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『貞子』

2019年05月27日
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あらすじ・・・
虐待を受けていた子どもに共感した貞子が現場に復帰します。


■ 「くる」
ついにくるか! 
日本中にJホラー旋風を巻き起こした古典にして原点『リング』シリーズの最新作、しかもメガフォンを執るのはこれまたオリジナル1作目と同じ中田秀夫監督という一報を聞いたわたしは、色めき立ちました。
『貞子3D』はスーパーガッカリイリュージョンだった。
『貞子vs伽椰子』はおもしろかったけどあくまで外伝だった。
『ザ・リング/リバース』はなにをいまさらな内容だった。
どこまでいっても原点を超えられない上に、貞子というキャラクターがひとり歩きをはじめ、その歩き方がコミカル一直線だったせいですっかり「怖さ」が消えてしまった『リング』シリーズが、ふたたび「怖いホラー」としての地位を取り戻す時がついにくる!
公開された、Youtubeの配信動画風予告を観ても、その思いは変わらないどころか、少なくない手ごたえすら感じていました。


■ 「きっとくる」
映画が始まり、冒頭いきなり映し出されたのは井戸でもテレビでもなく団地の一室。
「団地といえばクロユリ団地・・・」と中田監督とあっちゃんの愛の結晶に想いを馳せつつ観ていると、その部屋にはチェーンで封じられた一角があり、さらにその中のクローゼットにも同じようなチェーンが巻き付けてあるではありませんか。
穏やかじゃない。 
ああ穏やかじゃないね。 
いいぞ監督。 
そろそろくるかな。
不穏な描写はさらに続き、クローゼットの中で市松人形を抱きしめる少女、その少女に「おまえは貞子の生まれ変わりだ!」と罵声を浴びせる女性が現れます。
女性は一転声をやわらげ、床に灯油をまくとマッチを擦り、「おかあさんもいっしょにいるからね・・・」とつぶやく。
その時です。 
生気が失われたように暗くなる室内。 恐怖を感じた少女に応えるように部屋の隅に立つ貞子。
やっぱりきた。
さあ、21年ぶりの『リング』祭り再開です!


■ 「たぶんくる」
と思ったら貞子、すぐいなくなっちゃいました。
あれ? まだだったのかな?
まあいいでしょう! 
くるから! 
たぶんこのあとくるから! 
それまでしばし、この気の毒な少女と彼女を見守る精神カウンセラー・池田エライザさんの麗しい御姿でもご覧あれ!
エライザさん、若く優秀なカウンセラーでありまして、なんとその担当患者の中には『リング』で友人のむごい死に顔を見たことから精神を病んでしまった佐藤仁美さんもいる模様。
『リング2』の頃は失語症とテレビをうろつく貞子に苦しんでいましたが、今ではすっかり元気な中年になり、医者としての優しさと友人としての優しさを取り違えてエライザさんに執着している佐藤さん。
パーソナルスペースどこ吹く風とばかりにエライザさんにくっつき、手を握り、食事に誘い、電話番号を聞き出そうとし、毎晩合鍵をつかって診察室に侵入し、花瓶の花を入れ替えるというガチのストーカーっぷり。
なかなかどうして堂に入っているではありませんか。
不法侵入を諫められ、手に持ったままのハサミをカチャカチャ言わせながら激昂する様子、今日一番の恐怖です!
恐怖なんですけど、そろそろ他の恐怖がきてもいい頃ですよね。
主役はあくまで貞子、仁美じゃないよ!


■ 「くるはず」
その後も、エライザさんに襲い掛かる仁美、エイラザさんを助けに割って入る少女、少女に共鳴してテレビから参上する貞子、とお茶漬け程度のホラー描写が続き、貞子をほぼおまけ扱いのままに、物語はエライザさんの弟失踪事件編へ突入してしまいます。
親に捨てられたあとエライザさんと共に施設で育った弟は、エライザさんに学費を出してもらい進学したものの、よくわからないウェブビジネスマンに誘われその気になり、学校を辞めてYouTuberへの道を歩むように。
「やってみた系動画」で頑張ってはいるものの、再生回数は伸び悩み、登録者数も当然頭打ちで完全に詰む弟に「だいじょうぶだいじょうぶ!バズれば一発だから!」と中身のないアドバイスを送るウェブビジネスマン。
自分で書いといてアレなんですけども、なんなんだよウェブビジネスマンて。
そもそも弟とはどういうきっかけで出会って、どういう流れでYouTuberになりなよって話になったんだよ。
再生回数数千ごときで食ってける訳ねえじゃん。
もうねー、ほんとにね、「すきなことして生きてゆく」を広めたYouTuberは罪作りですよ。そりゃ本人はそれで食えてるんだろうし、中には登録者数100万人超えてウハウハの人もいるんだろうし、そもそもYouTuberだけではなく歌手だって漫画家だって声優だってトップクラスになれるのなんて一握りなんだから、甘い見通しで飛び込んでくる方がバカなのかもしれませんけどね。
それにしたってね、ちょっと簡単になれるイメージが定着しすぎていますからね。 罪作りと言わせてほしい。 批判と受け取られてもいい。
YouTuberを目指すなとは言いませんよ。
ただ、動画を作り続けることの困難さ、常にバズり続けないと食ってけない厳しさは理解しておくべきだし、安直に再生数を稼ぐため、犯罪行為を含めどんどん過激な方向へと転がり落ちてゆく配信者も少なくない現実がね、絵空事ではないだけに恐ろしいですよね。
あれ? 
これなんの映画でしたっけ?
現代社会風刺?


■ 「くるよね?」
くるかくるかと思いながら鑑賞すること1時間(※体感)
「冒頭の団地で動画を撮影した後失踪した弟は、貞子の出身地である伊豆大島の洞窟にいるに違いない! なぜなら弟が残した動画を見ていたらやたらと大島の風景が出てくるから!」 という説明になっているのかいないのかよくわからない理由で大島に向かうエライザさんとウェブビジネスマン塚本高史。
エライザさんはともかくどうして無関係なはずのウェブビジネスマンまでついてくるのか?
そんなもんエライザちゃんがかわいいからに決まってるでしょうが!!そりゃ行くわ!用がなくても行くわ!
しかし忘れてはいけません。
きていいのはあくまで貞子であり、ウェブビジネスマンや謎の洞窟お供えババアではないということを。
昔、島民が育てられない赤子を捨てにきていた洞窟は、その後山伏の修行の場になり、いろいろ因縁がたまりすぎたため現在は封印されているそうです。
ちなみに少女を監禁して焼き殺そうとしていたお母さんも、その山伏の血を引く霊能者だったことが明らかにされますが、その話と娘を貞子の生まれ変わりと断定していた話と団地の部屋が罵詈雑言のビラや落書きで埋め尽くされていた話はその後全くつながらず、理由等もまったく明らかにはされません。
もしかしたら、同じく霊能者だったにも関わらず民衆からインチキ扱いされ亡くなった山村志津子とその娘・貞子になぞらえていたのかもしれませんが、「環境が一緒だったら生まれ変わり」っていう理論が謎すぎますし、「虐待受けてたから貞子が共感して出てきた」っていうんなら世の中の虐待児みんな貞子のズッ友じゃん! 適当なストーリー作んなよ! せめて「実はお母さんは高野舞だったのです!」とか、そういう歩み寄りくれよ!


■ 「ひょっとしてこない?」
このあたりからでしょうか、万が一の可能性を感じ始めていたのは。
これはひょっとしたらひょっとするのでは・・・ 
ひょっとしたら・・・ こないのでは・・・?????
少女とシンクロしている訳、テレビから出てくる条件、殺す基準、弟以外の配信動画にもガイコツ映像を差し込む理由、差し込むだけで特に害がない理由、山村志津子が赤ちゃんだった貞子を洞窟に置き去りにしていたという後だしジャンケン、最終的には劇団員になって井戸に落とされるから洞窟あんま関係ない説、次から次へと気まぐれに提示され、特に解説もないまま流されてゆく謎エピソードたち。
無念が怨念になり執念になったのが貞子であり、その「現世への恨みに自信アリ、お祓いしようたって問屋が卸さない」具合が恐ろしかったのではないかと思うのですが、今回の投げっぱなし&統一感ゼロ&つじつま?なにそれうまいの?的物語からはあまりにそれが感じられなかった。
それでも洞窟にさえ行けば・・・・
貞子の思い出の洞窟にさえ行けば、満月が洞窟に差し込んだらなんか起こるみたいに匂わせてたし、きてくれるはず・・・ 『リング2』みたいにペタペタと這い寄ってきてくれるはず・・・


■ 「きませんでした」
きませんでした。
結論からいうと、貞子のかわりに子どもがきました。
白塗りの子どもたちが洞窟内の水たまりからわらわらと登場、入院先の病院から幽体離脱して洞窟にきていた少女を水中に引きずり込もうとしました。
なぜ白塗りキッズなのか。 
貞子の話はどこに行ってしまったのか。
さながら神木(しんぎ)を取り合う西大寺会陽の男たちのように、少女に群がる白塗りキッズ。
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(※ イメージ) (※ 天下の奇祭・はだか祭こと西大寺会陽は岡山で毎年2月開催!みんな、きてくれよな!!)
エライザさんは水たまりに飛び込み、体を張って白塗りキッズから少女を奪い取ります。
「あなたはわたしが一生守るから!」 
必死の叫びが洞窟に響き、白塗りキッズは消えました。 
同時に、病室の本体も意識を取り戻しました。 
仕組みがわからん。
なぜか無傷で生きていて、なぜか洞窟の隅でガタガタ震えていただけの弟とも無事再会を果たすエライザさん。 
仕組みがわからん。
全て終わったのか・・・ なぜかどっと疲れながらエンディングを覚悟したその時です。 
みんなすっかりお忘れだったであろう満月の光が洞窟内に差し込み、水たまりから満を持して貞子が参上!!!
くるんかい。
今さらですよね。 あ、くるんだ? って思いましたもん。 もうお開きの時間だけど? って。
貞子が狙ったのはエライザさん。 それも意味不明。 動画見たから? ウェブビジネスマンも見てたじゃん。 っていうかめっちゃ拡散されて山ほど見られてるじゃん。
貞子に抱きつかれ悲鳴をあげるエライザさんですが、その真横で弟を介抱しているウェブビジネスマンは全く気づく様子がありません。
(ここに限らず、本作では真横で起きている貞子アタックや子どものいじめ行動に他の人たちが全く気づかないシーンがちょいちょいあり、緊迫感をあおりたいのかもしれませんが、状況が不自然すぎて興ざめもいいとこです)
で、やっとこさエライザさんの窮地に気づいた弟は、身を挺して姉をかばい、貞子に引っ張られた挙句哀れ水たまりへ。
このシーンの貞子&弟VSエライザさん&ウェブビジネスマンの引っ張り合いの、絶妙な間抜け具合といったらね・・・ 綱引きかよ・・・ 夜の洞窟で大運動会かよ・・・
 
21年ぶりに帰ってきてまでやりたかったのは、こんな肉弾戦だったのか貞子よ。
肉弾戦なら肉弾戦として、もっと派手な応酬が観たかったよ貞子。
方向性がね、ホントぶれまくっててなにがやりたかったのかさっぱりわからんのよ貞子。
結局弟ひとりだけを引きずり込んだ貞子は、満月の差し込みと共に消滅。 
仕組みがわからん。

「一生守るから」と啖呵を切っていたエライザさんでしたが、貞子ショックで心を病み入院。
一方すっかり元気になった少女は、エライザさんに感謝しつつ退院。
エライザさんのベッドに忍び寄る影。
カーテンを開けたら貞子。 
お馴染みの下向き三白眼をギョロつかせ、「だからくるっつったじゃん」とばかりに貞子。
わかった、わかったからもう帰ってくれ。


■ 「もう誰のことも信じられない」
まあね、貞子がああ(ネタキャラ扱いに)なった時から、もう復帰は無理かなと思っていましたよね。
今回だって、予告こそいい雰囲気だったものの、ポスター・ツイッターなどの宣伝方法はいつも通りのギャグ路線でしたし。
動画配信という設定も斬新などではなく『貞子3D』で経験済み。
目新しいものは特になく、ただ、監督が中田秀夫監督に戻るという、そこだけが希望だったような気がします。
中田監督ならやってくれる。 『劇場霊』はキツかったけど『スマホ』は手堅い出来だった。 この勢いで原点回帰をはかれるはず。 しかし、そうではなかった。
一体なにがいけなかったのでしょうか。
特に描きたいものもないまま、企画ありきでスタートしてしまったからなのでしょうか。
貞子の中にあった恐怖の影が、完全に消えてしまっているからなのでしょうか。
うまい子役が揃えられたわけでもないのに、子役をメインにしてしまったからなのでしょうか。(睨む演技はよくできてた部分と持続できてなかった部分が半々ぐらい。 それ以外は非常に残念な仕上がり。 終始緊迫感がない。 白塗りキッズと入院キッズにいたっては頭を抱えるレベル)
エンドクレジットの最後、「監督 中田秀夫」という文字が浮かび上がるスクリーン。 
そこにちょうどかぶせるようなタイミングで、主題歌の「もう〜誰のことも〜信じ〜られ〜ない〜」という歌詞が流れるの、なかなかどうしてパンチの効いたイヤミだったと思います。
もう!誰も!信じるな!!! 


最後に、観終わった後あまりにささくれだった感情を誰かと分かち合わずにはいられなくなり、たまたま出会った知り合いに「貞子観ました? ぜひ観てください! え?だいじょうぶ! 怖くない、ぜんぜんだいじょうぶです! とりあえずすぐ観てください! 悪いようにはしないから!!!」とごり押ししてしまうという、『リング』の松嶋菜々子的行動をしてしまったことをお詫び申し上げます。
なるほど・・・ ある意味「呪いのビデオ」だったのかもしれんな・・・

みんなもがんばって生き延びようぜ!!





関連感想
『リング』(シリーズ1作目)・感想
『らせん』(シリーズ2作目)・感想
『リング2』(シリーズ3作目)・感想
『リング0 バースデイ』(シリーズ4作目)・感想
『貞子3D』





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『スマホを落としただけなのに』

2018年11月09日


「くる~ きっとくる~」 から20年・・・ 新たな三白眼をひっさげて、ついにオレたちの中田秀夫監督が帰ってきたぞい・・・!!






あらすじ・・・
彼氏がタクシーにスマホを忘れたせいで殺人鬼に狙われます。

・ 現代人の分身ともいえるスマートフォン。 市場に出回ってからわずか20年足らずしか経っていないにも関わらず、今では子どもからお年寄りまでまんべんなく普及している生活必需品。 便利さと引き換えに個人情報を明け渡した我々が手に入れたのは、自由なのか、それとも束縛なのか・・・。

・ なあんていうのはよくある話なのでさておいて、そんな我らが相棒・スマホは大事にしろよ~無くしたらおっかねえぞ~という現代人への警鐘が込められた『スマホを落としただけなのに』を観てきました。 おっかねかったです。

・ スマホに限らず、インターネット上に放置している個人情報は、クローズドのように見えて実はフルオープンで、鍵なんてあってないようなものなのではないかと思います。 クラウド上の画像を抜かれたり、ネットバンクに不正アクセスされたり、クレジット情報を盗まれたり・・・。 パスワード設定には細心の注意を払うよう言われているにも関わらず、いまだに生年月日を使う人もごろごろいますもんね。 ママ友のメアドなんてほとんどが自分もしくは子どもの名前プラス誕生日ですよ。 まあねー凝ったのにしても忘れちゃったら意味ないですけどねー。

・ で、本作の主人公・・・・の恋人である田中圭さんもスマホを忘れたまではいいものの(よくないか)、そのパスワードを誕生日にしていたせいであっさり情報を抜き取られてしまい、遠隔操作のえじきになってしまいます。 当然その余波は主人公・北川景子さんにも及ぶことに。

・ 差出人不明のメール、身に覚えのないネットショッピング利用、盗撮、SNSの乗っ取りなどなど、誰の身にもすぐ起こり得そうな危機の連続。 「画像流出つったってハメ撮りじゃなくシーツをはおった程度のものじゃねえか」とか「クレカ不正利用されたらその時点でカード会社から連絡くるだろ」とかそういう細かいことはいいんですよ。 北川景子さんが不穏そうな顔をする、田中圭さんが困り顔をしながらからだを仰け反らせる、それだけで緊急事態っぷりは伝わるではないですか。 「だってポスターに“裸の写真も”って書いてあったから・・」じゃないんだよ!! 北川景子さんが脱ぐわけねえだろ!! そんな高貴なもん都合よく拝めると思うなよ!!

・ 一方、時を同じくして東京近郊の山中から女性の死体が複数発見されます。 被害者はすべて黒髪ストレートの女性。 事件を追う刑事の原田泰造さんと千葉雄大さんは、女性たちが働いていた風俗店に不審な男が通っていたことを突き止めますが・・・。

・ 北川景子さんにつきまとうネットストーカーの正体は? 連続殺人事件との関連は? 黒髪ストレートの北川さんがかたくなに隠そうとする過去とはいったい・・・! 

・ という本筋にうっすらと出口が見え始めたところでした。 『スマホを落としただけなのに』の本当の見せ場が始まったのは。



(※ 以下ネタバレしています)



・ 「火車」でした。 北川景子さんパートの出口は「火車」でした。 一緒に暮らしていた古くからの友人が個人投資に手を出し大やけど。 その友人はあろうことか北川さんの名前で借金を重ね、結局それも溶かした末に電車に飛び込んで自殺。 死の寸前「わたしの人生をあなたにあげる」と言い残した友人の想いに応えた北川さんは、でらべっぴんだった友人の顔そっくりに整形し戸籍を乗っ取ったのでした。 

・ 【結論】 「スマホを落としただけなのに」から得られる教訓 ・ ・ ・ 素人が株に手を出しちゃダメ!!!

・ そうじゃない。 そうじゃないけども。

・ そっちはもういいですよ! 北川景子さんと田中圭さんが修羅場をくぐり抜けて結ばれるのか否か、それはもういいです! 戸籍の乗っ取りとスマホの乗っ取りがかけられたお話、胸に沁みました! それはさておき、本作の真の見どころは、わたしが思うに「連続殺人鬼・成田凌さんと彼を追う刑事・千葉雄大さんの映画の進行具合とは別次元のテンションで語られる数奇な半生」! これなんですよ!! 

・ 引きの画で観ると見分けがつかないようなイケメンふたりをキャスティングしたのも明確な意図のもとですもんね! 黒髪ロングの母を持ち、その母から疎まれ孤独な幼少期を送ったふたり。 母の愛に飢えて育った彼らは、奇遇にもIT関連の仕事で才能を発揮します。 そしてその技術を利用し、ひとりは母の面影を重ねた女性を殺すひとごろしへ。 もうひとりはひとごろしを捕まえる警察への道を歩むのでした。

・ 両極を行くふたりが顔芸を駆使し、追いつ追われつする様の異様さよ・・・! 「今それいりますか?」と声をあげたくなるようなワンダフルなシーンの連続にほほえみがとまりません!! 聞き込みに訪れた風俗店で、挨拶もすっとばして黒髪の女性の背中にもたれかかり、お母さんの思い出に浸る千葉雄大さん。 あんなにイケメンなのに「キモっ!!」と言われる衝撃のシーン。 じっさい言われてもしょうがない奇行っぷりですからね。 殺人事件現場に駆け付けて「こういう事件に出会いたかったんです!」とニッコニコになるにも人としてどうかと思います! いいよー千葉くんいいよー ミスリードとナチュラルな薄気味悪さが混然一体としてておいしいよー

・ そしてなんと言っても殺人鬼・成田凌さんですよ!! 中田監督の代名詞ともいえる「貞子」を継ぐ男・成田凌。 犯人が長髪ストレートである必要なんてないんです!普段はショートカットのイケメンなんですから!なのに自宅に帰ったらいちいちかつらをかぶって白いシュミーズを着るんです! なぜって? 『リング』の中田監督だからですよ!!!

・ この文章だけを見ると、「なあんだ、トンデモ映画か」と思われるかもしれません。 イケメンがシュミーズとかつら・・・たしかに出オチ感は否めない・・・ しかし成田さんの演技を観れば、そんな不安は吹き飛ぶことでしょう! さあ、心のシートベルトはしっかり締めましたか? イケメンの仮面を外し本性を現した瞬間、成田劇場はその幕を開けます。 観たことのない成田凌さんが、アクセル全開で観客のハートを駆け抜けますよ・・・!!

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これが
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こうなります。

・ やりすぎなんですよ!全般やりすぎなんです! ロングかつらを暖簾のようにかきわけて、ごろっと上三白眼をのぞかせる成田凌。 けたたましい奇声をあげてくねくねと動き回る成田凌。 ぐふふふ~とよだれをたらして爪を噛む成田凌。 「エキセントリックな役で名をあげるぞい!」という若手にありがちなやりすぎ感とそれによる上滑り。 ともすればそこに陥ってもおかしくない危険な演技プランでしたが、成田凌さんは見事にやりとげました! 

・ 『ギルバート・グレイプ』のディカプリオのような爛漫さと『シャイニング』のニコルソンのような凶暴さと『12モンキーズ』のブラピのような大胆さ。 あと、圧倒的な顔芸力(りょく)。 成田さんに触発されたのか、北川さんも負けじととんでもねえ絶叫顔を見せてくれました。 すべて成田さんのおかげです。 ずっと観ていたかった。 もう、本筋どうでもいいから成田凌劇場をずっと観ていたかった・・!!

・ 成田さんが自分で作り上げたのなら天才だと思うし、中田監督の演出だったのなら鬼才だと思います。 じぶんという人間のコインの表側みたいな千葉さんの存在を知った時の、憑き物が落ちたようなはかなげな表情もよかった。 引き出しが多いってすばらしいですね。 

・ ただ単にきもちわるいストーカー役を押し付けられた(なりすましだったので文字通り押し付けられていた)バカリズムさんもおいしい役どころでしたし、ゲスなイケメン枠の要潤さんも少ない登場ながら鋭利な印象を残しました。 いっときドラマに重宝されていた頃の鈴木紗理奈さんをほうふつとさせる、(高橋メアリー)ジュンジュンのけたたましさもよかった。 ジュンジュン登場シーンにおける、音量の周囲とのなじまなさ具合は絶対わざとですね。 気はいいけど厚かましくて空気が読めないというキャラクターを絶妙に表現していたと思います。 

・ 予告編の作り方もうまかったですね。  ミスリードの刷り込み方が自然で、本編を観た時いろいろ勘ぐってしまったのはあの予告があったからこそ。 おかげで気持ちよく振り回されました。

・ あと、直接知り合いじゃなくても、知り合いとつながっている人、というだけで信用してしまうネット胸襟のゆるさが、個人的には一番刺さりましたね。 わかる~~ あるよね~ そして怖い目にあうよね~

・ みんなもインターネッツにころされないよう気をつけようね!!! あと、素人が株に手を出したらダメ!ぜったい!!!




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『未来のミライ』

2018年07月24日
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あらすじ・・・
いもうとがうまれて絶賛あかちゃん返り中の四歳児が、親類縁者から「そういうのダメだよ」と説得されます。


やーい!! おっまえんち、おっばけやーしきー!!!!

くんちゃんという男の子のうちにあたらしくあかちゃんがうまれました。
おとうさんもおかあさんも、うまれたてほやほやの妹にかかりっきりで、当然のごとくほったらかしにされるくんちゃんです。
最初こそ、ちいさな生き物をみて「ぼく、おにいちゃんなんだ!」と意気揚々だったくんちゃんでしたが、妹が両親の優先順位ナンバー1に躍り出たことがおもしろくなく、注意をひこうと泣いたり叫んだりいもうとにいじわるしたりと大暴れ。
それでも相手にされず、自暴自棄になって庭に飛び出たくんちゃん。
すると、そんな四歳児の前に次から次へと不審者が現れては、世の理を説き始めるのでした・・・。

おばけやしきですよね!
くんちゃんの住む小洒落た一軒家は、まだ年端もいかない幼児に家族の成り立ちをわからせようとするおばけが続出する、おばけやしきでした!
おかあさんに怒られたり、おとうさんにシカトされたり、すきなズボンが洗濯中だったりと、くんちゃんがさまざまな悲しみに襲われるたび、中庭に現れる魑魅魍魎の数々。うそです。もうちょっといいもんです。

まず現れたのは、くんちゃんがうまれる前からこの家で飼われていた犬っころのゆっこです。
イケオジの格好をしたゆっこは、すねるくんちゃんに「おまえのそれは嫉妬だが、それをいうならオレはおまえのせいでこの家での地位を失ってるんだぞコラわかってんのか」とありがたいお言葉をかけます。
わかったようなわかってないような、たぶんわかってないくんちゃんは、とりあえずゆっこの尻尾がおもしろそうなので引っこ抜いて自分のお尻にイン。
ケモノ化したくんちゃんは、思う存分おうちのなかを走りまわるのでした。

次に現れたのは、くんちゃんの妹のミライちゃんです。
女子高生の格好をしたミライちゃんは、すねるくんちゃんに「婚期が遅れるのが嫌だからお雛様をしまってよ」と、今おにいちゃんが置かれている苦境とは全く関係のない命令を出します。
わかったようなわかってないような、絶対わかっていないくんちゃんは、とりあえずイケオジ化したゆっこも巻き込んでおとうさんの目をかいくぐりながらお雛様片づけ作戦を決行。
この時点で、中庭の訪問者はさみしくなったくんちゃんが見たイマジナリーフレンドではないことがわかります。
なぜなら、彼らはお雛様やおとうさんに対し、物理的に干渉するからです。
ええどええど~~! おばけやしきらしくなってきたド~~~~!!

次に現れたのは、くんちゃんのおかあさんです。
くんちゃんと近い年頃の格好をしたおかあさんは、雨降る街角でひとり泣いているフリをしていました。
心配したくんちゃんが話しかけると、「あなたやさしいのね」といきなり胸襟をフルオープンにし、くんちゃんを自分の家に招待してくれるおかあさん。
ちいさなおかあさんと一緒に家を散らかしお菓子をほおばり、くんちゃんはいたずらの限りを尽くします。
「こんなにちらかしていいの?」「いいよ!だってちらかってるほうがたのしいもん!」
おとなのおかあさんからは想像もつかないような奔放さ。
その血が自分にも流れていることをわかっているようなわかっていないような、それよりおかあさんがおばあちゃんに激烈怒られていることのヤバみの方が気になるくんちゃんだったのでした。

次に現れたのは、くんちゃんのひいおじいちゃんです。
数年前亡くなったひいおじいちゃんは、くんちゃんのおとうさんと変わらないぐらいの若い姿をして、暑い倉庫の中でバイクをいじっていました。
「バイク乗るか?バイク?乗りたくねえのか?ホントは乗りたいんだろ・・・?バイクだぜ・・?」
いきなり全力でバイクを推してきたひいおじいちゃんでしたが、さすがに二の足を踏むくんちゃんに、今度は馬をプレゼンします。
「馬はどうだ?馬?なに?はじめて見た?じゃあ乗りたいだろ?なんてったって馬だぜ・・?」
なかば強引に馬に乗せられたくんちゃん。
はじめは恐怖でいっぱいでしたが、イニシアチブをとるひいおじいちゃんの男臭さに惹かれてゆきます。
「怖いときは遠くを見ろ。乗り物なんてひとつ乗れたら全部いっしょだ」というひいおじいちゃんの流儀を完全に理解したくんちゃんは、その後補助輪なしの自転車にチャレンジする勇気を手に入れたのでした。

次に現れたのは、くんちゃん自身でした。
家族でのお出かけを前にごねまくるくんちゃんを一瞥し、「なんだその態度は。家族みんなでお出かけだぞ。ずっと用意してきてテンション上がってた旅行だろ。ズボンと思い出づくりどっちが大事なんだよ」と冷たく語りかけるくんちゃん。
高校生のようないでたちですが、流れから察するに100パーセントくんちゃんです。
もう!おばけですらない!! 自分の前にもうひとりの自分!ドッペルゲンガー現象!!!しぬるぞ!目ぇ合わせたらしぬるぞ!!!
未来のミライちゃんがあらわれた時には、確かひとつの空間に同一人物はひとりだけという設定があったはずで、じっさいJKミライちゃんとあかちゃんミライちゃんは交互にしか現れなかったのですが、もうそんなのどうでもよくなったのか、ファミリーツリーの中の一枚だからノープロブレムなのか、とにかく突如幕を開けてしまった「くんちゃんVS男子高生くんちゃん」のタイマン勝負! 気になる勝負の行方は!! くんちゃんの敗北です! だって四歳児だもん!かわいそう!くんちゃんいちいちかわいそう!!

家族からも自分からも逃げ出したくんちゃんは、巨大な駅に迷い込んでしまいますが、両親の名前がわからなかったために「ひとりぼっちの国」に強制送還されそうになります。 迷子になっとるっちゅうのにテンパることすら許されない四歳児!
電車の横を見ると、なぜかくんちゃんと同じように強制送還されそうになっているあかちゃんミライちゃんがいました。
もしかしたら、両親が旅行の用意をしている間放っておかれたのはくんちゃんだけではなかったのでしょうか。
え?え?! この世界って、ひとりになった子どもは親の名前とか親類縁者の名前が言えないと「ひとりぼっちの国」に運ばれてっちゃうの?! 
そういうシステムなの? こわくね? それマジこわすぎじゃね? 
っていうか、あの駅員の前に並んでた子どもたちってなんだったの?! みんな迷い子なの? 連れていかれるの?! なにこのホラー展開!!


「ぼくはミライちゃんのおにいちゃん!」
自分といもうとは親の愛情を奪い合うライバルではなく、年下で非力ゆえに守らなければならない存在なのだと、兄としての自我に目覚めたくんちゃんは、力を振り絞ってミライちゃんを助けます。
その瞬間、駅員は高らかにJKミライちゃんを召還。
おにいちゃんを迎えに来たJKミライちゃんと共にファミリーツリーを辿り、くんちゃんは改めて家族の歴史を振り返るのでした。

懸命に生きたご先祖さまがあって、今の自分がある。
命をつないだ人たちがいて、今の自分がある。
甘えん坊だった母やかよわかった父、みんな最初は未熟でたよりなかったんだ。
一緒に過ごし、譲り合ったり支えあったりしながら成長してきたんだ。
ええ話ですね。
ええ話ですけど、四歳児にそれ求めますかね?

子どもの時代も経て、子育ても経たひとりの大人として本作を観れば、描かれている物語に心打たれる部分はありました。
しかし、そう感じた次の瞬間、「でもこの子まだたったの4歳なんだよなー」と素に戻ってしまった。
あかちゃんがうまれたんだからやさしくしなさい、とか、おとなしくしなさい、とか、我慢しなさい、とか。
あくまで大人の都合でしかないものを、「ご先祖様が」だの「きみのおかあさんも」だので納得させるというのは、4歳には荷が重すぎるんじゃなかろうかと思えてなりませんでした。
細田監督はご自分の子育て経験なども投影しつつ本作を作られたのだろうでしょうが、どうも大人が子どもに理解してほしいことを、子どもの口を借りて語らせているだけに思えて、ズルいっちゅうかえげつないっちゅうか・・・ ノレませんでしたね、わたしには。

4歳って、ちいさい子って、別にものわかりなんてよくなくていいとわたしは思うんです。
もちろん、育てる大人としてはものわかりがよくあってくれると非常にありがたいですよ。
きょうだいのお世話もしてくれて、親の苦労も感じとってくれて、駄々もこねずにしずか~にしてもらえるととても助かる。
けれど、子どもにそんな親の事情を背負わせたくもない。
だからきょうだいに嫉妬して、一番大変なタイミングで駄々をこねて、親も子どももイラついたりゆるんだりしながらゆっくりと過ごしていけばいいんじゃないですかね。
だって、成長なんていずれしちゃうんですから。
「もうちょっとちっこいままでいいんだよ~」 と思っていても、ぐんぐん成長しちゃうんですから。
読まなくてもいい空気を読んだり、しなくてもいい我慢をするようになっちゃうんですから。
成長のきっかけが、過去や未来からのありがたい説教ではなく、寝ている間でもなく、目覚めているときにかけられる「あなたはわたしの宝物よ」の言葉とキスだったなら、もっと受け取り方も違ったと思うのですが・・・。(してたのかもしれませんけど、だったらそういう描写もほしかったですね)
この内容だったら、女子高生のミライちゃんを主役にして過去のおにいちゃんをあっちこっちに引っ張りまわす方がすんなり受け入れられた気がします。
まぁ、女子高生だってあそこまで家族の歴史に理解を示すかどうかわかりませんけどね。

とまぁ、なんだかんだ言いましたが、エンディングで「もうおわかれなの?」と問いかけるくんちゃんに「なーに言ってんの、今からうんざりするほど一緒にいれるでしょ」と答えるミライちゃんの姿にはあやうく涙が込み上げそうになったことも、最後にご報告させていただきたいと思います。
うんざりするほど一緒にいられるんだと、未来のいもうとに言われる幸せ。
未来ってことはそれはもう、決定事項なんですよね。
常に子どもの命を心配しながら暮らす、いち・おかあさんとしては、無性にグッとくる言葉でした。
わたしもうんざりするほど子どもたちと一緒にいたいなぁ・・!



― おまけ ―

・ っていうか、おにいちゃん成長したらメチャクチャかっこいいクールキャラになってたんですけど、なにがどうなってああなったんですか!!! このタイムトラベルのせいなんですか!! あのクールな男子高生を先に知ってから、実は子どもの頃は甘えん坊で・・っていうのもアリだな!アリ寄りのアリだな!!!(なにが) 

・ ひいおじいさんに思わず「おとうさん」って言っちゃうくんちゃんですが、よう見てみ・・ あれ母方のひいじいさんやで・・・、まぁ、マサジ(福山)と星野源だったらマサジを選びたくなる気持ち、わからんでもないがな・・・

・ 上記の文章ですが、星野源さんを貶める意図は全くないことをお断りさせていただきます。

・ そんなひいおじいちゃんのパート、シンプルにかっこよくて普通にマサジ(福山)のPVみたいでした。 なるほどなるほど、あの遺伝子がこうきてこうなのね・・・(男子高生くんちゃんを思い浮かべながら)

・ リノベーション時における建ぺい率の問題を、中庭と駐車スペースでカバーする一級建築士のおしごと・・ 知ってる・・・!これ「完成!ドリームハウス」で何回も見たやつー!! おしゃれなのはいいけど、家じゅう段差だらけで危ないから、結局後々子ども落下用のネットとか張り巡らされちゃうやつー!!! トイレや風呂がスケスケのやつーーーー!!!

・ コチョコチョの刑をくらったくんちゃんが無限おかわり地獄に突入するの、ものすごく育児あるあるだと思うんですけども、あの恍惚の表情と恥じらいはなんやねん。 快感に目覚めたゆえにおかわりを言い出すことに罪深さを感じているみたいな仕草なんやねん。 ヘンタイか。 細田監督はヘンタイなのか。

・ しかしあれですな、本作を観ると『となりのトトロ』は実によくできていたなぁと思わずにはいられませんでしたなぁ。 何不自由なく満ち足りているとはいいづらい生活。 おかあさんの愛情への渇望。 じぶんちに現れたふしぎないきものとの交流と、きょうだい間のすれ違い。 最後は子どもたちふたりだけで、でっかい冒険をしてちょっぴり成長する。 全世代が笑って泣けて幸せな気分になる娯楽作。 もしかしたら、細田監督もそういうのがやりたかったのでしょうかね・・。 

・ 俳優さんを責めたい訳ではないのですが、どうしても気になった点。 いくら男の子の声は女性が吹き替えることが多いといっても、本作のくんちゃんの声はちょっとひどすぎましたね。 どこまでいっても十代の女性の声にしか聞こえませんでした。 重ねて言いますが、声を担当した俳優さんは悪くないです。 キャスティングが悪すぎるだけです。

・ 誰の意思でこのキャスティグになったのかわかりませんが、決めた人の責任は重いと思いますよ。 画面を見て「あれ?今しゃべってんの誰だ?」と戸惑わせないでくださいよ。 宣伝の仕方も含め、映画本編以外の部分への不満をまあまあ感じた今日この頃です。 大ヒットを狙いすぎて結局中途半端になっちゃうの、誰も得しないから・・・




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『メアリと魔女の花』

2017年08月31日
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(※ 以下の感想は、数十年に渡り『小さな魔法のほうき』を愛し続けてきた、いち主婦の主観に基づいていますので、「そういうんじゃなくて純然たる映画の感想が知りたいんだよ」、という方にはおすすめしません。)


小学校の図書室に、『小さな魔法のほうき』という本があったのでした。

その本は、「何の予定もない夏休み」という、子どもにとって悪夢に等しい退屈な日々を、「近所に誰も知った子がいない親戚の家」という、これまた子どもにとっては拷問に近い環境で過ごさなくてはいけなくなった少女・メアリーが、黒猫に導かれた先で見つけた不思議な花の力によって、たった一晩だけ魔法の力を手にし、目のくらむようなスピードで空を駆け上がり、世界をふさぐ壁のように厚い雲をくぐり抜け、近いようで遠い魔法学校に入学してしまう、という、子どもにとっては夢のような物語でした。
特別な才能をもっておらず、どちらかというと貧乏くじを引いてしまうタイプで、好奇心は旺盛だけど何をやっても失敗ばかりのメアリー。
しかし、たまたま手についていた不思議な花の金粉を、ちょっと拭おうと小さなほうきになすりつけた瞬間、ほうきは命を吹き込まれたように、あるいは眠りから醒めたように、メアリーを乗せて雲のしぶきをまき散らしながら空を切り裂いてゆくのです。

わたしはもう、夢中でした。
魔女になりたくて、魔法の世界に間違って飛び込んでしまいたくて、図書室でそんな物語ばかり探していたわたしにとって、『小さな魔法のほうき』は福音でした。
衣装ダンスに入り扉を閉め、目をつぶって分厚いコートの間に手を差し込んでばかりいたわたし。
今度こそはひんやりとした空気に触れるはず、ナルニア国の街灯のランプが見えるはず、と熱望しては叶わなかったわたしは、衣装ダンスの代わりに野草を摘み、その汁を庭ぼうきになすりつけるようになりました。
この花は違った、でも、どこかにあの花があるかもしれない、と思いわたしは野草を探しました。
あの花。
「龍の舌」、「魔女の鈴」、「ティブの足もと」、そして「夜間飛行」とも呼ばれるあの花にさえ出会えれば、特別な力のないわたしでも、ほうきにのって空を飛べるかもしれないのですから。

もちろん、本気で「夜間飛行」が存在していると思っていた訳ではありません。
けれど、「夜間飛行」はたしかにあった。 
わたしの想像の世界で美しくひっそりと咲いていた。
その姿だけでわたしは夢をみることができたのです。
『小さな魔法のほうき』は、「魔法はあるかもしれない」という最高の夢を、「今は出会えていないだけで、いつか出会えるかもしれない」という、いつまででも抱えていていい夢を与えてくれたのでした。

そんな『小さな魔法のほうき』が、『メアリと魔女の花』というタイトルを与えられ、長編映画としてお目見えする事になりました。
制作はスタジオポノック。
スタジオジブリが解散したのち、そこに属していたスタッフたちと共に作られたスタジオです。
ジブリではないけれど、ジブリとは全く別物というわけでもない。
ポスターや予告から、観客は自然とジブリを連想し、スタジオもまたジブリを思い起こさせるような作品に仕上げた。
結果、賛否はありました。
当然でした。 
ジブリであってジブリでない、別物といいながら過去のジブリのよりぬきシーンのようだった本作を、ジブリ抜きで評価しろというのは難しい話だと思います。
お客さんは目に見えたものだけで判断します。
ポスターに「魔女、ふたたび」と書いてあり黒猫が出てくるのですから、「魔女の宅急便みたいだなぁ」、と思うでしょう。
魚のようなものが大量に飛びかかるシーンを観れば「ポニョみたいだなぁ」、と。
「ハウル」のように燃え盛る火、「もののけ」のような動物、「湯婆婆」のような魔女、「ラピュタ」のロボット兵のようなモブキャラ、どこかで観たことあるようななにかの連続を、盛り沢山でサービス満点ととる人や、既視感だらけでワクワクしないととる人がいるのは当たり前ですよね。

盛り合わせでいいんです。 既視感たっぷりでもいいんです。 物語が生きてさえいれば。

わたしは原作がすきすぎるゆえに、鑑賞するまでは「原作と比べることはするまい」と思っていました。
そういう観方はとても不公平だから。
原作にアレンジを加えている部分はあまりにも微妙だったけれど、プラスどころかナイマスにしかなってないんじゃないかと戸惑いましたけど、それらは一旦横に置いておこうと思ったのですよ。 「そんなに原作ばんざいなんだったら原作だけ読んどけよ!」って話になっちゃうから。
けれど、そうやって封じていた気持ちを、それ以上抑えられなくなるようなセリフが出てきたのです。
終盤、メアリの口から飛び出したそれは、「子どもたちに向けて作られた」とされる『メアリと魔女の花』にとって、とてもふさわしいとは思えないセリフでしたし、魔法の力を信じて、小説に夢を託して生きてきたわたしにとって、とうてい受け入れられない言葉でした。

「魔法なんかいらない!」
メアリはそう言ったのです。


魔法なんか、いらない・・?
いやいやいや・・・魔法・・ いるでしょ!! ていうか、魔法あるでしょ!! 平凡な少年少女がある日突然魔法世界に飛び込むでしょ! 退屈な日々が一変するでしょ! 悪い魔女やいい魔女が跋扈してるでしょ! 今は遭遇できていないけど、いつか不思議な大冒険に出会えるはずでしょ! 朝起きたら埋めたどんぐりから芽が出てるでしょ! 
夢だけど!夢じゃなかった!
夢だけど!夢じゃなかった!!
トトロいたもん!!ホントにいたんだもん!!ウソじゃないもん!!!


そうか、と思ったのですよね。
『メアリと魔女の花』は、魔法を捨てる映画だったのか、と。
最初から、その結末を描くために作られた映画だったのか、と。

魔法のほうきで空を突っ走るメアリの姿に疾走感がなく、なんだかボヤーっと飛んでユルーっと移動しているようにしか見えなかったのも。
魔法学校の紹介のくだりがあまりに単調で、「魔法ってたのしそう!」「魔法を使ってみたい!」と思えるような描写がなかったのも。
一心不乱にレクリエーションにいそしむ学生たちが顔のない泥人形のようだったのも。
屋台に並べられた食べ物に、いわゆるジブリ飯と呼ばれる自然とよだれを催すようなうまげなモノがなかったのも。
メアリに「わーすごーい!」と言わせるだけで、実際の見た目にはすごいと思えるような施設がないので全然「すごい感」に共鳴できなかったのも。
魔法と、その世界を魅力あるステキなものとして描くつもりがなかったからなのだとしたら、納得がいきます。

「魔法」は思いあがった人間が生み出した悪魔の道具。
適切に使えば便利だけど、欲深い人間は必ず暴走する。
コントロールできると過信して、しかしもちろんできなくて、大きな力に飲み込まれて甚大な被害を生み出してしまう。
あからさまに原発を意識している炉心溶融シーンからも、それは強く伝わってきました。

そして一方で、「魔法」は「偉大過ぎる宮崎駿監督」と「傑作を生みだしてきたスタジオジブリ」を表しているもの、という見方もできます。
多くの観客をワクワクさせ、夢を見させ、憧れさせ、興行収入記録を塗り替えてきたスタジオジブリ。
何度も引退と復帰を繰り返す宮崎監督に、その後継者候補と目されていたアニメーターたちは少なからぬストレスを感じ続けてきたのではないでしょうか。
何を作っても「宮崎駿」と比べられる人生。
「絶対に越えられるわけがない」という暗黙のプレッシャー。
宮崎監督・ジブリを尊敬はしているけれど、そろそろいい加減比べられることなく自由にアニメを作りたい。
だからこそ、本作はさんざんジブリの寄せ集めのようなシーンを盛り込みつつ、最後はそれを「捨てる」、と、「もういらない」、と主人公に語らせた。
呪縛からの離脱と自立宣言、という意味では、『メアリと魔女の花』のクライマックスはとても話の筋が通っていると思います。

でもそれ、お客さんであるちびっこキッズたちに関係ありますかね?

興奮しすぎて「ちびっこキッズ」だなんつって「頭痛が痛い」みたいな言葉を使ってしまいましたが、マジでそれ、関係ありますかね?
「魔法」に込められたのが「便利過ぎる技術」なのか「宮崎監督」なのか、どっちでもいいんですけど、「子ども向けに作りました」って言っている映画に大人の都合を込め過ぎてはいないですか?
いや、別に「子ども向けなら小難しいこと抜きでワー!ドカーン!ボカーン!みたいな単純なことだけやってりゃいい」なんて、そんなこと言いたいんじゃなくてですね、子どもに向けたメッセージとして、「魔法という便利なものを失っても、あなたにはあなたにしかないすばらしいものがある。それは勇気です!」みたいなね、そういうやつ大歓迎なんですよ、わたしはね。
でも、それをやるんなら、
① まず最初に「魔法さいこう!」の部分があって、それを観た子ども(大人でもいいんですけど)に「すげえ!こういうのやりたい!!」って思わせて、
② 次に「魔法の危険な部分」を匂わせて、「あれっ?魔法だいじょうぶかな・・・?」って思わせて、
③ 「実は魔法にはこういう一面もあるんですよ」って思いっきり残酷な部分を出して、ちびっこキッズたちを絶望のどん底に叩き落として、
④ 「逆境の中、裸一貫でどこまでできるかな?」と煽られた主人公が精神論で困難を克服し、それを観たお客さんが「魔法がなくても、自分の力を信じよう」ってなんかポジティブになって、
⑤ 最後は「魔法が消えてしまった・・・ と思わせておいて・・・実は・・・?!」っていう希望溢れるシーンで終わってほしい。
本作には、圧倒的に①がない。 
そんで、割と一気に③に飛ぶので、魔法はスペシャルなものではなく、不気味な泥人形やマッドな博士が操るただの怪しい技術のように映るのです。
まぁそうですよね、魅力的に描くつもりがなかったのなら、そうなりますよね。

魔法に頼るな? 結構ですよ。 頼るなっていうなら頼りませんよ。
っていうか、頼ろうにもそもそも現実世界に魔法なんかないですし。
大人は理不尽だし、政治家はうそつきばっかだし、正直者は損するし、がんばっても報われないし、夢も希望も体力もお金も搾取されて終わりですよ。
魔法に頼るな? ふざけんなですよ。 映画の中でぐらい、夢見させてくれよって話ですよ。 スクリーンの中に魔法を探してなにがいけないんですか。 
みんなトトロのお腹にしがみつきたいし、メーヴェにのりたいし、竜の巣をくぐり抜けてラピュタにたどり着きたいし、屋根裏で蛇が飲み込みあっている表紙の本を読みながらファンタージェンに行きたいし、ホグワーツで組み分け帽子をかぶりたいし、吸血鬼や狼男と闘ったり、「おまえこそが選ばれし者だ」って言われたいんですよ。
楽しいばかりではない、ほろ苦いところもある、時には耐えられないほどの悲劇が起こったりもする、だけどこの世では経験できないワクワクやドキドキや夢や希望を感じることができる。 
それが魔法のすばらしさだと、わたしは思いますし、だからこそ「魔法なんかいらない」という言葉がどうしても引っかかったのです。
その言葉を使った、そういうメッセージを詰め込んだ作品を作りたいならどんどんやってくれればいい。
ただ、『小さな魔法のほうき』を下敷きにやってほしくなかった。

散々なことばかり書いてきましたが、これは最初にも書いたように、あくまで『小さな魔法のほうき』を心のバイブルに育ったわたしの主観です。
わたしは失望してしまいましたが、この作品から希望を感じ取ったり、ワクワクしながら映画館をあとにする子ども(や大人)がたくさんいることをホントに願っています。
わたしの目には「なんやこれ静止画か」と映ったほうきの滑空シーンも、誰かの目にはちょうさいこうのスペクタクルシーンであるかもしれない。 
せっかく映画館でジブリっぽい映画を観に行った人々が、がっかりではなく「いいじゃんこれ!」と思いつつ、なんだったら売店でティブのぬいぐるみを買って帰ってくれるようなことになればいいですね。
そして米林監督には次こそ、呪縛だのなんだのを詰め込まなくてもいいような、本来の意味で自由な作品を作っていただきたい、そのチャンスが与えられるといい、と割と本気で思っています。

あと、もしよかったら図書館か本屋さんで『ちいさな魔法のほうき』手にしてみていただけるとうれしいです。
短いお話しながら、本作以上に魔法の魅力と危うさとメアリの漢気が詰め込まれためちゃくちゃおもしろい小説ですよ!!!!



― 追記 ―

・ シャーロット大叔母さんの存在がマジで謎! 映画独自のアレンジとして、シャーロット大叔母さんが実は若い頃魔女で、問題の花の種を学校から盗み出した張本人である設定が登場するんですけど、そこから数十年、シャーロット大叔母さんはどうやって生きてきたんですかね?

・ 魔法学校から足抜けしてカタギになった瞬間、記憶が全部とんじゃったんですかね? どうやって実家に帰ったんですかね? メアリの親の姉妹らしいですけど、魔女だった間はどういう位置づけだったんですかね? 家出少女的なやつ? ハリポタのペチュニアおばさんとリリーみたいなやつ? あの赤いお屋敷はもともと誰の家なの?

・ 別の場所に隠れ家的なコテージありましたけど、あそこから魔法学校に通っていたんですかね? あのコテージは数十年間電気とかつきっぱなしだったんですかね? 大叔母さんの魔力がなくなっても電気はとまんなかったんですかね?

・ 夜間飛行は一般的な花だったのか、ゼベディさんだけが知っていたのか、あの花を観た瞬間大叔母さんは記憶を取り戻したのか、カタギの間も記憶があったのか、コテージとお屋敷の鏡はどういうしくみで繋がっているのか、なにもかも謎です!

・ 予告の段階で、わたしがいちばん「お!これは期待できるかも!」とハッとしたのは、振り返る赤毛の少女のカットだったのですが、それが映画の割とドあたまに出てきて、しかも大叔母さんの若かりし頃で「やるじゃん!」と思いました。 というか、本編でわたしのテンションがあがったのはドあたまの怪盗シャーロットのシークエンスだけだったとも言える・・・ 全編あのテンションでやってくれればよかったのになぁ。

・ ピーターがメアリに「赤毛のサル」と言うシーン、メアリが「ベーだ!」と舌を出す返しも含めて『トトロ』でいうところの「やーいおまえんちおっばけやしきー」だと思うんですけど、圧倒的に可愛げがないというか、ピーターに「照れ」みたいなものが微塵もないので、ただ初対面の人をサル呼ばわりするだけの失礼な人にしか見えなくて、ピーターの印象さいあくでした。 そのあとダメ押しでもう一回サル呼ばわりしてましたからね。 後半、まさしく文字通り赤毛のお猿さんに救われるシーンがあるので、伏線っちゃあ伏線なんでしょうけど、あのタイミングでサル呼ばわりはねえだろ。 無邪気に暴言吐く人かよ。 こええよ。

・ 「自分の赤毛がコンプレックスだったメアリ→赤毛のサル呼ばわり→魔法学校で赤毛を絶賛される→赤毛悪くないかも→魔法学校は悪の巣窟だった→やっぱ赤毛クソ→赤毛のお猿さんを身代わりに逃走成功」 赤毛コンプレックス解消のカギはお猿さん次第だった・・・?!

・ うまく説明できないけど、「そうじゃない感」がすごい。

・ 原作ではコンプレックスは赤毛ではなく「メアリー・スミス」という偽名ナンバーワンみたいな名前ということになっていて、ジョニー・スミスというこれまた日本でいうところの山田太郎みたいな名前を持つ主人公が出てくる『デッドゾーン』と同じく、コンプレックスがうまく活かされた物語になっています。 というか、原作はマザーグースをはじめとした言葉遊びが随所に使用されていて、それがまたすごくおもしろいんですよね! 小説ならではのたのしさなので、映像化には不向きな仕掛けではありますし、赤毛に焦点をあてたやりかたはいいと思うのですが、サルにたとえるのはどうなの・・・ 校長先生に赤毛を褒められるシーンもあるんだし、サルうんぬんを入れなくても魔女としての特別な才能のあるなしだけでコンプレックスの克服を物語れたんじゃないのかなぁ・・。

・ っていうかね、ホント原作はね、ほうきのシーンといい、魔法学校でのやりとりのシーンといい、メアリが義侠心にかられて学校に戻るシーンといい、かわいそうな実験動物のシーンといい、動物大脱走のシーンといい、超低空飛行でのほうきチェイスといい、全編すごく「ジブリ的な映像化」向きな作品だと思うのですよね。 だからこそ西村プロデューサーは『ちいさな魔法のほうき』を選んだのだろうと思いましたし。 でも、出来上がった作品はそうではなかった。 

・ 集団逃走のシーンはどうしてもののけ並みの大スペクタクルになりえなかったのか。 ほうき飛行はどうしてフラップターでのシータ奪還シーン並みに疾走感を溢れさせられなかったのか。 もしくはしなかったのか。 ワクワクのかぎは、この辺にあったような気がします。 

・ わたしは、もっと圧倒的に動く絵が観たかったのです。 問答無用で胸を突き動かされるようなエモーショナルなアニメーションが観たかった。 すでに今年に入って、わたしはいくつかの作品でそれを観ていたから、余計にそう思ったのです。 宮崎監督の呪縛? 脱ジブリ? そんなことはどうでもいい。 せっかくこんなにおもしろい原作を使っているのだから、ことごとくエピソードを殺すのではなく、もっと魅力的に描いてほしかった。 勿体なさ過ぎるじゃないか、こんなの。

・ ということで、もし機会がありましたら原作を一度手にとっていただきますよう、重ねてお願い申し上げます。 わたしがおすすめなのは、文庫本ではなくハードカバー版。 赤星亮衛さんの挿絵が本当にステキなのですよ!



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『リップヴァンウィンクルの花嫁』

2017年06月07日
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あらすじ・・・血の代わりにお金が流れます。



安室行舛(綾野剛さん)のつかみどころのなさがすごい。
どんな相手にも瞬時に合わせられるのは心がないからなのか、ものすごい強固な鎧で心を守っているからなのか。
いちど無防備な自分をさらしてしまうと、ズタズタに切り裂かれる可能性もある。
だから安室は、他者との間に「お金」という「鎧」を介在させる。
安室のこわいところは、相手にその「鎧」の存在を感じさせないところ。
だから相手はうっかり信じてしまうし、うっかり胸襟をひらいてしまう。
ひらいた結果、相手は底なしの絶望を味わうこともあるし、最悪死を選ぶことだってあるかもしれない。
けれど、たとえ相手が死んでしまっても安室の心は傷つかない。
「お金」が安室を守っているから。
人当たりのよさそうな笑顔を浮かべて人の心をお金に換える。
そんな恐ろしさを微塵も感じさせず、今日も安室は飄々と、人の隙間をすり抜けてゆく。


皆川七海(黒木華さん)の警戒心のなさがすごい。
どんな相手でもいとも簡単に信じてしまう。 そんなに愛していなくても結婚しちゃうし、素性が知れなくてもスーパーマンのように頼ってしまうし、一度会っただけで親友になってしまう。
あまりに無防備だから、当然心はことごとくズタズタに切り裂かれてしまうけれど、脅威の回復力で立ち直り、また簡単に心を開いてみせる七海。
七海のすごいところは、その「無防備」さが彼女の危うさであると同時に、魅力にもなっているところ。
心をガッチガチの鎧で固めている安室が、七海をただのカモとして見ていたのかというと、わたしにはそうは思えなかった。
トラブルに直面するたび、ノーガード戦法でふところに飛び込んでくる七海のふにゃふにゃとした表情に、本心から「なんとかしてあげたい」と思った瞬間が、安室にはあったのではないか。
かと思えば、突然のこだわりを見せたり自分で作り上げた人間関係を大切にしようとする芯の強さに、ハっとした瞬間があったのではないか。
見ていてハラハラする程の無防備さで、出会う相手に「自分は七海にとって特別な存在なのではないか」と思わせてしまいながら、今日も七海はふわふわと、人の隙間をすり抜けてゆく。


そして、本作にはもうひとり、お金という鎧で心を守りながら、同時にノーガードで突っ込んでくる人物がいる。
里中真白(coccoさん)だ。
真白は充分に愛を与えられず育ったのかもしれない。
欲しても欲しても手に入れられなかった愛を、たくさんの人たちに抱かれることで満たそうとしたのかもしれない。
抱かれるだけではなく、抱かれている姿を別の誰かが見てくれることも、真白にとってはひとつの愛撫の形だったのかもしれない。
だから彼女は身体をオープンにし、どんな愛撫も拒絶しなかった。
彼女に触れる手、彼女と繋がるもの、彼女に注がれる視線、彼女を包み込む吐息、そのすべてが真白にとって欠かせない「愛」であり、それなくしては生きていけないものだったのではないだろうか。
そのあまりに無防備な生き方は、もしかしたら、彼女がずっと欲していた「愛」を過剰に与えてしまい、穴をふさぐどころか溢れかえらせていたのではないか、と思う。
自分で手に入れたはずの「愛」が、自分の心を溺れさせてゆく。
自分という人間には不相応だ、と、息苦しくさせてゆく。
「愛」を過剰に摂取しつつ、やめることも出来ない中毒者のような真白は、せめてそこに「お金」を発生させることで、なんとか自分を保とうとする。
これは「愛」じゃない、これは「幸せ」じゃない、自分が払ったお金に対する正当な対価だ、と。
しかし、いくらお金で身を守ろうとしても、世の中に対してフルオープンな真白は、普通の人は見過ごしてしまうようなちいさな「幸せ」も素直に見つけだせてしまう。
世の中に当たり前に存在しているものは、本当は当たり前などではなく、だれかの善意や努力によって成り立っているのだ、ということに気づいてしまい、ささやかな優しさに押しつぶされそうになる。 


「幸せ」を欲して、「幸せ」に殺されそうな真白。
彼女を蝕む病が、どれぐらい彼女を「最後の願い」の実行に踏み切らせる要因になったのかはわからない。
病を患っていなくても、彼女はもう限界だったのかもしれないと思う。
人生で最も大きな「幸せ」、ひとりぼっちで死にたくない、という究極のわがままを叶えるため、真白はいままでにないぐらいの大金を払う。
そして、真白の願いは安室と七海によって成就するのだった。


残酷過ぎて依頼することをためらわずにはいられない「最後の願い」の罪悪感を、安室は「お金」を受け取ることで取り払ってあげた。
幸せの度がすぎて見ないふりをするしかなかった「優しさ」を、七海は無防備にくっきりはっきり見せることでもういちど純粋な喜びとして実感させてあげた。
真白はふたりによって救われ、ふたりもまた、真白によって得難いものを得る。



わたしがこの作品でいちばんすきだったところは、登場人物たちが結婚式からお葬式まで、というかなり激動の人生を歩みながら、劇的に成長しないというところでした。
物語を観るとき、わたしは無意識にわかりやすい「成長」を求めようとするけれど、人ってそう簡単に変わらないんですよね。
少なくとも、見た目的には変わらない。
ただ、なにがしかの経験を通して、じわじわと心に沁みてくるものがある。
それは今まで抱いた事の無かった寛容さだったり、知らなかったことへの理解だったり、ちょっとしたしたたかさだったり。
いいものばかりではなく、はたから見たら悪影響のように思えるものでも、本人にとっては生きる糧になることがあり、そうやって心に色々な物を取り込みながらたくましくなっていくことを、成長と呼ぶのかもしれないなぁと思います。
お金を受け取った七海や、無償で家具を届けた安室の心にも、真白との時間を経て何かが残ったことは間違いないのではないかでしょうか。
突然「善人」になるわけではなく、突然社交的になるでもない、じわじわとした心の変化。
その変化が今後の彼らにどんな景色を見せることになるのか。 
きっとそこには、あたたかい光が射しているのではないか、そう思いました。



- 追記 -

・ 真白がSNSのアカウント名にしていた「リップヴァンウィンクル」は、アメリカの短編小説で浦島太郎のようなお話なのだそうです。
恐妻家のリップ・ヴァン・ウィンクルが、森の奥で不思議な男たちと酒盛りして、一眠りして起きたら数十年が過ぎていて、世の中は変わり、恐い奥さんも亡くなっていた、という。
リップヴァンウィンクルが真白ならば、その花嫁は七海なのか? 
しかし、お酒を飲んで一眠りした後、一人生き残っていたのは七海でした。
もしかしたら、七海と真白のどちらもが時代に取り残されたリップヴァンウィンクルで、どちらもがそんな孤独な男を救いに来た花嫁だったのかもしれない。
もしくは、ただ単純に、「こっこさんと黒木さんにダブルでウェディングドレス着せてひたすらイチャイチャさせたいんだよ!」という岩井監督の趣味のあらわれなのかもしれない。 そうだったとしても、オレは岩井監督を責めない・・・ なぜならじっさいうっとりしちゃったから・・・!!

・ 終盤、真白の実母宅で安室が全裸になるシーン。 安室が人間性を見せたということなのか、演技の一環だったのか、色々な意見があったそうですが、わたしはあれも安室の特技である「なんにでも合わせられる」が発揮された場面だと思いました。
安室はその時その時、相手の感情やテンションに即座に沿ったリアクションが出来る人間なのですよね。
相手が泣いていれば悲しそうに寄り添ってあげるし、相手が怒っていればそうだそうだと相槌をうってあげる。
真白の母が服を脱ぎだした時、いちばん彼女を心地よくさせるのは、いさめるのでも慰めるのでも恥ずかしがるのでもなく一緒の状態になる事だった。 だから安室は躊躇なく脱いだ。 演技をしようとしていたわけではなく、あの時ベストなリアクションだったからそうした、ただそれだけだったのではないか、と。 
それこそが、人々が安室に心を開いてしまう理由であり、安室がおそろしい理由でもあるのではないか、と。
悪魔のように魅力的な男だったなぁ。

・ 最後になりますが、本作はとにかくこっこさんという存在がとてつもなく大きすぎて、黒木さんや綾野さんのすばらしさが「普通」に見えてしまうほどだったことだけお伝えしておこうと思います。 
あの大きな瞳は世の中の見なくていいものを見過ぎ、あの大きな口は世の中の汚れたものを吸い込み過ぎ、あの長い手足は世の中の理不尽なしがらみにがんじがらめになってしまったのだろう。 そう納得せずにはいられない真白像は、こっこさんが演じたからこそ成り立ったものだと思います。
『KOTOKO』の時もあまりの演技力にひっくり返りましたが、『リップヴァンウィンクル』のこっこさんはこれまた強く儚く、なにより美しかったです。 

と、いうわけで、本作で女優・こっこさんのナチュラルな魅力に惹かれた方は、ぜひ別の形でのナチュラル神経衰弱っぷりがすごい『KOTOKO』もご覧ください! そして、うちのめされるといいよ!!


以前書いた感想・・・『KOTOKO』



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