ブログパーツ

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』

2015年04月16日
birdman-poster_convert_20150415160854.jpg


もがけ!もがけ! 世界はまだ、美しい!


※ 文中、映画の結末に触れています。


あらすじ・・・
スーパーヒーローの役で一世を風靡した俳優がアイデンティティの危機に陥ります。


まず、あらすじをどんな風に書けばいいかで、キーボードの上に置いた手が固まってしまいました。
アイデンティティの危機。 
我ながら浅い言葉だなぁ。
しかし、これは紛うことなき「自分探し」の物語だと思うのですよね。
「バードマン」を演じていた主人公リーガンや、彼をとりまく人々の。 

『バードマン』に登場する人物はみな、誰かに認められたいがために、様々な「役」を演じていたように思います。
(本当は自分の演技に自信などないんだけど)一流の役者として見られるため、「出来る男」を演じるリーガン。
(本当はストイックで真面目な役者バカなんだけど)ハリウッド俳優との格の違いを見せるため、「破天荒な役者バカ」を演じるマイク。
(本当はちょっと前からマイクとの関係にはズレが生じていて、それを不満に思っているんだけど)長年の夢だったブロードウェイデビューを成功させるため、「恋人と円満な関係にある女性」を演じるレズリー。
(本当は役者としてもパートナーとしてももっとおおっぴらに認めてほしいけど)リーガンとの関係を壊さないため、「不平不満を言わないクールな女性」を演じるローラ。
本当は振り向いてほしくてたまらないんだけど、願っても叶いそうにないので「父のことなど気にもかけていない悪い娘」を演じるサム。
彼らは、リーガンのキャリアがかかる舞台 『愛について語るときに我々の語ること』 に関わる中、それぞれの「役」を脱ぎ、自分という人間の中の「核心」に触れることになる。

ブロードウェイに出ている、俳優である、俳優の娘である彼らの葛藤は特別な者ゆえのものなのでしょうか。
「やっぱ有名人は自己承認欲求も強いよねー」というだけの話なのでしょうか。
違う気がするのですよ。
違うと思うのですよ。
だって多くの人がきっと、生きている上で常に「何者か」を演じているから。

従順な社会人を、頼れる母親を、物わかりのいい父親を、ボロボロに傷つけられていても全く効いていない強い人を、愛がほしくてたまらない気持ちを隠して孤独に慣れている人を。
特別ではない普通の人たちが、いろいろな矛盾を抱えながら、いろいろな何者かを演じている。
意識的ではなく、無意識のうちに演じていることも多いと思います。
「それが自分なのだ」と言い聞かせている部分もあるかもしれない。
とにかく物事を円滑に進めるため、しあわせでいるために、必死に「何者か」を演じている。
そして演じているうちに、わからなくなるのです。
自分は本来、どんな人間だったのか。 

別に、演じていること自体がいいとかわるいとかではないのですよ。 生きる知恵っていう場合もありますし。 
でも、何かの拍子に、たとえば社会人としての生活に慣れてきた時だとか、子どもがある程度大きくなった頃だとか、経てきた時間よりも残された時間の方が少ないのではと思い始めた瞬間とかに、フッと影が差すというか、「本当の自分ってなんなのだろう」と、なんともいえない不安に苛まれることってあると思うのですよね。
ほんで、インドとかバリとかに自分探しの旅に出たりなんかして。食べたり祈ったり恋したりとか。


本作の主人公・リーガンも、「バードマン」で築いた財産を失い、妻と子に愛想をつかされ、名声と評価は一体ではないという現実を突き付けられ、自分の人生に対し猛然と焦りはじめます。
演劇の本場・ブロードウェイで演技派として認められることしか、自分のアンデンティティを確立するすべはない。と思ったリーガンは、自分が俳優を志すきっかけとなった作家の小説を自ら脚色・演出し、なんとか「バードマン」の影から抜け出そうとします。

共演者にダメ出しをして演劇人アピールをするリーガン。
でも、マスコミはゴシップネタしか求めていない。
実力派の舞台俳優と演技論を交わしてみるリーガン。
でも、一般の人は「バードマン」の中の人としてしか見てくれない。
プレビューでいい評価を得ようと張り切るリーガン。
でも、演技の内容ではなくSNSでの拡散ネタしか話題にならない。

「本当の自分」の実力を認めてもらいたくて必死にもがくリーガンは、その度、世間が自分に求めるものを痛感させられ、打ちのめされてしまう。
でもリーガンはもがくことをやめない。 
呪縛から逃れるため、不本意な栄光から抜け出すため、自分でも確信など無い「最高の演技」に辿り着くため。 
死にたくなる程落ち込んでも、無様な醜態をさらしても、もがいて、もがいて、もがき続けるのです。

そんなリーガンを見て、過去の確執を捨て、純粋に彼の身を案ずるようになるサムと元妻。
家族が見守る中リーガンは舞台に上がり、役と同化するという北島マヤメソッドで「演技」を越えたパフォーマンスを披露。 それは、役と一緒に自分自身を葬るという行動でした。

常軌を逸した行動ではありましたが、過激さだけではない役者たちの渾身の演技が観客の心を揺さぶり舞台は大成功。
死んだと思われたリーガンはというと、鼻に重傷を負うものの、奇跡的に一命を取り留めました。
皮肉なことに、彼の顔に巻かれた包帯は「バードマン」のマスクそのもの。
そして包帯をとり鏡をのぞくと、そこに映ったのは復元された鼻が「バードマン」とそっくりになっている自分の姿。

わたしはこの時やっと、リーガンが過去を否定することをやめたのではないかと思ったのですよね。
否定してもしょうがないじゃないか。 
なぜなら、リーガンが演じていた「バードマン」もまた、リーガンの一部分なのだから。

わたしたちが演じている「何者か」は、決してわたしたちの敵でも暗部でもない、とわたしは思います。
もともと自分の中にある部分を出しているだけなのではないか、と。
だから、自分探しをしても答えなんて見つからない。
弱い自分も、見栄っ張りな自分も、意外と強い自分も、全て本当の自分なのではないでしょうか。

もがいたからこそリーガンが辿り着いた世界。

まだ見つかっていない人はもがけばいい。
かっこわるくても、みっともなくても、もがいていけばいい。
もがくことにも意味はあるし、もがいた先でわたしたちを待っている世界はまだ、充分に美しい。


過去の自分の、認めたい部分も認めたくない部分もすべて受け入れたリーガンは、窓から身を乗り出し鳥たちが自由に羽ばたく空を見上げます。 
その後、リーガンの姿が消えた部屋に入ってきたサムは、ベッドの中にもバスルームにも、そして窓の下の道路にも父がいないことに気づき、ふと空に目を向けました。 
そしてすばらしいものを見たように顔を輝かせます。 
現実のことなのか、あくまで比喩なのかはわかりませんが、サムが見たのは、鳥と共に空を飛ぶリーガンだったのではないでしょうか。 

実は劇中なんども、リーガン自身が自分の超能力について語ったり、力をふるったりするシーンがあるのですが、それはあくまでリーガンの空想であり、現実にはスーパーパワーなんて持っていなかったと思うのですよね。 
しかし全てを受け入れたリーガンは自由になった。
自分という存在に誇りを持ち、ほしかった愛を手に入れた父は、さぞ晴れ晴れとした表情をしていたことでしょう。

リーガンは本当に空を飛んでいたのか、それともすべてはサムの願望なのか。
どちらでもいい。 
ただわたしは、リーガンに「大味なアクション俳優」とか「高尚な舞台俳優」なんていう無意味な格付けに心を悩まされることなく、色々なお芝居の世界を自由に飛び回ってほしいと願うし、きっとリーガンならできると思う。
実在する偉大な俳優たちがそうであるように。
バードマンのような派手なヒーロー映画でも活躍できるし、すばらしい舞台の上で予期せぬ奇跡のようなお芝居も魅せることができる俳優。
サムが見たのはきっと、そんな父の姿なのだと思いました。




― 余談 ―

・ 全編ワンカットと見紛うような驚異のカメラワークは、ただ単にトリッキーなだけではなく、観客を「舞台」に釘付けにさせる最高の装置だと思いました。 

・ そう、このカメラはまさに「舞台」なんですよね。 演劇が上演される舞台は、一度幕が上がれば物語が全て終わるまでノンストップ。 もちどん幕間がある場合もありますが、観客はその席を空けない限り、途切れなく続く舞台から目を離せない。本作がそうであるように。

・ 同じ部屋、同じ建物の中をカメラが移動するだけで、時間や状況が切り換えられてゆくさまもまた、まるでスポットライトを端から端へ移したり、喋っている役者の位置が変わるだけで、瞬時に場面を転換させてしまう舞台そのもので、その圧倒的な魔力にくらくらしてしまいました。 奇跡的な舞台映画じゃないかこれは!

・ 凄まじすぎる集中力で、この驚くべき撮影に応えた俳優のみなさんもすばらしいと思いました。 エドワード・ノートンさんの陶酔演技もすごかったなぁ。 でもやはりマイケル・キートンさんですね。 劇中劇のラストシーンを三度演じるのですが、当然のごとく三回とも違うし、三回目の抑揚のつけ方なんか鳥肌が立ちましたよ! マイケル・・・恐ろしい子・・・!

・ 何気に、全方位にケンカを売っているようなところもよかったですね。 「権威に成り下がっている批評家」 「舞台を舐めてる“有名”俳優」 「プライド高いばっかの舞台俳優」 「ネット上のイイネだけに存在価値を見出す人々」 「時代を取り入れようとせずただただ頑なな年寄り」 「派手なアクションばっかで中身のないハリウッド映画」 「ヒット作続編とかばっかもうやめんかおまえらロッキーか」 と、どこか一方に偏るのではなく唾を吐きまくる感じがサウスパークみたいでおもしろかったです。

・ 「バードマン」こそ架空のヒーローものでしたが、それ以外の固有名詞はバンバン実在のものが登場するところもワクワクしました。 この世界のジョージ・クルーニーさんは「バードマン」の続編には出ていないのかなぁ。

・ あと、なんといっても音楽! リーガンの鼓動、街の振動、演劇の熱量を表すような凄まじいドラムが最高すぎる! サントラがほしくなりましたが、家や車の中でかけていたら変なテンションになってお皿とか叩き割りそうだからやめときます! オレ賢明だと思う!

・ アクションか舞台か、みたいに決め付けようとしていたリーガンさんですが、ホント、特に最近はそんな隔たりなんてないと思いますよねぇ。 ガン爺ことサー・イアン・マッケランだって、マグニートーことファスベンダーさんだって、スマウグことカンバーバッチさんだって、パイカリのキーラさんだって、リディックのデイム・ジュディ・デンチだって、本作に出演しているハルクことエドワード・ノートンさんだって、みーんなジャンル関係なく活躍されてますし。 娯楽作だろうと文芸作だろうとハリウッドだろうとブロードウェイだろうとウェストエンドだろうと、いい作品が人の心をうつことに変わりはないじゃないですか。 

・ ともかく、本当におもしろい作品でした。 わたしはすごくすきです、『バードマン』。




     ♪♪どちらのバナーでもどうぞご遠慮なく♪♪ →   にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ


※当ブログで使用しているイラスト等の著作権は、全てはアガサにありますので、転載、二次加工、再配布の際は一言ご連絡下さいませ。