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12月28日。

2011年01月07日
10年間一緒に暮らしていたお義母さんが亡くなって、もう1年が経った。
四十九日法要、百か日法要、初盆、お彼岸、そして1周忌、と、バタバタと過ごしているうちに過ぎた1年だった。
そして、食器を並べる時、“空いたままの席”の広さの、その途方も無さに、胸をなんども締め付けられた1年だった。

長く呼吸器系の病気を患っていたお義母さんは、以前から自分の将来についての明確なビジョンを持っていたそうで、「延命治療はするな」というのも、そのひとつだった。
もともと、“子どもの世話になんかならないぞ”というきりりとした意思を持っていたお義母さんは、世帯主さまになんどもそう言っていたらしい。
「延命治療なんてするな」と。

“世話にはならないぞ”と思っていたお義母さんだったが、その病気のせいで、私たちと別々に暮らすという選択肢を選ぶ事は出来なかった。
決して愛想も態度もよくない嫁(わたし)に対し、時々義母は毒を吐き、時々私も吐き返した。
今思えば、なぜもっとやさしく受け止められなかったのだろう、と、激しく後悔せずにはいられない。
自分で好きな買い物にも行けない、好きな温泉にも行けない、美味しいモノを食べに行く事も出来ない義母が、どれだけストレスを抱えていたことか。
ぶつけていたキツい言葉は、私に向けていたのではなく、ままならない自分自身の人生に向けて投げつけていたのだろうに。
一緒に暮らしていた間、ひとつでもお義母さんの願いを叶えてあげられたのだろうか。
今でもわからないし、自信もない。

1年とちょっと前の秋、そのお義母さんが入院した。
既に体はボロボロで、主治医の先生からも「ガンにたとえるとするならば、末期の状態です」と宣告されていた。
施してあげられる治療もなく、肺の炎症を抑える為の点滴くらいしか出来ない状態。
世帯主さまの頭には、「延命治療はするな」というお義母さんの言葉が浮かんでいた。

もう、治してあげることは出来ない。
今出来るのは、少しでも長く生きる事を続けさせてあげること。ただそれだけ。
それはつまり、“延命”ということなのか。

点滴も終わり、主治医がいる病院にはもうこれ以上は置いてあげられない、ということになり、お義母さんは別の病院に移されることになった。
家に連れて帰れるような状態ではない。 かと言って、治療行為も出来ない、という状態のお義母さんを受け入れてくれる病院はなかなか見つからず、やっと決まった病院は築60年弱の超年季物。
すきま風や、隣の部屋から聞こえるうめき声だけではなく、夜になったらゲートルを穿いた兵隊さんの幽霊がそぞろ歩くのではないか、という恐怖までもが常につきまとう様な、とてもうら寂しい建物だったが、私たちに選択肢はなかった。
ともかく、お義母さんは古い“新しい病院”に移された。
そして、そこの医師から世帯主さまに告げられたのは、「気管を切開して呼吸器をつけますか?」という言葉だった。

それをすれば、もう声を発することは出来なくなる。
機械によって生かされるだけの存在になってしまう。
少しでも酸素を送り込んであげる為の処置。 少しでも長く生きる為の。
これもまた、“延命”だ。 しかも、きっとお義母さんが一番望んでいない“延命”だ。
悩んだ末、世帯主さまは「いいえ」と答えた。


静かに息をたてて眠るお義母さん。
誤飲の危険性がある、ということで、食事が止められた。 
水も飲ませてはいけない。
かすかに、口を湿らす程度のみ。
大好物だから、と持って行った蜜柑は、看護士さんに取り上げられた。
他にも、枕元に沢山積み重ねていたクッキーの箱や、チョコレイトの包み、ヨーグルトも何もかも、一切食べさせてあげることが出来なかった。

世帯主さまは泣いていた。

お義母さんの体は、もともと細くなっていた体は、ますますしぼんでいき、会話もままならなくなり、呼吸もどんどん弱くなっていく。
もう、食べさせてあげよう、と思った。
お義母さんをここまで頑張らせて、すきなものも全部取り上げて、もう、充分じゃないか。充分すぎるほど、闘ったじゃないか。 蜜柑をこっそり一房口に運んであげるくらい、もういいじゃないか。

世帯主さまは泣いていた。 私も一緒に泣いた。

お義母さんが急変したのは、それからほとんど日が経っていないある日の午後だった。
とても、とても寒い日だった。
数時間付き添った後、一旦子どもを実家に預けに行き、それから再び病院に戻ってお義母さんの傍に居た。
居る事しか、出来なかった。

それは、“穏やかな死”などと言えるような最期ではなく、“壮絶な死”だったと思う。
呼吸が困難になったお義母さんは、一晩中苦しみ苦しみぬいた。
いや、実はお義母さんはもう、10年以上も苦しみ続けてきたのかもしれない。
病気を患ってから一つずつ階段を踏みしめるように、自由を奪われ、ストレスに押し潰され、苦しみに耐えてきた10数年間。
その最後になってもまだ、苦しみは減ること無く、お義母さんを責め続ける。

何度も何度も「くるしい・・」と、力を振り絞って声を吐くお義母さん。
涙をこぼし、イヤイヤと首を駄々っ子のように振り、「もう・・もう・・・・」とこぼした。
「もう、楽なりたい」。 
そう言いたかったのかもしれない。
そんなお義母さんの手を握り、一緒に泣くことしか出来なかった世帯主さまと私。
何も出来ない。 何もしてあげられない。 
ただ一緒に、苦しみをひとつも残さず一緒に受け止め、闘う姿を全て目に焼き付けることしか出来ない。


明け方近く、息を引き取った瞬間、お義母さんの顔が物凄く穏やかになって、本当に、今まで見た事がないくらい穏やかになって、また私たちは泣いた。 
「楽になれたんだね、よかったね」と言って泣いた。 
「何も出来なくてごめんね」と言って泣いた。


あれから何度も、世帯主さまは考えたことだろうと思う。
本当にあれでよかったのか、と。
もしもあの時気管切開をしていたら、もしかしたら、もう1年でもお義母さんは生きていれたかもしれない。
自分の決断が、母親の人生を終わらせてしまったのではないか、そう思って苦しんだことも、少なくないのではないだろうか。

でも、一生続く自問自答と引き換えに、「延命治療はするな」というお義母さんの願いを叶えてあげる事が出来た。
多くの願いを叶えてあげる事は出来なかったけれど、最後の願いだけは叶えてあげる事が出来たのだ。
その事に関してはきっと、お義母さんも喜んでくれているのではないだろうか。

自分の子どもに苦しみを与えたがる親なんていない。
お義母さんもきっと、本当は息子に“人生の決断”の代行なんて、させたくなかったのだろうだと思う。
その決断の代償がけっして軽いものではないと、わかっていただろうから。
だからきっと、あの時「いいえ」と答えた世帯主さまに、「ありがとう」、と思ってくれている。
私はそう思う。
そして私も、お義母さんに「ありがとう」と伝えたい。
きちんとした意志を示しておいてくれて、残された者のことを気遣ってくれて、ほんとうにありがとう。


人生というものは、大番狂わせがない限り、歳が大きいものから順番に終わって行く。
だから、私もまた、少しでも子どもに苦しい思いをさせないように、彼女達が物事を理解出来る歳になったら、私の意志をきちんと告げておこうと思う。
脳死のことについても。  延命治療のことについても。
「命を終わらせてしまった」なんていう苦しみを、少しでも感じずに済むように。
 
どんな終わり方であろうと、家族が亡くなるのは耐え難いほど悲しいものだ。
たとえ最期の願いを伝えておこうとおくまいと、残された家族には様々な感情が圧し掛かってくる。
願わくば、喪った人を思い出した時、彼らが少しでも多く笑っていられますように。
今できること、今残してあげられることを、忘れずに生きようと思う。



追記・数え間違っていたので訂正しました。(9→10年)
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