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『チョコレートドーナツ』

2014年12月22日
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なんでじゃい! なんでなんじゃい!!

観終った瞬間、声にならない叫びをあげながら、そこいらじゅうにある物を引き千切っては投げ、また引き千切っては投げしたくなってしまった。
これはなんなのか。
この気持ちをどうすればいいのだろうか。

『チョコレートドーナッツ』(原題Any Day Now)は、わかりやすい物語だ。

「ジャンキー」 の 「シングルマザー」 が 「育児放棄」 した 「ダウン症」 の子どもを 「ゲイのカップル」 が引き取り、保護者になろうとするものの、周囲の偏見に晒され、不当な扱いを受け、結果一番弱い子どもが犠牲となる。
わかりやすく「」(かぎかっこ)がついた、とてもわかりやすい物語だ。
そのわかりやすさは、多くの人の魂を揺さぶり、あふれんばかりの涙を誘うけれど、果たしてわたしたちは、そのわかりやすさに惑わされてはいないのだろうか、とふと思った。
かわいそうな「障害児」。
迫害された「性的マイノリティ」。
社会保障の網から零れ落ちた「社会的弱者」。
彼らの姿に涙する時心のどこかで、「自分とは違う世界」というバツの悪い安心感を抱いてはいないだろうか。

目の前の弱い者をただ守りたい、ただ愛をもって育てたい、という二人の人間の純粋な願いは、様々な悪人によって踏みにじられる。
しかし、本作に登場する悪人が行うのはどぎつい蛮行ではない。
ゲイカップルにあけすけな罵詈雑言をぶつける訳ではないし、石を投げつける訳でもない。(彼らにハッキリと罵声を浴びせたのは、ジャンキーの母親のみだった)
本作の悪人たちは、社会的地位があり、温かい家族を持ち、他人に寛容な態度を持っていることを自負している悪人たちは、ただなんとなく、自分とは違う世界の彼らに感じた違和感を「アドバイス」という形で示しただけ。
「なんかやだな」 「なんかキモいんだよね」 「なんか違う気がする」
という、たったそれっぽっちの小さなトゲが、愛をはぐくもうとする人間の儚い夢をズタズタに引き裂いたのだ。

悪意ではなく善意で。
差別ではなく区別で。
偏見ではなく客観的事実として。
もしくは、ほんのちょっとの違和感で。
わたしたちはいつでも、自分が持っている「普通」というものさしで、知らない誰かをはかろうとしてしまう。
自分が「問題ない」と思っている言葉なら、他人を傷つけない?
面と向かって「死ね」と言った訳じゃなし、謝る必要なんてない?
性差別ではないから? 人種差別ではないから? 職業差別では、嗜好の差別では、わかりやすい「」でくくられた弱者ではないから、自分のそれは「悪意」ではない?

二人の人間と、小さな一人の人間が一生懸命築き上げかけた家族は、あっけなく壊された。
彼らがゲイでなければ家族は守られていただろうし、子どもが障害を持っていなければ母親は育児を放棄しなかったかもしれないし、母親が社会的に保障されていれば全ての悲劇は防げたのかもしれない。
けれど、これは決して特別なことではないのだと思う。
「」の中に入る言葉はなんだっていい。
いつ、どこで、わたしたちの不寛容さが見知らぬ誰かを追い詰めているかわからないのだ、と気づくことでしか、この世界は変わらない。

つらすぎる物語は終わり、画面にふたたび「Any Day Now」というタイトルが浮かび上がる。
このお話の舞台となった1970年代から、今私たちが過ごしている2010年代。
「そこはどうですか?」 と問いかけられているような気がした。
確かに変わった。 けれどまた、もしかしたら、何も変わっていない。
 
人々を、自由からは程遠い窮屈な「普通」という世界に閉じ込めている檻を、壊してあげよう。
あなた自身を、解き放ってあげよう。
アラン・カミングの穏やかで力強い歌声が、何度も何度も胸を締め付ける。

いまから始められる。

いつからだって、始められるのだ。



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