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『沈黙-サイレンス-』

2017年02月08日
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小学校の近くに、教会があった。

そのことに気づいたのは四年生の頃だっただろうか、とにかく、あるときクラスメイトから「日曜学校って知ってる?」と聞かれてはじめて、自分の学区内に教会があることに気づき、また「日曜なのに学校とはこれいかに」と大きな衝撃を受けたのを覚えている。
興味をひかれたのはわたしだけではなかったのだろう、初めて訪れた日曜日の教会は、両親を説き伏せて参加許可を取り付けたわたしや姉と同じように、手に献金用の小銭を握りしめた子どもたちであふれていた。
どの子がどこまで真剣に「キリスト教」に関心があったのかはわからない。
きっと多くはあくまで「興味本位」。 または「話のネタ」だったのだろう。
わたしももちろんそうだった。 
「教会」に足を踏み入れるまでは。

ほんのりと薄暗い礼拝堂に整然と並べられたベンチ。
染み渡るように鳴り響くオルガンの音色。
わかるようでわからないけれどたぶんありがたいことを言っているであろうことだけは疑いようのない牧師さまのお話。
その魅惑の低音ボイス。
まだ「おごそか」という言葉を知らなかったわたしは、自然と心が落ち着くような、なにかに守られているようなその感覚だけで、あっという間に「教会」をすきになっていた。
ただ、割と早い段階で気づいたのだが、その「すき」はあくまで「教会」の雰囲気と装飾と西洋文化に心地よさを感じていただけのことで、本来の目的である「日曜学校」部分に関しては、不真面目の限りを尽くしていたわたしは、母親から献金用にもらった小銭をちょろまかして駄菓子屋に行ったり、創世記をわかりやすく説く牧師さまに、「その話に恐竜が出てこないのはおかしいじゃないか」、といかにもかわいげのない子どもらしい横やりを入れたりしながら、教会通いを謳歌していた。
教会はすきだし、クリスマスのお芝居も歌をうたうのもボランティア活動もたのしい。
でも、キリスト教のおしえはいまいちわからない。
クラスメイトが次々と日曜学校から離脱してゆくなか、それでもなんとなく通っていたわたしを、ある日教会は拒絶した。

いや、ちがう。 拒絶されたのではない。
教会のおしえのひとつを、わたしが拒絶したのだ。
きっかけは、「あなたの家にある仏壇を拝んではいけません」という牧師さまの一言。
わたしが仏壇に手を合わせるのは、仏教を信じていたからではなく、祖父に語り掛けるためだったので、そのおしえはとても納得の行くものではなかった。
「拝んでいるのは仏さまじゃない、ご先祖さまですよ」と反論したが、帰ってきた答えは同じ。 
「ご先祖さまでもダメです。」
包容力のかたまりのような場所だと思っていた教会が、とても偏屈で、とてもわからずやな存在に思え、わたしのなかの「教会熱」は一気に冷めた。

今思えば、「仏さま」とは成仏したご先祖さまのことで、それを祀るのが仏壇なのだからキリスト教から見たら完全にアウトな存在だろう。
「神さまといったらみなさまご存じのあの神さまだけで、他に神はないですよ」と教えているのに、「仏さま」に手を合わすとは何事か、と言われたらぐうの音も出ない。
だから、正しい対応は「違うやい、仏さまじゃなくおじいちゃんだい」ではなく「ならばここまで」なのだ。
あなたの宗教は正しい。 
わたしの信条も正しい。 

異なっていても、相手を矯正しようとすることはない。 ただそれぞれが信じる道を進めばいい。

だってこの世で起こるたいがいの不幸は、それを無理に変えようとしたときに起こるではないか。



マーティン・スコセッシ監督の『沈黙-サイレンス-』は、江戸初期の長崎において実際に行われていたキリスト教徒に対する弾圧を描くことで、生きるとは何か、強さとは何か、信仰とは何かを問いかける物語だ。
最初にことわっておくけれど、わたしはキリスト教に詳しくない。
キリスト教を信じてもいない。
もっと言えば、そもそもなんの宗教も信じていない。

そんなわたしが、もっぱら、今までに観てきた映画からのみ導き出した「キリスト教」は、「都合よく信徒の危機を救ってくれたり奇跡を起こしてくれたりする」便利屋ではなく、「生前しっかりリスペクトしておけば、どれだけ罪を犯していても死んだあと天国に行く手助けをしてくれる」優しいパイセン的なイメージだ。
救ってくれるのはあくまで死後の話。
神さまもイエスさまもマリアさまも、生きている信徒が襲われようと、貧乏で飢えようと、病気にかかろうと、紛争地域に生まれようと、ウィルス感染メールをうっかり開こうと、決して助けてくれない。
ただ、そういった無作為に襲い掛かる不幸に遭遇したとき、濁りなき心で神さまの存在を疑うことなく、真摯に祈りをささげれば、あなたの魂は救われますよ、と。
祈り方もかなりフリースタイルで、教会で祈ってもいいし、ロザリオに祈ってもいい、布団の中でひとりひっそり祈ってもいい。 とにかく、負けないこと投げ出さないこと逃げ出さないこと信じ抜くことが一番大事なのだ、と。
だからなのだろうか、作中キリシタンたちが現世ではなくパライソ(天国)に希望を見出そうとするのは。

わたしの認識の中ではさらに、キリスト教は「痛みを恐れない」という体育会系な一面を持つ。
なぜなら、キリスト教カースト(キリスト教でカーストというのもおかしな言い方だが)のてっぺんであるイエスさまご本人が、弾圧・密告・拷問という苦行のフルコースの末、残酷なさらしあげの最高峰である磔の刑を受けているから。
その教えを守り、神の子と崇めたてる信徒たちが少々の痛みに耐えられなくてどうするのか、と。
自分たちが受ける拷問なんて、イエスさまが受けた鞭打ちに比べればなんぼのもんじゃい、と。
だからなのだろうか、作中キリシタンたちがどんな残忍な仕打ちにも耐えようとしていたのは。

そして、わたしが知っているキリスト教では、信仰を守るための死は最高の名誉・殉教として称えられる。
キリスト教のみを唯一の宗教と言い切るための死、文化が違う場所での宣教が招いた軋轢による死、不当な弾圧への異議としての死、それらを誇り高く迎えたものは神さまに祝福され、聖人として敬われることすらあるという。
だからなのだろうか、作中キリシタンたちは信仰のために死ぬことを受け入れていた、と語られていたのは。

もう一度ことわっておくけれど、わたしはキリスト教に詳しくない。
あの日以降教会を訪れた回数も、片手で足りる程しかない。(それも、にわかクリスチャンとして結婚式をあげようというミーハーな思惑があってのことだ)
しかし、教会のおしえのひとつは拒絶したけれど、キリスト教を信じる人を否定する気持ちは全くない。

踏み絵を踏むことを拒否し命を捧げたものと、踏み絵に足をのせ生き延びたもの。
仏教や神道に救いを見いだせずキリスト教に改宗したものと、極楽浄土や八百万の神を信じ続けたもの。
信仰の危機に陥ったとされる恩師に真意をただすため周囲の反対を押し切って遠い島国に行ったものと、激しい宗教弾圧に恐れをなして行かなかったもの。
誰が正しいのではなく、誰が間違っているのでもない。
この物語に出てくるのは、ただ自分が信じたものを守るために、懸命に生きた人々だけなのだ。

ある登場人物が「この国(日本)は植えられた種の根を腐らせる沼だ」と語るシーンがあったが、わたしはそうは思わない。
沼に順応し、沼から養分を吸収し、生き抜くために根の形を変えた種は、最初に植えられたものと同じようには咲かないかもしれない。
しかし、枯れていった仲間たちの命を引き継いだその根は忍耐強く沼にしがみつき、あかあかと太陽に祝福されたそのつぼみは、いつか美しい花を咲かせるのではないだろうか。
踏み絵を踏むことで仲間に蔑まれ、司教からも見放され、いつまたお上から疑いの目を向けられるかわからない、という四面楚歌な状況の中、それでもひたすらに自分たちが信じる「キリスト教」を守り、そのおしえを後世へと残そうとした「隠れキリシタン」と呼ばれる人たちこそ、その花なのではないか、とわたしは思う。

宗教を信じないわたしは、簡単に「命と踏み絵、どっちが大切かっていったら命に決まってるじゃん」と言ってしまう。
「踏み絵?オッケー、踏む踏む!」と。 「命あっての信仰じゃないの」と。
しかし、そもそも「信仰」とはなんなのだろうか。

もしかしたら、「信仰」とは「神さま」を信じるのではなく、「神さまを信じる自分」を信じることなのかもしれない。
「自分は正しいのか?」と疑問を抱いた瞬間、自分の魂は神さまの指の隙間からすべり落ちてしまう。
だから一心不乱に信じる。
「自分は絶対に脱落しない」と信じる。
「自分が神さまを裏切らない」ことを信じる。
「自分は甘言に惑わされることなく、圧力に屈することなく、神さまの存在を疑わずにい続けることができる」、と信じる。

踏み絵を踏むということは、そんな自分への裏切りであり、自分がそれまで捧げてきたものを無意味にしてしまう行為。
だからモキチたちは踏まないことを決めた。
たとえ命を失おうと、「神さまを信じてきた自分」を見捨てなかった。
自分たちが歩んできた道は間違っていないと証明するために。

キチジローもまた、「自分が神さまを裏切らない」ことを信じていたのではないか。
たとえ嘘をつこうと、言われるがまま銅板に足を擦りつけようと、卑怯者となじられようと、自分の心は変わらずにいられると信じていたのではないか。
だからキチジローは踏み絵を踏んだ。 生きて「一生神さまへ祈り続ける」ために踏んだ。

信仰を守るために死を選んだものと、信仰を守るために生き続けたもの。
彼らの信念は、形は違えどどちらも強い。
一貫しているのは「自分の選択を信じた」ということ。

そんなモキチたちとキチジローの間にいたロドリゴ。
ロドリゴは、うわさに聞いていた「弾圧」のすさまじさを直接目にし、「聖書に印刷された教え」や「ストイックな修行」や師から授かった「ありがたい説教」が、そこでは何の役にも立たないことを実感させられる。
敬虔な信徒たちが「信仰」のために死んでゆくのに、自分はそれを止められない。
そもそも止めてはいけないものだと教えられているし、自分も同じ立場になれば死を選ぶからだ。
しかし、繰り広げられる虐殺はあまりにむごい。
つらすぎる現実を正当化してもらいたくて、ロドリゴは「神さま」に語り掛けるけれど、その問いに返事はない。
神さまはいちいち返事をしないタイプだからなのか。
神さまも一緒に苦しんでいるから返事をするひまがないのか。
いや、ロドリゴ自身が答えを出せないからだと、わたしは思う。

「こんな酷い拷問も、神さまのなんらかの思召しがあってのことに違いない」
「無駄に苦しんで死んでいっているようにしか見えないけれど、神さまなら納得のいく答えを出してくれるに違いない」
「自分が信じる神さまなら、弱き者を助けてくれるに違いない」
ロドリゴの中をグルグル同じ問いが駆け巡る。 でも、天啓はひらめいてくれない。 ひたすらつらい思いや理不尽な思いをするばかり。
「本当に自分は神さまを信じていていいのか?」
信仰の揺らぎは、自分自身への疑い。
空を仰いでも答えは出ない。
なぜなら、「神さま」は、自分の中にいるから。

日本という沼に飲み込まれたロドリゴは、そこで信仰の芽を途絶えさせないよう必死に暮らすキリシタンたちの姿を見、師であったフェレイラの改宗を受け、ついに自分なりの答えを導き出したのではないか。
ポルトガルにいる仲間たちとも、隠れキリシタンとも違う、ロドリゴなりの信仰。
「自分なりの形で神さまとつながり続ける」、というやりかた。
たとえ表に出さなくてもいい。 心の中は誰にも見えないのだから。
もしかしたら、ロドリゴは家族にさえ本心を明かしていなかったのかもしれない。
しかし、ロドリゴの妻は、そんな彼の信仰心に気づいていた。
仏教徒として埋葬されようとしていたロドリゴの手のひらに、誰にも気づかれないようそっとロザリオを忍ばせた妻。

裏切りものと呼ばれていたキチジローを救ったのは、パードレとしての「資格」を失ったはずのロドリゴ。
そんな彼を救済したのは、キリスト教とは無縁な日本人の妻。
誰が、どこで、どんな風に、が重要なのではない。
わたしは、その行為によって救われる人がいる、ということが大切なのだ、と思った。
それがどんな名前の宗教であろうとかまわない。
そもそも、誕生した時とまったく同じ形で信じ続けられている宗教など、この世にあるのだろうか。
受け取る人によってさまざまに解釈が変わって当然だし、それを信じることでその人が救われているのなら、それでいいじゃないか。

モキチたちを、キチジローを、ロドリゴを、世界のたくさんの人たちを見守る「神さま」。
形にこだわるのではなく、もっと大きな愛で苦しみ迷っているものたちを救ってほしい。
本当の「寛容さ」で包んであげてほしい。
いまこそ、それが必要なのではないか、と思う。

ただ、それを必要としていない人に無理強いするのだけは、かんべんな。


― おまけ ―

・ 役者さんがみなさんすごかったです。
・ 映像も神さま目線の乱れうちですごかったです。
・ わたしはホントに無宗教なので、ロドリゴが聞いた神さまの声も、ロドリゴが「神さまを裏切ろうとしている自分を赦すために自ら思い描いた声」だと思ったのですが、まぁ、いろいろなんでしょうね。
・ キリスト教の不寛容さというか押しつけがましさみたいなものは、日曜学校での一件や過去に観た映画のあれこれで感じ続けていたのですが、本作でも冒頭フェレイラの棄教を知って「んな訳あるか」「もしそうだとしたらすぐ行って目を覚まさせてやらねば」「俺たちならそれができる!」みたいな、その自信はどこからくるんだ的な熱意にうわあってなりました。
・ 告解さえすれば何度だって罪を赦してもらえるゾ! というキチジローの考えを都合がいいととらえることもできるけど、わたしが認識していた「キリスト教」もそんな感じだったんですよねぇ。 たとえば旧約聖書と新約聖書で違ったりするんですかね。
・ 偶像崇拝を禁じながらも、踏み絵や教会の宗教画や十字架などを大事にするのは、神の姿をかたどった偶像ではなく、あくまで信仰のシンボルだからオッケー。 っていうか、そもそも「神さま」の姿はすごすぎて形にできないし、という理解ですが、合ってますか。
・ あと、本作に限らず不条理な事柄について神に問う系の映画って、「神さまは我々人間とはレベルの違いすぎる存在だし、我々が考えるような浅いことを神さまが考えるはずないし、神さまがどんな考え方かなんて推し量れるはずもない」で終わっちゃうことが多い気がするんですけど、みんなほんとにそれで納得してるんですか。 自分との闘いだなぁ。
・ わたしは、神さまはいないと思っていますけど、いたらいいな、とも思っています。 どこかで見守ってくれているとうれしいな、と。
・ どこかで見守られているかもしれないと思ったら、恥じないように生きたいってなるじゃないですか。 それを神さまと呼ぶか、仏さまと呼ぶかは自由だし、あるいは、私が生まれる前に亡くなったおじいちゃんであり、わたしや子どもたちに命をつないできてくれたご先祖さまたちを想像してもいいのかもしれませんし。
・ とにかく、自分の生きる力を信じたいし、自分の選択を信じたいし、自分の後悔のないように生きたいものですよね。
・ 信じる「神さま」の種類で揉めるのだけは、ホントむなしいから気づいた人からやめて行ってほしいです。 でもなぁ、どの経典にもたいがい「自分とこだけがオンリーワン」って書いてあるもんなぁ。 「神さま」は器がでかいのか小さいのかどっちかにしておくれ!
・ そう考えると、わたしがいちばんしっくりくるというか、好感が抱けるのは「八百万の神」ってことになりますねぇ。 ひとつに絞るから揉めるんだから、全部「神さま」ってことにしよう、そうしよう!
・ みんななかよくしようぜ!




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