『チョコレートドーナツ』
2014年12月22日

なんでじゃい! なんでなんじゃい!!
観終った瞬間、声にならない叫びをあげながら、そこいらじゅうにある物を引き千切っては投げ、また引き千切っては投げしたくなってしまった。
これはなんなのか。
この気持ちをどうすればいいのだろうか。
『チョコレートドーナッツ』(原題Any Day Now)は、わかりやすい物語だ。
「ジャンキー」 の 「シングルマザー」 が 「育児放棄」 した 「ダウン症」 の子どもを 「ゲイのカップル」 が引き取り、保護者になろうとするものの、周囲の偏見に晒され、不当な扱いを受け、結果一番弱い子どもが犠牲となる。
わかりやすく「」(かぎかっこ)がついた、とてもわかりやすい物語だ。
そのわかりやすさは、多くの人の魂を揺さぶり、あふれんばかりの涙を誘うけれど、果たしてわたしたちは、そのわかりやすさに惑わされてはいないのだろうか、とふと思った。
かわいそうな「障害児」。
迫害された「性的マイノリティ」。
社会保障の網から零れ落ちた「社会的弱者」。
彼らの姿に涙する時心のどこかで、「自分とは違う世界」というバツの悪い安心感を抱いてはいないだろうか。
目の前の弱い者をただ守りたい、ただ愛をもって育てたい、という二人の人間の純粋な願いは、様々な悪人によって踏みにじられる。
しかし、本作に登場する悪人が行うのはどぎつい蛮行ではない。
ゲイカップルにあけすけな罵詈雑言をぶつける訳ではないし、石を投げつける訳でもない。(彼らにハッキリと罵声を浴びせたのは、ジャンキーの母親のみだった)
本作の悪人たちは、社会的地位があり、温かい家族を持ち、他人に寛容な態度を持っていることを自負している悪人たちは、ただなんとなく、自分とは違う世界の彼らに感じた違和感を「アドバイス」という形で示しただけ。
「なんかやだな」 「なんかキモいんだよね」 「なんか違う気がする」
という、たったそれっぽっちの小さなトゲが、愛をはぐくもうとする人間の儚い夢をズタズタに引き裂いたのだ。
悪意ではなく善意で。
差別ではなく区別で。
偏見ではなく客観的事実として。
もしくは、ほんのちょっとの違和感で。
わたしたちはいつでも、自分が持っている「普通」というものさしで、知らない誰かをはかろうとしてしまう。
自分が「問題ない」と思っている言葉なら、他人を傷つけない?
面と向かって「死ね」と言った訳じゃなし、謝る必要なんてない?
性差別ではないから? 人種差別ではないから? 職業差別では、嗜好の差別では、わかりやすい「」でくくられた弱者ではないから、自分のそれは「悪意」ではない?
二人の人間と、小さな一人の人間が一生懸命築き上げかけた家族は、あっけなく壊された。
彼らがゲイでなければ家族は守られていただろうし、子どもが障害を持っていなければ母親は育児を放棄しなかったかもしれないし、母親が社会的に保障されていれば全ての悲劇は防げたのかもしれない。
けれど、これは決して特別なことではないのだと思う。
「」の中に入る言葉はなんだっていい。
いつ、どこで、わたしたちの不寛容さが見知らぬ誰かを追い詰めているかわからないのだ、と気づくことでしか、この世界は変わらない。
つらすぎる物語は終わり、画面にふたたび「Any Day Now」というタイトルが浮かび上がる。
このお話の舞台となった1970年代から、今私たちが過ごしている2010年代。
「そこはどうですか?」 と問いかけられているような気がした。
確かに変わった。 けれどまた、もしかしたら、何も変わっていない。
人々を、自由からは程遠い窮屈な「普通」という世界に閉じ込めている檻を、壊してあげよう。
あなた自身を、解き放ってあげよう。
アラン・カミングの穏やかで力強い歌声が、何度も何度も胸を締め付ける。
いまから始められる。
いつからだって、始められるのだ。


『SHAME -シェイム-』
2013年05月26日

あらすじ・・・
男女も2次元とか3次元とかも問わず、とにかくやりまくりな日々を送る平成の火野正平ことブランドンさん(中の人:マイケル・ファスベンダーさん)のおうちに自傷癖のある妹が乱入します。
セックスは苦行なのかもしれない、とわたしは思います。
そこにはまず最初から、とんでもなく高いハードルがそびえ立っている。
そう、「すきな人の前で素っ裸になる」という試練です。
電気を消せばいい。 と、あなたは言うでしょう。
されど、裸は裸。
薄暗い部屋の中、だいすきな人に「パット」という後方支援を失い意気消沈したおっぱいを曝け出さなければならないという苦しみ。
相手の瞳の奥を、「無駄毛の処理あまくね・・?」という失望の影が横切るのを、目の当たりにしなければならないという哀しみ。
なんとかハードルを超えると今度は、「日常生活ではまず披露する事のないアクロバティックな体勢の披露」という試練が待ち構えています。
それは人体の構造上、仕方のないことなのかもしれない。
合理的に結合する為の、最善の方法なのかもしれない。
しかし、そのさまはまるで理科室で解剖台の上に乗せられたカエルではないか。
何が悲しゅうてこんな無様なかっこうを・・・ きしむベッドの上でいくら優しさを持ち寄ったところで、そんな思いを払拭することなど出来ようもありません。
そして、ポージングのことは観念できたとしても、どうしても諦めきれないのが顔です。
この日の為に、だいすきな人に「かわいい」と思われたいが為に、塗りに塗ったファンデーションと重ねに重ねたつけまつ毛。
控えめだけどしっかり自己主張するグロスが、すべて台無しになってゆく。
それはまるで、いたずらな波に弄ばれる砂の城のよう。
念入りにキメ込んだ髪型も今は、見る影もない。
ナニをアレしようものなら、そんな前衛絵画メイクのままで、さらに間抜けな顔を見せなければなりません。
鼻の穴を広げて。
時には白目になりながら。
ああ恥ずかしい。 穴があったら入りたい。 まぁ、今は穴に入れられてるんだけども。
これを苦行と言わずして、何を言うというのか。
本作の主人公・ブランドンさんは、何かにとりつかれたようにセックス浸けの日々を過ごしています。
仕事をしていても、家に帰っても、電車に乗っても、街を歩いていても、頭の中は常にそれのことばかり。
マラソンをして紛らわせてはみるけれど、下半身で燻り続ける炎をおさめる事は出来ない。
そしてそんな自分を罰するかのように、激しくナニをこすり上げるブランドンさん。
商売女を相手に、会社の同僚を相手に、通りすがりのゲイを相手に、インターネットの出会い系チャットを相手に、妄想を相手に、出して出して出しまくるブランドンさんの表情は、快感ではなく苦悶で激しくゆがみます。
それはまるで、苦行のよう。
どうしてブランドンさんは苦行にチャレンジしているのか。
セックス浸けな自分を恥じ入りながらも、同じ「セックス」で自らを鞭打とうとするのはなぜなのか。
その謎を解く重要な人物として登場するのが「自傷癖のある妹」な訳ですが、この二人の関係は作中ハッキリとは物語られません。
ただ、想像するに、30歳も越えようかという兄の前でどうどうとおっぱいをさらけ出したり、まるで「恋人」のように甘えてみたり、兄の自慰をいじわるく嗤ってみせる妹と、そんな彼女の前で感情を顕に瞳を潤ませる兄は、超えてはならない一線を越えたという過去があるのではないかなぁ・・と。
もともとセックス依存症だった兄が手を出したのか、奔放な妹が誘ったのか、はたまた一度も登場しない(存在すら感じさせない)彼らの親が関係しているのか、それは定かではありませんが、彼らは一度、男女の関係になってしまい、その罪悪感がゆえに兄は妹と距離を置いたのではないでしょうか。
セックスを愛し、セックスを憎み、セックスによって自分を傷つけようとする兄。
一方、妹はもっと無邪気に、自分を愛してくれる誰かを求め、その為にいとも簡単にセックスをし、しかし結局誰も得られることはなく、人生に絶望して手首を切り裂く。
ブランドンさんにいつか、苦しみから逃れられる時は訪れるのでしょうか。
ブランドンさんの妹の心に空いた穴が、愛で満たされる日はやってくるのでしょうか。
本編の最後まで、彼らの人生に対する明確な答えは示されませんでしたが、男ではなく「兄」として妹を見舞うブランドンさんの姿は、かすかな可能性を帯びていたように見えて、もしかしたら彼らは少しだけ前進したのではないか、と。 兄妹として、あなぼこだらけの家族として、支え合い生きてゆくことが出来るかもしれないのではないか、という気がして少しだけホっとしたアガサだったのでした。
あとね、ひとつだけ言いたいんですけどね、いっかいカウンセリングとか行ってみたらいいんじゃないかな! ごめんなさいね、マジレスしちゃって!
「こんな生き方しか出来ない自分が恥ずかしい・・・」「羞恥プレイだからこそ興奮するのだよ・・・!」「自慰を見られて恥ずかしい・・」「ここぞという時に中折れしちゃうだなんてなんたる屈辱・・」などなど様々な種類の「シェイム」が登場する所がとても面白く、人間の営みとは「恥と共に生きること」なのかなぁ・・ と思ってしまいました。
悔いたり開き直ったり赤面したりしながら、それでもなお、そうやって生きてゆくしかないわたしたち。
まあね、そういう不完全でいびつなトコロが、人間の魅力でもあるのでしょうけどね。
あと、「苦行」と書きましたが、世の中にはその苦行さ加減にたまらなく興奮する、というどこかのセノバイトみたいな嗜好の方もいらっしゃるので、なんというか、セックスってむずかしいですよね。
まぁなんだ、みなさんもそれぞれの好みを確認しあって、すてきなセックスライフを!(どういうまとめなんだ・・)
-追記-
・ 映画の冒頭、画面の上をいったりきたりするファスベンダーさんのナニが大写しになるのですが、あまりにそれしか映らない為、色んな意味でオラわくわくしたぞ!
・ まぁ、モザイクありだったので実質上なにがなんだかさっぱりだったのですが・・・ だいじょうぶ!オレには想像力という翼がある! モザイクをかけられたって、まだ飛べるさ!
・ 会社のパソコンにエロ動画を保存しておくのはよくないと思いますが、それをチェックした上で本人に「性欲の鬼め!」と罵声を浴びせる上司もどうかと思いますね。 あなたたちの中で無修正ポルノにお世話になったことのない者が、まずこの者に石を投げなさい・・・
・ それにしても、見つめるだけで女性をジュン・・ってさせてしまうブランドンさんは、どこかの島でジュクジュクの実的な何かを食べちゃった系なのだろうか。 ・・快楽王に、オレはなる!
・ どういうまとめなんだ・・・


『引き裂かれた女』
2012年12月05日

「偉大な父親と資産家の母親の財産で自由気ままに生きている甘ったれのボンボン」
VS
「多くの人から尊敬される著名な作家だけど性欲の鬼でへんたいSEXクラブ会員」 ファイッ!!
あらすじ・・・
テレビのお天気キャスターとして、日夜おっさん連中のハートを鷲掴みにしているガブリエル。
ある日彼女は、インタビュー番組に出演すべくテレビ局を訪れていた作家のシャルルと出会う。
自分の母親よりの年上のシャルルに、どこかしらジュワっときてしまうガブリエル。
その後彼女は、母親が営む書店でシャルルのサイン会が開かれる事を知り、好奇心から会場に向かう。
無礼なファンにも大人な対応をみせるシャルルに惹かれるガブリエル。
そしてシャルルもまた時を同じくして、若く、美しく、瑞々しいガブリエルに性的な意味でロックオンしていた。
新刊をプレゼントし、週末開かれるオークションにガブリエルを誘うシャルル。
早くも夢ごごちのガブリエル。
一方、そんな二人を苦々しい目つきで眺める不遜な若者がいた。
彼の名はポール。
実業家で大富豪だった両親の金で、やらかし放題な怠惰の日々を送るポールも、実は書店でガブリエルに一目惚れし、なんとか彼女をモノにしたいと熱望していたのだ。
割り切った関係で済ます気満々のシャルルと、典型的な「奥さんと別れて私と一緒になって」タイプのガブリエル、そして苦労や我慢を知らないハイソサエティ・ニートのポール。
こじれる可能性しか感じられない3人の、複雑な恋愛劇の行く末は・・・。
【今日のまとめ/ヤリチンじじいはじじいなだけに性質(タチ)が悪い!勃ちはいいけども!】
真っ赤に加工された風景に被さるトゥーランドットの調べで始まる本作。
田舎道を走っていると思われる車の、フロントガラスから見える景色。
それがなぜ真っ赤なのか。
高らかに鳴り響くソプラノは何を意味しているのか。
いきなり戦々恐々としてしまいます。
しかし、誰かの別荘とおぼしき一軒家に到着した途端、画面の色調は元に戻り、アリアが終わるのを待ってから女性の指がオーディオのスイッチを消す。
その後紹介されるのは、奥さんをこの世の何よりも愛し、崇拝している有名作家と、彼らとフランクな付き合いを続けているらしき女性編集者。
不穏な気配など感じられない、むしろケラケラとした軽いやりとりが繰り広げられる。
「うわー油断の出来ない映画だなー」と思いました。
この愛妻家の男性こそ、のちに世の中のドロドロを知らない健気なガブリエルにあーんな事やこーんな事を(性的な意味で)手ほどきし、さんざん味わった挙句「じゃ、ぼくはこの辺で」とばかりにボロ雑巾のごとく廃棄するクズ中のクズ、キング・オブ・クズことシャルルさんなのですが、なんかもう最初からそうしそう(ポイ捨てを)な雰囲気がプンプンと漂っていますので、観ているこちらはガブリエルさんが不憫でなりません。
初対面の時は関心がなさそうな態度で。
再会した時は目ヂカラ全開でフェロモンを放出。
「ドキ!金持ってそうなおっさんだらけのオークション大会」という上流階級な遊びに誘い、舞い上がった所ですかさず性交渉。
しかし、すぐに女の子を撥ね付けるような態度をとり、「え・・なんで・・やっぱり私じゃ満足出来なかったの・・?」と不安にさせた所で再び携帯コール。
尻尾を振ってかけつけた女の子に「君を守りたかったんだ・・・僕からね・・(キリッ)」と殺し文句を放つんですから、もうこれで落ちない訳がないですよね。 えげつねー! 50男の手練手管えげつねー!
いとも簡単に若い女の子を連れ込むシャルルは、どう見ても「生粋の女ったらし」で、妻もそれを特に問題と思っていない模様。
合鍵をあげた女の子と程度に遊んだあと、妻に鍵束を渡し「これ、たのむね」と伝えるだけで、「オッケー」とばかりに執筆用マンションの鍵を替えてくれるくらいですから、この一連の作業はもうお馴染みの光景なのでしょう。
どれだけ遊んでも、妻と夫の関係は揺るぎない。
この信頼関係はすばらしいと思うのですが、巻き込まれた女の子はたまったもんじゃないですよね。
そして、目も当てられないほど無残に弄ばれたガブリエルの心の傷を癒すべく、金持ちポールがアップを始めるのですが、これがまた「相手の為」なんて気持ちは一ミリもない「利己主義の塊」のような人間でして。
本心からガブリエルを愛し、ガブリエルを幸せにしたいと願っている訳ではなく、ただ単に「自分が欲しいものを手に入れたい」だけ。
おもちゃが欲しいと駄々をこねる子どもと同じなのです。
ポールはまた、シャルルがサイン会を開いていた書店に突撃した際もいきなり攻撃的でしたので、もしかしたら過去にもシャルルに「意中の女性」を横取りされた経験があるのかもしれないなぁ、と思いました。
ま、いずれにせよ幼稚ですよね。
当然、そんなガキと一緒にいてガブリエルの心が落ち着くはずもないのですが、「コイツも相当だけどひとりぼっちよりはマシ」程度の覚悟で結婚を決意してしまう。彼女もまた、まだまだ幼い「女の子」だったのです。
息子の裁判を有利に運ばせる為なら、腹立たしい嫁(ガブリエル)に頭を下げる事も厭わない、なんだったら過去の不名誉な事件(事故)までゲロしてでも情に訴えてくるポールの母のしたたかさ。
(過去に自分自身もシャルルにつまみ食いされていた為)母子どんぶりになっちゃっている事に気づいても尚、娘の恋路を生温かく見守るガブリエルの母の危機管理能力の欠落具合。
そして、明らかにシャルルと長い関係と続けており、さらに、シャルルの妻にも密かに恋愛感情を抱いていそうな編集者・カプシーヌの匂いたってきそうな色香。
演じるマチルダ・メイさんの目尻のシワがまた例えようもなくセクシーで、なんというか、恋愛にも仕事にも人生にも余裕がありすぎて、仙人みたいな空気を醸し出していましたね。
岩波書店さんは次回広辞苑を改訂する際、「性の奥義を極めた」の項にマチルダさんの画像を添付しておいてください、おねがいします。なにとぞおねがいします。重ねておねがいします。
どこにでもいるようなゲスな人間を使い、どこにでもあるような痴情沙汰をドロっとさせることなく、サクサクと描き出したのは、ヌーヴェル・ヴァーグを代表する映画作家クロード・シャブロル監督。
たわいもない会話や何気ないシーンの積み重ねでありながら、退屈さを感じる事など全くなく、ごく自然に物語に引き込まれてしまいました。
直接卑猥な行為を映し出していないにも関わらず、いくつかのセリフと直後の表情だけで「裁判で証言されたら“あーそりゃしょうがないねー”と言われちゃうくらいえげつない」事を想像させる演出も、とても粋だと思いました。
よっ!寸止め名人!!
ちなみに、鑑賞後『トゥーランドット』について調べてみたところ、劇中使われる歌曲『このくらい宮殿の中で』は、絶世の美女トゥーランドットが求婚に訪れた王子達に三つの謎を差し出すという内容で、悲劇的な最期を迎えた自らの祖先の王女と自分を重ね、「私は絶対に誰のものにもならない」という決意を示すと共に、生死をかけた「女の闘い」に挑む、というとても
映画の内容と比較すると、ちょっくら合わないような気もしましたが、心無い男たちによっていいように弄ばれたガブリエルが、心をズタズタに引き裂かれながらもその傷ついた体で再び立ち上がり、観客の歓声に応えるラストシーンを観て、「ああ、彼女はすべての毒を飲み干し、最後に強さを手に入れたのだな」という気がしました。
ガブリエルはもう、軽々しく誰かのものにはならないだろう。
そして彼女のそれは、冒頭アリアを聴いていた編集者・カプシーヌさんもまた、過去に経験し、導き出したことのある答えなのかもしれない。
そんな風に思いました。
とてもおもしろかったです!


『メランコリア』
2012年09月01日
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(※私と放電)
物事には必ず「終わりの時」がやってくる。
そんな事はわかっている。
それなのに、なぜ、人はその「時」を悲しんだり恐れたりするのだろうか。
それはそのタイミングを、自分で選ぶ事が出来ないからなのかもしれない。
「まだ終わってほしくない」
「まだ終わりたくない」
「まだ終わるわけにはいかない」
そんな個々の願いは、いつだって無残に打ち砕かれる。
命もまた然り。
いつかは必ず終わるものだけれど、往々にしてその「時」を選ぶ事が出来ない。
誰かに残されてしまう事や、誰かを残してしまう事。 それはときに、自分自身の死よりもつらいのではないかと思う。
しかしもしも、もしも誰一人残る者がいないとしたら?
「終わりの時」がいちにのさん、で、この地球上に一斉に訪れたとしたら?
それはもしかすると、これ以上ないほどの完璧なハッピーエンドなのではないのだろうか。
という、ネガティブシンキングが1周も2周もして最終的にポジティブシンキングになっちゃった!みたいなディザスター・ムービー『メランコリア』を鑑賞しました。
物語の主人公姉妹の名前がつけられた2パートで構成された本作。
第1部の「ジャスティン」では、有能なコピーライターのジャスティンが、リッチでハンサムで優しい男性・マイケルと結婚し、その披露宴を姉・クレアの夫・ジョンの豪邸で行う様が描かれます。
が、この披露宴は新郎新婦を含めた出席者全員にとって悪夢のような一夜となってしまう。
まずは、主役の2人の到着が遅れた為、披露宴が2時間遅れでスタート。(もちろん出席者は全員待ちぼうけ)
会場に着いた2人を急かす姉を尻目に、愛馬の顔を見るべく馬小屋に直行する新婦・ジャスティン。(もちろん出席者は待ちぼうけ)
なんとか宴は始まったものの、早い段階から目が泳ぎ始めるジャスティン。ザ・心ここにあらず。
来賓のみなさんのかったるい挨拶が終わり、友人代表による楽器演奏が始まると、ふらふら~っと庭に出てゆき、そのままゴルフカートで脱走するジャスティン。(もちろん出席者は全員待ちぼうけ)
死んだ目のまま戻ってきたジャスティン、今度はケーキカット直前に客間へ閉じこもり、そのまま長風呂を浴び始める。(もちろん出席者は(ry
クレアやジョンの説得も虚しく、時間だけが悪戯に過ぎてゆく。 飲むしかない出席者。
やっとの事で出てきたジャスティンを迎え、(みんな大人なので)なにごともなかったようにケーキカット開始。
その後もちょいちょい白目になったり、グリーンに連れ出した部下を押し倒してコマしたり、上司に暴言を吐いたりしながら出席者完全無視の結婚披露宴は続くのですが、なんとか全スケジュールを終えたジャスティンを残し、出席者はもちろん、ウェディングプランナーも、夫も、父も、姉も、誰もかもがそそくさとその場から立ち去ってしまうのでした。
まあね、一言でいえば、 そんなに気乗りがしなかったのなら、何故けっこんしようと思ったジャスティンよ! てコトになるのですけどね。
ジャスティンはジャスティンなりに、「幸せ」になろうと努力していたと思うのですよ。
周りが求めるように、お姉さんに望まれるように、お父さんの期待に応えるために、「笑顔」を顔に貼り付かせて「幸せ」にたどり着こうとがんばった。
でも、無理だった。
みんなが思う「幸せ」は、彼女にとっては「死の宣告」に等しかったのではないか。
お姉さんとお義兄さんがセッティングした「幸せな結婚披露宴」は、ジャスティンにとって「世界の終わり」だったのだと思います。
そして、そんな「終わりの時」にジャスティンの傍に寄り添っていれくれる人は、誰も居ない。
続く第2部の「クレア」では、式から数週間過ぎたある日、鬱状態が悪化して日常生活を送る事すら出来なくなってしまったジェスティンを姉・クレアが自宅へ招き入れる所から始まり、なぞの巨大惑星・メランコリアが地球に衝突するまでの5日間が描かれます。
自分自身では制御できない衝動によって、お膳立てされた「幸せ」をぶち壊してしまったジャスティンは、当初一人で歩く事も食事をする事も出来ないほど憔悴していましたが、地球へと接近してくるメランコリアと比例するかのように、日毎精気を取り戻して行きます。
その一方、テキパキと披露宴を執り行っていたクレアは、メランコリアが地球にぶつかるのではないかという恐怖に苛まれ、情緒が不安定になって行く。
夫のジョンは彼女を怯えさせまいと自信満々に振る舞うも、陰では非常時の食料やエネルギーを備蓄。
みんなその「時」をおそれて暗い顔になっている。
ジャスティンを除いて。
ということで、第1部では「(ジャスティンにとっての)世界の終わり」、そして第2部では「(みんなにとっての)世界の終わり」が怖いほど美しい映像と共に淡々と映し出されて行くわけですが。
第2部でジャスティンが驚くほどに冷静なのは、既に「世界の終わり」を経験しているからなのではないかと思いました。
それは、「自分の結婚披露宴」であり「脳裏に現れては消えるイメージ群」であったりするのですが、ともかく、今までずっと「どこに居てもどこにも居れなかった」ジャスティンにとって、「世界の終わり」など騒ぐほどの事ではなかった。
そしてジャスティンは、「どこに居てもどこにも居れなかった」のは自分だけではない、という事も見抜いていた。
誰もが心に抱えているからっぽな部分。
それを無理矢理に満たしたり、満ちているフリをしたりして生きている醜悪な生き物。
こんなもの、滅んでしまっても仕方ない。
ジャスティンは心の中で、そんな風に思っていたのではないでしょうか。
しかし、「ヒャッハー!地球上のやつらぜんいん絶滅しろ!」なんてただ皮肉っぽく思っていた訳でもない。
愛しい存在である甥・レオを安心させる為に嘘をつく時だけに見せた、苦しそうな、悲しそうな表情。
純粋な瞳を向けるレオを強く抱きしめ、涙をこらえるように顔を歪ませるジャスティンを観て、彼女は決してその「時」を待ち望んでいたわけではなかったのだなぁ、と思いました。
そしてジャスティンは、「終わりの時」をせめてステキに迎えようと考えたクレアの提案に、ハッキリとNOを突きつける。
一度目の「世界の終わり」の時には出来なかった拒絶をし、愛する者と一緒に、心穏やかにその「時」を迎えようとする。
最後の最後になり、取り乱す余り息子の手を離し、頭(自分自身)を抱えるクレアとは、あまりに対照的な姿を見せるジャスティン。
ああ、やはりこれは、ハッピーエンドだったのだなぁ。
ジャスティン(ラース・フォン・トリアー監督)にとって、これ以上ない幸せな「終わりの時」だったのだろう。 そんな気がしました。
第2部で描かれる世界は、実はジャスティンの精神世界(想像の世界)だったのではないか、という見方も出来ます。
第1部で言及された事とは異なる情景があったり、彼女たちが暮らす邸宅の敷地以外の場所が全く登場しなかったり、地球滅亡の危機の割にはものすごくまったりとした時間が流れていたり、もしかしたらそう(現実ではない)のかなぁ・・と思う部分は沢山ありました。
ただ、現実だったのか心の中だったのかは、あまり関係ないのですよね。
心に病を抱えたジャスティンが、周りとの軋轢から負ってきた傷を癒し、苦悩を捨て、自分の意思で人生を選択するまでの過程。
そしてたどり着いたハッピーエンドが、本作だったのではないかと思いました。
何の仕事をしているのかさっぱりわからないけど超お金持ちなキーファー・サザーランドさんのゲスっぷりや、出てきただけで胡散臭いステラン・スカルスガルドさんと息子のアレクサンダーさんによる男前親子夢の競演や、嫌味ったらしいウェディングプランナー役のウド・キアーさんなどなど見所も満載。
あと、なんと言っても、常にジト目でこちら(カメラ)を見つめてくるキルスティン・ダンストさんの情緒不安定さ加減がね、悪夢のようで素晴らしかったです。 (←褒めてます。全力で褒めてます。)
躁鬱の切り替えといい、第2部での達観したようなジト目といい、彼女なしでは本作は成り立たなかったのではないでしょうか。
本当に見事でした。

(※渾身のジト目)


『白いリボン』感想 と、大人の影響力について。
2011年03月21日

あらすじ・・・
第1次世界大戦前夜の北ドイツ。 迫り来る戦争の足音がまだ、人々の暮らしを脅かすには至っていなかった頃。
静かだった村は、ひとつの事件をきっかけに不穏な表情を顕にし始める。
まずは乗馬を楽しんでいたドクターが、何者かに仕掛けられた針金によって落馬。
そして、地主である男爵の納屋で、小作人の妻が転落死。
男爵の幼い息子の連れ去り事件に、男爵家の荘園を襲う不審火。
知的障害を持つ子どもにふるわれた無慈悲な暴力。
目の前で起こる全ての出来事に村人たちは目を瞑り、ひたすらに普段通りの生活を送ろうとするのですが・・・。
さすがは不愉快帝王ハネケ!と喝采を贈りたくなる程、悪意に満ち満ちた物語。
モノクロに仕上げられた美しい景色とは裏腹に、出て来る大人は全員嘘つきのエゴイストのロクデナシ揃い。
従順な子どもたちは、大人しそうな眼差しの奥に理解不能な翳を宿す。
悪戯か、はたまたれっきとした殺意か。 その動機は、その真意は。 何もわからないまま、上っ面だけ取り繕いながら暮らしは続く。
そして戦争の始まりが告げられる。狂気が正気とみなされる時代の到来が。
お っ か ね ぇ ー ! !
むき出しにされた悪意から身を守る盾は、さらに強固な悪意なのか。
大人は「悪い事をした」子どもを折檻し、子どもは自分よりもさらに弱いこどもに暴力をふるう。
罪を指摘された大人はその罪を認めず、他人を貶め、異性を侮蔑する。
そんな大人の姿から、こどもたちは無言のまま、何を学ぶのだろうか。
この映画に登場する村は、本当におっかない村です。
絶対に住みたくない。 もう一回言おう。 絶対に住みたくはない。
ただ、自己中で欺瞞に満ちた彼らの姿は、決して特別ではない、という事も事実。
第1次大戦前、つまり、100年くらい昔の話なのですが、ここで描かれている「悪意」は、今でもそのままそっくり現存している「ありふれた悪意」なのですよね。
他人の暮らしなんて知ったこっちゃない。 自分さえよければそれでいい。 臭いものには蓋をしろ。 出る杭は迷わず打て。 ひざまずけ。 命乞いをしろ。 小僧から石を取り戻せ。
自分の暮らしを守りたい一心で突き進んでいるうちに、いつの間にか片脚を突っ込んでしまっているかもしれない深い穴。
人でなしになるには、大した経験も資格もいらないのだろうな、と。
不幸ゲージを振り切るような災いの数々を前にしても、平然と暮らし続ける登場人物の姿が、色々な出来事を「対岸の火事」と割り切る私たちの姿に重なり、冷え冷えとした気持ちになってしまいました。
本作で起こる事件の数々について、作中、誰が犯人だ、とはハッキリ言及されません。
「我が子に暴行した犯人がわかった!」と息巻いて町を飛び出していった母も、出て行ったきり、そのまま戻る事はありませんでした。
なんとなく、子ども達が怪しいような雰囲気が漂うのは、語り部が彼らの担任教師だから。
よそものである教師の目線で描かれるから、子どもは常に何かを隠しているような暗い目をして、大人はもっぱらモンスターペアレントであること徹する。
もしかしたら、犯人は大人なのかもしれない。
子どもが「何を考えているか判らない」ことは、「犯罪」の証明にはならないじゃないか。
描かれ過ぎない部分が憶測を誘う。
そうあって欲しくない、と願う気持ちが邪推を招く。
ハネケはそんな気持ちに先回りして、「ぼくは観客のみなさんを信じてるんすよ。敢えて描いていない部分も看破してくれるっしょ」と言い切ってくれています。
さすがはハネケ先生! 観る前からへこみますねコレね! (※理解出来なかったらどうしよう、理解出来なかったらすみません、生まれてきてすみません、等)
アガサ思うに、きっと、子どもたちが犯人なんだろうけれど、その罪は子どもだけもものではなく、大人のものでもあるんですよね。
子どもたちは、とても感度のいいアンテナを持っています。
大人たちの優しさも、希望も、良心も、嫉みも、悪意も、絶望も、どんな周波数で飛ばされた感情も、すべて拾ってしまう、すぐれたアンテナです。
「あいつの家は貧しいから汚い」という目で見ていると、子どももいつの間にか同じ目で見ているし、「都合の悪い事は隠しておけばいいんだ」という態度を取っていると、いつの間にか嘘や誤魔化しの上手な子どもになっている。
子どもたちが歪んでいる、というならば、一番歪んでいるのは大人の心なのではないでしょうか。
子どもに「いい子」になって欲しければ、腕や髪に白い「純潔」のリボンを巻きつけるのではなく、まず自らが、正しい態度をとらなければならないのではないでしょうか。
白いリボンを巻く大人の手が、欺瞞やエゴで真っ黒に汚れていては、何の意味もないのではないか。
「親」が、というよりも、「大人」が持つ影響力と責任の大きさを改めて感じさせられた作品でした。
大人が始めた戦争(争い)の火を、憎しみの種を、子どもに引き取らせるだなんて。
そんなバカげた事を、一体いつまで続けるというのか。
本作の舞台である1910年代からちっとも変わっていない。
もう、ずっとずっと昔から続けてきた事なんだから、いい加減気付いてもいい頃なんじゃないのかなぁ。
で、ちょっと話がズレるかもしれないのですが、「大人の影響力」つながりという事でもうひとつ。
改めて書くまでもないのですが、先日大きな震災で数え切れない程の方が被害に遭われました。
被災していない岡山の地で、ボケた頭で考える以上に、いや、遥か及ばない程に、現地の方々の悲しみや痛み、苦しみは計り知れないものがある事と思います。
一人でも多くの命が救われる事を、そして、一日も早く様々な物資が、援助が、被災地の皆様の手に届く事を、心から祈っております。
薄っぺらい言葉で申し訳ありません。 でも、ほんとうにほんとうに、どうか暖かい春が訪れますように。
あの日から、一体自分に何が出来るのか、どうすればいいのか、ずっと考えていました。
そして、義援金や救援物資以外に出来る事、しなきゃいけない事がある事に気付きました。
それは、子どもたちにこの想いを繋ぐ事。
まだ幼い子どもたちに、自分が直に体感しなかった揺れや災害の恐ろしさを理解させる事は難しいと思いますし、すべきではないのかもしれないと思います。 (子どものアンテナは底知れない不安も感じ取ってしまうからです)(我が家のちびっこは、私たちが見ていた災害のニュース映像から情緒不安定になってしまいました)(気をつけるべきだったと反省しています)
ただ、大きな災害が起こった事と、それによって沢山の方々が困難な状況にある事は伝えられるし、私たちに何が出来るかを教えてあげる事も出来る。
大人が買い占めたトイレットペーパーを物置に突っ込んでいれば、子どもも「そうするものなんだ」と思う。
募金箱にさりげなくお金を入れていれば、子どもも「そういうものなんだ」と思う。
困っている人の前を見て見ぬフリして通り過ぎていれば、子どもも「関係なければ放っておけばいいんだ」と思う。
困っている人に手を差し出していれば、子どもも「困っていたら助け合えばいいんだ」と思う。
親だから、親ではないからというのではなく、私たち大人がすべきなのは、デマを吹聴する事でも、身勝手に生きればいいんだと示す事でも、面白おかしく不安を煽る事でもない。
苦しんでいる人がいる時は、自分が出来る限りの事をするんだよ、と自分がお手本になって見せてあげる事なのではないでしょうか。
余りに大きい爪あとを残して行った今回の大災害。 街を作り直すには、10年、20年とかかる事でしょう。
今の幼い子どもたちが、大人になっても「助け合おう」と自然に思えるように、喉元を過ぎても熱さを忘れないように、ずっと言葉をかけ続けようと思います。
とりあえず、我が家では1年間、毎日寄付する事にしました。
ちびっこの手にお金を持たせて、レジ横や役所の窓口などの募金箱に入れさせています。
1円しか寄付出来ない事もあるし、1000円の事もある。
大切なのは、金額の多寡ではなく、続ける事なんだ、と。
1年経った時、子どもの心にどんな気持ちが生まれているかわかりません。
ただ、「助け合う」のは照れくさい事でもかっこつけな事でもない、当たり前な事なんだ、と思うようになって貰えれば、と。
どうせ与えるんなら、誰かの役に立つような影響を与えたいものですよね。
大人である自分に出来る事を、これからも出来る範囲でやって行こうと思います。
とても大切な記事・・・遠くにいる素人の個人でもできること - 深町秋生のベテラン日記
-余談-
って、「あたしんちは寄付とかばっちりやってんだかんね(金額的には全然ばっちりじゃないんだケド)」アピールをしてしまうトコロに、自分のおちょこさ加減を痛感してしまうのですが、自己満足でもいいと思うんだ。 赤十字社を通じて何処かの手助けになって、尚且つ自分も「何かをやってる」感に浸れるんなら、それでいいんじゃないかと思う。 売名でも、偽善でも、自己満足でも、それが誰かの役に立つんなら、大いに結構な事じゃないか。 ま、さすがに恥ずかしいので今後は粛々と「出来る事」をしますけどね! ホントすみません!

