ブログパーツ

「ラブリー・ボーン」 今、そこにある天国。(読感)

2010年02月27日
ええと、映画の方はいまひとつ乗り切れなかったのですが、いちおう比較と好奇心と出来心の為に原作も読んでみました。


ラブリー
【アリス・シーボルト さく、 イシイシノブ やく 】


一気に読みきってしまいましたよ!
なんだこりゃ。すごい読みやすいじゃないか。遠足のお供にぴったりですね!(アガサは今回の旅行中に読みました)
ただしかし、内容はちっとも遠足気分にマッチしませんが。


くわしいあらすじは映画の感想で。


まず、原作と構成が全く違っていてビックリしました。
映画をがっつりと盛り上げていたサスペンス要素は完全に鳴りを潜め、ひたすら淡々と綴られていくのは、現世の人々を見守るヒロイン・スージーの心模様。
ほとんど動揺する事もなく、まさしく第三者の視線で描かれる、スージーの死後の世界。
映画版では効果的に挟み込まれていた事件の数々(ボトルシップ割り、ハーヴェイとスージー父のテント作り、トウモロコシ畑での死闘など)も、かなり早い段階でサラリと語られていましたので、改めて映画版のまとめ方の上手さを痛感しました。

それから、酷い犯罪を行う中年男・ハーヴェイの印象も随分違っていました。
映画版では「異常性と正常性の間で若干の戸惑いも感じている中年男」という感じだったのですが、原作では完璧な異常者なのですよね。
生い立ちも少しだけ描かれているのですが、その不幸さ加減もかすむ程の異常っぷりです。
常に、か弱い女の子の甘美な味を求め、胸の内で舌なめずりをしているような、おぞましい変態男。それが原作でのハーヴェイ。
これはヤだなぁ。 トゥッチさんくらいの程よい変態の方が、身近に感じられていい。(変態が身近という言い方もヘンですが)


そして、一番違っていたのは、スージーの母・アビゲイルについて。
映画の中で、いきなり心の旅に出掛けてしまっていたアビゲイルに対し、かなりの違和感を覚えてしまったアガサなのですが、原作ではこのアビゲイルの人となりが、かなり鮮明に、痛々しいほどにリアルな感情で以って描かれていました。

映画版の冒頭でも、スージーの妊娠を知ったアビゲイルが、育児本を読み漁るシーンが映しこまれており、アガサはそれを観て、“アビゲイルという女性は何でも完璧さを求めてしまう人なんだろうなぁ”と思っていたのですが、実はアビゲイルは元々とても学のある女性だったのですね。

英語の修士号を持っていて、ゆくゆくは教師になる事も考えていた。
自分の力を知っていた女性。
自分の力を信じていた女性。

しかし、スージーとリンジーという年子の姉妹を育て上げながら、自分の力を再び解放する日を楽しみにしていた女性のもとに突然訪れたのは、新たな命の芽生えだったのです。

アビゲイルはきっと、目の前に「試合終了」と書かれた横断幕が垂れ下がったような気持ちになった事でしょうね。
そして、気持ちを無理やり切り替えて、ジェイムズ・ジョイスの分厚い本を育児書に持ち替えた。
あの育児書は、夢と希望と理想に包まれていたのではなかったのです。
後悔と、諦観と、少しばかりの失望に包まれていたのです。


そんなアビゲイルが、まだ純粋に誕生を願って、祝福して、人生の輝かしいスタートと思えていた頃生まれた第一子のスージーが、ある日突然この世から消えてしまった。
ほんの一部分を覗いて、体の大部分は見つからない。
「死んだ」と断定されているけれど、ハッキリとした確証もない。
ただとにかく、二度と戻ってこない。
このスージーの理不尽な消失によって、アビゲイルは自分の人生そのものを全否定された様な気持ちになったのではないでしょうか。
言い方は不謹慎ですが、もしこれが3番目に想定外に出来てしまった末息子だったなら、アビゲイルはここまで壊れてしまわなかったのではないか、と思います。
自分の人生をコントロールしてきた女性が、その操縦桿を無遠慮な第三者によって奪われてしまった時、その人生は果たしてどうなってしまうのか。
勿論、そこに待っているのは、見るも無残な迷走飛行でしょう。

その後のアビゲイルがとった行動は、全く以って感心できた行いではありません。

ひたすらに真犯人探しにのめり込む夫や、心に蓋をして挑戦的な態度をとる次女に囲まれ、母性を繋ぎ止めて置くことが出来なかったのも想像に容易い。
何か、どこか、自分でいられる所が欲しくて、いいとか悪いとかそういうのも全部関係なく、どぼーんと飛び込んでしまいたくなったのだと思う。きっと。

しかし、だからといって、大怪我をした夫が眠る病院の物陰で、別の男性に身を委ねるのはホント如何なものかと。
わかった、と。
百歩譲って現実逃避したくなるのはいいとしよう、ただ、別の場所でやれよ、と。
自分がされていやな事は、人にもしちゃダメって先生に言われませんでしたか、と。

なんや、もしかして例のあれ系か! 魔性のおんな系なのか!! 

怖いのう! 魔性のおんなはまっこと怖いのう!!



そして、映画ではかなり早めだったアビゲイルの遁走そのものも、原作ではかなり遅めとなっております。
つまり、残された家族を襲う、様々な事柄が全て終わった後での遁走。
驚くべきことに、勇敢な妹が、恐ろしい犯人の家から証拠品を盗んで帰った時も、アビゲイルはその紙を見ようともしないのです。
もうこの時点で、アビゲイルの心はサーモン家からの離脱を始めていたのかもしれませんね。
なんという哀しい女。


ごくごく幸せに生きていた一家を突如襲う不幸な出来事に対し、誰もが誰も、一致団結して立ち向かっていける訳では無いと思います。
子はかすがいと言いますが、苦難はかすがいにならない場合も多々あるのです。
ですから、アビゲイルのような反応をしてしまう人を責める事は出来ませんし、彼女には彼女なりの傷の癒し方、人生の立ち直し方があるのだとは思います。

でも、出来ればその時、怒りを感じて欲しかった。
同じ母として、女性として、守るものを持つ親として、アビゲイルにたぎるような怒りを感じて欲しかった。
その怒りを燃料に、操縦桿を無くしてもなお飛び続けて欲しかったのです。
だってまだ、彼女には大切な子供が2人も残っていたのだから。



それと、アガサが映画を観て感じていた違和感の正体を、原作を読んでいて見つけたような気がしたのですが、それがこの一文。

「私の死が生み出した出来事の数々はただ単にいくつかの骨だったのかもしれない。 それはいつの日か、いつかは全く予想ができないけれど、完全な身体になっていくのかもしれない。 そんな奇跡のような身体になって、わたしは何かを理解する。そのために支払った対価がわたしの命だったということだったのだろう
(「ラブリー・ボーン」より。 太字はアガサによる強調)

言いたい事はわかるけど、そのために支払った対価ってトコだけは納得いかねえな!
命が喪われてしまってから、それをなんとか乗り越えて、結果その先に奇跡のような骨の集合体(改めて結ばれた新たな家族の形)が完成するんでしょ。
なんかこれだと、「殺されちゃうけど、崇高な魂になる為の過程だから気にすんなよ」みたいに感じてしまうんだけど。(※かなり意訳だという事はわかってますよ)
だいたい、「死を恐れるな」みたいな事が言いたいのはわかるけど、だからって何も悪いことしてない14歳の女の子が変態に嬲り殺しにされるいわれはないと思う。
気にするよ! その死に方だと気にしちゃうって!絶対!!

こういうやけに清清しいところ、前向きなところが、アガサの肌に合わないんですよね。
まぁ、こういう考え方もあるんだなぁ、という事で。


他にも、“天国”の描き方もかなり映画とは違っていたのですが、“文字”と“映像”という異なる表現方法の差をよく感じる事が出来て、とても面白かったです。
原作ではほとんど現世と変わらなかったりもするんですよね。
あと、映画の中で異質だった「アイドル雑誌の表紙を飾るシーン」が、原作にもあるシーンだったり・・・。意外!

人にはみんなそれぞれ違う“天国”があるという点では同じなのですけどね。


そうだなぁ。
私だったら、どんな天国を願うだろうか。


あったかくて、
パソコンが使えて、
映画が観られて、
ゾンビや切株の話が出来るお友達がいて、
かわいい子供たちや家族がいて、
ときどき涙がでたり、
でも笑顔でいられるような場所。


そうか。

今いるここが、わたしにとって天国なのかもしれないな。


と言う訳で、みなさんも、いつまでも末永く、お幸せに。


     ♪♪どちらのバナーでもどうぞご遠慮なく♪♪ →   にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ


※当ブログで使用しているイラスト等の著作権は、全てはアガサにありますので、転載、二次加工、再配布の際は一言ご連絡下さいませ。