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『スマホを落としただけなのに』

2018年11月09日


「くる~ きっとくる~」 から20年・・・ 新たな三白眼をひっさげて、ついにオレたちの中田秀夫監督が帰ってきたぞい・・・!!






あらすじ・・・
彼氏がタクシーにスマホを忘れたせいで殺人鬼に狙われます。

・ 現代人の分身ともいえるスマートフォン。 市場に出回ってからわずか20年足らずしか経っていないにも関わらず、今では子どもからお年寄りまでまんべんなく普及している生活必需品。 便利さと引き換えに個人情報を明け渡した我々が手に入れたのは、自由なのか、それとも束縛なのか・・・。

・ なあんていうのはよくある話なのでさておいて、そんな我らが相棒・スマホは大事にしろよ~無くしたらおっかねえぞ~という現代人への警鐘が込められた『スマホを落としただけなのに』を観てきました。 おっかねかったです。

・ スマホに限らず、インターネット上に放置している個人情報は、クローズドのように見えて実はフルオープンで、鍵なんてあってないようなものなのではないかと思います。 クラウド上の画像を抜かれたり、ネットバンクに不正アクセスされたり、クレジット情報を盗まれたり・・・。 パスワード設定には細心の注意を払うよう言われているにも関わらず、いまだに生年月日を使う人もごろごろいますもんね。 ママ友のメアドなんてほとんどが自分もしくは子どもの名前プラス誕生日ですよ。 まあねー凝ったのにしても忘れちゃったら意味ないですけどねー。

・ で、本作の主人公・・・・の恋人である田中圭さんもスマホを忘れたまではいいものの(よくないか)、そのパスワードを誕生日にしていたせいであっさり情報を抜き取られてしまい、遠隔操作のえじきになってしまいます。 当然その余波は主人公・北川景子さんにも及ぶことに。

・ 差出人不明のメール、身に覚えのないネットショッピング利用、盗撮、SNSの乗っ取りなどなど、誰の身にもすぐ起こり得そうな危機の連続。 「画像流出つったってハメ撮りじゃなくシーツをはおった程度のものじゃねえか」とか「クレカ不正利用されたらその時点でカード会社から連絡くるだろ」とかそういう細かいことはいいんですよ。 北川景子さんが不穏そうな顔をする、田中圭さんが困り顔をしながらからだを仰け反らせる、それだけで緊急事態っぷりは伝わるではないですか。 「だってポスターに“裸の写真も”って書いてあったから・・」じゃないんだよ!! 北川景子さんが脱ぐわけねえだろ!! そんな高貴なもん都合よく拝めると思うなよ!!

・ 一方、時を同じくして東京近郊の山中から女性の死体が複数発見されます。 被害者はすべて黒髪ストレートの女性。 事件を追う刑事の原田泰造さんと千葉雄大さんは、女性たちが働いていた風俗店に不審な男が通っていたことを突き止めますが・・・。

・ 北川景子さんにつきまとうネットストーカーの正体は? 連続殺人事件との関連は? 黒髪ストレートの北川さんがかたくなに隠そうとする過去とはいったい・・・! 

・ という本筋にうっすらと出口が見え始めたところでした。 『スマホを落としただけなのに』の本当の見せ場が始まったのは。



(※ 以下ネタバレしています)



・ 「火車」でした。 北川景子さんパートの出口は「火車」でした。 一緒に暮らしていた古くからの友人が個人投資に手を出し大やけど。 その友人はあろうことか北川さんの名前で借金を重ね、結局それも溶かした末に電車に飛び込んで自殺。 死の寸前「わたしの人生をあなたにあげる」と言い残した友人の想いに応えた北川さんは、でらべっぴんだった友人の顔そっくりに整形し戸籍を乗っ取ったのでした。 

・ 【結論】 「スマホを落としただけなのに」から得られる教訓 ・ ・ ・ 素人が株に手を出しちゃダメ!!!

・ そうじゃない。 そうじゃないけども。

・ そっちはもういいですよ! 北川景子さんと田中圭さんが修羅場をくぐり抜けて結ばれるのか否か、それはもういいです! 戸籍の乗っ取りとスマホの乗っ取りがかけられたお話、胸に沁みました! それはさておき、本作の真の見どころは、わたしが思うに「連続殺人鬼・成田凌さんと彼を追う刑事・千葉雄大さんの映画の進行具合とは別次元のテンションで語られる数奇な半生」! これなんですよ!! 

・ 引きの画で観ると見分けがつかないようなイケメンふたりをキャスティングしたのも明確な意図のもとですもんね! 黒髪ロングの母を持ち、その母から疎まれ孤独な幼少期を送ったふたり。 母の愛に飢えて育った彼らは、奇遇にもIT関連の仕事で才能を発揮します。 そしてその技術を利用し、ひとりは母の面影を重ねた女性を殺すひとごろしへ。 もうひとりはひとごろしを捕まえる警察への道を歩むのでした。

・ 両極を行くふたりが顔芸を駆使し、追いつ追われつする様の異様さよ・・・! 「今それいりますか?」と声をあげたくなるようなワンダフルなシーンの連続にほほえみがとまりません!! 聞き込みに訪れた風俗店で、挨拶もすっとばして黒髪の女性の背中にもたれかかり、お母さんの思い出に浸る千葉雄大さん。 あんなにイケメンなのに「キモっ!!」と言われる衝撃のシーン。 じっさい言われてもしょうがない奇行っぷりですからね。 殺人事件現場に駆け付けて「こういう事件に出会いたかったんです!」とニッコニコになるにも人としてどうかと思います! いいよー千葉くんいいよー ミスリードとナチュラルな薄気味悪さが混然一体としてておいしいよー

・ そしてなんと言っても殺人鬼・成田凌さんですよ!! 中田監督の代名詞ともいえる「貞子」を継ぐ男・成田凌。 犯人が長髪ストレートである必要なんてないんです!普段はショートカットのイケメンなんですから!なのに自宅に帰ったらいちいちかつらをかぶって白いシュミーズを着るんです! なぜって? 『リング』の中田監督だからですよ!!!

・ この文章だけを見ると、「なあんだ、トンデモ映画か」と思われるかもしれません。 イケメンがシュミーズとかつら・・・たしかに出オチ感は否めない・・・ しかし成田さんの演技を観れば、そんな不安は吹き飛ぶことでしょう! さあ、心のシートベルトはしっかり締めましたか? イケメンの仮面を外し本性を現した瞬間、成田劇場はその幕を開けます。 観たことのない成田凌さんが、アクセル全開で観客のハートを駆け抜けますよ・・・!!

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これが
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こうなります。

・ やりすぎなんですよ!全般やりすぎなんです! ロングかつらを暖簾のようにかきわけて、ごろっと上三白眼をのぞかせる成田凌。 けたたましい奇声をあげてくねくねと動き回る成田凌。 ぐふふふ~とよだれをたらして爪を噛む成田凌。 「エキセントリックな役で名をあげるぞい!」という若手にありがちなやりすぎ感とそれによる上滑り。 ともすればそこに陥ってもおかしくない危険な演技プランでしたが、成田凌さんは見事にやりとげました! 

・ 『ギルバート・グレイプ』のディカプリオのような爛漫さと『シャイニング』のニコルソンのような凶暴さと『12モンキーズ』のブラピのような大胆さ。 あと、圧倒的な顔芸力(りょく)。 成田さんに触発されたのか、北川さんも負けじととんでもねえ絶叫顔を見せてくれました。 すべて成田さんのおかげです。 ずっと観ていたかった。 もう、本筋どうでもいいから成田凌劇場をずっと観ていたかった・・!!

・ 成田さんが自分で作り上げたのなら天才だと思うし、中田監督の演出だったのなら鬼才だと思います。 じぶんという人間のコインの表側みたいな千葉さんの存在を知った時の、憑き物が落ちたようなはかなげな表情もよかった。 引き出しが多いってすばらしいですね。 

・ ただ単にきもちわるいストーカー役を押し付けられた(なりすましだったので文字通り押し付けられていた)バカリズムさんもおいしい役どころでしたし、ゲスなイケメン枠の要潤さんも少ない登場ながら鋭利な印象を残しました。 いっときドラマに重宝されていた頃の鈴木紗理奈さんをほうふつとさせる、(高橋メアリー)ジュンジュンのけたたましさもよかった。 ジュンジュン登場シーンにおける、音量の周囲とのなじまなさ具合は絶対わざとですね。 気はいいけど厚かましくて空気が読めないというキャラクターを絶妙に表現していたと思います。 

・ 予告編の作り方もうまかったですね。  ミスリードの刷り込み方が自然で、本編を観た時いろいろ勘ぐってしまったのはあの予告があったからこそ。 おかげで気持ちよく振り回されました。

・ あと、直接知り合いじゃなくても、知り合いとつながっている人、というだけで信用してしまうネット胸襟のゆるさが、個人的には一番刺さりましたね。 わかる~~ あるよね~ そして怖い目にあうよね~

・ みんなもインターネッツにころされないよう気をつけようね!!! あと、素人が株に手を出したらダメ!ぜったい!!!




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『未来のミライ』

2018年07月24日
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あらすじ・・・
いもうとがうまれて絶賛あかちゃん返り中の四歳児が、親類縁者から「そういうのダメだよ」と説得されます。


やーい!! おっまえんち、おっばけやーしきー!!!!

くんちゃんという男の子のうちにあたらしくあかちゃんがうまれました。
おとうさんもおかあさんも、うまれたてほやほやの妹にかかりっきりで、当然のごとくほったらかしにされるくんちゃんです。
最初こそ、ちいさな生き物をみて「ぼく、おにいちゃんなんだ!」と意気揚々だったくんちゃんでしたが、妹が両親の優先順位ナンバー1に躍り出たことがおもしろくなく、注意をひこうと泣いたり叫んだりいもうとにいじわるしたりと大暴れ。
それでも相手にされず、自暴自棄になって庭に飛び出たくんちゃん。
すると、そんな四歳児の前に次から次へと不審者が現れては、世の理を説き始めるのでした・・・。

おばけやしきですよね!
くんちゃんの住む小洒落た一軒家は、まだ年端もいかない幼児に家族の成り立ちをわからせようとするおばけが続出する、おばけやしきでした!
おかあさんに怒られたり、おとうさんにシカトされたり、すきなズボンが洗濯中だったりと、くんちゃんがさまざまな悲しみに襲われるたび、中庭に現れる魑魅魍魎の数々。うそです。もうちょっといいもんです。

まず現れたのは、くんちゃんがうまれる前からこの家で飼われていた犬っころのゆっこです。
イケオジの格好をしたゆっこは、すねるくんちゃんに「おまえのそれは嫉妬だが、それをいうならオレはおまえのせいでこの家での地位を失ってるんだぞコラわかってんのか」とありがたいお言葉をかけます。
わかったようなわかってないような、たぶんわかってないくんちゃんは、とりあえずゆっこの尻尾がおもしろそうなので引っこ抜いて自分のお尻にイン。
ケモノ化したくんちゃんは、思う存分おうちのなかを走りまわるのでした。

次に現れたのは、くんちゃんの妹のミライちゃんです。
女子高生の格好をしたミライちゃんは、すねるくんちゃんに「婚期が遅れるのが嫌だからお雛様をしまってよ」と、今おにいちゃんが置かれている苦境とは全く関係のない命令を出します。
わかったようなわかってないような、絶対わかっていないくんちゃんは、とりあえずイケオジ化したゆっこも巻き込んでおとうさんの目をかいくぐりながらお雛様片づけ作戦を決行。
この時点で、中庭の訪問者はさみしくなったくんちゃんが見たイマジナリーフレンドではないことがわかります。
なぜなら、彼らはお雛様やおとうさんに対し、物理的に干渉するからです。
ええどええど~~! おばけやしきらしくなってきたド~~~~!!

次に現れたのは、くんちゃんのおかあさんです。
くんちゃんと近い年頃の格好をしたおかあさんは、雨降る街角でひとり泣いているフリをしていました。
心配したくんちゃんが話しかけると、「あなたやさしいのね」といきなり胸襟をフルオープンにし、くんちゃんを自分の家に招待してくれるおかあさん。
ちいさなおかあさんと一緒に家を散らかしお菓子をほおばり、くんちゃんはいたずらの限りを尽くします。
「こんなにちらかしていいの?」「いいよ!だってちらかってるほうがたのしいもん!」
おとなのおかあさんからは想像もつかないような奔放さ。
その血が自分にも流れていることをわかっているようなわかっていないような、それよりおかあさんがおばあちゃんに激烈怒られていることのヤバみの方が気になるくんちゃんだったのでした。

次に現れたのは、くんちゃんのひいおじいちゃんです。
数年前亡くなったひいおじいちゃんは、くんちゃんのおとうさんと変わらないぐらいの若い姿をして、暑い倉庫の中でバイクをいじっていました。
「バイク乗るか?バイク?乗りたくねえのか?ホントは乗りたいんだろ・・・?バイクだぜ・・?」
いきなり全力でバイクを推してきたひいおじいちゃんでしたが、さすがに二の足を踏むくんちゃんに、今度は馬をプレゼンします。
「馬はどうだ?馬?なに?はじめて見た?じゃあ乗りたいだろ?なんてったって馬だぜ・・?」
なかば強引に馬に乗せられたくんちゃん。
はじめは恐怖でいっぱいでしたが、イニシアチブをとるひいおじいちゃんの男臭さに惹かれてゆきます。
「怖いときは遠くを見ろ。乗り物なんてひとつ乗れたら全部いっしょだ」というひいおじいちゃんの流儀を完全に理解したくんちゃんは、その後補助輪なしの自転車にチャレンジする勇気を手に入れたのでした。

次に現れたのは、くんちゃん自身でした。
家族でのお出かけを前にごねまくるくんちゃんを一瞥し、「なんだその態度は。家族みんなでお出かけだぞ。ずっと用意してきてテンション上がってた旅行だろ。ズボンと思い出づくりどっちが大事なんだよ」と冷たく語りかけるくんちゃん。
高校生のようないでたちですが、流れから察するに100パーセントくんちゃんです。
もう!おばけですらない!! 自分の前にもうひとりの自分!ドッペルゲンガー現象!!!しぬるぞ!目ぇ合わせたらしぬるぞ!!!
未来のミライちゃんがあらわれた時には、確かひとつの空間に同一人物はひとりだけという設定があったはずで、じっさいJKミライちゃんとあかちゃんミライちゃんは交互にしか現れなかったのですが、もうそんなのどうでもよくなったのか、ファミリーツリーの中の一枚だからノープロブレムなのか、とにかく突如幕を開けてしまった「くんちゃんVS男子高生くんちゃん」のタイマン勝負! 気になる勝負の行方は!! くんちゃんの敗北です! だって四歳児だもん!かわいそう!くんちゃんいちいちかわいそう!!

家族からも自分からも逃げ出したくんちゃんは、巨大な駅に迷い込んでしまいますが、両親の名前がわからなかったために「ひとりぼっちの国」に強制送還されそうになります。 迷子になっとるっちゅうのにテンパることすら許されない四歳児!
電車の横を見ると、なぜかくんちゃんと同じように強制送還されそうになっているあかちゃんミライちゃんがいました。
もしかしたら、両親が旅行の用意をしている間放っておかれたのはくんちゃんだけではなかったのでしょうか。
え?え?! この世界って、ひとりになった子どもは親の名前とか親類縁者の名前が言えないと「ひとりぼっちの国」に運ばれてっちゃうの?! 
そういうシステムなの? こわくね? それマジこわすぎじゃね? 
っていうか、あの駅員の前に並んでた子どもたちってなんだったの?! みんな迷い子なの? 連れていかれるの?! なにこのホラー展開!!


「ぼくはミライちゃんのおにいちゃん!」
自分といもうとは親の愛情を奪い合うライバルではなく、年下で非力ゆえに守らなければならない存在なのだと、兄としての自我に目覚めたくんちゃんは、力を振り絞ってミライちゃんを助けます。
その瞬間、駅員は高らかにJKミライちゃんを召還。
おにいちゃんを迎えに来たJKミライちゃんと共にファミリーツリーを辿り、くんちゃんは改めて家族の歴史を振り返るのでした。

懸命に生きたご先祖さまがあって、今の自分がある。
命をつないだ人たちがいて、今の自分がある。
甘えん坊だった母やかよわかった父、みんな最初は未熟でたよりなかったんだ。
一緒に過ごし、譲り合ったり支えあったりしながら成長してきたんだ。
ええ話ですね。
ええ話ですけど、四歳児にそれ求めますかね?

子どもの時代も経て、子育ても経たひとりの大人として本作を観れば、描かれている物語に心打たれる部分はありました。
しかし、そう感じた次の瞬間、「でもこの子まだたったの4歳なんだよなー」と素に戻ってしまった。
あかちゃんがうまれたんだからやさしくしなさい、とか、おとなしくしなさい、とか、我慢しなさい、とか。
あくまで大人の都合でしかないものを、「ご先祖様が」だの「きみのおかあさんも」だので納得させるというのは、4歳には荷が重すぎるんじゃなかろうかと思えてなりませんでした。
細田監督はご自分の子育て経験なども投影しつつ本作を作られたのだろうでしょうが、どうも大人が子どもに理解してほしいことを、子どもの口を借りて語らせているだけに思えて、ズルいっちゅうかえげつないっちゅうか・・・ ノレませんでしたね、わたしには。

4歳って、ちいさい子って、別にものわかりなんてよくなくていいとわたしは思うんです。
もちろん、育てる大人としてはものわかりがよくあってくれると非常にありがたいですよ。
きょうだいのお世話もしてくれて、親の苦労も感じとってくれて、駄々もこねずにしずか~にしてもらえるととても助かる。
けれど、子どもにそんな親の事情を背負わせたくもない。
だからきょうだいに嫉妬して、一番大変なタイミングで駄々をこねて、親も子どももイラついたりゆるんだりしながらゆっくりと過ごしていけばいいんじゃないですかね。
だって、成長なんていずれしちゃうんですから。
「もうちょっとちっこいままでいいんだよ~」 と思っていても、ぐんぐん成長しちゃうんですから。
読まなくてもいい空気を読んだり、しなくてもいい我慢をするようになっちゃうんですから。
成長のきっかけが、過去や未来からのありがたい説教ではなく、寝ている間でもなく、目覚めているときにかけられる「あなたはわたしの宝物よ」の言葉とキスだったなら、もっと受け取り方も違ったと思うのですが・・・。(してたのかもしれませんけど、だったらそういう描写もほしかったですね)
この内容だったら、女子高生のミライちゃんを主役にして過去のおにいちゃんをあっちこっちに引っ張りまわす方がすんなり受け入れられた気がします。
まぁ、女子高生だってあそこまで家族の歴史に理解を示すかどうかわかりませんけどね。

とまぁ、なんだかんだ言いましたが、エンディングで「もうおわかれなの?」と問いかけるくんちゃんに「なーに言ってんの、今からうんざりするほど一緒にいれるでしょ」と答えるミライちゃんの姿にはあやうく涙が込み上げそうになったことも、最後にご報告させていただきたいと思います。
うんざりするほど一緒にいられるんだと、未来のいもうとに言われる幸せ。
未来ってことはそれはもう、決定事項なんですよね。
常に子どもの命を心配しながら暮らす、いち・おかあさんとしては、無性にグッとくる言葉でした。
わたしもうんざりするほど子どもたちと一緒にいたいなぁ・・!



― おまけ ―

・ っていうか、おにいちゃん成長したらメチャクチャかっこいいクールキャラになってたんですけど、なにがどうなってああなったんですか!!! このタイムトラベルのせいなんですか!! あのクールな男子高生を先に知ってから、実は子どもの頃は甘えん坊で・・っていうのもアリだな!アリ寄りのアリだな!!!(なにが) 

・ ひいおじいさんに思わず「おとうさん」って言っちゃうくんちゃんですが、よう見てみ・・ あれ母方のひいじいさんやで・・・、まぁ、マサジ(福山)と星野源だったらマサジを選びたくなる気持ち、わからんでもないがな・・・

・ 上記の文章ですが、星野源さんを貶める意図は全くないことをお断りさせていただきます。

・ そんなひいおじいちゃんのパート、シンプルにかっこよくて普通にマサジ(福山)のPVみたいでした。 なるほどなるほど、あの遺伝子がこうきてこうなのね・・・(男子高生くんちゃんを思い浮かべながら)

・ リノベーション時における建ぺい率の問題を、中庭と駐車スペースでカバーする一級建築士のおしごと・・ 知ってる・・・!これ「完成!ドリームハウス」で何回も見たやつー!! おしゃれなのはいいけど、家じゅう段差だらけで危ないから、結局後々子ども落下用のネットとか張り巡らされちゃうやつー!!! トイレや風呂がスケスケのやつーーーー!!!

・ コチョコチョの刑をくらったくんちゃんが無限おかわり地獄に突入するの、ものすごく育児あるあるだと思うんですけども、あの恍惚の表情と恥じらいはなんやねん。 快感に目覚めたゆえにおかわりを言い出すことに罪深さを感じているみたいな仕草なんやねん。 ヘンタイか。 細田監督はヘンタイなのか。

・ しかしあれですな、本作を観ると『となりのトトロ』は実によくできていたなぁと思わずにはいられませんでしたなぁ。 何不自由なく満ち足りているとはいいづらい生活。 おかあさんの愛情への渇望。 じぶんちに現れたふしぎないきものとの交流と、きょうだい間のすれ違い。 最後は子どもたちふたりだけで、でっかい冒険をしてちょっぴり成長する。 全世代が笑って泣けて幸せな気分になる娯楽作。 もしかしたら、細田監督もそういうのがやりたかったのでしょうかね・・。 

・ 俳優さんを責めたい訳ではないのですが、どうしても気になった点。 いくら男の子の声は女性が吹き替えることが多いといっても、本作のくんちゃんの声はちょっとひどすぎましたね。 どこまでいっても十代の女性の声にしか聞こえませんでした。 重ねて言いますが、声を担当した俳優さんは悪くないです。 キャスティングが悪すぎるだけです。

・ 誰の意思でこのキャスティグになったのかわかりませんが、決めた人の責任は重いと思いますよ。 画面を見て「あれ?今しゃべってんの誰だ?」と戸惑わせないでくださいよ。 宣伝の仕方も含め、映画本編以外の部分への不満をまあまあ感じた今日この頃です。 大ヒットを狙いすぎて結局中途半端になっちゃうの、誰も得しないから・・・




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『メアリと魔女の花』

2017年08月31日
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(※ 以下の感想は、数十年に渡り『小さな魔法のほうき』を愛し続けてきた、いち主婦の主観に基づいていますので、「そういうんじゃなくて純然たる映画の感想が知りたいんだよ」、という方にはおすすめしません。)


小学校の図書室に、『小さな魔法のほうき』という本があったのでした。

その本は、「何の予定もない夏休み」という、子どもにとって悪夢に等しい退屈な日々を、「近所に誰も知った子がいない親戚の家」という、これまた子どもにとっては拷問に近い環境で過ごさなくてはいけなくなった少女・メアリーが、黒猫に導かれた先で見つけた不思議な花の力によって、たった一晩だけ魔法の力を手にし、目のくらむようなスピードで空を駆け上がり、世界をふさぐ壁のように厚い雲をくぐり抜け、近いようで遠い魔法学校に入学してしまう、という、子どもにとっては夢のような物語でした。
特別な才能をもっておらず、どちらかというと貧乏くじを引いてしまうタイプで、好奇心は旺盛だけど何をやっても失敗ばかりのメアリー。
しかし、たまたま手についていた不思議な花の金粉を、ちょっと拭おうと小さなほうきになすりつけた瞬間、ほうきは命を吹き込まれたように、あるいは眠りから醒めたように、メアリーを乗せて雲のしぶきをまき散らしながら空を切り裂いてゆくのです。

わたしはもう、夢中でした。
魔女になりたくて、魔法の世界に間違って飛び込んでしまいたくて、図書室でそんな物語ばかり探していたわたしにとって、『小さな魔法のほうき』は福音でした。
衣装ダンスに入り扉を閉め、目をつぶって分厚いコートの間に手を差し込んでばかりいたわたし。
今度こそはひんやりとした空気に触れるはず、ナルニア国の街灯のランプが見えるはず、と熱望しては叶わなかったわたしは、衣装ダンスの代わりに野草を摘み、その汁を庭ぼうきになすりつけるようになりました。
この花は違った、でも、どこかにあの花があるかもしれない、と思いわたしは野草を探しました。
あの花。
「龍の舌」、「魔女の鈴」、「ティブの足もと」、そして「夜間飛行」とも呼ばれるあの花にさえ出会えれば、特別な力のないわたしでも、ほうきにのって空を飛べるかもしれないのですから。

もちろん、本気で「夜間飛行」が存在していると思っていた訳ではありません。
けれど、「夜間飛行」はたしかにあった。 
わたしの想像の世界で美しくひっそりと咲いていた。
その姿だけでわたしは夢をみることができたのです。
『小さな魔法のほうき』は、「魔法はあるかもしれない」という最高の夢を、「今は出会えていないだけで、いつか出会えるかもしれない」という、いつまででも抱えていていい夢を与えてくれたのでした。

そんな『小さな魔法のほうき』が、『メアリと魔女の花』というタイトルを与えられ、長編映画としてお目見えする事になりました。
制作はスタジオポノック。
スタジオジブリが解散したのち、そこに属していたスタッフたちと共に作られたスタジオです。
ジブリではないけれど、ジブリとは全く別物というわけでもない。
ポスターや予告から、観客は自然とジブリを連想し、スタジオもまたジブリを思い起こさせるような作品に仕上げた。
結果、賛否はありました。
当然でした。 
ジブリであってジブリでない、別物といいながら過去のジブリのよりぬきシーンのようだった本作を、ジブリ抜きで評価しろというのは難しい話だと思います。
お客さんは目に見えたものだけで判断します。
ポスターに「魔女、ふたたび」と書いてあり黒猫が出てくるのですから、「魔女の宅急便みたいだなぁ」、と思うでしょう。
魚のようなものが大量に飛びかかるシーンを観れば「ポニョみたいだなぁ」、と。
「ハウル」のように燃え盛る火、「もののけ」のような動物、「湯婆婆」のような魔女、「ラピュタ」のロボット兵のようなモブキャラ、どこかで観たことあるようななにかの連続を、盛り沢山でサービス満点ととる人や、既視感だらけでワクワクしないととる人がいるのは当たり前ですよね。

盛り合わせでいいんです。 既視感たっぷりでもいいんです。 物語が生きてさえいれば。

わたしは原作がすきすぎるゆえに、鑑賞するまでは「原作と比べることはするまい」と思っていました。
そういう観方はとても不公平だから。
原作にアレンジを加えている部分はあまりにも微妙だったけれど、プラスどころかナイマスにしかなってないんじゃないかと戸惑いましたけど、それらは一旦横に置いておこうと思ったのですよ。 「そんなに原作ばんざいなんだったら原作だけ読んどけよ!」って話になっちゃうから。
けれど、そうやって封じていた気持ちを、それ以上抑えられなくなるようなセリフが出てきたのです。
終盤、メアリの口から飛び出したそれは、「子どもたちに向けて作られた」とされる『メアリと魔女の花』にとって、とてもふさわしいとは思えないセリフでしたし、魔法の力を信じて、小説に夢を託して生きてきたわたしにとって、とうてい受け入れられない言葉でした。

「魔法なんかいらない!」
メアリはそう言ったのです。


魔法なんか、いらない・・?
いやいやいや・・・魔法・・ いるでしょ!! ていうか、魔法あるでしょ!! 平凡な少年少女がある日突然魔法世界に飛び込むでしょ! 退屈な日々が一変するでしょ! 悪い魔女やいい魔女が跋扈してるでしょ! 今は遭遇できていないけど、いつか不思議な大冒険に出会えるはずでしょ! 朝起きたら埋めたどんぐりから芽が出てるでしょ! 
夢だけど!夢じゃなかった!
夢だけど!夢じゃなかった!!
トトロいたもん!!ホントにいたんだもん!!ウソじゃないもん!!!


そうか、と思ったのですよね。
『メアリと魔女の花』は、魔法を捨てる映画だったのか、と。
最初から、その結末を描くために作られた映画だったのか、と。

魔法のほうきで空を突っ走るメアリの姿に疾走感がなく、なんだかボヤーっと飛んでユルーっと移動しているようにしか見えなかったのも。
魔法学校の紹介のくだりがあまりに単調で、「魔法ってたのしそう!」「魔法を使ってみたい!」と思えるような描写がなかったのも。
一心不乱にレクリエーションにいそしむ学生たちが顔のない泥人形のようだったのも。
屋台に並べられた食べ物に、いわゆるジブリ飯と呼ばれる自然とよだれを催すようなうまげなモノがなかったのも。
メアリに「わーすごーい!」と言わせるだけで、実際の見た目にはすごいと思えるような施設がないので全然「すごい感」に共鳴できなかったのも。
魔法と、その世界を魅力あるステキなものとして描くつもりがなかったからなのだとしたら、納得がいきます。

「魔法」は思いあがった人間が生み出した悪魔の道具。
適切に使えば便利だけど、欲深い人間は必ず暴走する。
コントロールできると過信して、しかしもちろんできなくて、大きな力に飲み込まれて甚大な被害を生み出してしまう。
あからさまに原発を意識している炉心溶融シーンからも、それは強く伝わってきました。

そして一方で、「魔法」は「偉大過ぎる宮崎駿監督」と「傑作を生みだしてきたスタジオジブリ」を表しているもの、という見方もできます。
多くの観客をワクワクさせ、夢を見させ、憧れさせ、興行収入記録を塗り替えてきたスタジオジブリ。
何度も引退と復帰を繰り返す宮崎監督に、その後継者候補と目されていたアニメーターたちは少なからぬストレスを感じ続けてきたのではないでしょうか。
何を作っても「宮崎駿」と比べられる人生。
「絶対に越えられるわけがない」という暗黙のプレッシャー。
宮崎監督・ジブリを尊敬はしているけれど、そろそろいい加減比べられることなく自由にアニメを作りたい。
だからこそ、本作はさんざんジブリの寄せ集めのようなシーンを盛り込みつつ、最後はそれを「捨てる」、と、「もういらない」、と主人公に語らせた。
呪縛からの離脱と自立宣言、という意味では、『メアリと魔女の花』のクライマックスはとても話の筋が通っていると思います。

でもそれ、お客さんであるちびっこキッズたちに関係ありますかね?

興奮しすぎて「ちびっこキッズ」だなんつって「頭痛が痛い」みたいな言葉を使ってしまいましたが、マジでそれ、関係ありますかね?
「魔法」に込められたのが「便利過ぎる技術」なのか「宮崎監督」なのか、どっちでもいいんですけど、「子ども向けに作りました」って言っている映画に大人の都合を込め過ぎてはいないですか?
いや、別に「子ども向けなら小難しいこと抜きでワー!ドカーン!ボカーン!みたいな単純なことだけやってりゃいい」なんて、そんなこと言いたいんじゃなくてですね、子どもに向けたメッセージとして、「魔法という便利なものを失っても、あなたにはあなたにしかないすばらしいものがある。それは勇気です!」みたいなね、そういうやつ大歓迎なんですよ、わたしはね。
でも、それをやるんなら、
① まず最初に「魔法さいこう!」の部分があって、それを観た子ども(大人でもいいんですけど)に「すげえ!こういうのやりたい!!」って思わせて、
② 次に「魔法の危険な部分」を匂わせて、「あれっ?魔法だいじょうぶかな・・・?」って思わせて、
③ 「実は魔法にはこういう一面もあるんですよ」って思いっきり残酷な部分を出して、ちびっこキッズたちを絶望のどん底に叩き落として、
④ 「逆境の中、裸一貫でどこまでできるかな?」と煽られた主人公が精神論で困難を克服し、それを観たお客さんが「魔法がなくても、自分の力を信じよう」ってなんかポジティブになって、
⑤ 最後は「魔法が消えてしまった・・・ と思わせておいて・・・実は・・・?!」っていう希望溢れるシーンで終わってほしい。
本作には、圧倒的に①がない。 
そんで、割と一気に③に飛ぶので、魔法はスペシャルなものではなく、不気味な泥人形やマッドな博士が操るただの怪しい技術のように映るのです。
まぁそうですよね、魅力的に描くつもりがなかったのなら、そうなりますよね。

魔法に頼るな? 結構ですよ。 頼るなっていうなら頼りませんよ。
っていうか、頼ろうにもそもそも現実世界に魔法なんかないですし。
大人は理不尽だし、政治家はうそつきばっかだし、正直者は損するし、がんばっても報われないし、夢も希望も体力もお金も搾取されて終わりですよ。
魔法に頼るな? ふざけんなですよ。 映画の中でぐらい、夢見させてくれよって話ですよ。 スクリーンの中に魔法を探してなにがいけないんですか。 
みんなトトロのお腹にしがみつきたいし、メーヴェにのりたいし、竜の巣をくぐり抜けてラピュタにたどり着きたいし、屋根裏で蛇が飲み込みあっている表紙の本を読みながらファンタージェンに行きたいし、ホグワーツで組み分け帽子をかぶりたいし、吸血鬼や狼男と闘ったり、「おまえこそが選ばれし者だ」って言われたいんですよ。
楽しいばかりではない、ほろ苦いところもある、時には耐えられないほどの悲劇が起こったりもする、だけどこの世では経験できないワクワクやドキドキや夢や希望を感じることができる。 
それが魔法のすばらしさだと、わたしは思いますし、だからこそ「魔法なんかいらない」という言葉がどうしても引っかかったのです。
その言葉を使った、そういうメッセージを詰め込んだ作品を作りたいならどんどんやってくれればいい。
ただ、『小さな魔法のほうき』を下敷きにやってほしくなかった。

散々なことばかり書いてきましたが、これは最初にも書いたように、あくまで『小さな魔法のほうき』を心のバイブルに育ったわたしの主観です。
わたしは失望してしまいましたが、この作品から希望を感じ取ったり、ワクワクしながら映画館をあとにする子ども(や大人)がたくさんいることをホントに願っています。
わたしの目には「なんやこれ静止画か」と映ったほうきの滑空シーンも、誰かの目にはちょうさいこうのスペクタクルシーンであるかもしれない。 
せっかく映画館でジブリっぽい映画を観に行った人々が、がっかりではなく「いいじゃんこれ!」と思いつつ、なんだったら売店でティブのぬいぐるみを買って帰ってくれるようなことになればいいですね。
そして米林監督には次こそ、呪縛だのなんだのを詰め込まなくてもいいような、本来の意味で自由な作品を作っていただきたい、そのチャンスが与えられるといい、と割と本気で思っています。

あと、もしよかったら図書館か本屋さんで『ちいさな魔法のほうき』手にしてみていただけるとうれしいです。
短いお話しながら、本作以上に魔法の魅力と危うさとメアリの漢気が詰め込まれためちゃくちゃおもしろい小説ですよ!!!!



― 追記 ―

・ シャーロット大叔母さんの存在がマジで謎! 映画独自のアレンジとして、シャーロット大叔母さんが実は若い頃魔女で、問題の花の種を学校から盗み出した張本人である設定が登場するんですけど、そこから数十年、シャーロット大叔母さんはどうやって生きてきたんですかね?

・ 魔法学校から足抜けしてカタギになった瞬間、記憶が全部とんじゃったんですかね? どうやって実家に帰ったんですかね? メアリの親の姉妹らしいですけど、魔女だった間はどういう位置づけだったんですかね? 家出少女的なやつ? ハリポタのペチュニアおばさんとリリーみたいなやつ? あの赤いお屋敷はもともと誰の家なの?

・ 別の場所に隠れ家的なコテージありましたけど、あそこから魔法学校に通っていたんですかね? あのコテージは数十年間電気とかつきっぱなしだったんですかね? 大叔母さんの魔力がなくなっても電気はとまんなかったんですかね?

・ 夜間飛行は一般的な花だったのか、ゼベディさんだけが知っていたのか、あの花を観た瞬間大叔母さんは記憶を取り戻したのか、カタギの間も記憶があったのか、コテージとお屋敷の鏡はどういうしくみで繋がっているのか、なにもかも謎です!

・ 予告の段階で、わたしがいちばん「お!これは期待できるかも!」とハッとしたのは、振り返る赤毛の少女のカットだったのですが、それが映画の割とドあたまに出てきて、しかも大叔母さんの若かりし頃で「やるじゃん!」と思いました。 というか、本編でわたしのテンションがあがったのはドあたまの怪盗シャーロットのシークエンスだけだったとも言える・・・ 全編あのテンションでやってくれればよかったのになぁ。

・ ピーターがメアリに「赤毛のサル」と言うシーン、メアリが「ベーだ!」と舌を出す返しも含めて『トトロ』でいうところの「やーいおまえんちおっばけやしきー」だと思うんですけど、圧倒的に可愛げがないというか、ピーターに「照れ」みたいなものが微塵もないので、ただ初対面の人をサル呼ばわりするだけの失礼な人にしか見えなくて、ピーターの印象さいあくでした。 そのあとダメ押しでもう一回サル呼ばわりしてましたからね。 後半、まさしく文字通り赤毛のお猿さんに救われるシーンがあるので、伏線っちゃあ伏線なんでしょうけど、あのタイミングでサル呼ばわりはねえだろ。 無邪気に暴言吐く人かよ。 こええよ。

・ 「自分の赤毛がコンプレックスだったメアリ→赤毛のサル呼ばわり→魔法学校で赤毛を絶賛される→赤毛悪くないかも→魔法学校は悪の巣窟だった→やっぱ赤毛クソ→赤毛のお猿さんを身代わりに逃走成功」 赤毛コンプレックス解消のカギはお猿さん次第だった・・・?!

・ うまく説明できないけど、「そうじゃない感」がすごい。

・ 原作ではコンプレックスは赤毛ではなく「メアリー・スミス」という偽名ナンバーワンみたいな名前ということになっていて、ジョニー・スミスというこれまた日本でいうところの山田太郎みたいな名前を持つ主人公が出てくる『デッドゾーン』と同じく、コンプレックスがうまく活かされた物語になっています。 というか、原作はマザーグースをはじめとした言葉遊びが随所に使用されていて、それがまたすごくおもしろいんですよね! 小説ならではのたのしさなので、映像化には不向きな仕掛けではありますし、赤毛に焦点をあてたやりかたはいいと思うのですが、サルにたとえるのはどうなの・・・ 校長先生に赤毛を褒められるシーンもあるんだし、サルうんぬんを入れなくても魔女としての特別な才能のあるなしだけでコンプレックスの克服を物語れたんじゃないのかなぁ・・。

・ っていうかね、ホント原作はね、ほうきのシーンといい、魔法学校でのやりとりのシーンといい、メアリが義侠心にかられて学校に戻るシーンといい、かわいそうな実験動物のシーンといい、動物大脱走のシーンといい、超低空飛行でのほうきチェイスといい、全編すごく「ジブリ的な映像化」向きな作品だと思うのですよね。 だからこそ西村プロデューサーは『ちいさな魔法のほうき』を選んだのだろうと思いましたし。 でも、出来上がった作品はそうではなかった。 

・ 集団逃走のシーンはどうしてもののけ並みの大スペクタクルになりえなかったのか。 ほうき飛行はどうしてフラップターでのシータ奪還シーン並みに疾走感を溢れさせられなかったのか。 もしくはしなかったのか。 ワクワクのかぎは、この辺にあったような気がします。 

・ わたしは、もっと圧倒的に動く絵が観たかったのです。 問答無用で胸を突き動かされるようなエモーショナルなアニメーションが観たかった。 すでに今年に入って、わたしはいくつかの作品でそれを観ていたから、余計にそう思ったのです。 宮崎監督の呪縛? 脱ジブリ? そんなことはどうでもいい。 せっかくこんなにおもしろい原作を使っているのだから、ことごとくエピソードを殺すのではなく、もっと魅力的に描いてほしかった。 勿体なさ過ぎるじゃないか、こんなの。

・ ということで、もし機会がありましたら原作を一度手にとっていただきますよう、重ねてお願い申し上げます。 わたしがおすすめなのは、文庫本ではなくハードカバー版。 赤星亮衛さんの挿絵が本当にステキなのですよ!



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『リップヴァンウィンクルの花嫁』

2017年06月07日
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あらすじ・・・血の代わりにお金が流れます。



安室行舛(綾野剛さん)のつかみどころのなさがすごい。
どんな相手にも瞬時に合わせられるのは心がないからなのか、ものすごい強固な鎧で心を守っているからなのか。
いちど無防備な自分をさらしてしまうと、ズタズタに切り裂かれる可能性もある。
だから安室は、他者との間に「お金」という「鎧」を介在させる。
安室のこわいところは、相手にその「鎧」の存在を感じさせないところ。
だから相手はうっかり信じてしまうし、うっかり胸襟をひらいてしまう。
ひらいた結果、相手は底なしの絶望を味わうこともあるし、最悪死を選ぶことだってあるかもしれない。
けれど、たとえ相手が死んでしまっても安室の心は傷つかない。
「お金」が安室を守っているから。
人当たりのよさそうな笑顔を浮かべて人の心をお金に換える。
そんな恐ろしさを微塵も感じさせず、今日も安室は飄々と、人の隙間をすり抜けてゆく。


皆川七海(黒木華さん)の警戒心のなさがすごい。
どんな相手でもいとも簡単に信じてしまう。 そんなに愛していなくても結婚しちゃうし、素性が知れなくてもスーパーマンのように頼ってしまうし、一度会っただけで親友になってしまう。
あまりに無防備だから、当然心はことごとくズタズタに切り裂かれてしまうけれど、脅威の回復力で立ち直り、また簡単に心を開いてみせる七海。
七海のすごいところは、その「無防備」さが彼女の危うさであると同時に、魅力にもなっているところ。
心をガッチガチの鎧で固めている安室が、七海をただのカモとして見ていたのかというと、わたしにはそうは思えなかった。
トラブルに直面するたび、ノーガード戦法でふところに飛び込んでくる七海のふにゃふにゃとした表情に、本心から「なんとかしてあげたい」と思った瞬間が、安室にはあったのではないか。
かと思えば、突然のこだわりを見せたり自分で作り上げた人間関係を大切にしようとする芯の強さに、ハっとした瞬間があったのではないか。
見ていてハラハラする程の無防備さで、出会う相手に「自分は七海にとって特別な存在なのではないか」と思わせてしまいながら、今日も七海はふわふわと、人の隙間をすり抜けてゆく。


そして、本作にはもうひとり、お金という鎧で心を守りながら、同時にノーガードで突っ込んでくる人物がいる。
里中真白(coccoさん)だ。
真白は充分に愛を与えられず育ったのかもしれない。
欲しても欲しても手に入れられなかった愛を、たくさんの人たちに抱かれることで満たそうとしたのかもしれない。
抱かれるだけではなく、抱かれている姿を別の誰かが見てくれることも、真白にとってはひとつの愛撫の形だったのかもしれない。
だから彼女は身体をオープンにし、どんな愛撫も拒絶しなかった。
彼女に触れる手、彼女と繋がるもの、彼女に注がれる視線、彼女を包み込む吐息、そのすべてが真白にとって欠かせない「愛」であり、それなくしては生きていけないものだったのではないだろうか。
そのあまりに無防備な生き方は、もしかしたら、彼女がずっと欲していた「愛」を過剰に与えてしまい、穴をふさぐどころか溢れかえらせていたのではないか、と思う。
自分で手に入れたはずの「愛」が、自分の心を溺れさせてゆく。
自分という人間には不相応だ、と、息苦しくさせてゆく。
「愛」を過剰に摂取しつつ、やめることも出来ない中毒者のような真白は、せめてそこに「お金」を発生させることで、なんとか自分を保とうとする。
これは「愛」じゃない、これは「幸せ」じゃない、自分が払ったお金に対する正当な対価だ、と。
しかし、いくらお金で身を守ろうとしても、世の中に対してフルオープンな真白は、普通の人は見過ごしてしまうようなちいさな「幸せ」も素直に見つけだせてしまう。
世の中に当たり前に存在しているものは、本当は当たり前などではなく、だれかの善意や努力によって成り立っているのだ、ということに気づいてしまい、ささやかな優しさに押しつぶされそうになる。 


「幸せ」を欲して、「幸せ」に殺されそうな真白。
彼女を蝕む病が、どれぐらい彼女を「最後の願い」の実行に踏み切らせる要因になったのかはわからない。
病を患っていなくても、彼女はもう限界だったのかもしれないと思う。
人生で最も大きな「幸せ」、ひとりぼっちで死にたくない、という究極のわがままを叶えるため、真白はいままでにないぐらいの大金を払う。
そして、真白の願いは安室と七海によって成就するのだった。


残酷過ぎて依頼することをためらわずにはいられない「最後の願い」の罪悪感を、安室は「お金」を受け取ることで取り払ってあげた。
幸せの度がすぎて見ないふりをするしかなかった「優しさ」を、七海は無防備にくっきりはっきり見せることでもういちど純粋な喜びとして実感させてあげた。
真白はふたりによって救われ、ふたりもまた、真白によって得難いものを得る。



わたしがこの作品でいちばんすきだったところは、登場人物たちが結婚式からお葬式まで、というかなり激動の人生を歩みながら、劇的に成長しないというところでした。
物語を観るとき、わたしは無意識にわかりやすい「成長」を求めようとするけれど、人ってそう簡単に変わらないんですよね。
少なくとも、見た目的には変わらない。
ただ、なにがしかの経験を通して、じわじわと心に沁みてくるものがある。
それは今まで抱いた事の無かった寛容さだったり、知らなかったことへの理解だったり、ちょっとしたしたたかさだったり。
いいものばかりではなく、はたから見たら悪影響のように思えるものでも、本人にとっては生きる糧になることがあり、そうやって心に色々な物を取り込みながらたくましくなっていくことを、成長と呼ぶのかもしれないなぁと思います。
お金を受け取った七海や、無償で家具を届けた安室の心にも、真白との時間を経て何かが残ったことは間違いないのではないかでしょうか。
突然「善人」になるわけではなく、突然社交的になるでもない、じわじわとした心の変化。
その変化が今後の彼らにどんな景色を見せることになるのか。 
きっとそこには、あたたかい光が射しているのではないか、そう思いました。



- 追記 -

・ 真白がSNSのアカウント名にしていた「リップヴァンウィンクル」は、アメリカの短編小説で浦島太郎のようなお話なのだそうです。
恐妻家のリップ・ヴァン・ウィンクルが、森の奥で不思議な男たちと酒盛りして、一眠りして起きたら数十年が過ぎていて、世の中は変わり、恐い奥さんも亡くなっていた、という。
リップヴァンウィンクルが真白ならば、その花嫁は七海なのか? 
しかし、お酒を飲んで一眠りした後、一人生き残っていたのは七海でした。
もしかしたら、七海と真白のどちらもが時代に取り残されたリップヴァンウィンクルで、どちらもがそんな孤独な男を救いに来た花嫁だったのかもしれない。
もしくは、ただ単純に、「こっこさんと黒木さんにダブルでウェディングドレス着せてひたすらイチャイチャさせたいんだよ!」という岩井監督の趣味のあらわれなのかもしれない。 そうだったとしても、オレは岩井監督を責めない・・・ なぜならじっさいうっとりしちゃったから・・・!!

・ 終盤、真白の実母宅で安室が全裸になるシーン。 安室が人間性を見せたということなのか、演技の一環だったのか、色々な意見があったそうですが、わたしはあれも安室の特技である「なんにでも合わせられる」が発揮された場面だと思いました。
安室はその時その時、相手の感情やテンションに即座に沿ったリアクションが出来る人間なのですよね。
相手が泣いていれば悲しそうに寄り添ってあげるし、相手が怒っていればそうだそうだと相槌をうってあげる。
真白の母が服を脱ぎだした時、いちばん彼女を心地よくさせるのは、いさめるのでも慰めるのでも恥ずかしがるのでもなく一緒の状態になる事だった。 だから安室は躊躇なく脱いだ。 演技をしようとしていたわけではなく、あの時ベストなリアクションだったからそうした、ただそれだけだったのではないか、と。 
それこそが、人々が安室に心を開いてしまう理由であり、安室がおそろしい理由でもあるのではないか、と。
悪魔のように魅力的な男だったなぁ。

・ 最後になりますが、本作はとにかくこっこさんという存在がとてつもなく大きすぎて、黒木さんや綾野さんのすばらしさが「普通」に見えてしまうほどだったことだけお伝えしておこうと思います。 
あの大きな瞳は世の中の見なくていいものを見過ぎ、あの大きな口は世の中の汚れたものを吸い込み過ぎ、あの長い手足は世の中の理不尽なしがらみにがんじがらめになってしまったのだろう。 そう納得せずにはいられない真白像は、こっこさんが演じたからこそ成り立ったものだと思います。
『KOTOKO』の時もあまりの演技力にひっくり返りましたが、『リップヴァンウィンクル』のこっこさんはこれまた強く儚く、なにより美しかったです。 

と、いうわけで、本作で女優・こっこさんのナチュラルな魅力に惹かれた方は、ぜひ別の形でのナチュラル神経衰弱っぷりがすごい『KOTOKO』もご覧ください! そして、うちのめされるといいよ!!


以前書いた感想・・・『KOTOKO』



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『ヒメアノ~ル』

2016年06月03日
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あらすじ・・・
夢も目標も意欲も何もない無気力な若者たちが、コントロール不可な「愛情」という本能に振り回されて、求めても叶わぬものに執着したり、応えたら厄介になるであろうものを受け入れたり、腰を振ったり鉄パイプを振ったり髪を剃ったりします。

わたしは普段から割と簡単に、「絶望」という言葉を口にしてしまいがちなのだけれど、果たして本当の「絶望」を知っているのだろうかというと、自信はない。
もちろん、自信がないということは幸せなのだ。 というか、自信がない方がいいのだ。
「絶望」、つまり全ての望みが絶たれた状態。 
その言葉を受け入れた先には、どんな世界が広がっているのだろうか。
いや、広がってなどいないのかもしれない。
それでも生きてさえいればふとした瞬間ごくごく僅かにでも芽生えそうになる、はかない「光」をひたすら内へ内へと吸い込んで、自分やその周囲を真っ黒な色に塗りつぶしてしまう、ブラックホールのような虚ろな穴が口を開けているだけなのかもしれない。

本作の主人公・森田くんは、まさにブラックホールだった。
その目、その立ち姿、そのだらしなく開いた唇。 
彼を映し出すスクリーンには、「生」を包む眩い光が消されてしまったかのように、常にうすぼんやりとした影が漂っている。
彼がひとたび口を開くと、普通がふつうではなくなり、嘘がまこととなり、確かなものがふたしかなものになってしまう。
ゴウゴウと猛烈な勢いで、彼の内にぽっかりと開いている穴が、わたしやあなたや彼や彼女の「日常」を吸い込もうとしているのを感じる。
走っても逃げられない。 助けを求めても救われない。 なぜなら森田くんはブラックホールだから。
悪人でもない、サイコパスでもない、何者でもないからこそ何もかも飲み込んでしまう、ブラックホールなのだから。

森田くんと話をするのは、とても危険だ。 
さっきまで感じていた希望が一瞬で揺らいでしまう。
森田くんと目を合わせるのは、とても危険だ。
さっきまで身を置いていたはずの「日常」が一瞬で崩壊してしまう。
森田くんはモンスターなのか。
怖ろしいモンスターなのだろうか。 
チンピラにお金を巻き上げられ、おなかがすいたら人の家のカレーを平らげてしまい、寝る時はパジャマに着替える森田くんは、わたしたちと同じ人間ではないのだろうか。

本作中、森田くんに関して明かされる過去は、高校生の頃イジメに遭っていたという事実のみ。
いや、イジメという呼び名で甘ったるくコーティングされた、陰湿で凶暴なリンチというべきか。
親は助けてくれず、傍にいたクラスメイトたちは離れてゆき、唯一の友達は、あろうことかリンチの首謀者であるクラスメイトの言いなりになって自分をさらなる辱めの罠に陥れた。
森田くんの中にブラックホールが生まれたのはどのタイミングだったのだろうか。
家族に失望した時? 親友に裏切られた時? それとも、リンチの首謀者の身体に、初めて金属バットを降りおろした時?
はっきりとは描かれていなかったし、想像するしかないけれど、わたしは森田くんにその「時」が訪れたのは、親友だった岡田くんが自分を嘲っているのを見た瞬間だったのではないかと思ったのだ。

わたしは、そうだ、ハッキリ言おう。 わたしは本当の「絶望」を知らない。
死のうと思ったことはある。 というか、あるチャンスに賭けようとしていた時、もしそれが実らなければ躊躇なく死のうと決めていたことはある。
けれど、それはまだ、「絶望」ではなかった。 なぜなら、そこにはかけがえのない存在への「愛情」があったから。
誰かを愛したい、誰かを守りたい、誰かの助けになりたい。 
家族や友人やちょっとした知り合いや、自分が関わる色々な人たちに注がれるそれらは、全部ひっくるめて「愛情」と呼んでいいと思う。
そしてその「愛情」は、対象となる相手ではなく、自分を支える「望み」となっているのだと、わたしは強く思う。
注いだものが帰ってこなくていい。 ひたすら想うだけでもいい。
時に漠然とした「誰か」や「何か」という存在が、たとえ先が見えない不安や明日に対する恐怖や身を切り裂くような孤独の中に立たされた時も、自分を「絶望」から救ってくれる。 
「あの人に愛されたい」なんて大層なものでなくていい、「あの人元気にしているかな」というような、ごくごく些細な気持ちが、ここに踏みとどまらせてくれるのではないか。
わたしにはそれがあった。 今もある。 だから、これから先もわたしは「絶望」しない。 
けれど、森田くんにはそれがなかったのだ。

親友に売られたその日。 
もちろん、そこに至るまでにも、たとえば家族との間にも色々な行き違いはあっただろうが、森田くんが「望み」を預けていられた最後の防波堤である「友情」を、岡田くんが壊してしまったその日。
森田くんの人生は、「それ以前」と「それ以降」とに分裂してしまったのではないか。
「それ以降」の、何もなくなってしまった森田くん。
どれだけ光を吸い込んでも、森田くんのお腹は満たされない。 
ゆっくりと、ただゆっくりと、朝目覚めて夜寝るまで底なしの穴に落ち続けてゆくだけの人生。
たしかに、人をザクザクと切り刻んでゆく森田くんは怖ろしいモンスターかもしれない。
けれど、「それ以前」の森田くんをモンスターに変えてしまったのは、ごくごく「普通」の人たちなのだ。
森田くんだけを致命的に変えて、すべての望みを奪い去り、その後自分たちは何食わぬ顔で平凡な日々を送っている、「普通」の人たちなのだ。

たくさんの人を殺め、人生を壊していった森田くん。
しかし、彼自身も気づいていない間に、森田くんの中の本能は再び何かを求めようと手を伸ばし始めていた。
「それ以降」心から抹消していたはずの「愛情」。 
誰かの何かに触れて、自分の何かに触れられたいという欲求。
自分の中のブラックホールから這い出すかのように、暗闇の中車を駆る森田くんは、あっけなく壁にぶつかりその逃走劇を終わらせる。
おびただしい血を流し、むごたらしい傷を負ったことで、森田くんの分裂していた心の一部は解放され、「それ以前」の感情や記憶を取り戻すことができた。
高校生の頃の無邪気な笑顔。 親友とのたわいない会話。
ブラックホールに片足をもぎられた森田くんは、あとどれぐらい生きられるのだろう。
生きていられたとして、今度は森田くんの心は「絶望」ではなく、「それ以前」のたのしかった日々の中にとらわれたままなのかもしれない。
いずれにしても、自由にはなれなかった森田くん。
どうして彼はこんな目に遭わなければならなかったのか。
どうして彼は周囲の人間をこんな目に遭わせなければならなかったのか。
たのしそうにテレビゲームに興じる、森田くんの小さな肩を観ながら、とてつもなくかなしくなった。

凄惨で、非情で、虚しくて、もの悲しくて、おそろしくて、二度と観たくないけれど二度と忘れられない、とてもすさまじい作品でした。





クライマックス、連行される森田くんの笑顔がすごくよかったです。 
無邪気な子どもの笑顔。 なんという表情をするのだろう・・と感情をぐちゃぐちゃにかき回されました。
森田剛さんという人を、ひとりの役者として認識していなかった自分を恥じました。
いわゆる「サイコパス」な目つきをするでもなく、殺人に快楽を感じているようでもないけれど、目を開けているのか閉じているのかわからなくなるほどの真っ暗な闇を感じさせる演技。
すごい人だったんだなぁ。 本当に「こういう人」にしか見えないんだもんなぁ。

もちろん、ムロツヨシさんも濱田岳さんも佐津川愛美さんも、言うまでもないほど自然で素晴らしかったですし、役者の力と監督の技とその他製作に携わった人たちの能力がきちんと噛み合うと、こんな優れた作品が生まれるのか、と感動しました。
あと、よく「オープニングでその映画の出来がわかる」なんて言葉を聞きますが、本作のタイトルが出る瞬間は本当に鳥肌が立つほど美しくおそろしく、なるほど、たしかにこれはオープニング満点ですね。

目をそむけたくなるような現実と非現実。 
わたしが生きている、希望にあふれる世界のすぐ隣で口を開けているブラクッホール。
今観るべき映画があるとしたら、この作品なのではないか、と強く思いました。



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