『LIFE!』
2015年02月26日

映画監督としてもハズレ作品のないベン・スティラーさんが、オレ祭りを開催しました。
目立たないけど才能あるオレ!
意外と人望厚いオレ!
女性からもウケのいいオレ!
行く先々で熱烈歓迎されるオレ!
通りすがりのおじさんすら命がけで助けずにはいられなくなるオレ!
スケボーの腕もイケてるオレ! 大自然に映えるオレ! リストラされても結局一目置かれるオレ! なんかもう、むせ返らんばかりのオレ!オレ!オレ!
ところがどっこい、ぜんぜん嫌味に感じないのがすごい! そう、なぜならわたしもまた、ベンに首ったけだから!
ということで、ただ立っているだけで全身から「人のよさ」みたいなオーラがにじみ出てしまう愛され俳優・ベン・スティラーさんが、その個性を最大限に活かして作った『ウォルター・ミティ氏の隠されたる人生』を観たのですが、世帯主である父親を若くして失い、そのかわりに家族を養うため自分の夢を諦めた男が、人生の中盤に差し掛かり、誰かのためではない人生を歩み始めるという、清く正しく美しいお話でしたので、ホントもうどこにも文句のつけどころなんてなかったですよね。
ストーリーも映像も音楽も、超センスいいですし。
現実世界でも映画の中でも、ベンは愛されているんだなぁ・・・と、疑念を抱く余地など見当たらない。
ホント愛されてる・・・
愛されて・・・ ・・
・・・愛されて・・る・・・? (ガバッ)(心のおひつが開いた音)
ちょっとまってくれよ!人生うんぬんという表のストーリーはさておき、もうこんなもん、どっからどうみても「ショーン・ペンがベンステに捧げた16年愛」の物語じゃねえですか! 違わねえ!何も違わねえぞ!
劇中次から次へと登場する、ベンステに愛を注がずにはいられなくなる人々。 なかでも最も熱のこもった視線を送り続けるのが、誰あろう「世界的フォトグラファー」のショーン・ペン氏でありまして。
ライフ誌の写真部責任者といちカメラマンという事務的な関係でスタートした2人の16年間。
しかし、その初めての対面の瞬間から、ペン氏のベンステに対する想いは既に始まっていたのですよね・・・!
ビジネスの垣根を越え、自分の魂とも言える「写真のネガ」を託す相手として、ベンステに全幅の信頼を寄せていたペン氏。
劇中描かれるエピソードは極めて少量ですが、わたしには言葉にしていただかなくてもわかります。ええ、わかりますとも。ペン氏の中で、ベンステの存在がどれほど大きなものになっていたか、ってことはね。
ゆくゆくのことを考え、ベンステのお母さんにもベンステの留守を狙ってしっかりご挨拶済みのペン氏。
たぶん日常的に盗撮という名の密着撮影を行っていたであろうペン氏。
ベンステが職を失うと聞けば長年の労をねぎらいプレゼントを用意するペン氏。
その中には、サプライズ演出のタネもしっかり仕込んでおく抜け目のなさだよペン氏。
しかも、サプライズの発表の場はというと、こともあろうに世界中で愛されている超有名雑誌の最終号の表紙。
なんだったらジャーナリズム史に残り続けるんじゃないかという程の、めちゃくちゃハードな依頼に応えて、「写真家人生最高傑作」として用意したその写真こそ、何を隠そうベンステの隠し撮り写真だったという・・・
・・・オレは今、「雑誌の私物化」とか「公私混同」とかそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ・・もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ・・・! っていうかおそろしく肝の座ったストーカーだな!ベン逃げてー!
ということで、どうにもこうにも白飯をよそう手がとまらない、非常に濃密なストーk・・じゃなかった愛情物語だった本作。
あまりにも美しすぎる物語なので、お伽噺をみているような現実感のなさを感じてしまう部分も多々ありましたが、決して甘いだけでも美しいばかりでもないほろ苦い人生には、こういう毒っ気のない、いっぷくの清涼剤のような映画も必要かなぁという気がしないでもないので、時々観返して滋養を得たいものですね。
ただし、関西出身のお笑い芸人さんが声を当てた吹き替え版の方は、ただの1シーンであろうともうっかり観てしまおうものなら全身に毒がまわり、その場で体力・精神力共にガリガリ削られる恐れがありますので、今後とも摂取しないよう全力で気をつけて行きたいと思います。


『ジャージー・ボーイズ』
2014年10月10日

最近めっきり公開予定映画についての情報収集が怠り中で、今月はどんな新作がお目見えするのか、はたまた、あの監督の次回作はいつ公開になるのか、などなど、ほとんど白紙に近い状態だけどわたしは元気です。 どうもおばんでやんすアガサです。
いえ、映画に対する情熱が薄れているわけではないのです。
なにもかもどうぶつの森とクリミナルマインドが悪いのです。
で、そんな中、何気なく佐野史郎さんのつぶやきを確認すべくTwitterを覗いておりましたところ、なんとクリント・イーストウッドさんの新作『ジャージー・ボーイズ』はフォー・シーズンズの物語であるというではありませんか。
見ていてよかったTwitter。
フォローしていてよかったつぶやき史郎。
フォーシーズンズの物語、もちろん音も最高‼︎
RT @katsutakasima
先日の「音流」拝見しました
ところで「ジャージー・ボーイズ」はいかがでしたか?イーストウッドの音楽劇、私も観たいと思ってます。
— 佐野史郎 (@shiro_sano) 2014, 10月 5
ありがとう史郎! オレ一生史郎についてゆくよ!!
ということであらすじ・・・
ニュージャージー州の小さな街ベルヴィル。
決して豊かではないこの街から若者たちが出てゆくには、マフィアになるか、軍隊に入るか、有名になるか、という3つの選択肢しかなかった。
街の有力者ジップの庇護のもと、ケチな犯罪や盗品売買で日銭を稼ぐトミーとニックもそんな若者のひとり。
軍隊に入るのだけはゴメンだ。 有名になるのも現実的ではない。 ならば、今のままジップに取り入り生きるしかないのか。
それなりにたのしいけれど、満足には程遠い毎日。
その時彼らはまだ、知らなかった。
自分たちが、ひとりの天才との出会いにより、もっともありえなかった方法で街を出ることになることを。
音楽好きな母の影響で、物心ついたころから色々なジャンルの音楽を聴いていたのですが、そんな中、一番古く、一番強烈な記憶として脳裏に焼き付いていたのが、フォー・シーズンズの楽曲でした。
当時私はまだ5、6歳だったでしょうか。
しかし、一度耳にした瞬間、その「おもしろい声」と「ひょうきんな歌い方」は、幼子の心をはげしく鷲掴んでしまったのでした。

(※ 超ヘビロテしていたフォー・シーズンズのクリスマスアルバム)
(※ ジンゴージャンゴージンゴーベー ジンゴージンゴージャンゴーベー)
その後大きくなるにつれ、わたしの中の関心事はフォー・シーズンズから離れて行ったのですが、彼らのことは「元祖コミックバンド」として、記憶の中の深い場所に大切にしまっておいたのでした。
コミックバンドとして。
コミックバンド。
それなのに。
ぜんぜんコミックバンドじゃなかった!!!
(※ これなんかもう完全にコミックバンドのノリなのに!)
マフィアが睨みを利かせる貧しい街。
才能を武器にそこから羽ばたき、大成をおさめてゆく4人の若者。
その成功の陰にあったのは、キレイなモノだけではありませんでした。
かなしいほどに醜く、ぶざまな、葛藤や衝突や嫉妬や苦悩。
4人はそれらに潰され、バラバラになり、しかし仲間の支えで立ち上がり、再びひとつの場所へと戻ってきます。
舞台(ステージ)という輝かしい場所に。
ただたのしく聴いていた楽曲の裏に、こんな思いが込められていたとは・・・。
とはいえ、わたしはフォー・シーズンズが後期に発表した作品は全く知りませんでしたし、この作品はあくまで「物語」ですので、発表された楽曲と私生活との重なり方も必ずしも現実に沿うものでは無いそうですが、ここはひとつ、「うそ」を巧みに混ぜ込んだ構成の巧みさに身も心もゆだね、この「青春群像劇」へと飛び込んでしまえばいいのではないでしょうか。
そう、本作のすばらしいところは、フォー・シーズンズというバンドも楽曲も全く知らなくても、物語を堪能することができるところなのですよね。
特定の歌手を贔屓にするマフィアが登場するけれど、ちっとも血が流れない。
仲間を裏切るメンバーがいるけれど、ちっとも殺伐としない。
刑務所に出入りするけれど、ちっとも暴力的じゃない。
ネバダ州ラスベガスが言及されるけれど、誰も砂漠に生き埋めにされない。
本作のキャラクターたちは、影や欠点はあるものの、決して悪人ではない。
わたしはそこがとてもすきだなぁと思いましたし、愛おしさを感じたのですよ。
彼らは傷つくような出来事に直面しても、受け流すか身を引くか自ら泥をかぶるか、の3つのみ。
逆上して殺傷沙汰になることも、姑息な手を使い罠にはめるようなことも、親切づらしてお金を騙し取るようなこともありません。
そう、騙し取らないんですよ。 むしろ堂々とくすねます。
もうね、これはね、いいか悪いかの問題ではなくてですね。
ただ、その飄々とした立ち振る舞いになんとも言えない「ダメな子」ゆえのかわゆさというか、猛烈な「憎めなさ」を感じてしまいまして。
これは脚本や演出のうまさなんだろうなぁ。(もちろん役者さんが魅力的であることは言うまでもないのですが)
若さゆえの紆余曲折を織り交ぜつつ、物語はすこぶる穏やかで、且つしなやかに流れてゆく。
それはまるで、すてきに甘いメロディのように。
あまりに物わかりのいいキャラクターを、説明不足と感じる方がいるかもしれません。
いい人だらけという世界観に、物足りなさを感じる方もいるかもしれません。
しかしわたしは、心弾ませる旋律と、とことん音楽を愛している人たちの生きざまと、彼らが迎えた大団円が本当に心地よくて、カーテンコールのようなエンドクレジットを眺めながら、これ以上ないような幸せに包まれていたのでした。
公開規模が小さく(わたしが住んでいる中国地方でも、上映されているのは岡山と広島のみ。四国地方に至っては上映館ゼロだそうです)、なかなか観る機会がない作品かもしれませんが、もしお近くの映画館で上映されているようでしたら、是非足を運ばれてはいかがでしょうか。
「イーストウッド作品ってシリアスなんじゃ・・・」
「ミュージカルは苦手で・・・」
なんてご心配はご無用!
とってもとっつきやすくて、とっても温かい気持ちになれるハッピーな作品ですよ! 超おすすめです!
- 追記 -
・ ジョー・ペシとウォーケンさま、夢の競演!
・ でも、ジョー・ペシなんだけど中身はジョー・ペシさんじゃないの!で、ウォーケンさまはウォーケンさまなんだけど、クリストファー・ウォーケンじゃないの! わっかるかな~!わっかんねえだろうな~!!
・ オケー!オケー!オケー!(CVジョー・ペシさん)
・ 世界遺産レベルにかわゆいウォーケンさまが出演していなかったら、本作は成り立たなかったのではないだろうか。
・ ユネスコは今すぐウォーケンさまを保護してください。 そしたら毎年詣でに参りますゆえ。
・ とにかく男たちがバカでかっこよくていとおしい映画でした。 ニュージャージーから出たいと願っているけれど、同時にニュージャージー育ちであることに誇りを持っている男たち。 貧しい下町で支え合って生きてきたからこその義理堅さ・・・ うっとりしました!おすぎです!もう一度言います、うっとりしました!
・ その分女たちの扱いがあんまりな感じなんだけど、もうこれはしょうがない!『ドリームガールズ』の時の男連中も相当な感じだったし、しょうがない!
・ 自由人トミーと長年の付き合いで、だからこそイヤな所もたのしい所も全てわかった上で、自由っぷりを放置してきたニックが、ついに堪忍袋にたまった中身をぶちまけるシーンの、深刻な筈なのに内容が内容なだけに笑わずにはいられないアンバランスさがとてもおもしろかったです。 「ホテルのタオル使いすぎだろ!オレの分もぜんぶ濡らしやがって!」ってそれもっとはよつっこんどけよニック。
・ リードボーカル・フランキーを演じるジョン・ロイド・ヤングさんの年齢不詳っぷり。 「キミいくつ?」「16歳です」じゅ・・・じゅうろくぅ?!

(※どう見ても係長クラス)
・ で、そんなフランキーさんの恋女房役を演じるレネー・マリーノさんがこれまたなかなかの年齢不詳っぷり。 「2歳年上のメアリーと結婚」2歳年上・・・じゅ・・じゅうはちぃ?!

(※中堅女優並のオーラ)
・ 前述のとおり、後期のフォー・シーズンズについての知識が皆無だったため、フランキーさんがソロで発表した曲として「君の瞳に恋してる」がかかった瞬間は鳥肌が立ちましたね! そうだったのかー!
・ 「君の瞳に恋してる」といえばウォーケンさまの『ディア・ハンター』なわけで、なんというか、不思議なつながりを感じますね。
・ つながりといえば、劇中イーストウッドさんの出世作「ローハイド」が映るというサービスシーンがありまして。 過去の監督作品で、こういう「遊び」ってありましたっけ・・? うーん、なかったようが気がする。 イーストウッドさんにとっても、リアルタイムで親しんできたフォー・シーズンズ(音楽)は、自分の人生と重ね合わさずにはいられない大切なものなのかもしれないなぁ・・・と思った次第でございます。
- 追記その2-
・ 本作では、観客と演じ手との境界線を表す、いわゆる「第四の壁」と言われるものを破る演出が採られています。 演者がカメラの裏のこちら側に向かって、各々の心情や状況説明をし始めるという、おもしろい手法なのですが、フォー・シーズンズの4人のうちフランキーだけは、最後のシーンを除いて第四の壁を破らないのですよね。
・ わたしはこれがすごく不思議でした。 どうして他のメンバーは要所要所で「この時はね・・」と語りかけてくるのに、フランキーだけは壁の向こう側に居続けるのだろう・・・と。 「主役だから」(物語の核となるので自ら説明する必要がない)で済むことなのかもしれませんし、結局最後はフランキーも語り始めるので、物語に集中させるためというだけなのかもしれませんが、でも、なんでなんだろう、と思いまして。
・ で、振り返ってみると、フランキーはいつも自分の気持ちをそのまま表していたよなぁ、と。 他のメンバーは本音を隠してその場をやり過ごす場面がいくつもあったのですが、フランキーはいつも気持ちを素直にぶつけていた。
・ 間違っていると思えばNOと言うし、傷つけば傷ついたと言うし、才能は公正に判断する。 夫として父として、失敗はしたけれど、家族への愛に偽りはなかった。 どんなにひどい仕打ちを受けても、仲間を見捨てなかった。 ごまかすことなく、常に自分なりの誠意を貫いてきたフランキーには、壁のこちら側に 「ホントはこの時・・・」と説明する必要がなかったのかもしれないなぁ、と思ったのですよ。
・ あと、他のメンバーが「役」を一旦外れて客観的な視点になるのと異なり、「フランキー・ヴァリ」であり続けることで、「ああ、はやりこの人は特別な人なんだなぁ」という印象が強まりましたよね。 壁の向こうの手の届かない存在である彼を観ているうちに、いつしかわたしは、ベルヴィルの街のみんながそうであったように、「彼の才能を守りたい」と強く願いながらあたたかく見守らずにはいられなくなっていました。
・ 物語がエンディングに近づいた時、フォー・シーズンズの時間は一気に現代へと飛ばされ、年老いたメンバーがステージ上へ戻ってきます。 この時はじめて、フランキーは第四の壁を越え、彼の人生を振り返ってみせました。 それは、伝説の存在だった「フランキー・ヴァリ」から、いまなお現役バリバリで、今ここにいる歌手であるフランキーに戻った瞬間であり、わたしはその変わらぬ歌声に酔いしれると共に、悲しみや苦しみと同じだけ幸せもあっただったであろう彼の人生を心から祝福したい気持ちでいっぱいになったのでした。
- 追記その3-
・ それにしても、本作は「ザ・アメリカンドリーム」な内容でたのしませてくれると共に、「才能」を持って生まれることの厄介さも痛感させてくれたように思いますねぇ。
・ 「音楽」という神さまからの贈り物は、フランキーを導き、支えてくれましたが、そのせいで家族の信頼を失わせ、最愛の娘をも喪わせてしまう。 そしてそれは、彼を喪失に対する悲しみにじっくり浸ることも許してくれない。
・ 昔、何かの番組で「家族を喪ったとある女優が悲しみに暮れていたものの、気づくと鏡で自分自身の表情を確認していた」という逸話を聞いたことがあるのですが、フランキーもまた、落ち込んで食事も喉を通らない状態だろうと、譜面を差し出されれば音符を確認せずにはいられません。 歌を歌う気になんてなれない筈なのに、頭の中にははやくもメロディが鳴り響き、どう歌うか、どう表現するかでいっぱいになってしまう。 それは「才能」という名の「本能」なのかもしれません。
・ もちろん、そのお陰で立ち直れるということもあるのでしょうが、後ろめたさも必ずつきまとうと思うのですよね。 女優、作曲家、小説家、研究者、スポーツ選手、様々な贈り物を受け取った人たちが、少なからず経験されることなのではないでしょうか。
・ 「才能」は時に、「呪い」でもあるのかもしれないなぁ、と思いました。
- 追記その4 -
・ 史郎のつぶやきを見た瞬間、これはローハイド時代からの筋金入りのイーストウッドファンである母も連れてゆかねば・・・! と思い、「ねえねえ、映画でも行かん?」と電話をかけたところ、「クリキントンさん(※イーストウッドさんの愛称)の新作じゃろ!フォー・シーズンズじゃろ!春先からネットでチェック済みよ!」と打つ前から響くような返事がかえってきて、うちのカーチャンすげえ・・・と思いました。
・ で、鑑賞後、そんな母がにこにこしながら「まさか、青春時代に夢中で聴いていたフォー・シーズンズの映画を、クリキントンさんが監督して、しかもそれを娘と一緒に観に行く日が来ようとはねぇ・・・」とつぶやいており、なんだかいい親孝行ができた気がして、とてもうれしくなりました。 また一緒に映画行こうね!カーチャン!!


『メリダとおそろしの森』
2012年07月26日

またメリダと言い争ってしまった。
どうしてあの子はわかってくれないんだろう。
ああ、今までメリダにかけてきた言葉は、すべてあの子に届いていなかったのだろうか。そんなはずはない。そんなはずはないのだけれど。
あの子のしあわせだけを祈って、よかれと思って、でも、そうではなかったのだろうか。
幼い頃から、あの子は外遊びがだいすきで、野を掛け、森を抜け、それはもう生き生きと。
私にはまるで、大地と愛し合っているかのように見えたものだ。
あの子が男の子だったらなら、きっとすばらしく勇ましい王になっただろう。そんな風に思った事すらある。
ああ、私は間違っていたのだろうか。
将来后となるべき宿命を背負った娘に何を教え、何を説くか、その選択は実に困難だ。
正しかったかどうかの判断が下されるのは、ずっとずっと先なのだから。
私が唯一自信を持って教えてあげられるのは、私自身が歩んできた道についてのみ。
私は、人生に何の悔いもない。
愛する家族、豊かな土地、忠実な家臣、満ち足りた日々。
私が学んできた事を学ばせれば、きっとあの子もしあわせになれるはず。
そう思ってきた。そう信じてきた。
きたのだけれど・・。
・・・
・・・・あの子が帰ってきた。
よかった・・きっといつもの森に出かけたのだろうとは思ったけれど、万が一熊にでも遭遇したらどうなることか、気が気ではなかった。 こんな心配も、あの子にとっては余計なお世話なのかもしれないけれど・・。
あの子はまだ幼い。
この結婚がもたらす幸福、招きかねない災いについて、何もわかっていない。
もう一度ゆっくり、その事について話してみる必要があるだろう。
メリダ?ああメリダ、今ね、あなたの花婿候補のみなさんにお父様が接待を・・ え・・?このケーキを・・わたしに・・? まあ・・・!ありがとう!
うれしい・・・やはりメリダはやさしい子だ・・
きっと話せばわかってくれる・・
私の気持ちをわかって・・・
わか・・
・・・一服盛りやがったな!あのガキャあ!!!

(※盛られる前の王女)(※女盛り)
はい、というわけで、「娘と意思の疎通を図ることができず、ちょっとした手違いで一服盛られてしまったおかあさんがクマになってしまってさあ大変!」という殺伐ファンタジー『メリダとおそろしの森』を観てきましたよ。
あちらこちらで紹介されているあらすじを見ていると、
「ははーん、さては娘の自主性をことごとく踏みにじり、ゴリゴリのメス教育を押し付けようとするヒステリックママンがうざったいお話なんだな」
と思われてしまそうな本作。
たしかにメリダのおかあさんはめんどくさい。
人の話を聞きやしない。
しかし、アガサはそんな彼女を「全くもって理解不可能な石頭のママンではない」、と思ってしまいましたので、今回は出来うる限りエリノア王妃をフォローしてみたいと思います。
【正解がない!】
最終目的は「我が子のしあわせ」なんですよね。 それはもう、ひたすらに。
問題はどのような子育てをすれば、そこにたどり着けるのかがさっぱりわからない事。
だからエリノア王妃は、唯一自信が持てる「自分の経験」を元にするしかなかったのではないかと思うのですよ。
ある程度の歳になったらきちんと嫁入り修行をし、国の平安に繋がるような縁談を選択し、子を産み、夫を支える。
王家の娘として、何も不自然な事などない。
もちろん、当の娘さん(メリダ)にしてみれば「ちょ・・まてよ!」という教育法ですよ。
自分の意志もへったくれもない、敷かれたレールの上を走らされるだけの簡単で苦痛なお仕事ですよ。
アガサも、我が子にこの手の押し付けをしようという気は全く湧かないのですが、それでも、エリノアさんの気持ちもわからんでもないのです。
だって、ホントに、どうするのが正解なのかがわからないから。
よかれと思ってやっている事のどこまでがひとりよがりに過ぎないのか、魔法つかいでも誰でもいいからズバっと教えてくれるものなら教えてもらいたいものですよね! ね、エリノアさん!
【全部ダメって訳じゃない!】
メリダが幼かった頃のエピソードから始まる本作。
エリノアさんはやんちゃなメリダと隠れんぼの真っ最中です。
机の下に隠れるメリダを引きずり出して甘噛み。 はしゃぐメリダ。 「がうがう」とかぶりつくエリノアさん。
その姿を見たアガサは、エリノアさんは結構付き合いがいいタイプなのではないか、と推測しました。
その直後のシーンでも、誕生日プレゼントとしてメリダに弓矢を渡す夫に苦笑いするものの、「そんなもんアカン!」と取り上げるような無粋なまねはしないエリノアさん。
アガサが思うに、エリノアさんによる本格的嫁入り教育が始まったのは、メリダが思春期を迎えた頃からだったのではないでしょうか。
お年頃のメリダに備わっている弓矢の技術や乗馬の腕前からも、エリノアさんが本気でメリダの行動をすべて押さえつけていたとは思えないのですよ。
きっと「まったくもう・・あの子は・・」ってため息つきながらもある程度は見逃してあげていたんですよね! ね、エリノアさん!
【ホントはわかってたんです!】
「独善的」を「よかれと思って」に脳内変換し、メリダにガミガミ言い続けてきたエリノアさん。
断固として結婚を拒絶する娘との口喧嘩の末、自分が家族への想いを込めて作ったタペストリーを切り裂かれてカッとなり、メリダが大切にしていた弓を暖炉に放り込んでしまいます。
ショックを受けたメリダは部屋から飛び出してしまいますが、エリノアさんもまた、自分がやってしまった事に驚き、慌てて弓を火の中から拾い出し、深い自己嫌悪に陥るのでした。
メリダにとって弓がどれだけ大事なものか、エリノアさんにもわかっていたのですよね。
でも、売り言葉に買い言葉的なアレで、ついやってしまった。
エリノアさんは完璧な母親なんかじゃない。
自信満々に見えても、常に試行錯誤しながら家族を支えようとしていたんじゃないか。
ほんともう、わからんでもないよエリノアさん! よしわかった、今度一回飲みに行こう!!
【自尊心を捨ててみた!】
おそろしいクマの姿にその身を変えられたエリノアさんは、逃げ込んだ森の中、それでもかわらず母で有り続けようと、拙い前足づかいでメリダの朝食を用意します。
でも、外遊びの経験が乏しいエリノアさんには、食用可能な木の実の判別はおろか、ひとりで川魚を捕らえる事も出来ません。
ここで俄然活きるメリダのアウトドアスキル。
教えられるまま川に入り、魚を相手に格闘しているうち、エリノアさんの中で何かが変わってゆきます。
そして、川を後にする時、王妃の冠を置き忘れた(手放した)母が「一国の責任者」としてではなく「ただの母」として娘の気持ちを思いやった時、その心の変化は確実なものとなったのです。
無理矢理に、姿をクマ(非人間)にされたからこそ、無理なく捨てる事が出来たもの。「王妃」としての「自尊心」。
もうこの時点で、エリノアさんの魔法が解ける要素はほぼ揃っていたと言えるのではないでしょうか。
ていうか、婚約者候補が来る直前ではなく、もっと早くから双方落ち着いて将来の事について話あっていれば、意外と簡単に解決してたんじゃないのエリノアさん! 「どうせ反対されるからギリギリまで伏せとこう」っていう作戦は、たしかにアガサも使う事あるけどさぁ!
わかった、わかったから今度ステーキガストで肉とサラダバーでもつつきながらゆっくり愚痴大会しよう!
・・・いかがでしょうか。
エリノアさんの子育て奮闘記、少しは感じ取って頂く事が出来たでしょうか。
何度も言うようですが、エリノアさんのメリダに対する接し方は、あまり褒められたものではないと思います。
「独善的」と言われれば、返す言葉もないかもしれない。
でも、その裏には、メリダへの溢れんばかりの愛情があった。
だからこそ、ほんのちょっと環境が変わっただけで、ふたりの信頼があっけなく修復されたのではないでしょうか。
一度、鎧のように身にまとった「自尊心」を捨てるのはたやすいことではない。
だからこそ、それをポーンと脱ぎ捨てる勇気を持たなければないらない。
愛する人の心を傷つけてしまう前に。
そんな風に思いながらちびっこたちと手をつなぎ、劇場を後にしました。
― おまけ ―

・ メリダにあてがわれた花婿候補のお三人方。 ・ ・ ・ 選 択 肢 少 な っ !!!
・ なんぼなんでもメリダの性根が曲がりすぎ。 政略結婚がいやで、なんとかおかあさんに考え方を変えて欲しい・・というトコまではわかるけど、森の奥で出会った怪しげな魔女に魔法薬の製作を頼むとかないわー。 もし悪い魔女だったらどうすんのさ。 あと、欲しくもない木彫り人形を大人買いするとかもないわー。 おまえはパリス・ヒルトンか。パパのカードで一括購入か。
・ で、超あやしい方法で入手した魔法のケーキを、なんの躊躇もなくおかあさんに食べさせ、その後おかあさんが体調を崩してゲーゲーやってるのに「なにやってるのママ!」と心配する素振りもないとか、マジ鬼畜ですよね。
・ ちなみにそのケーキがヒトをクマに変える事がわかった後も、そのまま台所に放置させて弟たちに食べさせるとか、本当におそろしいのは森とちゃいまっせ!メリダの腹ん中でっせ!
・ 上にも書きましたが、メリダとエリノアさんの関係修復の段階がえらくあっさりしていたと思います。
メリダ 「結婚相手ぐらい自分で決めましょうよ。自分の人生なんだし。」
花婿候補①「いいねー!オレもそう思う!」
花婿候補②「オレもそれがいい!」
花婿候補③「んだんだ!」
メリダ父 「よく言ったわがむすめよ!」
領主たち 「さすがは姫ねえさま!」
エリノア 「それでいいのよ・・メリダ・・」
そんなんでよかったのかよ・・・
・ 7歳児までもが「おかあさん、なんかこんかいのピクサーみじかくない?」と漏らしてしまう程、小粒感が否めなかった『メリダとおそろしの森』。 しかし、そのこじんまりとした感じが、「どこの家庭にもありそうな家族間のすれちがい」を表しているようで、アガサはうんうん頷いたり、えーと仰け反ったり、しくしく涙をこぼしながら、たのしく鑑賞しましたよ。
・ 背景やメリダの髪質の美しさも申し分無し。 『トイストーリー』の新作短編アニメと合わせて、夏のちょっとした息抜きによろしいのではないでしょうか。


『チャーリー・バートレットの男子トイレ相談室』
2010年12月02日

あらすじ・・・
とある、
大金持ちで、頭脳明晰で、機転が利いて、気さくで、服装と髪型でイケメンになりうる17歳の男子が、
転校先の高校であっという間にみんなの心を掴んで、可愛いクラスメイトとも相思相愛になって、パーティーに次ぐパーティでさらに人気者になって、友達の信頼を得まくって、彼女のお父さんにも気に入られて、自分の天職に目覚める
という、見ようによっては超リア充物語。
よし、わかった。 責任者ちょっと表でろ。
WOWOWで録りっぱなしになっていたのをふと思い出したので観てみました。
さっきの冗談です。 責任者は表出なくていいです。 すごく面白かったです。
・・ただちょっとね、学園モノを見てると、己のそれを思い出して、そしたらしょっぱい汁が目から垂れてきちゃうよね・・・ って、それだけなのですよ・・・ はいはい、しょっぱい話はこのくらいにしておいて。
アメリカの学園生活モノ、というコトで、勝手に『ナポレオン・ダイナマイト』や『スーパーバッド』のような“モテない・サエない・パッとしない”男子が一念発起する話なのかと思い込んでいたのですが、本作の主人公・チャーリーは、体格こそひょろのっぽのギーク系なものの、社交スキルが高く、誰にでも物怖じせず明るい笑顔で話しかける、どっちかと言うと学園の人気者タイプなのですよね。
そんなチャーリー。 転校初日こそジャイアン系統の男子にボコられますが、すぐその対応策を講じ、豊富な資金源(ママのクレジットカード)と巧みな会話術(かかりつけ精神科医とのやり取りで身に着けた)と潤沢なお宝(精神科医からちょろまかしたクスリの数々)を武器に、あっという間に校内一の人気者へと上り詰めます。
“人気者になりたい”という渇望だけを原動力に。
学園生活に於いて若者達に突きつけられるのは、“生きるか死ぬか”ではない。“人気者か人気者でないか”の2択なのだ。 というチャーリーの強迫観念にも似た願いは、大人になった私から見ると
「いや、人気なんてなくてもなんとかなるから」
とか
「友達100人出来るかな、ってアレ、ウソだかんね。そもそも1学年1クラスしかない学校なんて同級生かき集めても30人強だし」
みたいに水を差したくなってしまう様なモノなのですが、実際自分の学生時代はどうだったのかというと、やはり結構重要だったような気もしまして。
「人気者になりたい」とまではいかないものの(それが高望みだという身の丈くらいは知っていた)、お昼にお弁当を一緒に食べる友達、体育の授業で組みになる友達、文化祭の時一緒にドーナッツを売る係になってくれる友達・・・。それらを果たして、こんな自分に見つける事など出来るのだろうか? 何気なく話しかけるコトが出来るのだろうか? という点は、結構大きな課題だったわけで。
その他にも、親のコトや恋愛のコトなどなど、大人から見れば一笑に付されてしまう様な悩みに悶々とし、どこに活路を見出せば良いのか判らず震える15の夜や、夢見がちなオレがセンチなため息をつく17歳の地図を手探りで進むしかない学生時代。 あ、現役ハイティーンのみんな!昭和のネタだけどドンドンついて来てね!
“対人に関する不安” というのは、要するに “自分は誰かに必要とされているのだろうか” という不安でもあるわけで。
チャーリーに関して言うと、脱税で絶賛ムショ暮らし中の父親に代わって鬱病の母親の世話をしなければならない、という“責任”を受け入れているものの、その反面、子どもなのに完全に子どもでいられない、という寂しさに、常に苛まれているのではないか、と。
“誰かに認められる”という満足感で、なんとかその穴を埋めようとしているのではないか、と思うのですよ。
もちろん、母親には自分の存在は欠かせない。 だけど、“保護者”としての自分ではなく、たった17歳ぽっちの学生としての自分は、誰かに必要とされるのだろうか。 そんな不安に押し潰されない為にも、チャーリーはひたすら“人気者”になるコトを願う。
周りのみんなが、自分達よりも抜けて大人びている(保護者としての役割を担っているからしょうがない)チャーリーを頼りにし、閉塞した学校生活を打ち破る救世主のごとく熱狂する様を見ながら、どこか寂しげな表情を浮かべるチャーリーは、結局、願うモノは手に入れたものの、その先にあった不安を解消する事は出来なかったのですよね。
だって、子どもとして認められていた訳ではないから。
子どもであるチャーリーを受け入れて貰えた訳ではないから。
いや、やっている事はどうしようもなく子どもじみているのですけどね。
精神科医を騙して手に入れたクスリを、見よう見まねで学生にばら撒く(売りつける)とか・・・ マジ死人が出るですよ!!
転校する前の私立学校を退学させられるきっかけになったのも偽造免許書の作成でしたし、なんかもう、相手が望むモノを手段を問わず提供して支持を得る、という無責任極まりないやり方が、とってもガキです。 今さえよければそれでいいじゃんいいじゃんスゲーじゃん。
で、そんなチャーリーの不安を救うコトになるのが、これまた“不安でいっぱいな大人”なトコロが実に素晴らしいのですよ。
大人その1。 歴史の教師として生徒の信頼を得ていたものの、ある日校長に抜擢され、ストレスから酒びたりの日々。 おまけに妻にも逃げられ、自棄になって銃を振り回すというドン底生活を経て、なんとかカウンセリングと投薬で通常生活に復帰した校長先生。 実は、チャーリーにとって初めてのガールフレンドとなったスーザンの父でもあり、娘をとられた腹いせに、にっくきチャーリーを呼び出して恫喝するという大人気ない攻撃を仕掛ける。
大人その2。 何不自由なく暮らしてきたある日、頼りきっていた夫が脱税で収監され自立を余儀なくされた母。 ショックから鬱病になり、カウンセリングと投薬でなんとか通常の生活を送っている。 おおらかで優しくて世間知らず。
この2人が、チャーリーの子どもとしての未熟さや早計さや純粋さを認めるコトで、自分の中の不安と少しばかり折り合いをつけ、同時にチャーリー自身の心も包み込んでしまう、という裏技を披露。
不安というものを、完全に拭い去るコトは不可能だと思います。 人生は、不安との闘いの連続だと思うから。 時に勝ったり、時に挫けたりしながら、成長してゆくものなんじゃないかと思うから。
ただ、その闘いの途中に、ぽふ、と背中を押してもらえると、何倍、何十倍もの兵力になって自分を支えてくれるコトがあるんですよね。
年上でなくてもいい。 えらい人でなくてもいい。 カウンセラーでなくてもいい。
同じ不安を抱えるもの同士が、ただ相手を認めてあげるだけで、人生って随分と楽になったりするものなんじゃないでしょうか。
最後にスーザンが父に向けて歌う曲の「なろうと思えば何にだってなれる。しようと思えば何だって出来る。」という歌詞がダメ押しのカウンターパンチとなって、明日への活力になること間違いなしのステキな作品でした。
リア充になれるもなれないも自分次第。
ただ、なろうと思って一歩踏み出せば、誰にだってなることが出来るんだ、というコトだけ知っておけばいい。
あきらめたら、そこで試合終了ですよ!
―おまけ―
・ 時々おっさんみたいな7:3ヘアーになるチャーリーも心をくすぐるのですが、私はもう圧倒的に校長先生役のロバート・ダウニー・Jrに共感しまくりでして。
中間管理職ならではの苦悩から酒びたり、娘を思う親心から酒びたり、理不尽な人生の仕打ちに冷静になり切れず酒びたり、などなど、実生活での経験をフルに活かした精神不安定演技が最高でした。
大人もさぁ、たいへんなんだよな! わかる!わかるよ!!
・ 本作でチャーリーが売りまくるリタリンという薬は、日本でもナルコレプシー(睡眠障害)や18歳未満の注意欠陥多動性障害(ADHD)患者に使われている(最近は小児用の薬はコンサータやストラテラという薬のほうが主流なのかも)中枢神経刺激薬で、チャーリーも精神科医にADHDであると診断(誤診でしたが)され、この薬を処方されていました。
ADHDは、脳内“シナプス”の間にあるドーパミンなどの神経伝達物質の濃度が低く、伝達の効率が悪いことが原因なのではないかと考えられており、中枢神経刺激薬を服用することでドーパミンの濃度を高めてやろうというのが、この薬の目的な訳ですが、ドーパミンが出るというコトは興奮する、というコトでもあるのですよね。
劇中、チャーリーがハイになれる合法ドラッグとして売りまくった結果、ラリった高校生が裸で躍りまくるパーティシーンがありまして、かなりヤバいなぁ・・という印象を受けました。 実際問題、リタリンは依存性を指摘されたコトもあるようですし。(今は専門医の登録制での販売となっているようです)
・・・・「ナルコレプシーや注意欠陥多動性障害の治療を目的にした中枢神経刺激薬」・・・
・・・「興奮作用がきわめて強い」・・
・・「依存性」・・かぁ・・・どっかで聞いたような・・・
・・・・!!
みんな逃げてー! クールジュピターよー!!
(※「ダブル」に登場する新型ドラッグ)
と言う訳で、この映画を見た後は是非、リタリンそっくりな新型ドラッグが登場する深町秋生先生の傑作小説「ダブル」を合わせ読んで頂ければ、ドラッグの恐ろしさを痛感すると同時に、“容量・用法をまもって正しくお使いいただくこと”の重要性を再認識して頂く事が出来るのではないでしょうか。
チャーリー・・・ おまえ鬼やな!!
チャーリー・バートレットからヤクを仕入れてハイになっていたみんなが、その後元気に暮らした事を強く願いつつ、今回の感想は終了させて頂きたいと思います。


『ウィッカーマン』(リメイク版)
2008年11月18日

つまり、これすなわち全編が壮大な自虐ネタだったと言う事か!
あらすじ・・・
仕事の出来る男・ニコラス刑事は、ある日のパトロール中、謎の事故に遭遇する。
トラックに追突された車に乗っていた母子を助けようとしたが、実はその車には人っ子一人乗っていなかったと言う謎の事故だ。
謎が謎を呼び、ニコラス刑事は只今絶賛謹慎中。
そんなニコラス刑事の元に、昔つき合っていた彼女から、救いを求める手紙が送られてきた。
結婚寸前にニコラス刑事を捨てた彼女は、今は生まれ故郷の島に住んでいるのだが、なんとその狭い島内で一人娘が行方不明になってしまったというのだ。
手痛い別れ以来、何年も音沙汰が無かった元カノだったが、ニコラス刑事は依頼を快承。
何故なら彼は、ニコラス刑事だから。
友達が止める声に耳を貸さず、単身島に乗り込むニコラス刑事。
その島は、個人が所有する私有地だったのだが、ニコラス刑事には関係ない。
何故なら彼は、カル=エルの父・ニコラス刑事だから。
元カノにも再会し、早速捜索を開始するニコラス刑事。
人んちに上がり込み、学校で生徒に暴言を吐き、島民から総スカンを食っても、国家権力を笠に着て堂々たる態度のニコラス刑事。
ハチに刺された時は危うく死ぬかと思ったし、地下水道に閉じ込められた時も危うく死ぬかと思ったけど、どっこい元気だニコラス刑事。
何故なら彼は、コッポラの甥でソフィアのいとこ・ニコラス刑事だから。
島中をくまなく探しても、一向に見つかる気配の無い少女。
薄々感づいてはいたが、どうやら少女はニコラス刑事の一粒種だったらしい。
だから何だとばかりのニコラス刑事。
むしろドンと来いだよニコラス刑事。
そして、あっちこっちに不法侵入した結果、どうやら近々行われる豊穣祭で、以前行方不明中の娘が異教の神に捧げる生贄にされるらしい事が判明。
そうはさせるかとニコラス刑事。
捜査令状は無くても、オレのバッジが黙っちゃいないぜとニコラス刑事。
すっかりやる気を無くしている元カノはさておき、島民から奪った熊の着ぐるみを装着して大ハッスル。
何故なら彼は、オスカー俳優・ニコラス刑事だから。
伝家の宝刀・ニコラス刑事なのだから・・・。
なんだかよく判らないあらすじでアレなのですが

オスカー俳優☆ニコラス・ケイジが、爆笑コントに出演していると聞いたので、張り切って鑑賞してみました。
これは確かに面白い。
爆笑に次ぐ爆笑で、ケイジがオスカー俳優だと言う事を思わず忘れてしまいました。
というか、ここ最近思い出す事がなかったのですが、確か獲ってましたよね?オスカー。
私の妄想じゃんないですよね?
あと、ファンタスティック4に銀色の全身タイツで出ていたのは、ケイジじゃないですよね?違いますよね?
それは私の妄想ですよね?
と言う訳で、妄想ついでに、この映画を観た事もこの際すっぱり忘れてしまおうかと思ったのですが、それでは貴重な夜の2時間弱が無に帰してしまうので、サクっとレビューしてみます。
なんかもうヒドイ。
以上です。
サクっとし過ぎですか?
けっこう有名なので、ご存知の方も多いと思いますが、本作は73年にイギリスで作られたカルト映画のリメイクだったりします。
元ネタの方は、ゴリゴリのキリスト教徒(童貞)が異教信仰の離れ小島に乗り込み、まんまと生贄にされるという大らかで愉快な作品でしたが、さて今回のリメイクはどうだったのでしょうか。
オリジナルが“キリスト教VS異教”という、いかにもバチカンがキーキー言いそうな構図を用いていた為、廃盤や編集し直しの刑に処された事を教訓にしたのか、今回は宗教色がかなり薄まっています。
で、その代わりに島を蜂の巣に見立てて、トップに君臨する女王蜂の元、メスたちがせっせとタネ(子種)の確保に飛び回るという、いわゆる“女怖い映画”に改変したのですね。
つまり、ニコラス刑事は憐れな雄蜂。
元カノ(次期女王蜂)に目をつけられ、我知らず種付けに一役買っていたニコラス刑事は、オスの宿命でそのままポイ捨てされていました。
しかし、数年が経ち、女王蜂たちはせっかくいいタネを持っていたニコラス刑事をそのまま放置しておいてもアレなので、折角だから有効活用しようか? という事で策をめぐらします。
元カノの名前で島におびき寄せ、すぐ生贄にするのもつまらないので、
カッペどもの陰謀に巻き込まれそうな一人娘を颯爽と助け出す俺様。
といういかにもアメリカっぽいヒーローの役割を与え、散々その気にさせといて、ついに娘と対面して大盛り上がりのトコロを絶望のズンドコに叩き込む。
なんぼ程回りくどいやり方やねん、と。
それ、何プレイやねん、と。
お前らそんなにニコラス刑事が嫌いか?
息子にカル=エルって名前を付けちゃう痛(イタ)親やからか?
身の程知らずなキャスティングに挑戦し続けるからか?
それとも、フリーダム過ぎる生え際のせいか?
で、その結果がこれだよ!ヾ(*`Д´*)ノ(これ=ラスベリー賞5部門ノミネート)
いや、もしかすると、この作品に関わった事全てが、ニコラス刑事捨て身の自虐ネタだったのかもしれません。
ヒーローどころか、「権力を笠に、高圧的な態度で威張り散らす」という共感しずらいキャラクターを演じ、
熊の着ぐるみで女子供を殴るという、子供さんのトラウマになりかねないシーンにも耐え、
「How’d It Get Burned?!(なんで焦げてんだ?!)」というセリフが「ハゲでバーン!」にしか聞こえないという、日本人向け空耳サービスにも挑戦し、
最後は逆さ吊りで火あぶりの刑と言う、なんの旨味もない末期を迎え、
で、出来上がった作品で自らのキャリアを破壊する、と。
なんという自分責め!((((;゜Д゜)))ガクガク
日本の
じゃないと、兄さんがただの無駄死になってしまうじゃまいか! (※死んでない)
いやぁ、それにしてもなんと言うかヒドイ映画でしたね。(さっきも書きましたっけ?)
唯一の救いは、本作がWOWOWでの放送だった事でしょうか。
新作料金でこれを借りでもしていたら、今頃TSUTAYAを焼き討ちにしていたかもしれません。
と言う訳で、そんなこんなも人生なので、ニコラス刑事のおもしろ映像が見れただけでもありがたかったと思い、来週までには記憶の彼方に葬り去る事にします。
ありがとう、兄さん・・・
芸に生きた兄さんの死に様、しかとこの目に焼き付けやしたぜ!!(⊃Д`;)(※だから死んでない)
余談ですが、冒頭に貼っているニコラス刑事のイラストはあまりに怖いので、近日中に外す事にします。
やっぱイラストはかわいいおにゃのこがいいなぁ。
皆さんの夢に、ニコラスのでこっぱちが出て来ませんように・・・。
出てきてしまったらどうもずびばぜん (´・ω・`)
次回(イラスト)予告: 『映画 Yes! プリキュア5 GoGo! お菓子の国のハッピーバースディ♪』

