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『ラブリーボーン』

2010年02月06日
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ちょう前向き。


あらすじ・・・
無限の可能性と輝ける未来が待ち受けているはずだったスージー・サーモンはある日、学校の帰りに殺された。
まだ14歳だった。

捕まらない犯人と、見つからない遺体。
深い哀しみと怒りから抜け出せず、残された家族の心はバラバラに離れていった。
そしてその様子を、スージーは別の場所から見つめていたのだった。
“天国”と“この世”の間の場所で。


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絶対に起きて貰っては困るし、想像するのもおぞましいのだけれど、娘を持つ親となったからには考えずにはいられない事がある。

もしも娘が、どこかの変態に狙われたら。
もしも娘が、その変態に殺されてしまったら。

世帯主さまとも、痛ましいニュースを見ながら、そういう話になったことがあり、その時の会話は
「もしそうなったら、どちらが復讐をするか」
で揉めに揉め、最終的には
「父が復讐し、母が残った家族を守る」
というところに落ち着いたと記憶している。
もちろん、犯人がわかっている、という大前提だけれど。
そして出来れば、私の方が復讐をしたいのだけれど。

復讐はさておき、“もしも”のあとに確実に待ち受けているのは、出口の無い絶望なのではないかと思う。
愛する我が子を理不尽に喪ってしまったら。
果たして私たちに、再び明るく笑える日は来るのだろうか。
どこに目を向けても、その風景に我が子の姿は無い。
常に、「いるはずの我が子が居ない」という現実を突きつけられながら暮らす毎日とは、どんな地獄よりも耐え難いのではないだろうか。
もしも、なんとか“年月”に背中を押され、再び前に歩き始めたとしても、我が子の苦しみややるせなさを思うと、その度に歩くのを躊躇してしまうのではないだろうか。
愛するあの子は、もう二度と、太陽の下で誇らしげに笑う事が出来ないというのに、守ってやれなかった自分に楽しく笑う権利などあるのだろうか。

ただ単に私の想像力がノンストップすぎるとか、もともとの性格が暗すぎるとか、そういう理由はともかく、我が子を喪ってしまった家族のその後の人生とは、きっと罪悪感(自責の念)や後悔や哀しみや、様々な負の感情との闘いなのではないかと思う。

そして、この映画は、そんな家族に対して
「だいじょうぶだから、笑って」
と温かく声をかけるような、とても前向きな映画だったのでした。


ほんともうね、前向き。
前向きすぎて気持ち悪いくらい、前向き。


確かに、「復讐」は虚しい行為だと思います。
例えどんなにむごい事をされようと、もしその相手に同じ事を仕返したら、自分も同じ下衆野郎になってしまう。
そしてその仕返しは、新たな仕返しを生み、またその仕返しが新たな仕返しを。
だから「復讐」は正しくないのかもしれません。
それより、「死」の哀しみに崩れ落ちてもまた立ち上がり、新たな喜びを見つける努力をした方がいい。
きっと、天国のあの人も、そう願っている筈。


ピーター・ジャクソンは、切り取り方によってはいくらでも陰惨&ドラマティックになり得た物語(14歳の少女が変態に殺され、残った家族が犯人を捜す)を、あえて穏やかに描いています。
原作は読んでいないのですが、きっと、バカ売れしたというその小説も、「死」よりも「生」、「破壊」よりも「再生」がメインなのでしょうね。

ただ、言いたいことはわかるのですが、どうしても私はこの物語には納得できません。
「再生」の前に「キッチリとした報復」を求めてしまう私には、到底納得できなかったのです。
予想だにしなかった悲劇に見舞われた人間が抱くであろう感情の層。
底の方で澱んでいる憤怒や、中間あたりにある平静、上の方でサラサラと漂う希望。
この物語は、そのいろんな感情の上澄みをすくい取って作られている様な印象を受けてしまいました。
美しいし、心に優しいけれど、けど、そんなもんじゃないだろ、と。
もっとドロドロとしたものもあるんじゃないの、と。
そう思わずにはいられなかった野蛮な私には、血で血を洗う報復を試みる『イングロ』みたいな映画の方が性にあっているのかもしれませんね。


いや、でもね、ほんとこの物語に出てくる変態鬼畜オヤジは下の下なんですよ。 マジで!
自分よりも力の弱い、女子供だけをターゲットにして、性的な欲求を満たす最低の下衆野郎。
いちおう、「奈落の底にまっさかさま」という、因果応報な最期も用意されてはいるのですが、出来ればもっと、『スペル』のアレみたいな仕打ちにあって欲しかったですね。
それか、「これはクリリンの分!」みたいな一発とか。
現実にも、このような最低の犯罪者は存在する訳で。でも、都合よく「因果応報」にはならない場合も多いと思われる訳で。
だからこそ、映画の中でぐらい、思い切り酷い罰をうけて貰いたかった。
被害者や残された人々が次のステップを踏み出せるとするならば、それらが済んでからだと思うのですが。 

それと、なによりも一番納得がいかなかったのは、本作に於ける「母」の行動ですね。
そりゃ、誰もが強い母ではない。
誰もが現実と向き合い、哀しみをパワーに変えられる訳ではない。
でもね、これはない。
娘が殺されて父親は犯人探しに躍起になる余りに家庭を顧みなくなってもう一人の娘とまだ幼い息子が現実にさらされて不安になっているというのに「あたし、こんな状態無理!」とばかりに家出するとか、お前ホントふざけんなよ!

お前が家族を守らなくて、誰が守るというのか、と。
歯ぁ食いしばれコンチクショウ!と。
で、ぶらりと気持ちの整理の旅に出て、その後何年か経ってから元気に「ただいまー!」って、ないわー。 マジでないわー。

『母なる証明』とは正反対です。
ま、あっちもあっちで結構ヒドい母でしたけどね!


という事で、こういった “自分の性格とは相容れないトコロ” はもうどうにもならないので、ひたすら「ねえよ!」とか「このラブサイケデリコ!」とかわけのわからない突っ込みを入れつつ観ていたアガサなのですが、それ以外の部分に関してはもう何の文句もなかったので、結局面白かったのだと思いますよ。

特に、リアルにえげつないロリコン野郎を演じた、スタンリー・トゥッチが最高です。
最低なところが最高!
アカデミー助演男優賞をあげたいくらい!(←今確認してみたらノミネートされてました!すごいなこの変態野郎!)(←褒め言葉)

主人公の少女が、憧れの上級生との急接近にドキムネするくだりや、彼女の妹が犯人の家に忍び込むくだりの凄まじいばかりの緊迫感も素晴らしいの一言。
やっぱりピーター・ジャクソンは何大抵の才能の持ち主ではないなぁ、と改めて思い知らされました。
いつか一度、思いっきりベタなラブストーリーとか撮ってみればいいと思うよ!(←何故か上から目線)


最後にひとつだけ。
天国へと旅立つ間際、自分を殺した憎き犯人を追い詰めるより、一度だけ、大好きな人とのキスを選ぶ主人公の姿に、なによりもこの映画が伝えたい言葉が込められているような気がしました。
若いってすばらしいなぁ。
憎むより愛せ! 振り返るより進め!

ま、どっこい私は復讐しますけどね!(←結局全否定)


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