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『さかなのこ』

2022年09月21日
さかのこ

あらすじ・・・
さかなをすきになった子どもがおさかな博士を目指します。

冒頭、スクリーン一面に映し出される「男か女かはどっちでもいい」の文字。
そう、これはとある男の子でも女の子でもない、ひとりの子どもの物語。
猛烈になにかに興味をひかれ、寝ても覚めてもそのことで頭がいっぱいになり、成長しても関心は冷めないどころかどんどん高まり、一心不乱にすきですきで、すきでいつづけた子どもの物語なのです。
そう、これは一部はフィクションであり、一部は主観によるノンフィクションであり、ほとんどはファンタジー。 
あってほしいけど、そうそうありえない世界の物語。

大人から子どもまできっとみなさんがご存じの「さかなクン」。
ご本人による自叙伝をもとに作られた映画『さかなのこ』は、さかなクンの分身こと「ミー坊」を中心に、100%の献身で支える母やしずかに見守ってくれる友人や理解をしめしてくれる社会人の姿を、ユーモアを交えつつひょうひょうと描いていきます。
ミー坊はあくまで架空の存在であり、さかなクンではない。
しかし、ベースになっているのが自叙伝である以上、登場人物の中にはモデルが存在することもある。
だからってわけではないと思うんですよ。
実際がそうだったんだと思うんですよ。 
ただ、結果としてこの映画の世界にはやさしい人しか出てきません。

ミー坊の願望を最優先で叶える母、その巻き添えで毎日魚類を食べさせられる海鮮ぎらいの兄、同じく父、「すき・きらい」の感覚が一般的なそれとは違うミー坊のピュアな告白に巻き込まれるクラスメイト、授業そっちのけでおさかな新聞の発刊に取り組むミー坊を支持する釣り好き教師、釣りで意気投合する地元のヤンキー、釣りたてのイカで篭絡される隣町のヤンキー、仕事を教えてもメモもとらないし勝手な行動に走るミー坊を根気強く指導してくれる水族館の上司、飲み屋に誘ってくれる寿司屋の大将、常連であるミー坊が無職になったのを見かねて雇い入れてくれる熱帯魚ショップの店長、オシャレ水槽を依頼したら出来上がったのはめんどくさいオタク臭全開のこじらせ水槽だったけど決して怒らずお金も払ってくれるオシャレ歯科医師、勝手にシャッターに絵を描かれても気づかずにいる商店街の人、勝手にシャッターに書かれた絵を大絶賛してくれる商店会の人々、もうなにもかもがやさしい。
なにもかもが寛容。
なにもかもがミー坊ウェルカム状態。
ミー坊の「個性」は、少なくない子ども(そのまま成長した大人も含め)が抱えるもので、人生にプラスに働くことももちろんあれど、多くの場合生きづらさにつながるものなんですよね。
ミー坊だって、さかなに向ける関心が友人たちには向けられなかったり、さかなで埋め尽くされた脳内に学校のお勉強が入り込む余地はなかったり、好奇心のアンテナが常に十個ぐらい立っている状態であるがゆえの多動であったり、社会からつまはじきにされかねない要素はたっぷりあった。
しかし、ミー坊は孤立しなかったし「すき」のせいで行き詰まることもなかった。
それはひとえに周囲の人々に恵まれていたから、そのひとことに尽きると思うわけで。
これはですね、同じく「コントロールが困難」な「個性」をもつ子どもを育ててきた身からすると、マジで理想郷だしファンタジーと言わずにはいられない。
ただ、この作品がすごいのは、そんな「そうそううまくはいかんやろ・・・」という現実の世知辛さが、映画を観ている間は不思議と感じられないというところでもありまして。
「すき」を応援してくれる人しか出てこないという、徹底的にやさしい世界をゆうゆうと泳ぐミー坊の姿が、同じような「個性」を抱える子どもたちの未来の姿になってほしいと願うし、女性でも男性でも大人でも子どもでもないミー坊がこの先の世界の「ふつう」の中のひとつであってほしいと願うし、なんかもうね、みんなしあわせになってほしいというあたたかな気持ちに包まれるんです。
きっとその大きな要因はキャスティングだと思うわけで。

そう、本作はとにかくそのキャスティングが抜群にはまっている、いや、はまりすぎているといっても過言ではない。
ミー坊を演じるのんさんが、過去のどの作品ののんさんでもなく完全に「ミー坊」だったことがまずすごい。
誰と絡んでいても性的なものを感じさせないその空気感。
現実離れしているようだけど、しっかり地に足をつけている様子も伝わってくる繊細な感情表現。
他のどの俳優さんでも成り立たなかったのではないかと思います。
そしてミー坊を取り巻く人々もキャスティングも百点満点。
お母さん役の井川遥さんの圧倒的包容力、地元のヤンキーたちを演じる磯村勇斗さんや岡山天音さんや前原滉さんや三河悠冴さんによる秀逸すぎる掛け合い、理解力のある水族館職員・賀屋壮也さん、日本映画で見かけない日はないという活躍っぷりの宇野祥平さんのおだやかな笑顔、やさぐれアラサーが抱える複雑な感情の機微をつぶさに表現する夏帆さん、強すぎる「個性」を目の前にしたときのごくごく一般的なリアクションをしただけで彼氏に捨てられてしまうぱるるさん、友達の夢を純粋に応援し続けることができる勇敢な青年を演じる柳楽優弥さんなどなど、神懸かった適材適所っぷりで作品のクオリティを激しく向上させていました。
そして幼い俳優さんたち。
日本の子役はその演技の不自然さを語られることが多いものですが、本作で登場人物の幼少期を演じる俳優さんたちのなんと自然でなんといとおしいことか。
冒頭パートでいきなり心をつかまれ、その後も柳楽さんや磯村さんと同じようにミー坊を応援したくなる(柳楽さんたちのことも応援したくなる)のは、この幼少期があったからこそなんですよね。
無邪気で素直でちょっと大人ぶってみるけどやっぱり子どもで、そんな自分たち以上にまっすぐなミー坊を当たり前に受け入れる子どもたち。
振り返れば、最初はみんなこうだったんだんですよね。 
わたしもあなたも子どもたちも、みんなこうだったはずなんですよ。
でも「ふつう」の枠を突きつけられ、「ふつう」か「そうでない」かの選択を迫られ、諦めたり順応したり悟ったりしているうちに、「そうでないもの」に対しての新たな視点を植え付けられてしまった。
結果、「そうでないもの」は異質なものとして認識され、排除され、冷笑を浴びせられ、生きづらさだけが増してゆくことになる。
別に「ふつう」を責めているのではなく、「そうでないもの」が特別だとかそういうことが言いたいんじゃないんですよ。
大多数の「人が「ふつう」でもいい。
ただ中に「そうでない」があったとしても、受け入れ見守って行ければいいだけの話で。
そんな気持ちを改めて感じさせてくれた幼少期パート、本当にすばらしかったと思います。
(あと、幼い俳優さんでいうと夏帆さんの子どもさんを演じていた永尾柚乃さんがくるおしいほどかわいらしくて悶絶しました。他人の子とは思えない圧倒的「うちの子」感・・・!きっと不特定多数の親御さんが「うちの子みたいでかわいい・・・・!!!」ってなる安心のかわいらしさ。ミー坊でなくても画材をプレゼントしたくなること必至・・・!)

と、まぁ絶賛に次ぐ絶賛をお送りしてきたわけなのですが、『さかなのこ』には「ええはなしやなぁ・・・」の気持ちだけで劇場をあとにさせない、隠し毒針のような仕掛けも施されていまして、そこがマジで看過できないほどの劇薬だったことをお伝えしておこうと思う次第です。
そう、観た方ならわかるでしょう、「さかなクン」ご本人登場のくだりです。

幼少期、ミー坊が暮らしていた地域には「ギョギョおじさん」と呼ばれる不審者がいました。
いやいやいや、不審者の定義ってなんやねん?
そもそも「ギョギョおじさん」演じてるの、さかなクンさんご本人なんやから不審者呼ばわりは不適切やろ?
ごもっとも、ごもっともなんですけど、「ギョギョおじさん」の描写はというと「真夏でもトレンチコートで、四六時中魚の手作り帽子をかぶり、下校中の小学生に話しかけ、逃げても無視してもついてきて、たのしげな誘い文句で自宅へ連れ込もうとする」という不審者事案の満漢全席みたいな内容で、もうこれは明らかに確信犯的キャラクター設定なんですよね。
演じているのがさかなクンさんだから絶対変質者じゃないけど、客観的にみたら完全にアウトなギョギョおじさん。
演じているのがさかなクンさんだから家に遊びに行っても何もなかったと思うけど、客観的に見たら最悪の展開も想定しないといけないギョギョおじさん。
実際、劇中おじさんの家に単身遊びに行ったミー坊は、その後クラスメイトから「いたずらされた子」扱いされます。
誤解だから気にしない、じゃないじゃないですか。
ファンタジーだから気にしない、じゃないじゃないですか。
「いたずらされた子」って、冗談めかして使っていい言葉じゃないじゃないですか。
ミー坊の先を走るかのようにさかなを愛し、さかなに人生を捧げ、「個性」がゆえに社会になじめず自宅にこもり、唯一できたのが小学生の友達だったギョギョおじさん。
警察に連行され、もうその土地には住めなくなってしまったギョギョおじさん。
ミー坊が歩んだかもしれないもうひとつの人生、で済ませるには不審者事案要素にリアリティがありすぎるし、その後の人生も悲惨すぎる。
それをさかなクンさん本人に演じさせるってどういう意図やねん。
このくだりだけ感情グチャグチャで、さかなクン部分を飲み込み切れなかったっちゅうねん。

あと、そんなギョギョおじさんの家に小学校低学年の子どもをひとりで行かせちゃうお母さんもね、相当やばいんですよね。
ミー坊を最も理解しすべてを全肯定するほとけのような母の胆力は、「個性」に振り回される子どもをもつ親から見たら本当にあっぱれで、「こうありたいしこうあれればいいんだろうけど現実そうもできない」という悩みへの究極のアンサーを突きつけられた感じがすごい。
実際その接し方の結果、さかなクンが存在しているわけですし。
ただ、ギョギョおじさんの家に誘われたミー坊に「危ないから」と反対するお父さんとは違い、そこでも「子どもには他人を信用する人間に育って欲しいから」という理由で「行っておいでよ」と背中を押す母のそれは、ちょっと違うのではないかと思うのですよ。
理由はわかる。
もちろんそう育って欲しい。
けれど、だから子ども一人でほとんど知らない人の家に行かせていいのか? いや、よくない。
子どもの意志を全肯定するということと、判断のつかない子どもを判断が迫られるような環境にひとり放り込むこととは別問題だし、それを「フィクション」というふわふわしたものに包んでいい話に紛れ込ませるのは不誠実ではないでしょうか。
お母さんの寛容さステキ~!、じゃないし、一歩間違えたらこうなっていたかもしれないさかなクンの悲劇・・・!、でもないですよ。
子どもを育てる親としても、個性による生きづらさを理解している身としても、ギョギョおじさんの描き方とお母さんの描き方は諸手を挙げて受け入れられないところがあった。
「お母さん」をファンタジーの世界の妖精かなんかだと思ってないか。 とまで思う瞬間があった。
全編通してやさしい世界だったし、いとおしい関係性だったし、役者さんは輝いていたし、やりとりもほほえましかったのですが、この部分の毒素がわたしには強すぎたあまり、ずっと心の奥にひっかかることとなったのでした。

なんだったら、エンディング前の本来心温まるであろう「おさかな博士になったミー坊が先頭を切り、その後ろを子どもたちが歓声をあげながらついてくる」シーンで、どんどん増えてゆく子どもたちを眺めながら一瞬不安になってしまいましたからね。
だいじょうぶかな。 ミー坊も通報されちゃわないかな。

ギョギョおじさんがそうしてくれたように、子どもたちにおさかなの魅力をつたえようとしているのかミー坊よ。
ギョギョおじさんと同じ轍は踏まないように、家には招かず海で課外授業をするというのかミー坊よ。
大勢の子どもたちをいざなった先には海がある。
足を止めないミー坊は、駆け抜けた勢いそのまま白波に飛び込む。
「ハーメルンの笛吹き・・・なのか・・・まさか・・・」
おさかなになったミー坊、すべては夢かまぼろしか。 

原作もいい、俳優もいい、音楽もいい、映像もいい、ただ、解釈が合わない部分があった。
わたしにとってはそういう映画だったのでした。

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