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『グラン・トリノ』

2009年12月11日
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★★★★★
“変われる”というのは幸せな事なのかもしれない。

あらすじ・・・
人と接するのが苦手なウォルトは、自分の信念を頑なに守って生きてきた老人だ。
心から愛していた妻に先立たれ、相容れられない2人の息子とも距離を置く彼は、愛犬との2人暮らしに満足していた。
孤独では無かった。 
信頼できる友もいた。
しかし、「幸せ」だと即答出来るような日々ではなかった。

ある日、ウォルトが毛嫌いしていた隣家の東洋人が、彼の分身とも言えるグラン・トリノを盗もうとする事件が起き、それをきっかけに、ウォルトと一家との不思議な交流が始まるのだったが・・・。



先日、ゼロ年代ベストテンのホラー篇を書いてみたのですが、今度はその全ジャンル篇もぼちぼち考えないとなぁ・・という事で、今年の最高傑作と名高い 『グラン・トリノ』 を、重い腰を無理やり上げながら借りてきました。
いやね・・あまりに絶賛されている作品って、なんだか借りづらいじゃないですか。(そんな事ないですか?)  

アガサが天邪鬼だからなのかなぁ・・。
観る前から傑作の香りがプンプンするというか・・・ 
ちょっと敷居が高そうというか・・。
明らかにボンクラ映画臭が漂っている映画なら、フットワーク軽く借りて来れるのにね!(ま、軽すぎてよく後悔していますが) 
で、この 『グラン・トリノ』 もなんとなく「今日はいっか」「またでいっか」とばかりに先延ばしにしてしまい、今日に至った訳なのですが、結論から言うとまったくもってオレのバカですね!

日本で、世界のどこかで生活をしていて、ヤクザな従兄弟にしつこく絡まれている様なのっぴきならない環境には身を置いておらず、身近にDVDを貸し出しているお店があり、最低でも500円(相場で言うとそれくらいか?)お財布に入っていたとするならば、あなたは今すぐ 『グラン・トリノ』 を借りて来るべきであり、その数百円と数時間に難色を示すのは人生で最も愚かな行為のひとつであると言いたい。

本作は、いわゆるプロの映画評論家や、映画を浴びるほど観ている映画中毒者の方々が大絶賛しているけれど、全く構える必要などありません。
人種や貧困と言ったアメリカが抱える解決困難な問題を描いているけれど、小難しい映画でもありません。
この作品が私たちに教えてくれるのは、この世に限りなく転がっている可能性の存在。
「人はみな、変わることが出来るんだ」という可能性の存在。
ああそうさ! もっと早く観ておけばよかったさ!
『グラン・トリノ』 最高だ!こんちきしょう!!


(※ 以下、ネタバレします。)



しかし、「人は変われる」と言ったけれど、その可能性が存在しているだけで、全ての人が変われるわけではありません。
変わるというのはそんなに簡単な事ではないし、その機会もそんなに沢山は転がっていない。
本作の主役である偏屈じいさん・ウォルトも、もし妻に先立たれていなかったら変わっていなかっただろうと思う。
有色人種や外国製のモノに拒絶反応を示し、頑固一徹、質実剛健、男は黙ってサッポロビール。みたいな。
そういう人生を貫いたのではないかと。
それが、愛する者を失い、孤独と向き合い、過去を見つめなおし、自身の余命をさとった事で、初めて変わるきっかけを得たのではないでしょうか。

人生の最終コーナーを回ったところでそのチャンスを得、他人の人生に光を与え、自分の人生も救う事が出来たウォルトは、変われずにクソみたいな人生を突き進んでいったタオの従兄弟と違い、とても幸せだったのではないかと思います。

つらい結末ではありましたが。


そうなのです。つらいのです。
ウォルトが迎える最期は、観るのがとてもつらくて苦しいのです。

心を許し、擬似家族のような関係になった、ウォルトと隣人のアジア系少女・スーとその弟・タオ。
ある日、以前からこの一家にしつこくつきまとっていたヤクザな従兄弟が、意のままにならないタオを暴行した事で、ウォルトの父性やら正義心やらが燃え上がります。
目には目を。 暴力には暴力を。 とばかりに、従兄弟の一味を襲撃して恫喝したウォルトは、その効力を信じてすっかり安心するのですが、ヤクザは情け容赦なく、というか当然の選択として弱い女性をターゲットに選ぶのです。
メチャクチャに暴行され、陵辱され、一生消えない傷を負わされたスー。
いきり立つタオ。
グツグツと煮え滾るような怒りに包まれるウォルト。
復讐を決意する2人ですが、ウォルトは気付いてしまったのです。
このままでは、暴力に暴力で対抗しているままでは、一生ヤクザな呪縛から逃れることが出来ない、と。
暴力の連鎖は、新たな犠牲者と罪人を生み出すだけなのだ、と。


物語で、こういう「理不尽な暴力」を目の当たりにした時、私たちは即座に「報復」を思い浮かべます。
酷い事をしたクソ野郎は、蜂の巣にされて当然だ。
人を傷つけることしか能が無いようなヤクザは、家ごと丸焼けにされればいいんだ。
スクリーンの中で行われる「報復」と言う名の虐殺に、私たちは喝采を送り、歓喜の声を上げますし、実際イーストウッドも過去の作品ではそうしてきました。
しかし、今回、昔気質のガンマンは「報復」を選ばなかった。
自分の「死」をもって、不毛な連鎖をとめようとするイーストウッドの姿はとても凛としていて、でもとても胸が苦しくて、なんとか命を取り留めて欲しいと願うものの、それが彼(イーストウッド演じるウォルト)の贖罪でもあるのだと思うと、受け入れるしかありませんでした。
彼が過去に犯した無意味な殺人(戦場での)に対する贖罪だと。
それにしても、「贖罪の方法が自己犠牲」というのが、さすがキリスト教の国だなぁ。(もちろんアメリカで信仰されているのはキリスト教だけではありませんが)


イーストウッドが命を懸けてヤクザと対峙するクライマックスなのですが、これが物凄い緊張感に満ちており、その死に様もあまりに完璧(蜂の巣にされて即刻死体袋行き)だった為、なんだか「イーストウッドが本当に死んでしまった」様な哀しみに襲われてしまいました。
役柄がまた、イーストウッドのイメージそのままですしね。
頑固で、一本筋が通っていて、近寄りがたくて、浅い事を言ってたらギロリと睨まれそうで、曲がった事が嫌いで、弱いものにはやさしくて、そして女好き。
ウォルトも、若くて聡明でかわいい女の子は躊躇無く口説いていましたからねぇ・・・あんなに偏屈そうな爺さんなのに。
いや、口説いてはいなかったかもしれませんが、あんな目で見られたら女は間違いなくオチますよ。
なにその百戦錬磨っぷり。
さすがは憂いのダーティ・セブンティ。 男の黄昏!女にゃ憧れ!! 服部)


なんでも、イーストウッドはこの作品を最後に本格的な俳優業からは退く表明を出しているそうですので、そういう「締めくくり」的な意味もあったのかもしれません。
しかし、ガンマンが死んでもその魂はタオ少年の心に引き継がれて行ったように、これでおしまいではないのですよね。
監督・イーストウッドは今後も映画界において傑出した存在として、ヒリヒリと胸に痛い作品を取り続けてくれる事でしょう。
これからは絶対、公開されたらすぐ観に行くぞ!


ただ、ひとつだけ残念だったのは、ウォルトと息子たちが最後までわかりあえなかった事。

親子だからといって、何も言わなくてもわかるハズはない。
ツーといえばカーなんて幻想だと、アガサは思います。
もちろん、長年一緒にいれば、空気を察する事は出来るようになると思う。
けれど、大事な事は言葉にしなければわからない。
相手を心配している。 相手を想っている。 そういう事を実際口にするのは恥ずかしいし、言わなくてもわかって欲しい事なのだけど、人と人とが理解しあう為には、やはり実際話さないとダメなのではないかと思います。(※文字のやりとりでも可)

ウォルトと神父、ウォルトとスー、それにタオが心を通じさせる事が出来たのは、きちんと会話したからなのではないでしょうか。
一方、息子たちとウォルトはほとんど会話しない。
チャンスはあったのに、どうしても本音をぶつける事が出来ない。
不幸な親子だなぁ・・と思いました。
「最後に息子たちとも和解して・・」という展開ではあまりに都合がよすぎるので、イーストウッドはそんな結末を用意しないとは思いますが、実の息子たちを思いやるシーンが懺悔室のシーンだけというのはちょっと・・・なぁ・・・。

子であり、親である自分の目線で見てしまいますので、言葉が足りない(態度も足りてない)せいで疎遠になってしまった親子が、結局その距離を縮める事が出来なかったのが残念で、とても寂しかったです。

ま、とかなんとか言いながら、強欲だった息子たちが亡き父から手痛い置き土産をくらうオチ部分では、ニンマリ顔が止まらなかったのですけどね!
イーストウッドも、草葉の陰でさぞかしほくそえんでる事だろうなぁ! (※リアルに死んでません)


こういう素晴らしい作品を観られる事は、本当に幸せなことだなぁ、と痛感しつつ、グダグダ言わずにもっと沢山映画を観なければ・・!と思いを新たにした師走の一日でした。


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