでしょうし、そういう鑑賞の仕方も楽しいと思うのですが、やはり、なんだかんだ言って、最初に映画を観た時の素直な印象が一番なんだとも思うのですよね。

目でとらえた映像の数々、耳に飛び込んできた言葉や音の数々、噛み砕けないまま見過ごしてしまったシーンの数々、それらから受けた感覚を信用したい。
何度も観返して発見した、新たな解釈や別の感想は、それはそれで大切だけど、「うわ!なんだこれさいてい!」と思ったり、「うひょー!さいこうじゃん!!」と思ったりしたその気持ちを、出来れば大事にしていきたい。

で、そんな風に思っている人同士がぶつかると、予想以上に話がややこしくなってしまう事が多々あるのですよね。

自分とは違う解釈や、違う感想って、先程書いた“新たな発見”に繋がる、とても貴重なヒントになると思うのですが、中にはそれを頑なに拒もうとする人もいる。
「わたしはこれがすき」 「わたしはこれはきらい」 「ここがこんなふうにおもしろいとおもったんだ」 「なるほどーそういうみかたもあるか」
とはならないんですよね。
「わたしはこれがすき」 「なんで?ぜんぜんおもしろくないじゃん」 「ここがこんなふうにおもしろいとおもったんだ」 「はあ?みるとこちがうでしょなんでそこがおもしろいとかいえるのばかじゃね」
となることのなんと多い事か。

いや、もちろん、そんな人ばかりじゃないんですよ。ごくごく一部の人なんだと思うのですよ。でも、確実に存在するのですよね、悲しい事に。

映画の感想を交わしあう事って、本当に有意義な事なのですよね。
ただ、いくら交し合っても、わたしの“すき”があなたの“きらい”にはならない様な気もします。だって、わたしは“すき”と感じてしまったから。 あなたの“きらい”に同調出来るし、そういう見方もあったか、と感嘆するけれど、そういうトコロも含めてこの映画のことが“すき”なんだよなぁ。と。

それでいいのだと思うのですよ。
無理に相手に合わせる必要もないし、無理に相手を説得する必要もない。
同じ「突如クラスで歌い踊るシーン」を観ても、“なんの必要性も連続性もない不快なシーン”と感じる人もいれば、“クラスの内情と上っ面が激しくバラバラになっているのが感じられる狂ったシーン”と感じる人もいる。
100人いれば100通りの受け取り方があって、100通りの“すき”や“きらい”がある。
それでいいじゃないですか。 
それが当たり前じゃないですか。

しかし、当たり前、で済ますのがどうしてもイヤな人がいる。
あなたは、“すき”な作品を守りたいのですか?
“すき”と思った自分を守りたいのですか?
“きらい”と思った作品を抹殺してしまいたいのですか?
もしくは“きらい”と思った自分の正しさを証明したいのですか?

勝ちたいのか、負けたくないのか、そもそも映画ってなんなのか判らなくなる程の“じぶん”をぶつけてくる人を目にすると、ほとほと疲れ果ててしまいます。

映画に“こうあるべき”なんて無いと思いますよ。
映画の解釈に“正解”なんて無いと思いますよ。 (異論がある方は多いでしょうが、アガサはそう思います)

“すき”でも“きらい”でもいいじゃないですか。 
そして、気に入らなかったら、ちょっと話をしてみればいいじゃないですか。
最初から「ぜったい賛同なんてしない!」みたいに構えずに、気になったトコロを交換してみればいいじゃないですか。 べつに、それを支持する必要なんてないのですから。
もしもそれで目から鱗が落ちたら儲けモノ、くらいなノリで。
話さえも聞きたくないのなら、聞かなければいいだけで。
意見なんて知りたくない! 話なんて聞きたくない! 聞いてもちゃんちゃらおかしいだけ!
というのなら、「まぁ、色んな見方があるよね」でさようならすればいいじゃないですか。

なのに、中には「これをすきだなんて信じられない!」からさらにジャンプアップして「これをすきだなんて言うやつは全員バカだ!ゴミクズだ!」という遥か彼方の罵倒星雲まで飛んでいってしまう人もいるのですよね。 もうそれ、ただの悪口じゃん。 なにがきみをそこまでたぎらせたというのか。
たまたまこういう人に巡り合ってしまった事で、映画自体をきらいになってしまう人がいたとしたら、そんな悲しいことはないですよね。


世界中の映画館で日々生まれる、沢山の“すき”や“きらい”を素直に受け入れて、自分とは違う視点や感覚に触れることで、映画はもっともっとおもしろくなると思います。
そうなる可能性を持っているのが、映画の魅力だとも思います。
肩肘はらず、もっと気楽に。

そしてもっと、みんなで映画を楽しみましょうよ!
じゃなきゃもったいないですよ!

     ♪♪どちらのバナーでもどうぞご遠慮なく♪♪ →   にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ


※当ブログで使用しているイラスト等の著作権は、全てはアガサにありますので、転載、二次加工、再配布の際は一言ご連絡下さいませ。