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『メアリと魔女の花』

2017年08月31日
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(※ 以下の感想は、数十年に渡り『小さな魔法のほうき』を愛し続けてきた、いち主婦の主観に基づいていますので、「そういうんじゃなくて純然たる映画の感想が知りたいんだよ」、という方にはおすすめしません。)


小学校の図書室に、『小さな魔法のほうき』という本があったのでした。

その本は、「何の予定もない夏休み」という、子どもにとって悪夢に等しい退屈な日々を、「近所に誰も知った子がいない親戚の家」という、これまた子どもにとっては拷問に近い環境で過ごさなくてはいけなくなった少女・メアリーが、黒猫に導かれた先で見つけた不思議な花の力によって、たった一晩だけ魔法の力を手にし、目のくらむようなスピードで空を駆け上がり、世界をふさぐ壁のように厚い雲をくぐり抜け、近いようで遠い魔法学校に入学してしまう、という、子どもにとっては夢のような物語でした。
特別な才能をもっておらず、どちらかというと貧乏くじを引いてしまうタイプで、好奇心は旺盛だけど何をやっても失敗ばかりのメアリー。
しかし、たまたま手についていた不思議な花の金粉を、ちょっと拭おうと小さなほうきになすりつけた瞬間、ほうきは命を吹き込まれたように、あるいは眠りから醒めたように、メアリーを乗せて雲のしぶきをまき散らしながら空を切り裂いてゆくのです。

わたしはもう、夢中でした。
魔女になりたくて、魔法の世界に間違って飛び込んでしまいたくて、図書室でそんな物語ばかり探していたわたしにとって、『小さな魔法のほうき』は福音でした。
衣装ダンスに入り扉を閉め、目をつぶって分厚いコートの間に手を差し込んでばかりいたわたし。
今度こそはひんやりとした空気に触れるはず、ナルニア国の街灯のランプが見えるはず、と熱望しては叶わなかったわたしは、衣装ダンスの代わりに野草を摘み、その汁を庭ぼうきになすりつけるようになりました。
この花は違った、でも、どこかにあの花があるかもしれない、と思いわたしは野草を探しました。
あの花。
「龍の舌」、「魔女の鈴」、「ティブの足もと」、そして「夜間飛行」とも呼ばれるあの花にさえ出会えれば、特別な力のないわたしでも、ほうきにのって空を飛べるかもしれないのですから。

もちろん、本気で「夜間飛行」が存在していると思っていた訳ではありません。
けれど、「夜間飛行」はたしかにあった。 
わたしの想像の世界で美しくひっそりと咲いていた。
その姿だけでわたしは夢をみることができたのです。
『小さな魔法のほうき』は、「魔法はあるかもしれない」という最高の夢を、「今は出会えていないだけで、いつか出会えるかもしれない」という、いつまででも抱えていていい夢を与えてくれたのでした。

そんな『小さな魔法のほうき』が、『メアリと魔女の花』というタイトルを与えられ、長編映画としてお目見えする事になりました。
制作はスタジオポノック。
スタジオジブリが解散したのち、そこに属していたスタッフたちと共に作られたスタジオです。
ジブリではないけれど、ジブリとは全く別物というわけでもない。
ポスターや予告から、観客は自然とジブリを連想し、スタジオもまたジブリを思い起こさせるような作品に仕上げた。
結果、賛否はありました。
当然でした。 
ジブリであってジブリでない、別物といいながら過去のジブリのよりぬきシーンのようだった本作を、ジブリ抜きで評価しろというのは難しい話だと思います。
お客さんは目に見えたものだけで判断します。
ポスターに「魔女、ふたたび」と書いてあり黒猫が出てくるのですから、「魔女の宅急便みたいだなぁ」、と思うでしょう。
魚のようなものが大量に飛びかかるシーンを観れば「ポニョみたいだなぁ」、と。
「ハウル」のように燃え盛る火、「もののけ」のような動物、「湯婆婆」のような魔女、「ラピュタ」のロボット兵のようなモブキャラ、どこかで観たことあるようななにかの連続を、盛り沢山でサービス満点ととる人や、既視感だらけでワクワクしないととる人がいるのは当たり前ですよね。

盛り合わせでいいんです。 既視感たっぷりでもいいんです。 物語が生きてさえいれば。

わたしは原作がすきすぎるゆえに、鑑賞するまでは「原作と比べることはするまい」と思っていました。
そういう観方はとても不公平だから。
原作にアレンジを加えている部分はあまりにも微妙だったけれど、プラスどころかナイマスにしかなってないんじゃないかと戸惑いましたけど、それらは一旦横に置いておこうと思ったのですよ。 「そんなに原作ばんざいなんだったら原作だけ読んどけよ!」って話になっちゃうから。
けれど、そうやって封じていた気持ちを、それ以上抑えられなくなるようなセリフが出てきたのです。
終盤、メアリの口から飛び出したそれは、「子どもたちに向けて作られた」とされる『メアリと魔女の花』にとって、とてもふさわしいとは思えないセリフでしたし、魔法の力を信じて、小説に夢を託して生きてきたわたしにとって、とうてい受け入れられない言葉でした。

「魔法なんかいらない!」
メアリはそう言ったのです。


魔法なんか、いらない・・?
いやいやいや・・・魔法・・ いるでしょ!! ていうか、魔法あるでしょ!! 平凡な少年少女がある日突然魔法世界に飛び込むでしょ! 退屈な日々が一変するでしょ! 悪い魔女やいい魔女が跋扈してるでしょ! 今は遭遇できていないけど、いつか不思議な大冒険に出会えるはずでしょ! 朝起きたら埋めたどんぐりから芽が出てるでしょ! 
夢だけど!夢じゃなかった!
夢だけど!夢じゃなかった!!
トトロいたもん!!ホントにいたんだもん!!ウソじゃないもん!!!


そうか、と思ったのですよね。
『メアリと魔女の花』は、魔法を捨てる映画だったのか、と。
最初から、その結末を描くために作られた映画だったのか、と。

魔法のほうきで空を突っ走るメアリの姿に疾走感がなく、なんだかボヤーっと飛んでユルーっと移動しているようにしか見えなかったのも。
魔法学校の紹介のくだりがあまりに単調で、「魔法ってたのしそう!」「魔法を使ってみたい!」と思えるような描写がなかったのも。
一心不乱にレクリエーションにいそしむ学生たちが顔のない泥人形のようだったのも。
屋台に並べられた食べ物に、いわゆるジブリ飯と呼ばれる自然とよだれを催すようなうまげなモノがなかったのも。
メアリに「わーすごーい!」と言わせるだけで、実際の見た目にはすごいと思えるような施設がないので全然「すごい感」に共鳴できなかったのも。
魔法と、その世界を魅力あるステキなものとして描くつもりがなかったからなのだとしたら、納得がいきます。

「魔法」は思いあがった人間が生み出した悪魔の道具。
適切に使えば便利だけど、欲深い人間は必ず暴走する。
コントロールできると過信して、しかしもちろんできなくて、大きな力に飲み込まれて甚大な被害を生み出してしまう。
あからさまに原発を意識している炉心溶融シーンからも、それは強く伝わってきました。

そして一方で、「魔法」は「偉大過ぎる宮崎駿監督」と「傑作を生みだしてきたスタジオジブリ」を表しているもの、という見方もできます。
多くの観客をワクワクさせ、夢を見させ、憧れさせ、興行収入記録を塗り替えてきたスタジオジブリ。
何度も引退と復帰を繰り返す宮崎監督に、その後継者候補と目されていたアニメーターたちは少なからぬストレスを感じ続けてきたのではないでしょうか。
何を作っても「宮崎駿」と比べられる人生。
「絶対に越えられるわけがない」という暗黙のプレッシャー。
宮崎監督・ジブリを尊敬はしているけれど、そろそろいい加減比べられることなく自由にアニメを作りたい。
だからこそ、本作はさんざんジブリの寄せ集めのようなシーンを盛り込みつつ、最後はそれを「捨てる」、と、「もういらない」、と主人公に語らせた。
呪縛からの離脱と自立宣言、という意味では、『メアリと魔女の花』のクライマックスはとても話の筋が通っていると思います。

でもそれ、お客さんであるちびっこキッズたちに関係ありますかね?

興奮しすぎて「ちびっこキッズ」だなんつって「頭痛が痛い」みたいな言葉を使ってしまいましたが、マジでそれ、関係ありますかね?
「魔法」に込められたのが「便利過ぎる技術」なのか「宮崎監督」なのか、どっちでもいいんですけど、「子ども向けに作りました」って言っている映画に大人の都合を込め過ぎてはいないですか?
いや、別に「子ども向けなら小難しいこと抜きでワー!ドカーン!ボカーン!みたいな単純なことだけやってりゃいい」なんて、そんなこと言いたいんじゃなくてですね、子どもに向けたメッセージとして、「魔法という便利なものを失っても、あなたにはあなたにしかないすばらしいものがある。それは勇気です!」みたいなね、そういうやつ大歓迎なんですよ、わたしはね。
でも、それをやるんなら、
① まず最初に「魔法さいこう!」の部分があって、それを観た子ども(大人でもいいんですけど)に「すげえ!こういうのやりたい!!」って思わせて、
② 次に「魔法の危険な部分」を匂わせて、「あれっ?魔法だいじょうぶかな・・・?」って思わせて、
③ 「実は魔法にはこういう一面もあるんですよ」って思いっきり残酷な部分を出して、ちびっこキッズたちを絶望のどん底に叩き落として、
④ 「逆境の中、裸一貫でどこまでできるかな?」と煽られた主人公が精神論で困難を克服し、それを観たお客さんが「魔法がなくても、自分の力を信じよう」ってなんかポジティブになって、
⑤ 最後は「魔法が消えてしまった・・・ と思わせておいて・・・実は・・・?!」っていう希望溢れるシーンで終わってほしい。
本作には、圧倒的に①がない。 
そんで、割と一気に③に飛ぶので、魔法はスペシャルなものではなく、不気味な泥人形やマッドな博士が操るただの怪しい技術のように映るのです。
まぁそうですよね、魅力的に描くつもりがなかったのなら、そうなりますよね。

魔法に頼るな? 結構ですよ。 頼るなっていうなら頼りませんよ。
っていうか、頼ろうにもそもそも現実世界に魔法なんかないですし。
大人は理不尽だし、政治家はうそつきばっかだし、正直者は損するし、がんばっても報われないし、夢も希望も体力もお金も搾取されて終わりですよ。
魔法に頼るな? ふざけんなですよ。 映画の中でぐらい、夢見させてくれよって話ですよ。 スクリーンの中に魔法を探してなにがいけないんですか。 
みんなトトロのお腹にしがみつきたいし、メーヴェにのりたいし、竜の巣をくぐり抜けてラピュタにたどり着きたいし、屋根裏で蛇が飲み込みあっている表紙の本を読みながらファンタージェンに行きたいし、ホグワーツで組み分け帽子をかぶりたいし、吸血鬼や狼男と闘ったり、「おまえこそが選ばれし者だ」って言われたいんですよ。
楽しいばかりではない、ほろ苦いところもある、時には耐えられないほどの悲劇が起こったりもする、だけどこの世では経験できないワクワクやドキドキや夢や希望を感じることができる。 
それが魔法のすばらしさだと、わたしは思いますし、だからこそ「魔法なんかいらない」という言葉がどうしても引っかかったのです。
その言葉を使った、そういうメッセージを詰め込んだ作品を作りたいならどんどんやってくれればいい。
ただ、『小さな魔法のほうき』を下敷きにやってほしくなかった。

散々なことばかり書いてきましたが、これは最初にも書いたように、あくまで『小さな魔法のほうき』を心のバイブルに育ったわたしの主観です。
わたしは失望してしまいましたが、この作品から希望を感じ取ったり、ワクワクしながら映画館をあとにする子ども(や大人)がたくさんいることをホントに願っています。
わたしの目には「なんやこれ静止画か」と映ったほうきの滑空シーンも、誰かの目にはちょうさいこうのスペクタクルシーンであるかもしれない。 
せっかく映画館でジブリっぽい映画を観に行った人々が、がっかりではなく「いいじゃんこれ!」と思いつつ、なんだったら売店でティブのぬいぐるみを買って帰ってくれるようなことになればいいですね。
そして米林監督には次こそ、呪縛だのなんだのを詰め込まなくてもいいような、本来の意味で自由な作品を作っていただきたい、そのチャンスが与えられるといい、と割と本気で思っています。

あと、もしよかったら図書館か本屋さんで『ちいさな魔法のほうき』手にしてみていただけるとうれしいです。
短いお話しながら、本作以上に魔法の魅力と危うさとメアリの漢気が詰め込まれためちゃくちゃおもしろい小説ですよ!!!!



― 追記 ―

・ シャーロット大叔母さんの存在がマジで謎! 映画独自のアレンジとして、シャーロット大叔母さんが実は若い頃魔女で、問題の花の種を学校から盗み出した張本人である設定が登場するんですけど、そこから数十年、シャーロット大叔母さんはどうやって生きてきたんですかね?

・ 魔法学校から足抜けしてカタギになった瞬間、記憶が全部とんじゃったんですかね? どうやって実家に帰ったんですかね? メアリの親の姉妹らしいですけど、魔女だった間はどういう位置づけだったんですかね? 家出少女的なやつ? ハリポタのペチュニアおばさんとリリーみたいなやつ? あの赤いお屋敷はもともと誰の家なの?

・ 別の場所に隠れ家的なコテージありましたけど、あそこから魔法学校に通っていたんですかね? あのコテージは数十年間電気とかつきっぱなしだったんですかね? 大叔母さんの魔力がなくなっても電気はとまんなかったんですかね?

・ 夜間飛行は一般的な花だったのか、ゼベディさんだけが知っていたのか、あの花を観た瞬間大叔母さんは記憶を取り戻したのか、カタギの間も記憶があったのか、コテージとお屋敷の鏡はどういうしくみで繋がっているのか、なにもかも謎です!

・ 予告の段階で、わたしがいちばん「お!これは期待できるかも!」とハッとしたのは、振り返る赤毛の少女のカットだったのですが、それが映画の割とドあたまに出てきて、しかも大叔母さんの若かりし頃で「やるじゃん!」と思いました。 というか、本編でわたしのテンションがあがったのはドあたまの怪盗シャーロットのシークエンスだけだったとも言える・・・ 全編あのテンションでやってくれればよかったのになぁ。

・ ピーターがメアリに「赤毛のサル」と言うシーン、メアリが「ベーだ!」と舌を出す返しも含めて『トトロ』でいうところの「やーいおまえんちおっばけやしきー」だと思うんですけど、圧倒的に可愛げがないというか、ピーターに「照れ」みたいなものが微塵もないので、ただ初対面の人をサル呼ばわりするだけの失礼な人にしか見えなくて、ピーターの印象さいあくでした。 そのあとダメ押しでもう一回サル呼ばわりしてましたからね。 後半、まさしく文字通り赤毛のお猿さんに救われるシーンがあるので、伏線っちゃあ伏線なんでしょうけど、あのタイミングでサル呼ばわりはねえだろ。 無邪気に暴言吐く人かよ。 こええよ。

・ 「自分の赤毛がコンプレックスだったメアリ→赤毛のサル呼ばわり→魔法学校で赤毛を絶賛される→赤毛悪くないかも→魔法学校は悪の巣窟だった→やっぱ赤毛クソ→赤毛のお猿さんを身代わりに逃走成功」 赤毛コンプレックス解消のカギはお猿さん次第だった・・・?!

・ うまく説明できないけど、「そうじゃない感」がすごい。

・ 原作ではコンプレックスは赤毛ではなく「メアリー・スミス」という偽名ナンバーワンみたいな名前ということになっていて、ジョニー・スミスというこれまた日本でいうところの山田太郎みたいな名前を持つ主人公が出てくる『デッドゾーン』と同じく、コンプレックスがうまく活かされた物語になっています。 というか、原作はマザーグースをはじめとした言葉遊びが随所に使用されていて、それがまたすごくおもしろいんですよね! 小説ならではのたのしさなので、映像化には不向きな仕掛けではありますし、赤毛に焦点をあてたやりかたはいいと思うのですが、サルにたとえるのはどうなの・・・ 校長先生に赤毛を褒められるシーンもあるんだし、サルうんぬんを入れなくても魔女としての特別な才能のあるなしだけでコンプレックスの克服を物語れたんじゃないのかなぁ・・。

・ っていうかね、ホント原作はね、ほうきのシーンといい、魔法学校でのやりとりのシーンといい、メアリが義侠心にかられて学校に戻るシーンといい、かわいそうな実験動物のシーンといい、動物大脱走のシーンといい、超低空飛行でのほうきチェイスといい、全編すごく「ジブリ的な映像化」向きな作品だと思うのですよね。 だからこそ西村プロデューサーは『ちいさな魔法のほうき』を選んだのだろうと思いましたし。 でも、出来上がった作品はそうではなかった。 

・ 集団逃走のシーンはどうしてもののけ並みの大スペクタクルになりえなかったのか。 ほうき飛行はどうしてフラップターでのシータ奪還シーン並みに疾走感を溢れさせられなかったのか。 もしくはしなかったのか。 ワクワクのかぎは、この辺にあったような気がします。 

・ わたしは、もっと圧倒的に動く絵が観たかったのです。 問答無用で胸を突き動かされるようなエモーショナルなアニメーションが観たかった。 すでに今年に入って、わたしはいくつかの作品でそれを観ていたから、余計にそう思ったのです。 宮崎監督の呪縛? 脱ジブリ? そんなことはどうでもいい。 せっかくこんなにおもしろい原作を使っているのだから、ことごとくエピソードを殺すのではなく、もっと魅力的に描いてほしかった。 勿体なさ過ぎるじゃないか、こんなの。

・ ということで、もし機会がありましたら原作を一度手にとっていただきますよう、重ねてお願い申し上げます。 わたしがおすすめなのは、文庫本ではなくハードカバー版。 赤星亮衛さんの挿絵が本当にステキなのですよ!



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『リップヴァンウィンクルの花嫁』

2017年06月07日
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あらすじ・・・血の代わりにお金が流れます。



安室行舛(綾野剛さん)のつかみどころのなさがすごい。
どんな相手にも瞬時に合わせられるのは心がないからなのか、ものすごい強固な鎧で心を守っているからなのか。
いちど無防備な自分をさらしてしまうと、ズタズタに切り裂かれる可能性もある。
だから安室は、他者との間に「お金」という「鎧」を介在させる。
安室のこわいところは、相手にその「鎧」の存在を感じさせないところ。
だから相手はうっかり信じてしまうし、うっかり胸襟をひらいてしまう。
ひらいた結果、相手は底なしの絶望を味わうこともあるし、最悪死を選ぶことだってあるかもしれない。
けれど、たとえ相手が死んでしまっても安室の心は傷つかない。
「お金」が安室を守っているから。
人当たりのよさそうな笑顔を浮かべて人の心をお金に換える。
そんな恐ろしさを微塵も感じさせず、今日も安室は飄々と、人の隙間をすり抜けてゆく。


皆川七海(黒木華さん)の警戒心のなさがすごい。
どんな相手でもいとも簡単に信じてしまう。 そんなに愛していなくても結婚しちゃうし、素性が知れなくてもスーパーマンのように頼ってしまうし、一度会っただけで親友になってしまう。
あまりに無防備だから、当然心はことごとくズタズタに切り裂かれてしまうけれど、脅威の回復力で立ち直り、また簡単に心を開いてみせる七海。
七海のすごいところは、その「無防備」さが彼女の危うさであると同時に、魅力にもなっているところ。
心をガッチガチの鎧で固めている安室が、七海をただのカモとして見ていたのかというと、わたしにはそうは思えなかった。
トラブルに直面するたび、ノーガード戦法でふところに飛び込んでくる七海のふにゃふにゃとした表情に、本心から「なんとかしてあげたい」と思った瞬間が、安室にはあったのではないか。
かと思えば、突然のこだわりを見せたり自分で作り上げた人間関係を大切にしようとする芯の強さに、ハっとした瞬間があったのではないか。
見ていてハラハラする程の無防備さで、出会う相手に「自分は七海にとって特別な存在なのではないか」と思わせてしまいながら、今日も七海はふわふわと、人の隙間をすり抜けてゆく。


そして、本作にはもうひとり、お金という鎧で心を守りながら、同時にノーガードで突っ込んでくる人物がいる。
里中真白(coccoさん)だ。
真白は充分に愛を与えられず育ったのかもしれない。
欲しても欲しても手に入れられなかった愛を、たくさんの人たちに抱かれることで満たそうとしたのかもしれない。
抱かれるだけではなく、抱かれている姿を別の誰かが見てくれることも、真白にとってはひとつの愛撫の形だったのかもしれない。
だから彼女は身体をオープンにし、どんな愛撫も拒絶しなかった。
彼女に触れる手、彼女と繋がるもの、彼女に注がれる視線、彼女を包み込む吐息、そのすべてが真白にとって欠かせない「愛」であり、それなくしては生きていけないものだったのではないだろうか。
そのあまりに無防備な生き方は、もしかしたら、彼女がずっと欲していた「愛」を過剰に与えてしまい、穴をふさぐどころか溢れかえらせていたのではないか、と思う。
自分で手に入れたはずの「愛」が、自分の心を溺れさせてゆく。
自分という人間には不相応だ、と、息苦しくさせてゆく。
「愛」を過剰に摂取しつつ、やめることも出来ない中毒者のような真白は、せめてそこに「お金」を発生させることで、なんとか自分を保とうとする。
これは「愛」じゃない、これは「幸せ」じゃない、自分が払ったお金に対する正当な対価だ、と。
しかし、いくらお金で身を守ろうとしても、世の中に対してフルオープンな真白は、普通の人は見過ごしてしまうようなちいさな「幸せ」も素直に見つけだせてしまう。
世の中に当たり前に存在しているものは、本当は当たり前などではなく、だれかの善意や努力によって成り立っているのだ、ということに気づいてしまい、ささやかな優しさに押しつぶされそうになる。 


「幸せ」を欲して、「幸せ」に殺されそうな真白。
彼女を蝕む病が、どれぐらい彼女を「最後の願い」の実行に踏み切らせる要因になったのかはわからない。
病を患っていなくても、彼女はもう限界だったのかもしれないと思う。
人生で最も大きな「幸せ」、ひとりぼっちで死にたくない、という究極のわがままを叶えるため、真白はいままでにないぐらいの大金を払う。
そして、真白の願いは安室と七海によって成就するのだった。


残酷過ぎて依頼することをためらわずにはいられない「最後の願い」の罪悪感を、安室は「お金」を受け取ることで取り払ってあげた。
幸せの度がすぎて見ないふりをするしかなかった「優しさ」を、七海は無防備にくっきりはっきり見せることでもういちど純粋な喜びとして実感させてあげた。
真白はふたりによって救われ、ふたりもまた、真白によって得難いものを得る。



わたしがこの作品でいちばんすきだったところは、登場人物たちが結婚式からお葬式まで、というかなり激動の人生を歩みながら、劇的に成長しないというところでした。
物語を観るとき、わたしは無意識にわかりやすい「成長」を求めようとするけれど、人ってそう簡単に変わらないんですよね。
少なくとも、見た目的には変わらない。
ただ、なにがしかの経験を通して、じわじわと心に沁みてくるものがある。
それは今まで抱いた事の無かった寛容さだったり、知らなかったことへの理解だったり、ちょっとしたしたたかさだったり。
いいものばかりではなく、はたから見たら悪影響のように思えるものでも、本人にとっては生きる糧になることがあり、そうやって心に色々な物を取り込みながらたくましくなっていくことを、成長と呼ぶのかもしれないなぁと思います。
お金を受け取った七海や、無償で家具を届けた安室の心にも、真白との時間を経て何かが残ったことは間違いないのではないかでしょうか。
突然「善人」になるわけではなく、突然社交的になるでもない、じわじわとした心の変化。
その変化が今後の彼らにどんな景色を見せることになるのか。 
きっとそこには、あたたかい光が射しているのではないか、そう思いました。



- 追記 -

・ 真白がSNSのアカウント名にしていた「リップヴァンウィンクル」は、アメリカの短編小説で浦島太郎のようなお話なのだそうです。
恐妻家のリップ・ヴァン・ウィンクルが、森の奥で不思議な男たちと酒盛りして、一眠りして起きたら数十年が過ぎていて、世の中は変わり、恐い奥さんも亡くなっていた、という。
リップヴァンウィンクルが真白ならば、その花嫁は七海なのか? 
しかし、お酒を飲んで一眠りした後、一人生き残っていたのは七海でした。
もしかしたら、七海と真白のどちらもが時代に取り残されたリップヴァンウィンクルで、どちらもがそんな孤独な男を救いに来た花嫁だったのかもしれない。
もしくは、ただ単純に、「こっこさんと黒木さんにダブルでウェディングドレス着せてひたすらイチャイチャさせたいんだよ!」という岩井監督の趣味のあらわれなのかもしれない。 そうだったとしても、オレは岩井監督を責めない・・・ なぜならじっさいうっとりしちゃったから・・・!!

・ 終盤、真白の実母宅で安室が全裸になるシーン。 安室が人間性を見せたということなのか、演技の一環だったのか、色々な意見があったそうですが、わたしはあれも安室の特技である「なんにでも合わせられる」が発揮された場面だと思いました。
安室はその時その時、相手の感情やテンションに即座に沿ったリアクションが出来る人間なのですよね。
相手が泣いていれば悲しそうに寄り添ってあげるし、相手が怒っていればそうだそうだと相槌をうってあげる。
真白の母が服を脱ぎだした時、いちばん彼女を心地よくさせるのは、いさめるのでも慰めるのでも恥ずかしがるのでもなく一緒の状態になる事だった。 だから安室は躊躇なく脱いだ。 演技をしようとしていたわけではなく、あの時ベストなリアクションだったからそうした、ただそれだけだったのではないか、と。 
それこそが、人々が安室に心を開いてしまう理由であり、安室がおそろしい理由でもあるのではないか、と。
悪魔のように魅力的な男だったなぁ。

・ 最後になりますが、本作はとにかくこっこさんという存在がとてつもなく大きすぎて、黒木さんや綾野さんのすばらしさが「普通」に見えてしまうほどだったことだけお伝えしておこうと思います。 
あの大きな瞳は世の中の見なくていいものを見過ぎ、あの大きな口は世の中の汚れたものを吸い込み過ぎ、あの長い手足は世の中の理不尽なしがらみにがんじがらめになってしまったのだろう。 そう納得せずにはいられない真白像は、こっこさんが演じたからこそ成り立ったものだと思います。
『KOTOKO』の時もあまりの演技力にひっくり返りましたが、『リップヴァンウィンクル』のこっこさんはこれまた強く儚く、なにより美しかったです。 

と、いうわけで、本作で女優・こっこさんのナチュラルな魅力に惹かれた方は、ぜひ別の形でのナチュラル神経衰弱っぷりがすごい『KOTOKO』もご覧ください! そして、うちのめされるといいよ!!


以前書いた感想・・・『KOTOKO』



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『ヒメアノ~ル』

2016年06月03日
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あらすじ・・・
夢も目標も意欲も何もない無気力な若者たちが、コントロール不可な「愛情」という本能に振り回されて、求めても叶わぬものに執着したり、応えたら厄介になるであろうものを受け入れたり、腰を振ったり鉄パイプを振ったり髪を剃ったりします。

わたしは普段から割と簡単に、「絶望」という言葉を口にしてしまいがちなのだけれど、果たして本当の「絶望」を知っているのだろうかというと、自信はない。
もちろん、自信がないということは幸せなのだ。 というか、自信がない方がいいのだ。
「絶望」、つまり全ての望みが絶たれた状態。 
その言葉を受け入れた先には、どんな世界が広がっているのだろうか。
いや、広がってなどいないのかもしれない。
それでも生きてさえいればふとした瞬間ごくごく僅かにでも芽生えそうになる、はかない「光」をひたすら内へ内へと吸い込んで、自分やその周囲を真っ黒な色に塗りつぶしてしまう、ブラックホールのような虚ろな穴が口を開けているだけなのかもしれない。

本作の主人公・森田くんは、まさにブラックホールだった。
その目、その立ち姿、そのだらしなく開いた唇。 
彼を映し出すスクリーンには、「生」を包む眩い光が消されてしまったかのように、常にうすぼんやりとした影が漂っている。
彼がひとたび口を開くと、普通がふつうではなくなり、嘘がまこととなり、確かなものがふたしかなものになってしまう。
ゴウゴウと猛烈な勢いで、彼の内にぽっかりと開いている穴が、わたしやあなたや彼や彼女の「日常」を吸い込もうとしているのを感じる。
走っても逃げられない。 助けを求めても救われない。 なぜなら森田くんはブラックホールだから。
悪人でもない、サイコパスでもない、何者でもないからこそ何もかも飲み込んでしまう、ブラックホールなのだから。

森田くんと話をするのは、とても危険だ。 
さっきまで感じていた希望が一瞬で揺らいでしまう。
森田くんと目を合わせるのは、とても危険だ。
さっきまで身を置いていたはずの「日常」が一瞬で崩壊してしまう。
森田くんはモンスターなのか。
怖ろしいモンスターなのだろうか。 
チンピラにお金を巻き上げられ、おなかがすいたら人の家のカレーを平らげてしまい、寝る時はパジャマに着替える森田くんは、わたしたちと同じ人間ではないのだろうか。

本作中、森田くんに関して明かされる過去は、高校生の頃イジメに遭っていたという事実のみ。
いや、イジメという呼び名で甘ったるくコーティングされた、陰湿で凶暴なリンチというべきか。
親は助けてくれず、傍にいたクラスメイトたちは離れてゆき、唯一の友達は、あろうことかリンチの首謀者であるクラスメイトの言いなりになって自分をさらなる辱めの罠に陥れた。
森田くんの中にブラックホールが生まれたのはどのタイミングだったのだろうか。
家族に失望した時? 親友に裏切られた時? それとも、リンチの首謀者の身体に、初めて金属バットを降りおろした時?
はっきりとは描かれていなかったし、想像するしかないけれど、わたしは森田くんにその「時」が訪れたのは、親友だった岡田くんが自分を嘲っているのを見た瞬間だったのではないかと思ったのだ。

わたしは、そうだ、ハッキリ言おう。 わたしは本当の「絶望」を知らない。
死のうと思ったことはある。 というか、あるチャンスに賭けようとしていた時、もしそれが実らなければ躊躇なく死のうと決めていたことはある。
けれど、それはまだ、「絶望」ではなかった。 なぜなら、そこにはかけがえのない存在への「愛情」があったから。
誰かを愛したい、誰かを守りたい、誰かの助けになりたい。 
家族や友人やちょっとした知り合いや、自分が関わる色々な人たちに注がれるそれらは、全部ひっくるめて「愛情」と呼んでいいと思う。
そしてその「愛情」は、対象となる相手ではなく、自分を支える「望み」となっているのだと、わたしは強く思う。
注いだものが帰ってこなくていい。 ひたすら想うだけでもいい。
時に漠然とした「誰か」や「何か」という存在が、たとえ先が見えない不安や明日に対する恐怖や身を切り裂くような孤独の中に立たされた時も、自分を「絶望」から救ってくれる。 
「あの人に愛されたい」なんて大層なものでなくていい、「あの人元気にしているかな」というような、ごくごく些細な気持ちが、ここに踏みとどまらせてくれるのではないか。
わたしにはそれがあった。 今もある。 だから、これから先もわたしは「絶望」しない。 
けれど、森田くんにはそれがなかったのだ。

親友に売られたその日。 
もちろん、そこに至るまでにも、たとえば家族との間にも色々な行き違いはあっただろうが、森田くんが「望み」を預けていられた最後の防波堤である「友情」を、岡田くんが壊してしまったその日。
森田くんの人生は、「それ以前」と「それ以降」とに分裂してしまったのではないか。
「それ以降」の、何もなくなってしまった森田くん。
どれだけ光を吸い込んでも、森田くんのお腹は満たされない。 
ゆっくりと、ただゆっくりと、朝目覚めて夜寝るまで底なしの穴に落ち続けてゆくだけの人生。
たしかに、人をザクザクと切り刻んでゆく森田くんは怖ろしいモンスターかもしれない。
けれど、「それ以前」の森田くんをモンスターに変えてしまったのは、ごくごく「普通」の人たちなのだ。
森田くんだけを致命的に変えて、すべての望みを奪い去り、その後自分たちは何食わぬ顔で平凡な日々を送っている、「普通」の人たちなのだ。

たくさんの人を殺め、人生を壊していった森田くん。
しかし、彼自身も気づいていない間に、森田くんの中の本能は再び何かを求めようと手を伸ばし始めていた。
「それ以降」心から抹消していたはずの「愛情」。 
誰かの何かに触れて、自分の何かに触れられたいという欲求。
自分の中のブラックホールから這い出すかのように、暗闇の中車を駆る森田くんは、あっけなく壁にぶつかりその逃走劇を終わらせる。
おびただしい血を流し、むごたらしい傷を負ったことで、森田くんの分裂していた心の一部は解放され、「それ以前」の感情や記憶を取り戻すことができた。
高校生の頃の無邪気な笑顔。 親友とのたわいない会話。
ブラックホールに片足をもぎられた森田くんは、あとどれぐらい生きられるのだろう。
生きていられたとして、今度は森田くんの心は「絶望」ではなく、「それ以前」のたのしかった日々の中にとらわれたままなのかもしれない。
いずれにしても、自由にはなれなかった森田くん。
どうして彼はこんな目に遭わなければならなかったのか。
どうして彼は周囲の人間をこんな目に遭わせなければならなかったのか。
たのしそうにテレビゲームに興じる、森田くんの小さな肩を観ながら、とてつもなくかなしくなった。

凄惨で、非情で、虚しくて、もの悲しくて、おそろしくて、二度と観たくないけれど二度と忘れられない、とてもすさまじい作品でした。





クライマックス、連行される森田くんの笑顔がすごくよかったです。 
無邪気な子どもの笑顔。 なんという表情をするのだろう・・と感情をぐちゃぐちゃにかき回されました。
森田剛さんという人を、ひとりの役者として認識していなかった自分を恥じました。
いわゆる「サイコパス」な目つきをするでもなく、殺人に快楽を感じているようでもないけれど、目を開けているのか閉じているのかわからなくなるほどの真っ暗な闇を感じさせる演技。
すごい人だったんだなぁ。 本当に「こういう人」にしか見えないんだもんなぁ。

もちろん、ムロツヨシさんも濱田岳さんも佐津川愛美さんも、言うまでもないほど自然で素晴らしかったですし、役者の力と監督の技とその他製作に携わった人たちの能力がきちんと噛み合うと、こんな優れた作品が生まれるのか、と感動しました。
あと、よく「オープニングでその映画の出来がわかる」なんて言葉を聞きますが、本作のタイトルが出る瞬間は本当に鳥肌が立つほど美しくおそろしく、なるほど、たしかにこれはオープニング満点ですね。

目をそむけたくなるような現実と非現実。 
わたしが生きている、希望にあふれる世界のすぐ隣で口を開けているブラクッホール。
今観るべき映画があるとしたら、この作品なのではないか、と強く思いました。



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『劇場霊』

2015年11月25日
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あらすじ・・・
事故死したのちに、すご腕の人形師だったお父さんから人形の身体を与えられちゃった長女が、なんやかんやいろいろと欲しがります。




・ スペースバンパイアかと思ったらヘルレイザーだった!
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(※ いろいろ欲しがる長女)(※ イメージ画像)

・ と、いうことで、浅口郡(岡山県)が生んだJホラーの巨匠・中田秀夫監督の最新作『劇場霊』を観てきましたよ。

・ 主人公の島崎遥香さん(通称ぱるる)はデビュー5年目の新人女優。 キャスティングされるのは、既に死んでいる役やこれから死ぬ役ばかりという鳴かず飛ばず状態。

・ 見えぬ将来への不安を事務所に訴えかけたぱるるは、とある舞台のオーディションを紹介されます。  そのお芝居とは、実在した残虐非道な伯爵夫人をモデルにした「鮮血の呼び声」。 オーディション自体は完全な出来レースだったものの、無事端役をゲットしたぱるるは新ジャンルへの挑戦に意気揚々です。

・ 一方その頃、舞台の小道具担当者は道具倉庫で運命的な出会いを果たしていました。 どこから、いつからそこにあったのか誰も知らない人形の頭。 不思議な魅力に取りつかれ、その頭を持ち帰った小道具担当者。 欠けていた身体部分は人形担当者が仕上げてくれました。 結構なクオリティの球体関節人形だと思うんだけど、舞台のスタッフさんってなんでもできるんだナー。

・ てな訳でついに迎えた「鮮血の呼び声」の稽古初日。 見るからに胡散臭そうだけど設定としては「大物」な演出家も、首にこじゃれた布っきれを巻いて気分上々です。

・ しかし、早速トラブル発生。 なんとぱるると同じ事務所の先輩でもある主演女優がセリフを暗記していなかったのです。 っていうかいきなり実際の舞台使って衣装もメイクも本番そのもので稽古すんのな。 本読みとか、しないのな。 ジャージとか、着ないのな。 灰皿、飛ばないの(略

・ 北島マヤばりの記憶力で台本を全て覚えていたぱるるは、気をまわしたつもりで急遽先輩女優のプロンプターを務めます。 しかし、先輩にしてみればいい面の皮。 スタッフとキャストの前で「セリフ失念」をばらされて怒り心頭の先輩女優。 稽古の中断を告げる演出家。 これは降板か。 はやくも降板なのか。

・ ところが、オーディション時から失態続きの先輩女優は降板どころか高圧的な態度を増すばかり。 なぜなら先輩女優は既に演出家に抱かれていたのです!

・ このね、「ドラマなんかで脇役を演じることの多い役者さんが大物としてキャスティングされている時の、その役に与えられる小物感と案の定なイヤラシイ展開」ね! 小市慢太郎さんのことを悪く言っているんじゃないんですよ! 「やっぱりな」というか、「流石は小市さん!想像通りに小物な役だったな!」というか、とにかく期待を裏切らないとこがすごい! 確実に殺されるであろうラストもハッキリクッキリ見えるしすごい!

・ 枕営業で仕事を手にしてきた先輩女優でしたが、コネクションだけではどうにもならない事態に直面してしまいます。 お待たせしました、球体関節人形のおねだり開始です。

・ 小道具担当の女性を既に取り込んでいたおねだり人形。 一人で残業していた女性に近づき、彼女の生気を吸い取ることに成功しました。 しましたっつったって、要は殺人ですよ。 っていうか、吸われた女性は死蝋化してしまうので変死事件ですよ。 当然やってくる刑事さんたち。 しかし演出家はあくまで強気の態度を崩しません。 「あなたたちは事件を解決してください。わたしは演出に戻ります」ってかっこいい台詞を吐いて舞台復帰です。 ほんでもって「そっか・・じゃあしょうがないな」みたいな雰囲気で、特に引き留めもせず署に戻る刑事さんたち。

・ いいのか。 それでいいのか。 いや、よくないだろ。

・ 現場検証も鑑識作業もそこそこに稽古が再開される、異常な「鮮血の呼び声」現場。 まぁ、もっとも異常なのはおねだり人形のおっぱいのデカさなんですけどね。 

・ 再び稽古場。 先輩女優がお芝居のクライマックスパートを演じている最中、それは起きました。 身の毛もよだつ、前代未聞のショック体験! 先輩女優戦慄! 失神者続出! なんと、おねだり人形が目を動かしたのです!

・ 地 味 か !

・ あまりに地味な攻撃だったため周りは誰一人気づかなかったものの、バッチリ目が合ってしまった先輩女優は完全に動揺してしまいます。 楽屋に戻った先輩女優。 そこに忍び寄る黒い影・・・

・ 等身大のおねだり人形が、そこにいました。 なにせ亡くなった長女を模し、職人のお父さんの手によってそのまま作られた人形(まぁ、身体は舞台のスタッフさんが勝手に作ったんですけどね)なもんですからね。 ともかく、でっかいのですよ。 ズバリ成人サイズなのです。 『輪廻』の「いっしょだヨ」人形ちゃんや『サスペリア PART2』のまちゃまちゃ人形みたいなスモールサイズじゃないの。 しかも、ちょっといかついの。 アメフトとかやってそうな感じなんでやんの。

・ 華奢な先輩女優と、ギコギコと追いかけてくるアメフトにんg・・・ おねだり人形。 緊張感もへったくれもないチェイスが繰り広げられ、はやくもわたしのお腹は満腹状態です。 うそみたいだろ・・・まだ始まったばかりなんだぜ・・・

・ テラスに追い詰められた先輩女優は、そのまま手すりに乗り上げ落下。 丁度その場を通りがかっていたぱるるの目の前でべシャっと散ります。 慄きながら上を見上げるぱるる。 そこには手すりから見切れるおねだり人形の姿が・・・!

・ あのね、このシーンはホント不満だらけでしてね、まずは、なんで手すりからそのままスルっと落ちるの?!っていうね。 ここは天窓とかはめ込みのガラスとかをドガシャーンってど派手に割って落っこちてくるべきじゃないですか! ぱるるが下にいようといまいと関係ないですよ! そんなもんはなんとでもなりますよ! 「映画の嘘」ですよ! 人形が主張の激しいサイズなんだから、死に様も派手にしてほしかった! 一人目の小道具スタッフの死に様が寂しかっただけに、ここはもっとやりすぎてほしかった!

・ そして次は、ぱるるが見上げた先にある顔ですよね。 自分が落とした女優を見下ろすかのように覗くおねだり人形の顔。 目玉ぐらいは下を向けてほしかった! 先輩女優をびっくらさせた時も、目ん玉ギロって動かしてたじゃないですか! なんで落とした時は平常心なんですか! 思いっきり下目遣いにすればいいじゃないですか! 「それリングの時に使ったから」? 大丈夫大丈夫! いい表情は何度使ってもオッケー! それにほら、あっちは幽霊でこっちは人形だし!

・ そんなこんなで、ついに二人目の死者を出してしまって絶賛曰くがつきまくり中の「鮮血の叫び声」。 もちろん今回も刑事さんたちは捜査らしきことをしようという微かなオーラは出しますが、そこまで本気という訳でもないのか、ぱるるを呼び出し事情を聴くだけの簡単なお仕事に終始。 「何か知ってる?」という刑事さんの質問に安定の塩対応のぱるる。 いいぞ・・・それでこそオレたちのぱるるだぜ・・・!

・ って、ぱるる推しのみなさんなら仰るんじゃないでしょうかね。 わしはぱるる推しじゃないから知らんけど。

・ 一体誰が小道具スタッフさんや先輩女優の命を・・・? という疑問を抱くぱるる・・と見せかけて、実はぱるるの中では既に正解は越後製菓犯人はおねだり人形ということで、完全に答えが出ていたので、刑事さんと別れたあと劇場に戻り人形と向かい合ってみるぱるる。 しかし、人形をじっと見つめているうちに、ぱるるの表情には何かに魅了されていくような不思議な笑みが・・・

・ ちょうだい・・・ ちょうだい・・・ ・・愛をちょうだい・・ ウォウウォウ・・愛をちょうだい・・ZOO ZOO イエー・・・

・ 愛は「ください」だった。

・ まぁ辻仁成さんのヒット曲のことはいいとして、危うく人形に取り込まれそうだった所を、人形担当スタッフの青年に救われたぱるる。 翌日、またしても強気に稽古の再会を宣言する演出家から、先輩女優の代役に大抜擢されます。 つまり主役です。 理由は「セリフが全部入ってるから」。

・ こ・・れは乙部のりえが北島マヤに変わって「シャングリラ」の巫女リーラ役をゲットした時のアレや・・・!
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・ 人形のことは気になるものの、初めての大役にテンションがあがるぱるる。 テンションが上がっているようには見えませんが、塩が塩キャラメルになっている程度にはハイテンションです。 きっとそうなんです。

・ しかし、かなしいかな、テンションや演技力以前に、ぱるるが主役を張る為には乗り越えなければならない大きな壁がありました。 すなわち、「枕営業」の壁です。

・ 「今晩ザギンでシーメーでもクーイーしながら役の解釈についてじっくり話そうじゃないか・・・」という演出家のスケベ心に、毅然とした態度でNOを突き付けるぱるる。 っていうか、露骨に嫌そうな顔をするぱるる。 演技なのか・・いや・・演技なんだ・・・超自然体にしか見えないし握手会ってこんな感じなのかなって否が応にも想像しちゃうけどけれど、これはあくまでぱるるの演技力なんだ・・・

・ 新人女優に拒絶された演出家は、翌日の稽古からあからさまなイビリを開始します。 ちっちぇえ男だな・・・さすが小市慢太郎さん・・・! そして、おねだり人形の方もアグレッシブに黒目を動かすもんだから、大事なシーンで大失敗をしでかしてしまうぱるる。 ダメ出しに対するショックも少なくないですが、それよりも人形に対する危機感の方が断然強く、舞台の関係者一同にお芝居の中止を猛提案。

・ しかし、二人死人が出ても中止されない舞台が、ぱるる一人の懇願でお開きになる訳もなく、主役はぱるるが仲良くしていた同じく新人女優の香織(足立梨花さん)に変更され、ぱるる抜きでの稽古が始まります。 これだけの大事故が連続して起こっている不吉な舞台なのに、芸能レポーターも週刊誌もまったく嗅ぎまわりに来ないところをみると、ぱるるの所属事務所の取締役はよっぽどアンタッチャブルな存在なのだろうか。 そう、たとえばあらゆる業界人にコネクションを持ち政府とのパイプもがっちりキープしオリンピックにまでいっちょ噛みしている芸能界の超大物プロデューサーのような・・ おやこんな時間に誰だろう

・ そして迎えたゲネプロ(通し稽古)当日。 招待されたマスコミたちを前に、お芝居に熱が入るあだっちぃー。 一方、ぱるるは心配して駆けつけてくれた人形担当スタッフの青年と共に、おねだり人形の謎をあきらかにすべくアマゾン奥地へ向かった。 違った、関東近郊へと向かった。

・ おねだり人形の生みの親である人形師に話を聞くぱるると青年。 「わたしも人形が動くトコみたんです」と叫ぶぱるるに、人形師は重い口を開く・・・

・ 「長女がむごたらしい死に方をしたからキレイな人形にしてあげたら次女と三女を殺されたんですよ」

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・ つまり、「人形にしてあげたら思ったより高クオリティで、そりゃ魂も宿るわなぁ!」という話でとうちゃんビックリな訳ですな。 わかりましたか? わからなくてもいいですよ。 要はスペースバンパイアの人形版ってことですよ。(大雑把に言うと)

・ で、「もういいから人形の処分方法だけおしえてつかあさい」というぱるると青年の問いに、とうちゃんが潔く「しらん」とドヤったら、あとはもう怒涛の死体祭りに雪崩れ込む訳ですね。 

・ ゲネプロ真っ最中の舞台に乱入して「人形に殺られるからみんな逃げてー!」と電波を放出するぱるる → ドン引きの関係者 → 刑事さんも乱入 → 逃げるマスコミ → 訴訟も辞さない激オコっぷりの演出家とあだっちぃー → おねだり人形ドーン! → 死の接吻バーン! → ぱるるガーン! とトントン拍子に進む死体祭り。 尺が足りていない訳ではないと思うのですが、ここまでのスローペースが嘘のような駆け足っぷりです。

・ ただ、じゃんじゃん死んでゆく登場人物のほとんどが効果音だけの出演で、肝心要の死に様は映してもらえないという扱いのぞんざいさはいかがなものか。 女性たちがズンズン(生気を)吸われていくんですよ。 男連中は適当に〆られて終わりですけどね。 でも、吸うのも〆るのもきちんと映してほしかった。 もしかしたら、「血は出すな」と言う制約がA先生から出されていたのかもしれませんが、壁に叩きつけるなり、首をへし折るなり、血を見せずしておねだり人形にその剛腕を奮わせることは出来たのではないか。

・ きっと中田監督もそういうのやりたかったんじゃないかと思うのですよ。 勝手な想像ですけどね。 なんつうか、大変ですよね。 何の制約もなく自由にのびのびと作ることが出来たら、すごいパンチのあるホラーになっていただろうになぁ・・・。

・ 「血は出すな」とは言っても人形は例外だったのか、中盤、おねだり人形の顔から血が滴り落ちるシーンがあったのですが、ここもね、どうせならもっとありえないぐらいドンガドンガ放水させた方がおもしろかったと思いますよね。 うそだろ?っていうぐらいに。 出し惜しみすることなく序盤からぐいぐい人形を出していた割に、ショックショーンはめちゃくちゃ配慮のあとが見えて、すごく消化不良でした。 もちろん、監督は悪くない。 なにもかもA先生が悪い。 ぼくはそう思うことにします。

・ もうひとつだけ勝手な事を書かせていただくと、ぱるるがおねだり人形の頬に剣山みたいな鉄片を突き刺すシーンも、「そこは刺すんなら頬じゃなくて脳天だろ!」って心の中で叫んでしまいましたよね。 確かにズル剥けフランク(fromヘルレイザー)みたいな中身が覗いていたのは頬だけど、なんつうか、絵的に地味なんですよね。 脳天ブッ刺しからの血のシャワーっていう方が絶対に派手じゃないですか。 っていうかね、わたしが脳天ブッ刺しが好きなだけなんですけどね。 ホラーで刺すなら脳天! ホラー以外の場合は知らん!

・ という訳で、いろいろとえらそうなことを書いてきましたが、わたしはこの映画を断然支持します。 ぱるるをはじめとする若手の女優さんたちの「いっちょやったるで」感は劇中の女優たちとリンクしていてたのしかったですし、おねだり人形は歩いているだけで愉快でしたし、「家族思いの長女だったはずが、人形になった途端超邪悪になる」というドス黒い設定も、クライマックスでぱるるが叫ぶ「ちょうだいちょうだいって、あげないんだからー!」という小学生みたいなセリフも、全く嫌いになれないです。 むしろすきです。 実は今までぱるるのこと苦手だったのですが、これからは応援しようという気にすらなりました。

・ 「あげないだからー!」の一撃で、人形に引導を叩きつけたぱるる。 その後、「凄惨な現場から生還した女優」として一躍スターダムに躍り出た彼女は、新作の撮影現場でなにものかの視線を感じ振り返ります。 その先にあるのはおねだり人形の首。 

・ ぱるるの目は、ヤツの顔をとらえたのでしょうか。 彼女の姿をもの欲しそうに眺める人形。 それはまるで、スターであるぱるるに羨望と嫉妬の眼差しを向ける数多のアイドル志望者たちのようにも見え。 

・ 死屍累々なこの世界で、ぱるるはくるりと踵を返し、人形に背を向け未来に顔を向けます。 誰かが倒され、引きずり降ろされるまで終わらない闘いに挑もうとするぱるるの表情はあまりに凛々しく、悲しげで、しかし力強く、わたしはなんだかもうめちゃくちゃグっときてしまったのでした。  この表情を導き出した中田監督はすごいし、応えたぱるるもすごいと思います。 ホラーと呼ぶには厳しい映画でしたが、「若さ」や「美しさ」ばかりが「女性」としての価値とされることの怖ろしさは充分感じられましたし、実録業界モノとして観てもなかなかゾッと出来るおもしろい作品だったのではないでしょうか。






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『ギャラクシー街道』

2015年11月02日
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あらすじ・・・
場末のバーガーショップに集まった生き物が右往左往します。


と、いう訳で三谷幸喜監督最新作 『ギャラクシー街道』 を観てきましたよ。
結論から言うと、これはスペース・コメディではない・・ スペース・デブリだ!と叫びたくなるような、まことにガッカリな作品でした。
鑑賞前、某映画レビューサイトを観た友人から「ここまで評価が悪いコトってある?」 と聞かされ、大いに期待を高めて挑んだわたしだったのですが、なるほど、こりゃサイトも荒れるわなぁ・・・と色々納得しましたよね。
マジですさんでたから。 もう、ぺんぺん草も生えてないから。

予めお断りしておきますが、わたしは三谷幸喜さんの作品がとても好きです。
東京サンシャインボーイズの「ショウ・マスト・ゴー・オン〜幕をおろすな(94年版)」を観た時からの大ファンで、連続ドラマはほとんど見ていますし、舞台も可能な限り鑑賞しています。
劇場映画も、ホントにおもしろかった・・・『ラジヂの時間』なんか最高だったなぁ・・・。
それが、「あれ・・・なんかちょっと・・・ええと・・大物だせばいいってもんじゃ・・・」ってなったのは、『THE有頂天ホテル』のあたりからだったでしょうか。
・・・ ・・って割とすぐじゃん!三作目からじゃん!

そんなこんなで、一瞬首を傾げたものの、劇場映画以外のドラマ作品やお芝居は相変わらず面白かったため、三作目以降「こないだのは何かの間違いやったんや・・三谷さんはまだ・・本気出してないだけなんや・・・」と自分に発破をかけつつお付き合いしてきたわたしが敢えて言わせて頂きます。 三谷さんは今回も本気出さなかっただけ!『真田丸』用に本気をためてるだけ!わしはまだ、あきらめてない・・・!

・・はい。では、希望的観測はこれぐらいにして、以下『ギャラクシー街道』のどこが残念だったかいちいち振り返っていきたいと思いますので、まだ鑑賞されていない方はこのままそっとじをお願いします。
鑑賞されるご予定がない方や、鑑賞後のやり場のない思いを誰かと分かち合いたい方、レッツラゴー!


■ 主人公カップルが残念

・ 主人公・ノア(香取慎吾さん)はアースで劇団員をしていましたが、ある日唐突に交際中だった同劇団の看板女優・レイとの別れを決意します。

・ なんでかっていうと、レイちゃんのハンバーガーの食べ方が気に入らなかったから。

・ で、代わりに同劇団のアシスタントをしていたノエと衝動的に結婚します。

・ なんでかっていうと、ノエちゃんのハンバーガーの食べ方が気に入ったから。

・ で、なんやかんやで退団したノエは、ハンバーガー・チェーン「サンドサンドバーガー」と契約を結び、はるかギャラクシー街道沿いに自分の店をオープンさせます。

・ なんでかっていうと、ハンバーガーがめっちゃすきやから。

・ 人生のいろんな部分をハンバーガーに左右されすぎだろ!(まぁお店開くのはいいとして)

・ ところが、せっかく始めたバーガー屋さんはギャラクシー街道の利用客が年々減少していることもあり、右肩下がりの減収減益。 思ったように事が進まないことに苛立つノアは、ハンバーガーへの情熱を失ってしまいます。

・ 「ハンバーガーへの情熱が無くなった=人生の指針を失った」ノアは、お店存続のための経営努力を放棄し、些細なことでノエを叱責したり疑ったりし始めます。

・ 仕事もせずに自室にこもり、コンピューター相手に管をまいたり、せっかくやってきてくれるお客さんをdisったり、従業員でもあるノエにモラハラを繰り返したり、パート店員のハナに過剰労働を押し付けたりするノア。 生き物としてのクズさ全開です。

・ これね、このノアのクズさが一過性のものならいいんですよ。 ハンバーガーへの気持ちが冷めたからクズいヤツになったのならいい。 ハンバーガーさえなんとかなれば、生き物としてもなんとかなりそうだから。 ただ、もし彼がもともとクズいやつだったら悲惨じゃないですか。 女性に対しては高圧的。 自分と違う見た目や特徴を持つ生き物に対して差別的。 自分より容姿が劣る(と判断した)相手は蔑視。 典型的な「自分に甘く他人に厳しい」タイプ。 もしそれがノアの素だったらどうするよ・・・。 大丈夫・・そんなはずはない・・ だってこれはコメディなのだから・・・。

・ で、わたしの杞憂はさておき、そんなノアに見初められて結婚しちゃってお店の切り盛りまで押し付けられちゃったノエ(綾瀬はるかさん)はというと、これまたなんつうか、いい生き物なんですけど若干残念なタイプでして。

・ ノアに内緒でお店の改装を考えたり、ノアに内緒でサンバ教室に通っていたり、ノアの元カノが来店していることをなぜか(どうせ同じお店の中にいるのだから隠しようがないのに)内緒にしようとしたり、結婚して5年も経っている割に胸襟閉じすぎじゃね?

・ まぁ、それもこれもノエが日頃からモラハラを受け続けてきた故なのかもしれませんけどね・・・ これはもしや、「はよ逃げて」物件かもしれんぞ・・・ノエ・・気をつけなはれや・・!

・ そんな主人公カップルが直面する、「閉店の危機」と「離婚の危機」ですが、妻(ノエ)が知らない間に妊娠させてしまっていた赤の他人の出産に立ち会うことで、見事回避します。 他には特にありません。 出産に立ち会っただけです。 ジャスト出産。

・ 驚かないでください。 これが大オチです。


■ 主人公の元カノ夫婦が残念

・ 元カノ夫婦が誰なのかというと、レイとババサヒブのことですよ。  ・・って言ったら余計誰のことかわからないと思いますが、とにかく優香さんと善ちゃんのことですよ!梶原善ちゃん!

・ ノアと3年間付き合っていたレイ(優香さん)は、ある日突然ノアから別れを切り出されます。 まさか自分のハンバーガーの食べ方に一方的にケチをつけられていたとは予想だにしなかったため、ある程度のモヤモヤを抱えた時期はありましたが、その後宇宙学の教授・ババサヒブと結婚したレイちゃん。

・ レイちゃんはひとまずおいておいて、このババサヒブがね、非常に残念なんですよね! ババサヒブが、というよりも、ババサヒブという生き物の扱い方が!

・ 「元カノのイケていない旦那」という、要はお客さんに「なんで優香さんはこんなの選んじゃったんだろ」と思わせるためだけに登場させられた感満載のババサヒブ(梶原善さん)。 

・ 喋りたい時は喋るし、ふざけたい時は前後の脈絡なくふざけるし、口説きたくなれば誰彼構わず口説くし、眠くなれば眠り、脱皮したければする。 その場の空気なんてお構いなしで、落ち着きのない言動を繰り返す彼に悪気はないのだと思うのです。 彼はね、そういう生き物なのですよ。

・ ポテトを鼻に突っ込んでムググ・・ってやった後、優香さんから「食べ物で遊ばないの」と注意されたババサヒブが素直に従うシーンなんて、「わー」って思いましたよ。 「ババサヒブかわいいなぁ」って。 言うこと聞けないタイプじゃないんじゃん。 ただ、衝動に正直なだけなんじゃん。 かわいいじゃん、ババサヒブ。 こういう子がいてもいいじゃない。 まぁ、セクハラはアウトだけど。

・ 問題は、そんなババサヒブの言動が、本作ではただただ「キモく」て「不愉快」で「迷惑」なものとして描かれている所でして。

・ ババサヒブが何かするたびに、コメディらしく目を白黒させるわけでもなく普通に不快感を露わにするノア。 その冷やかな視線は、ノアだけではなく、三谷さん自身の視線でもあるのではないか・・って思ってしまったのですよね。 わたしが穿った見方をし過ぎているのかもしれませんが。

・ わたしは、色々な「自分とは違うタイプの他人」が登場する「喜劇」が成り立つのは、登場人物に充分な愛が注げているか否かにかかっているのではないか、と思います。 彼らを笑いものにするのではなく、彼らと笑い合えるのが優れた「喜劇」なのではないか、と。 だから本作のババサヒブに関するエピソードはホントにつらかった。 マジでクスリとも出来なかったですよ。 せっかく善ちゃんがノリノリで演じているのに・・・あんなおもしろい役者さんなのに笑えなかったんだよ・・・くやしいなぁ・・・

・ レイちゃんはそこまで残念ではなかったのですけども、しいて言えばヅラが残念でしたね! 頭から花が咲いているタイプの宇宙人という設定だったのですが、ヅラの下の地毛が見えるの見えないのって。 途中まで普通にアフロのかつらだと思ってましたからね! 宇宙人がアフロ被ってるんだと思ってた!オシャレだなぁ・・っつって! だって横向いた時見えてんだもん、地毛!

・ あと、せっかく「髪が花」って設定なんだったら、気分に応じて花がパーッと咲くような場面があればよかったのになぁ・・と思いました。 枯れ枝が混じってるトコがよかっただけに、もうちょっと活用できなかったのかと小一時間。

・ そんな元カノ夫婦が直面(というかレイちゃんだけが少しだけ揺れ動く)する「元カレとの再会危機」ですが、「そういやこいつ交際時代から価値観を押し付けてきたり他人を見下したりするトコあったなぁ・・」ということを思い出したであろうレイちゃんがババサヒブと仲良くバーガーを食べることで、見事回避します。 っていうかゴメン、もともと危機なかった。 もともと気の合う仲良し夫婦だった。 レイちゃん、善ちゃん、末永くお幸せに!


■ 妻に言い寄るセールスマンが残念

・ ノエが夫に黙って相談していたリフォーム業者・メンデス(遠藤憲一さん)は、打ち合わせを重ねるうち、ノエに恋してしまいます。 そこまではいい、そこまではいいのじゃよ。

・ ノエもメンデスさんの気持ちに全く気付いていない訳ではなかったのでしょうが、相手は仕事相手(になりうる業者)ですし、悪い人ではなさそうですし、無下にもできなかった。 そんなノエの態度を勝手に「好意アリ」と解釈し、強引に肉体関係を迫るメンデスさん。 普通にヤだ。 っていうか普通に危険なタイプのアレじゃん。

・ ノエからハッキリ拒絶されたメンデスさんは、一旦は引き下がると見せかけて、自らが両性具有であることを活かし、こともあろうにノエを生殖行為に巻き込みます。 「自分の星ではこれが別れのあいさつ(習慣)だ」と偽って。 あーこれアカンやつですわー完全に犯罪の域ですわー

・ 知らない間に種付けさせられていて、知らない間に孕まれていて、知らない間に出産間近になられていて、気づいたら「あなたの子です」って言われるノエってなんなの・・・

・ なんかね、人間の世界でいうと、男の人の言い分でよくありそうじゃないですか。 「これはホントにオレの子なのか」とか「知らない間に相手が勝手に妊娠してた」とか「はめられた」とか。 それをわざわざ女性に置き換えて、しかもホントに「まんまとはめられた」こととして描いているコトに何の意図があるのか、わからないのですよ。 まさかと思うけど、逆にしたらおもしろいと思ったのかなぁ・・・ うそだろ・・

・ そんなメンデスさんが仕掛ける「横恋慕からのつきまとい&妊娠騒動」ですが、「種の保存のための行動」ってことで見事容認されます。 宇宙だから仕方ないみたいです。 

・ ちなみに本作で「宇宙ではそういうこともある」っていう理屈がオチに使われるのはこの一回だけじゃないっていうんだから、ホントにおそろしい映画ですよね。マジで。


■ 西川貴教さんが残念

・ 西川さんが演じるのは、クロローン人のズズ。 顔は人間に似ていますが、手足が若干カエル風味です。 常に体液を流しているので、足元はビショビショです。 歌が上手いそうなのですが、普段の喋り声は歪みがかかり不鮮明。

・ 本作の中でズズがすることは、ハンバーガーを買いにきてノアに「キモい」とうざかられ、110分かけてハンバーガーを食べて、エンディングで歌をうたう。 それだけです。

・ うそでしょ?って思いますよね。 マジでそれだけ?って思いますよね。 わたしも思いましたよね。 体液ビショビショなのは、なにかの伏線だろ?って。 そしたら後半、産気づいたメンデスさんが水分が少ない体質だったせいで難産になっちゃうってくだりがはじまった訳ですよ。 「これか」って思いましたよね。 「冒頭ノアから酷い仕打ちを受けたエピソードはここにつながるのか」って。 「よしよし、ここで西川さんの体液が活かされて、ノアの中にあった差別意識も変えられてゆくのか」って。

・ メンデスさん「痛いよー!もういっそ殺してくれー!」
  ノアたち「もうちょっとヌメり気さえあれば・・・」
  西川さん「(モグモグ)」
  メンデスさん「もう無理だよー!」
  ノアたち「どこかにヌメり気のあるものは・・・」
  西川さん「(モグモグ)」
  ノアたち「そうだ!昆布だー!」
  西川さん「(モグモグ)」
  ノアたち「この昆布をこうやって・・こうして・・・」
  メンデスさん「やったー!生まれた―!」
  西川さん「(モグモグ)」

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・ 客商売としてマジレスすると、宇宙のハンバーガー屋さんでいろんな種族がくることなんてわかってるんだから、背の高い椅子とか低い椅子とか幅広い椅子とか湿り気のある椅子とか、客席のバリエーション用意しとけよ。 っていうお話。


■ コールガールと客が残念

・ サンドサンドバーガーは色々な生き物が食事処や休憩所、はたまた待ち合わせ場所や打ち合わせ場所として活用しているようなのですが、中には打ち合わせ内容を大っぴらにできないような利用客も。 そう、春を買いに来るお客さんです。

・ ということで、アースで医者をしているムタ(石丸幹二さん)もまた、その筋からの紹介を経てサンドサンドバーガーでコールガールのイルマ(ミラクルひかるさん)と待ち合わせることとなるのですが、このムタさんの描写がですね、どう見ても「海外に春を買いに来る日本人」なんですよね。 「社会的地位があり愛する家族もいるんだけど、性的な刺激に対する欲求も抑えられないから後腐れのない海外に来る」中年なんです。 真面目そうに見えて性欲は旺盛、でも病気を過剰に恐れる小心者。 金さえ払えばなんとかなると思っているすけべじじい。

・ 石丸さんはコミカルに演じていらっしゃるのですが、全然笑えないんだもんホントどうしたらいいの・・・

・ たぶんね、わたしの印象ですけどね、設定がリアルすぎるんですよね。 ムタという金持ってそうな社会人の、遠慮したりガッツいたりの度合いがすごくリアルに見えるんです。 そんでまた、相手のコールガールが典型的な「シャッチョーサーン」タイプでね・・・

・ 初対面から「アナタ、オカネアルカ?」みたいな鼻息荒い感じで、「オトート、ナゲットスキネ!アナタ、ナゲットカウネ!」ってたかりにかかるイルマ。 その後も、やたらと横柄な態度はとるわ、ムタが最初にポン引きから聞いていた料金の何倍もふんだくろうとするわ、三谷さんはコールガールに何か嫌な事でもされたことがあるのか?という雑な描かれ方で、ムタに対してもイルマに対しても、わたしはまったく面白さを感じることができませんでした。 過去の作品にコールガールを登場させた時はこんなことなかったのになぁ。 やっぱり三谷さんはこの数年の間に何か嫌なこ(ry

・ いよいよイルマとムタがコトに及ぼうという場面でも、サガミオリジナル的な小袋からサック的なものを取り出して指にはめたり、「そこのディテールそんなリアリティいるかぁ?」と頭の上にハテナマークが浮かぶような描写があったり、新たな性の可能性に目覚めたムタが隙を狙って店内の女性相手にコトをしでかそうになったりと、クスっとなるどころかドン引き必至なシーンが織り込まれ、初の三谷組でこんな役を割り振られた石丸さんが気の毒になってくる始末。 

・ 三谷さんは「ちょっぴりエッチな笑い」を目指したらしいのですが、たぶん三谷さんにそっち方面を期待している人あんまりいないと思うし、三谷さんとエロスって相性悪いんじゃないかという気がするのですよね・・・勝手な感想ですけどね。 どうか今回のこれでエロは懲りてほしい・・・すけべなおっさんの感性は封印してほしい・・・。 三谷さんの、もっとスマートで小粋なコメディが観たいなぁ。


■ スペース警備隊のマドンナ隊員が残念

・ 付き合っていたハトヤ隊員がなかなか結婚してくれないからっつって、交際期間ゼロのトチヤマ隊長からのプロポーズをさっくり受けちゃうマンモ隊員(秋元才加さん)がマジ残念。 「わたしは結婚がしたいのよ」って、頭の中「結婚」の二文字しかないスペース警備隊マジ残念。 べつに結婚願望はいいですよ。 そこは否定しないですよ。 ただ、他の部分が全く描かれないので、マンモ隊員がすごく薄っぺらい生き物に見えるのですよね。 「結婚できればなんでもいいのかよ」って。 女って・・・三谷さんにとっての女って・・・


■ スペース国土交通省の役人が残念

・ ただの客を装いながら、実は老朽化著しいスペース幹線道路(ギャラクシー街道)の現状視察をしていた役人・ハシモト(段田安則さん)。 上司に提出する報告書に「ギャラクシー街道を閉鎖すべき」理由を書き連ねていたハシモトでしたが、気づくとその足元にはアニメの犬がじゃれつき、頭上には鳥が舞っていました。 そしてさらに、赤い風船を持つ道化師姿の男が・・・

・ そろそろ感想を書いているのもしんどくなってきたので結論から言うと、犬も鳥も道化師も、スペース国土交通省に自分を閉鎖させないためギャラクシー街道自身が具現化させた、ハシモトさんの「すきなもの」だったのですけどね。 はい、いいですよ。 今「ファッ?!」って思いましたよね、それでいいんですよ。 みんなで言いましょうよ、「ファッ?!」って。 思い切り声をあげましょうよ。

・ 宇宙学の教授であるババサヒブ曰く、「ただの幹線道路だったギャラクシー街道が長年多種多様な生き物に使われてきたことで生命を宿すようになった」らしく、しかも「生き物たちのすきなもの、願ったものを具現化させる力を持つようになった」んだそうですよ。 もう一回言っときますか、ファッ?!って。 でも、しょうがないですよね、「宇宙ではそういうことがある」んだから。 もういいよ。 ぼくはもう疲れたよパトラッシュ・・・

・ 設定はいいとして、全くよくないのは、ハシモトのリアクションが「自分がすきなものが目の前に現れている」ように見えない所。 犬に向ける眼差しも、鳥を追い払う仕草も、道化師を追いかける時の表情も、とてもじゃないですけど「わー!ちょっとマジでー!オレがすげえすきだったあのキャラじゃん!なんでこんなとこに!」という感じじゃないのですよね。 いるはずのないものが見えて困惑しているにしても、全然すきそうに見えなさすぎ。 説明があるまで純粋に迷惑がっているのだと思っていました。 もうちょっと・・・もうちょっとだけでいいから嬉しそうな一面もみせてほしかった・・・


■ ビジュアルが残念

・ 過去の三谷作品にも、「見た目」のすっとんきょうさで笑いを誘う傾向はありましたが、今回はなんかもう「三谷さんよっほど自信がなかったのかな?」と思う程にビジュアル頼りがひどかったです。

・ 綾瀬さんのヘルメットヘア、山本耕史さんの長すぎる鼻、スポック船長を不真面目に誇張したような善ちゃんの容姿、エンケンさんのボンテージ姿、西田さんのハゲヅラ、とっちゃん坊や的なずんぐりむっくり体型のキャプテンソックス。 どれかだけならまだしも、ここまで「あれもこれも」って詰め込まれたらね・・・ ちょっと胸やけしますよね・・・。 

・ 突飛なビジュアルは、ここぞという時の出オチぐらいの扱い方にしてほしかったなぁ。

・ あと、ポン引きがムタに見せるコールガールのカタログも、わたしのツボには全くはまりませんでした。 グロテスクな見た目はいいけど、これあくまでコメディですよね?シュワちゃんが火星に行くやつじゃないですよね?ガチのやつじゃないですよね? なんでこんなユーモラスさのないデザインなの?

・ まぁ、そこはね、それこそ好みの問題ですからね、わたしがコメディに不似合と思っただけで、本作に出てくるコールガールの写真を気に入る方もいらっしゃるでしょう。もちろんそうでしょう。 そういう方が一人でも多ければ、三谷さんをはじめ『ギャラクシー街道』に関わった方もさぞかし本望なのではないでしょうか。 多ければいいな。 だって、せっかく映画館に足を運んだんだから、少しでも楽しめる方がいいじゃないですか。

・ わたしに関しては、コールガールの顔もさることながら、その首から下が揃いも揃って人間と同じタイプだった点がものすごく不快で、「一般的な美醜観にとらわれない多様性を表したいのかと思ったら、結局体はおまえらおっさんがのぞむエロの結晶なんじゃねえか」ってガッカリしちゃいましたので、どこまで行っても残念でした。 顔が色々なんだから、身体だって色々にすればよかったのになぁ。 それこそおっぱいが三つあったって全身が鱗に覆われていたっていい訳ですし・・・


■ しかし、残念ではなかった

・ とまぁ、さんざん残念に感じた点を挙げてきましたが、小栗旬さん演じるハトヤ隊員と阿南健治さん演じるトチヤマ隊長のやりとりはおもしろかったですよ。 ビジュアルに頼ることのない会話劇のおもしろさを素直に楽しめました。 小栗さんのコメディセンスはすばらしいと思いますし、阿南さんもさすがの演技。 困っている人を演らせたら阿南さんは天下一品だなぁ。

・ とにかく、ちょっとずつズレているなぁという印象が強かったです。 もう少しキャラクターの性格が違っていたら、もう少しテンポがよかったら・・・最低でも香取さんのキャラクターが「いつもの三谷作品」のような「気のいい人」だったら、もっとおもしろく感じたのではないかと思います。 あえてのクズキャラだったのでしょうが、クライマックスのカタルシスがなかったせいで最後まで魅力あるキャラに転じることがなかった。 

・ なんだかんだで、わたしの周りの少なくない人たちが本作を観ているのですが、鑑賞後話していると、ほとんどの人が「三谷さんどうしちゃったんだろうね」と、怒りではなく、なんだったら心配していてですね。 「ホントに完成品観たのかな?」とか「忙しくて映画にかかりっきりになれなかったのかな」とか「真田丸だいじょうぶかな」とか、「まさかこれが三谷さんの本気なはずがない」と思っている人がホントに多くて。 かくいう私も同じですし。

・ もしも本気で三谷さんが本作を「オレの最高傑作!ちょうおもしろい!」と思っているのなら、わたしは今後の三谷作品とも相性が合わないのかもしれない。 そんな寂しさすら感じた『ギャラクシー街道』でした。 でもまだあきらめてないですけどね!

・ あと、本作で残念じゃなかったもうひとつの点は、予告編にあった「三谷さんと謎の着ぐるみがすれ違うシーン」が本編にはなかったことです。 皆さん、安心してください!本編に三谷さんは出ません! 繰り返します!本編に三谷さんは出てきません! (だからどうしたって言われても困るけど)







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