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その黒は絶望の色。「黒の女王」読感

2010年12月21日
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あらすじ・・・
自らが果たせなかった“オリンピックで金メダル”という夢を、幼い一人娘に託した父親。
が、しかし、その夢は娘にとってあまりに大きく、重い枷となって、彼女の心を蝕んで行く。
金メダルをとる。 世界一強くなる。 その事に囚われて暴走する父親と、狂気にとり憑かれた娘。
その背中に、絶望の女王の黒い影が浮かぶ・・・。



超人気ブログ・俺の邪悪なメモの管理人である罪山罰太郎さんが、物語の前半(1~4話まで)をWEBで、後半(5~8話)を含めた完全版を書籍で、という面白い形で発表された猛毒漫画「黒の女王」を拝読させて頂きました。
「邪悪なメモ」という物騒な名前にも関わらず、非常に真面目な記事を沢山書いていらっしゃる(中にはとんでもないへんたい記事もありますが)罪山さんの作品、ということで、勝手に「きっと最後は胸にグっとくるオチが待ち受けているに違いない」と思い込んでいたアガサ。
WEBで公開されていた前半部分に、ちょっと自分の中で受け入れられない描写(※)があったりしたものの、ストーリー自体に興味を惹かれていましたので、迷う事無く書籍版を購入するに至ったのですが、読み終わった瞬間、あまりの救いのなさに「woo・・・」と声が漏れてしまいました。


巻末に載せられた罪山さんのあとがきによると、本作の構想は「子どもを授かったことをきっかけに生まれた」とのこと。
親が子どもに対して持つ力、その力に対する不安、みたいなモノから、本作のエゴ丸出しなモンスターオヤジは生まれたのかもしれません。

不安。  
たしかに、子どもを授かった瞬間から、親の心の中には“一生一緒にいてくれや”とばかりに不安がどっかりと腰を下ろしてしまうような気がします。

ニュースでよく見る「うちの子にかぎって・・」という決まり文句に「そんな訳ないでしょ、親なんだから兆候くらい気付くでしょ」と言い放っていた自分が、同じように「親なんだから」と言われる立場に立ってしまったんだという不安。
自分が正しいと思って教えた事は、本当に子どもの将来にプラスになるのか? 
自分が何気なく発した一言は、子どもにどれだけの影響を与えてしまうのか?
もがけばもがくほど沈んで行く不安の底なし沼。
ヤだよ。 あっちいけよ。 自分が“正しい”と信じるやり方で子育て頑張るから、“不安”とかもうあっち行っちゃえよ。
いくらそんな風に強がって追い出そうとしても、一向に消えないどころか卑屈な笑みを浮かべてこちらを見ている“不安”。 
「ほほう、そんな風にキーキー怒っちゃうの? 真似して子どもが周りに当り散らすようにならないのかね?」「あ、今こどもの話を「忙しいから後で」って無下に中断させたね?いいのかなー?心が寂しい子どもになっちゃってもいいのかなー?」と、何かにつけて自分自身を落っことそう落っことそうとする“不安”。

周りから全く影響を受けずに大人になる人など存在し得ない。
誰だって、何かを見聞きすることで、自分だけの価値観や目的を持つようになる。 そして、そこに至るまでで一番大きな影響力を持つのは、一番ちいさな頃から一番身近にいる大人。
その力の圧倒的な大きさに気付くからこそ、子を授かった人は不安になる。

でもね、それでいいんだと思うのですよ。 不安なままでいい。 常に暗中模索しながら子育てすればいい。
“不安”とお別れできないというコトは、「こうすれば絶対IQ180の天才児になりまっせ!」「アレとコレとソレを食べさせてればアレルギーも病気も絶対治りまっせ!」みたいに垂れ流されてくる戯言が、嘘っぱちだと見抜いているというコトだから。
あと、根拠のない自信に支えられた歪んだ価値観を、まっさらな子どもに押し付けるような事もないってコトだから。

本作のもう一人の主役とも言える、ガイキチな父親は、まさにこの“歪んだ価値観”の塊のような人間だった為、娘の光ちゃんもどんどん狂った世界に脚をつっこんでしまうコトになってしまいます。
強ければいい。 弱い者は淘汰される世の中だから、とにかく強くさえあればいい。
光ちゃん自身の意思など、車のヘッドライトに張り付いた虫の残骸くらい取るに足らないものとして見捨てられる、絶望の世界。
そして、光ちゃんは、その世界で死なず、ひたすら生き残る為に、自分の中の“黒の女王”を呼び出す。
無情に力を揮うことが出来る女王を。 絶望の中でも生きてゆける女王を。

こんな哀しい親子関係があってもいいのだろうか。 子を守るのが親の役目なのに。逆に子を地獄に叩き落すだなんて。
WEBで先に公開されていた前半部分でも、この光ちゃんの地獄行脚の模様は克明に描かれており、かなりイヤな後味を与えてくれていたのですが、なんとか後半部分で父親に対する報復攻撃がなされるものと思い込んで堪えていました。
悪い親父がギッタンギッタンにやられるトコロを見れば、きっと溜飲が下がるはずだ。
悪をもって悪を制してもなんの解決にもならない事はわかっているけれど、とりあえずこの胸のモヤモヤは晴れるだろう、と祈るような気持ちで読み進めていました。
ところがクライマックスに待ち受けているのは、予想の斜め上をゆく壮絶な結末だったのです。
そこには一片の爽快感もない。 
底なしの狂気と果てしない絶望。

そして実は、本作は親子関係からさらに深く進んで、人間という存在そのものにまで踏み込んできてしまいます。
“自由”を人は欲しがるけれど、その“自由”の先にあるものってなんなのだろう。
“何ものにも縛られず、思い通りに生きたい”ということは、「欲しいものを全て手に入れること」なのか?「行きたい場所にいつでも行けること」なのか?「食べたいものを何でも食べること」なのか?「ヤりたい時に誰とでもヤること」なのか?
“自由”を手に入れる事を願ってはいるけれど、いざ手に入れたトコロで結局人はみな、その先にある“欲”に飼われているだけなんじゃないか。

そんな、底なしの絶望を見せつける本作のクライマックスは、ほんとにもうどうしようもなく救いがなく、まぁね、それはそうなのかもしれないけれど、いや実際のトコロそうなのかもしれないけれど、それはホラ、欲というよりかは本能というか生きる原動力というかなんというかかんというかうわああんなんかヤダようヤダようそんなんじゃないんだよう!!!って叫びだしたくなるようなモヤモヤに満ちています。

でも本作のこれは、決して厭世観丸出しな意味で締めくくられているのではないと思うのですよね。
欲を持つこと自体は決して“悪”ではないと思いますし、生きる希望に繋がるコトも多い。
肝心なのは、欲に支配されちゃいけないんだよ、というコトなんじゃないかと。
“自由”というのは、心の中の状態を指すんだと思うから。
本作が示すラストに、真っ向から「そんなことないから!」と言えるよう、自由であろう。自由である為に闘おう、世の中のあれやこれやと。 そう語りかけられているような気がしてなりませんでした。 

ま、と言っても後味が抜群に悪いことには間違いないのですけどね。  


あと、本作の父娘の姿は極端な例ですが、こういう“狂った親子関係”というのは、実際に存在するのですよね。
“狂った”までは行かないにしても、もしかしたら親自身も気付かないうちに、よかれと思っているままに子どもの人生を誘導してしまったり決め付けてしまったりしている事って、そこいらじゅうにあると思うのですよ。
だからちょっとね、読み終わった直後は言葉が出ませんでした。
見たくないものを見せ付けられて、苦虫を噛み潰しながらせいぜい「woo・・・」って言うしかありませんでした。  
邪悪! この本、邪悪!!

大人が子どもに与える影響は、命が続いて行く限り永遠に途切れない。 
多かれ少なかれ、姿かたちを変え受け継がれて行く。
だから、不安なままでいいから、子どもと真剣に向き合って、間違ったことを言ってしまったと感じたら素直に謝って、一緒に成長してゆきたいものですね。
教育も恋愛も、あんまり押し付けてばっかだと嫌われちゃうゾ!テヘ!!(←いきおいでなんとかまとめようとした例)(←どうやら失敗)

しつこいようですが、読後の気分は決して爽快ではありませんし、過激な描写も少なくありません。
とんでもない毒をはらんだ作品なのではないかと思います。
なので、全力でおすすめはしません。(あと、我が家では子どもの目の届かない場所にしまってあります)
ただ、アガサは読んでよかったと思っています。
「隣の家の少女」(※2)も読んでよかったと思うし、「ベニーズ・ビデオ」も観てよかったと思う。そして、「黒の女王」も読んでよかった。


罪山さんの次回作が、非常に楽しみです。



(※)第2話に登場する、小学生時代の光ちゃんの性的体験シーン。とにかくアガサには受け付けられませんでした。娘を持つ親だからとかそういうのとは関係なく、昔から苦手なのです。  ま、自分自身はどうだったのかというと、バッチリ小学生低学年の頃にはエロいコト考え始めていたんですけどね!しょうがないさ、にんげんだもの!


(※2)「隣の家の少女」と「ベニーズ・ビデオ」と「黒の女王」が同じ話だとかそういう意味ではありません。念の為。)



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