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『エル ELLE』

2017年10月10日
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あらすじ・・・
女の人が悪い男の人に引導を渡します。


(※ ネタバレしています)


女の子にとって、子どもから大人へと変わりゆく真っ只中のいちばん繊細な年齢、「10歳」。
そんな齢のころ、ある日国中の人々から一斉に注目されてしまうというのは、どんな気持ちなのだろう。
しかも、明るい話題からきた「いい注目」ではなく、全国民が恐怖と怒りと不安でいっぱいになるような、凶悪なことこの上ない「わるい注目」だとしたら。
自分は何もしていない、罪を犯したのは少女の父親で、わけもわからず巻き込まれただけなのに、まるで共犯だったかのように「注目」され、後ろ指をさされる。
正義感にかられた人々は、逮捕され一生牢屋に閉じ込められている父親を責められないかわりに、すぐそこで暮らしている少女に石を投げ、ありとあらゆる悪意をむき出しにしてきたことだろう。
どこにいっても「あの怪物の娘」という眼差しを向けられ、生きているだけで「よくもいけしゃあしゃあと」となじられる。
何かを殺さないと、少女は生きて行けなかったのではないか、とわたしは想像する。
自分のなかの何かを殺し、何かを捨て、何かを切り離すことでしか、少女はその社会で生きて行けなかった。
傍から見れば、冷徹、無感情、どことなくおかしい人、と思われるような生き方は、少女を守る盾であり、少女を前に進めさせるたったひとつのやり方だったのではないか。

物語に出てくる男たちは、揃いも揃って彼女を粗末に扱う。
よくもまあ、こんな立派な人でなしばかりが集まったものだ、と呆れたしゾッとすらしたけれど、彼女にとってそれは今までの人生で散々ぶち当たってきた「お馴染み」の光景だったのかもしれない。
「人殺しの娘なんだからひどい目にあっても仕方ない」。
カフェで彼女がかつての少女だと気づいた女性が、さも「正しいこと」をしているかのように毅然とした態度でゴミを投げ捨てるシーンと、その時の彼女の「あ、そうスか」みたいなどこ吹く風な表情を見ても、いかにその類いの行為が当たり前に行われてきたことかは歴然だ。
男たちは「あいつならこれぐらいしてもいい」と、彼女の過去を勝手に採点し評価する。
「人でなしの娘だから人として扱わなくてもいい」のだ、と。

彼女はそんな男たちに復讐をするのだろうか、とわたしはワクワクした。
ひとりよがりなクズどもを痛い目に遭わせてやればいい。 
いまだ、ミシェル、反撃の狼煙をあげろ。
しかし彼女はそんなわたしの独善的な気持ちにもまた、「あ、そうスか」といわんばかりの冷ややかな視線を浴びせる。
彼女は復讐しない。
男たちを血祭りにあげない。
そんなことは労力の無駄、とばかりに自分の生活を送る。
彼女のこの強さは、同時に彼女の悲劇でもある、とわたしは思う。
せめてもっと感情的に、「ふざけんなこのやろう」と暴れまわってくれるほうが、まだ救いがあるではないか。

そんな彼女に、ついに変化の時が訪れる。
母の死をきっかけに、事件以来一度も会っていなかった父との面会を決意するのだ。
彼女の人生に呪いをかけた父は、忌まわしいだけでなんの感傷も呼び起こさない存在だった。
けれど、父よりはマシだけれど普通に恨みつらみを抱いていた母が、彼女の謝罪や弁明を受け入れないまま死んでいったのを見て、彼女は「父までもが自分を置いていってしまったらどうしよう」と思ったのではないだろうか。
さみしい、という意味ではなく、引導を渡す機会を失うかもしれないという意味で、彼女はこれが最初で最後の機会だと思い、父がいる刑務所へ向かった。
父と会った時、彼女は罵倒しただろうか。 唾を吐きかけただろうか。 老いやつれた姿に心が痛んだだろうか。 「どうしてあんなことを?」と長年の疑問をぶつけただろうか。
どれもしなかった。 できなかった。
なぜなら、彼女の訪問を知らされた父は、ケツに帆をかけて逃げたからだ。
自死という方法で、この世の責任を放棄したからだ。
どれだけ卑怯な男なのだろうか。 
もっともつらい思いをさせ、もっとも苦しめた娘に、怒りをぶつけさせるチャンスも与えないとは。

この裏切りともいえる「死」を知らされた彼女は、ついに人生ですべきことを悟る。
彼女がすべきなのは、「人殺しの娘」としてすべての理不尽を受け入れることでもないし、自分の心と体を切り離し、毎日のように生まれ来る痛みを無視することでもない。
嘘をやめること。
隣人を救ってあげること。
父というおそるべき怪物を葬り去れなかった彼女は、別の形で、もうひとりの憐れな怪物に救いの手を差し伸べる。
そう、暴力的なやり方でしか欲望をかき立てられないタイプの病を抱えた隣人を罠にはめ、「正当防衛」という法的に正しいやり方で命を終わらせた(※奪ったのではない)のは、きっと彼女なりの救いだったのだ。
父に出来なかったことを、やっと成し遂げたのだ。

これからの彼女は、もっと自由になるはずだ、とわたしは思う。
周囲の人間がそうだったように、彼女もまた自分自身を「地面に叩きつけても壊れない人形」ぐらいに取り扱ってきた。
まわりはさておき、彼女がそうと思わなくなるだけで、人生はすこしばかり愛あるものになるではないだろうか。
男たちの愚かさを親友と軽やかに笑い飛ばし、彼女はしなやかに歩く。
その未来は、これまで以上にしたたかで、力強いものになるに違いない。



― 追記 ―

男たちの自滅っぷりとは裏腹に、本作に登場する女性たちのタフさったらないですね。
「殺人鬼の妻」として、ミシェルほどではないにしても相当の責め苦を受け生きてきた母イレーヌは、周囲の眼差しなど気にせず美しさを追求し、次々と若い恋人との恋愛に耽る。
ミシェルの息子の恋人ジョジーは、息子がお人よしなのをいいことに、別の男性との赤ちゃんをダシに結婚をとりつける。
ミシェルの親友アンナは、夫とミシェルの関係を知らされると、自分にとって誰が一番重要かを冷静に判断し、あっさり夫を切り捨てる。
強姦魔の夫を持つレベッカは、夫の犯罪行為を知りつつ野放しにし、隣人のミシェルを丁度いい発散場所として利用する。
みんな、それぞれのやり方で幸せだけを目標にひた走る。
その姿を、どこか清々しいと感じてしまうのは、彼女たちが単なる身勝手な人間というわけではなく、何がしかの理不尽さと闘ってきた人たちだからなのかもしれません。

まぁとはいえ、隣人をうまいこと使って夫に引導を渡したレベッカだけは別次元でこわいですけどね!
机の下でミシェルがモーションかけてたのも、気づいてたのかもしんないよ!
はい! 今回の選手権はレベッカが優勝!!! 隣に引っ越してきてほしくない隣人ナンバーワン!!


― 追記 その2 ―

ホントのホントにタフなのは、あのタイミングで「お金もらえるんですよね?」って聞けちゃうあの青年かもしれない!
それよく本人に訊ねられたな! どんな心臓してるんだよ! っていうかあげるわけねえだろ!バカ!おまえバカ!




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『アイ・スピット・オン・ユア・グレイヴ2』

2015年04月14日
スオイッツ

「レイプリベンジもの」というジャンルを代表する不朽の胸クソ映画『発情アニマル』。
その現代リメイク版『アイ・スピット・オン・ユア・グレイヴ』に、なんと続編が作られていたということで、今さらながら粛々と鑑賞。 いや、続編の存在は随分前から知っていたのですが、なんとなくもうこの手のヤツはいいかな・・という気持ちがね、無くもなかったというかね、反撃は観たいけど前フリ部分がしんどいというか・・・まぁ結局観ちゃうんですけども。

あらすじ・・・
NYで女優を目指すうら若き女性が、自分を凌辱した卑劣極まりない外国人男性にそれ相応のお返しをします。



スゲエよく出来てたコレー!

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こんなかわいらしい人が

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こうなって

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こう!

レイプリベンジ映画を「おもしろい」と言ってしまうことには躊躇いを感じてしまいます。
なぜならレイプはまったくもって「おもしろく」なんてないし、何の非もない女性が(もちろん女性だけでなく男性も)何者かの一方的な快楽のため体や心を踏みにじられ、ズタズタに引き裂かれるなんて、絶対にあってはならないことだと思うから。
だから本作のことも、「おもしろい」だなんてとても言えません。
おもしろくはない。
ただ、すごく、すごくよく出来ている!

大都会でカフェの店員をしながら女優を目指す美しい女性・ケイティ。
宣材用の写真が欲しいものの、プロのカメラマンを雇うお金がなかった彼女が、たまたま見かけたフリーの撮影サービスを利用するところから物語は始まります。
単身訪れたスタジオには、外国人らしき訛りの3兄弟。
ケイティに対し下心満載な目線をおくる三男と、撮影に関わる気ゼロの次男、そしてカメラマンの長男から、それぞれにものすごく失礼な態度をとられた彼女は撮影をキャンセルし、なんとか穏便かつ俊敏にその場から退散するのですが、時すでに遅し。
クズ野郎にロックオンされてしまったケイティは、ちょっとゴミを捨てに部屋を空けたほんの少しの間が命取りとなり、深夜スマホのシャッター音で目を覚ます羽目に・・・。

このあと延々、いや、ホントもうクドイぐらいの凌辱シーンが続いてゆくのですが、まずこのスタートがすごい!すごいイヤ!
防犯意識が決して低くないケイティが、何重にも鍵をつけ足したドアの、その内側で繰り広げられる醜くも残虐な行為。
何も自分を守ってくれない。 安全な場所などどこにもなかった。
家の外でヒドイ目に遭うのも相当イヤですが、自宅内で襲われる方がずっとずっとキツいですよね。
ほんでまた、すぐ襲うでもなく、寝ている自分の姿をじーっと見ているんですよ! ネットリしてる!なんかもう物凄くネットリしてる! 図々しいのか遠慮がちなのかどっちやねん!! っていうかどっちにせよイヤ!

その後、彼女の部屋の異変に気づきドアをこじ開けて助けに入ってくれた友人が三男の返り討ちに遭い憤死してしまったり、身勝手な本懐を遂げた三男が兄に泣きの電話を入れたり、悪知恵の働く兄が殺人の罪をケイティに擦り付けるべく偽装をはたらいたりなんかしてもう絶体絶命!というところで舞台は暗転。
大きな箱に入れられ、なにやら激しく揺れ動かされたケイティが目を覚ますと、そこは小汚い地下室でした。
そしてまたぞろ始まる下劣で醜悪な行為。

けっこうね、長いんですよね。 「第一幕・ケイティの部屋」「第二幕・謎の地下室」となるのですが、この第二幕が長いの。
で、もうそろそろ勘弁してくれ・・・ とわたしが音をあげるかあげないかという絶妙なタイミングで、ケイティが相手の隙を突き、なんとか地下室からの脱出を果たしてくれるのですが、半裸のような状態で街頭に飛び出したケイティの目に飛び込んでくるのは、全く見覚えのない文字の看板。
そう、なんと眠らされている間にケイティが連れてこられた場所は、アメリカから遠く離れた東欧の地・ブルガリア共和国だったのです!
そしてここから再度始まる「第三幕・ゆきて帰りし地下室」の陰惨なことといったら・・・!

そりゃね、反撃を際立たせるには前フリが凄惨であればあるほど効果的ですよ!
でもホントにクドいの! なんどもなんども絶望させられるの!ケイティが!
望みを抱きかけたら裏切られ、救われると思いきや見捨てられるという有り様で、ぜんぜん気が抜けないから、観ているこちらもめちゃくちゃ疲弊するの! 
この監督さんはわかってるわー!(いい意味とひどい意味の両方で)

拉致監禁からの脱出をありきたりな展開では終わらせないぞ、という気概の感じられるストーリー。
文字通り「体を張った」渾身の演技で、そんなストーリーに血の匂いと肉の重みを与えるジェマ・ダーレンダーさんがすばらしい。
レイプという、残酷な犯罪行為に対し、きっちり熨斗をつけてお返しする方法を選んだ女性と、想定を超えた全く別な方法を選んだ女性という真逆な二人を登場させることにより、観客はこの犯罪の恐ろしさと、その爪痕の計り知れない深さを、今一度見つめなおさせられるのではないかと思います。
やり返して終り。ではないのですよね。
命は助かっても、心は死んでしまう。 死んでしまうこともあるのです。
ホント、もっと重い処罰を与えられるべき犯罪だと思うなぁ。
以前も書きましたけど、わたしは性犯罪は殺人と同等に裁かれればいいと思いますね。 でなければ去勢でいいですよ。 ええ、極論ですよ。 気に入らない人は気に入ってくれなくていいです。

前作同様、「目には目を、歯には歯を」一直線な本作ですが、前作のようなスタイリッシュさもなければ「作家志望の女性が突然ピタゴラスイッチを作り出す」といった不自然さもありません。
前フリはとことん不快に描かれ、冒頭張られた伏線は後半工業系女子へと変ぼうを遂げることによりきちんと活かされます。
箱に入れられたぐらいで人一人がやすやすと空輸されてしまうという謎システムや、人権団体を名乗る女性がノーチェックで警察に信用されているという謎システムや、どれだけ大声を出しても誰にも通報されない地下廃墟という謎システムや、言葉が通じなかったはずのケイティが相手の罵り言葉だけは完璧に覚えて発音もバッチリになっているという謎システムなどなど、謎の多い物語ではあったのですが、もっとも大切な「ケイティが生まれ変わる過程」は疎かにされることなく丁寧に描かれており、わたしはとても胸を打たれました。
万力の正しい使い方もよかった! 弾けたのちにドロリと流れだすアレなんかもう、さいこうですね!殿方は直視できないかもだけど!

ラストシーン。 達成感のような、虚しさのような、新たな本能の目覚めのような、複雑な表情を浮かべるケイティですが、彼女の闘いはまだ終わっていません。
本国(アメリカ)に帰り、友人の死の真相を明らかにすることができてはじめて、彼女は「今までとは全く違ってしまった」人生を歩み直すこととなるのでしょう。 それはまた新たな、気の遠くなるような闘いのはじまりなのではないかと思います。

そう、やり返して終り、ではないのです。

無音の中、真っ暗闇に淡々と文字が浮かぶエンドクレジットを観ながら、内臓がズシリと重みを増すような、なんとも鬱々とした気持ちになったのでした。





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『エスケイプ・フロム・トゥモロー』

2015年04月13日
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「トゥモローからエスケイプする」だなんてタイトルだもんで、まさか「サザエさん症候群」みたいな映画じゃあるまいなぁ・・と思ってたらまさかのまさかでござった。


※ 以下ネタバレしています。



あらすじ・・・
さーて、今回のエスケイプ・フロム・トゥモローは?
平凡なアメリカのマイホームパパ・ジムです。 休暇を利用して家族で訪れたディズニーリゾート旅行も残すところあと一日。 明日のことなんて考えず、最終日もたっぷり楽しむぞ~!と意気込んでいたら、上司からのモーニングコールで思いっきり解雇されました。 寝耳に一斉放水です。 もちろん妻には言い出せません。 もう、明日なんてこなければいいのに! 
ということで今回は 「都市伝説は本当だった」 「出来れば妻以外も抱いてみたい」 「夢の国から出たくない」 の3本です!




■ 「都市伝説は本当だった」

「夢と著作権の王国ディズニーランド」で無許可撮影にチャレンジした意欲的な作品。という宣伝文句ばかりが目立っていたため、果たして内容の方はどうなっているんだ?といくばくかの不安を抱えつつ鑑賞に臨んだわたしだったのですが、いざ観てみたらなんつうか、すごくゲスくって、すごく憂鬱で、すごくディズニー愛が詰まっている怪作で、こりゃたしかにディズニーランド内でないと撮れないわなぁ・・と納得してしまったのでした。

一見相反しそうな、「ディズニー愛」と「ゲス」の結晶。 
それは何かというと、わたしたちにも馴染みの深い「ディズニーの都市伝説」でありまして。

かわいいトコロでは 
「カラス避けの謎電波が放出されている」 
というものから、ちょっとアダルティな 
「ディズニーの地下には会員制の秘密クラブがある」 
というもの、さらには 
「ディズニーでは臓器提供目的の児童誘拐が頻発している」
「スペ-スマウンテンの天井にはお札がビッシリ貼ってある」
「スモールワールドに幽霊が出た」 
といった物騒なものまで各種出回っているディズニーの都市伝説。
どうしてここまで、わんさかと伝説が湧き出るのか。
それは人々が「なんだかんだいってもディズニーランドは夢の国なのだ」と信じているからなのではないかと思うわけですよ。
「みんなが認める夢の国」だからこそ、その中におどろおどろしいものも潜んでいると言わずにはいられない。
たとえ夢の国でも、悪いことは起こるんじゃねーの、いや、起きてるんじゃねーの?というゲスい好奇心が、ディズニーの都市伝説の源なのではないか。

で、驚いたことに、どうやらこの手の都市伝説は本国アメリカにもバッチリ存在しているようで、本作には先ほど述べた都市伝説の一部がなんとそっくりそのまま登場します。 すごいよ都市伝説! やっぱ考えるこたぁみんな一緒なんだね!
その他にも、スモールワールドに幽霊は出ないものの、人形の中に怖い顔をしたヤツが混じっていたり、スペースマウンテンではなくビッグサンダー・マウンテンの方に死人が出たりと、日本でも流布しそうなネタが続々登場。
なお、オチに登場するネタは
「ストレスで精神崩壊したプリンセスの中の人がハグしていた幼女に鯖折りをお見舞いしたのち闇堕ちする」
というウルトラド級のネタです。 なるほど、ありそう・・・ ・・っていうかゴメン!さすがにこれは聞いたことない!
あと、
「現役プリンセスの正体は高級娼婦で、裏でアジアの富豪に抱かれている」
というネタも出てくるのですがなんかもう発想がおっさん! 

さまざまな都市伝説を本物のディズニーランド内で再現してみせた、というこの一点だけでも、その心意気やよし、と言いたくなりますし、ランディ・ムーア監督のディズニーに対する偏愛に胸が熱くなってしまいました。 オレはすきだよ、ランディのそういうとこ。


■ 「出来れば妻以外も抱いてみたい」 

ディズニーランドのような「夢と権利に厳しい国」の非現実的な甘さに浸れば浸る程、おのずと浮かんでくるのが現実への不満なのではないでしょうか。

そうでなくても「旅行中の夫婦喧嘩」というのは、犬が食わない一方弁護士のメシの種になりかねない危険なものですが、ここディズニーが舞台ですと、周りじゅうが浮かれまくっているだけに普段以上に些細なことが喧嘩のきっかけとなると思われます。 もはや魔法どころか黒魔術です。
本作の主人公・ジムとその妻エミリーもまた、まんまとその魔術にはまってしまい、これから入園しようというトコロでまずは子どものしつけを巡りひと悶着。
移動用のモノレールに乗れば、肌露出の多い同乗者のチャンネーを前に、鼻を伸ばしたり睨みをきかせたりで一触即発。
ランドに着けば、今度はアトラクションに乗る乗らないで子どもを交えピリピリムード。
思うような行動をとってくれない子どもへの苛立ちは、そのまま配偶者への不満へと変換され、徐々にお互いへの信頼感を失って行くジムとエミリー。
現実世界なら解決の糸口を探ろうとするところが、極彩色の立て看板とハッピーな音の洪水に思考を遮られ、「せっかくの旅行なのに」「たのしみにきたのに」というポジティブなプレッシャーで自分自身を追い込んでしまうことに。

「テンションあげなアカン」とばかりに妻にキスを迫るジムに、「子どもの前で何しとんねん」とばかりにマジ拒絶するエミリー。
「そういわんとダンスでもしようや」と手をつかもうとするジムに、「頭おかしいんとちゃうか」と冷やかな一瞥をくれるエミリー。
「こうなりゃ飲むしかない」と酒を浴びるジムと、最初こそたしなめようとするもバカバカしくなり完全に放棄するエミリー。
「テンションの差」という一言で片づけるには、あまりにあんまりな極寒地帯!
もうこの夫婦のヒリヒリとした空気感がすごい!
ぼんやりしてたら 「ブルーバレンタイン」並に削られるぞ!気をつけろ!


妻にとっては、毎日繰り返しているだけでごくごく当たり前になっている育児のマイルールが、ジムにとっては理不尽な命令としか感じられないとか、なにもここまでリアルに描かんでも・・・と戦慄してしまうような夫婦あるあるネタがギュっと詰められており、「きっとこれはこの旅行に限ったことではないのだ。そして数年前から既に、この夫婦にはズレが生じていたのだ。夜の営みの方もアレなのかもしれない。なんだったらジムはアッチの方の機能が(ry」というゲスパーまでも刺激してくれるのですが、もしやランディ・ムーア監督は過去にディズニーでイヤなことでもあったのでしょうか。
いいんだよランディ、オレに話してごらん。悪いようにはしないから。

ということで、家族に安らぎを見出せないジムは、必然的にそのリビドーを「パーク内で目についた女性相手の妄想」という形で放出させることに。 もうギャルから熟女まで手当たり次第の様相ですよ。
あのさ、ランディさ、ディズニーランドは夢の国だけど、そういう意味の「夢」じゃないからね!
いちいち射精やエレクチオンのイメージ挿入してくるのもね、「高く吹き上がる噴水」っていう抽象的なものならまだしも、「チェンネーがかぶりつくバナナ」とか、しまいには「白い物体でBUKKAKEプレイ」なんつう身も蓋もない描写になっちゃったりしてホント繰り返すようだけど発想がおっさん! ランディの愛読書は週刊現代か!


■ 「夢の国から出たくない」

都市伝説とリアルすぎる夫婦生活の危機を詰め込んだ本作ですが、それらをまとめる柱となっているのが「明日なんてこなけりゃいいのに」というサザエさん症候群、いや、ブルーマンデー症候群でありまして。
ただでさえ憂鬱な「休暇の最終日」に「解雇通告」が加わり、休みが終わらないどころか休みの終わりが見えないという究極の鬱状態陥ってしまうジム。
ジムが体験する都市伝説や、ジムが直面する夫婦の危機や、魅惑のチャンネールームのどこからどこまでが現実なのかわからないような作りになっているため、観ているわたしまでジムの戸惑いを強制的に共有させられます。
一部分だけが妄想なのか。 パーク内で起きたことが妄想なのか。 もしかしたら、冒頭モーニングコールを受けて以降のすべてがジムの妄想なのかもしれない。
夢とは決して美しいものでもたのしいばかりのものでもない。 不愉快な出来事が延々と続くのもまた夢なのですよね。
それでもジムは、その夢から出たくなく。 
なぜならどれだけ不快でも、どれだけ自分を傷つけても、しょせんそれは夢だから。 
現実ではないから。

物語の中盤、地下に設けられた秘密基地でのやりとりの中で、ディズニーランドはジムにとってずっと昔から特別な場所だったのだ、と思わせるシーンがありました。
ジムはディズニーランドを愛していた。 ジムにとってディズニーランドは文字通り「夢の国」だった。 
わたしは、旅行先にディズニーリゾートを選んだのもジムなんじゃないかと思うのですよ。
自分がたのしみたいがために来たジムと、子どもをたのしませるために来たエミリーが揉めるのは無理もありませんし、あれが妄想だったとしても、ジムの中に「オレはおまえよりもディズニー好き」という意識があったのならいろいろと頷けるのですよね。

妄想なのか現実なのかわからないまま、ジムは家族が眠る寝室の隣で毛玉を吐き、猫化して息絶えます。
ジムを回収に来た白いバンは、ジムがモーニングコールを受けていた時と日中ホテルに戻った時目にしていたのと同じ車で、助手席から降りてくる男がとる仕草も同じです。
男は仲間の作業員とともにジムの痕跡を丁寧に消し、ジムを見殺しにした息子の頭にたのしいアトラクションの記憶を植え付けます。
エミリーもまた、夫を失った悲しみに暮れていたものの、手に握ったスーベニアのベルを無意識に振り始める。
彼らに訪れた不幸が、みるみるうちに美しい思い出へと書き換えられてゆく。
この辺の、「ランドで死亡事故があっても特殊作業員が事故そのものをなかったことにする」というエピソードもまた、いかにも都市伝説っぽくていいですよね。 ランディは最後の最後までねじ込んでくるねー!強気だねー!

クライマックス、作業を終えたバンとすれ違うようにホテルにやってきた車から降り立つのは、秘密基地の中でジムが見た妄想の中の自分です。
ネズミの天敵・猫の姿で不本意な人生を終わらせた、つまり、ミッキーと自分にとっての「悪」を抱え込み一緒に排除したジムにもたらされるのは、永遠に終わらない夢なのでしょう。
ただし、今度は都合のいいことしかない癒しの夢。 
だいすきなディズニーランドと共にある夢。

おめでとうジム! おめでとうランディ!
本人たちにとっては最高のドリームズカムトゥルーだけど、観ているわたしにとっては「疲れをとりたくて寝たのにイヤな夢ばっか見て余計に疲れた」みたいな居心地の悪いひとときを与えてくれてありがとう! 


■ おまけ

・ だいたい、ディズニーランドが夢の国だなんて誰が決めたんだって話ですよね。 うちのいもうとちゃん(10歳)なんて、最初に乗った白雪姫のアトラクションが謎の「魔女ばあさん推し」だったせいで、そのあとはもうどのアトラクションも「やだ!こわい!」と完全拒否状態でしたからね。 まさしくリアルナイトメアですよ。 いまだに「もうディズニーランド行きたくない」と語るいもうとちゃんにとっては、ジムさんの妄想は現実なのかもしれません。 っていうか本編のしょっぱなにも同じ白雪姫のアトラクションが出てきてオラなんだかドキドキしたぞ!(こわがるポイントって万国共通なのでしょうね)

・ 結局シーメンス社の陰謀ってなんだったの。 ジムさんの妄想パワーが欲しかったのか、ジムさんの息子が狙いだったのか全くわからん。その割にはさらわれたの娘でしたし。 なんや、辻褄合わせる気ゼロか。 ぜんぶ妄想ってことで乗り切る気満々か。

・ シーメンス社の担当者が、ジムさんの妄想パワーをこともあろうにウォルト・ディズニーと並べて絶賛するシーンもすごいですよね。 だって、ジムさんの妄想ってことはつまり、ランディの妄想ってことですよ。 遠まわしにランディはウォルト・ディズニーと同じレベルだって言っちゃってるんですよ。 これほどまでに壮大な自画自賛がかつてあっただろうか!いや、ない!

・ あんなに愉快なアトラクションの数々が、その色調をモノクロに変換されただけで、ここまでたのしくなさそうな乗り物になるとは予想外でした。 こんなつまらなそうなハニーハント見たことないもん! なにあのハリボテ感! 返せ!オレのハッピーな刷り込みを返せ!

・ 詰め込みすぎてごちゃごちゃしてしまった感もありますが、悪夢ってそういうもんだろ?という気もしますし、ザックリでしたが本場のディズニーの雰囲気も味わえて、わたしはたのしく鑑賞しましたよ。 

・ 最後のシーンをティンカーベルが飾ることから、ジムは彼だけの「ネバーランド」に辿り着いたのだろうなぁと思いました。 「救いがないのが救い」みたいなオチですが、これはこれでアリなのではないでしょうか。 まぁもうジムにはすきにしてもらうとして、奥さんと子どもさんたちには幸せになって頂きたいものですねぇ。




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『ゴーン・ガール』

2014年12月12日
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あらすじ・・・
2012年7月5日。 
5回目の結婚記念日の朝、妻は消えた。
わたしを死刑へと導く3つのヒントを残して・・・。


青みがかかった画面に、「GONE GIRL」というタイトルが浮かぶ。
冷え冷えとした空に溶け込んでゆく白い文字。
しかしそれは、ただ消えていったのではなかった。
純粋さを表すような白から、曖昧な灰色に変わって雲間にうつろい、そしてわからなくなったのだ。
それはまるで、「いなくなった彼女」の本当の姿を象徴するかのように。

ああ、これはもう当たりだな。
間違いなく傑作だな。
何の保証もないままではあるものの、そう確信せずにはいられない、超クールなオープニングタイトルでした。
・・と、いうことで、とりあえず今すぐ劇場へ!

ダメですか!よっしゃわかった、じゃあもうちょっと続けますね!

ニックとエイミーの結婚生活は、とうに破綻していました。
毎年行っていた「宝さがし形式」という手の込んだ結婚記念祝いも、エイミーがニックに用意するヒントがここ数年難解を極め、というか、ニック自身に本気でエイミーの言葉に取り組む気力がなかったため、儀式化した記念日を粛々とこなすのみ。
5年目にあたる今年も、記念日の朝だというのにまだプレゼントすら用意していないニック。
そんな離婚待ったなし状態だった夫婦の一方が、突然姿を消してしまったら・・・
しかも、ある一点をまっしぐらに指さす山のような状況証拠を残して・・。
その一点とは、夫の第1級殺人罪。
すべての疑念がニックに向けられる中、彼の唯一の救いは、エイミーの死体が見つかっていないということだけ。
果たしてニックは殺人という愚かな手段で、愛のない結婚生活を強引に終わらせようとしたのか?
エイミーの死体はどこに隠されているのか?
・・・その答えは劇場で!

えー?まだダメ?いいじゃん!もう観とけばいいじゃん! わかった、じゃあもうひと押し!

妻のことをあまりに知らなすぎる夫・ニックはとことんでくのぼうで、その上、妻殺しの疑惑をかけられマスコミに追われる最中、自分を匿ってくれている双子の妹・マーゴにすら内緒で若い愛人と密会する始末。
しかし、ニックには妻と別れて愛人と一緒になりたいという動機はあるものの、妻を殺すほどの根性があるとは思えない。
なぜならそれぐらいバカっぽいから。 
常に口が半開きなイメージ。
いや、開いてなかったかもしれないけども。 あくまでイメージで。
一方、夫に秘密を抱えていた妻・エイミーが綴っていた日記の内容はというと、「好きで一緒になったものの、職を失ったあたりから夫がクズっぷりを発揮しはじめてつらい。わたしはがんばっているのに夫がゴミでしんどい。文句も言わず支えようとしてきたわたしに対し、働きもせずクレジットカードで借金こさえるカス野郎、それがうちの夫」と、全身全霊で憐れな妻をアピール。アンド夫dis。
同情する余地はある。  というか、同情の余地しかない、完璧すぎる「かわいそうな妻」。
これは本当に起こったことなのか? だとしたら、彼女の脳裏を「離婚」の二文字がよぎったこともあるのではないのか?
しかし、日記に書かれていたのは、「いい加減夫と別れたい」ではなく、「わたしは夫に殺されるかもしれない」という不穏な言葉。
怪しすぎる夫婦の姿に、観客の心は問答無用でぐらぐらと揺さぶられます。
本当のことを言っているのは誰なのか? ニックもまた、数多の妻殺しと同じような道を辿ってしまうのか?
・・・世界仰天ニュースで見たことないようなあるような痴情のもつれのその先にあるものとは一体? さあみなさんも是非、劇場でお確かめください!

ダメか!そうなのか!これでもダメなのか!っていうか世界仰天ニュースのくだりは逆効果だったのか! ちがうから!あんなチープじゃないから!再現ドラマでお馴染みマークさんも出てこないから!
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(※ 主に刑事役で活躍中)
いや仰天ニュースもおもしろいですけど、こっちは映像美とかもスゴいから! ようし!じゃあこれでどうだ!

疑われるニックと、見つからないエイミー。 狭まるニック包囲網。
この辺りまでは、予告から想像出来得る範囲内のお話なのですが、本作はここから一気に、全く思いもよらない方向へと転がり始めます。
誰が犯人なのか? 誰が誰を罠にはめたのか? 誰がいいやつで、誰が悪いやつなのか?
そんな表面的な物語の仮面が外された後半、登場人物の本性はえぐり出され、容赦なくスクリーンの上に晒されてゆく。
その加速の凄まじさ、その非情さ、その激しさに息をのみました。
だってそれは、エイミーとニックだけの本性ではないから。
わたしたちの誰もが持っているであろう、自己防衛本能であり、自己愛だから。
誰かに好かれたいという気持ちが自分を救い、自分を苦しめる。
愛ってなんなの? 結婚ってなんなの? 誰かと生きてゆくことって、何の意味があるの?
1分先の展開すら見えない極上のミステリーかつ、人間の本質をも鋭く追及する濃密なドラマ。
縁遠いはずなのに、なぜかとても身近に感じられる殺伐とした世界に、あなたもはまってみませんか。
マジで! 超おもしろかったから!!さあ躊躇わないで!サービスデーをどんどん狙って!もしくは休日のお供に!一目散に劇場へ!






(※ 以下ネタバレしていますので、必ず鑑賞後にご覧ください。)





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『トールマン』

2013年09月11日
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あらすじ・・・
出来る限り前情報がない状態でご覧頂く方が良いと思いますので、あらすじは省略します。


『マーターズ』で世界中のお客さんにイヤ~~な気分の限界を味合わせた鬼才パスカル・ロジェ監督の新作(と言っても公開は去年の11月でしたが)、『トールマン』を観ましたよ。
頭の中で浮かんでは消える、「この先こうなるだろう」という予想はことごとく外れ、闇の中を蝋燭のあかりだけで進んでいるような不安な思いに胸をかき乱される1時間46分。
誰が善人で、誰が悪人なのか。
オカルトなのか、異常犯罪なのか。
集団なのか、単独なのか。
どのようにでも解釈可能な台詞や目配せに戸惑い、必死で自分の納得がいくような真相を期待しては裏切られる。
この、監督の思うがままにコロコロと転がされることの心地よさといったら。
 
おっかあ・・・パスカル・ロジェ監督のてのひら・・すごくあったけえよ・・・

『マーターズ』のビジュアル的なエグさを期待して観ると肩すかしをくらうでしょうが、精神的なエグさは今回も折り紙つき。
ホラー映画のような怖さあり、ミステリー映画のような謎解きあり、社会派ドラマのようなメンタル攻撃あり、と、様々な味が堪能できる重箱弁当のような作品ですので、みなさま是非一度ご賞味ください。

・・胃もたれ覚悟で。(いい意味で)(どういう意味なんだ)







(※ 以下ネタバレを含みます)



監督が本作の着想を得たのは、世界中の国々で見かける「行方不明者のポスター」だったそうです。
どこの国、ということはなく、どこででも毎日のように起きている、子どもの失踪事件。
中でもアメリカでは、年間80万もの子どもたちの行方がわからなくなり、そのうちの1000人は何の痕跡もなく完全に消えてしまっているとのこと。
1000人もの子どもたちは、一体どこに行ってしまったのか。
こういうニュースを目にした時にパっと思いつくのは、「殺人」や「人身売買」などのネガティブな行く末であることが多いはず。
しかしもしも、子どもたちの行く末が地獄ではなく、幸せな未来だったとしたら・・?
本作で描かれるのは、そんな有り得なさそうで有り得なくなさそうな、とてもかなしい誘拐事件の顛末です。

いや違う。 
その未来は第三者が考えた「幸せ」であって、子どもたちにとっての「幸せ」なのかどうかはわかりません。
でも、じゃあ、そもそも本当の「幸せ」とは何なのでしょうか?

実の親と一緒にさえ居れば、子どもは幸せなのか。
血は繋がっていなくとも、お金と教養のある大人と一緒に暮らせば、子どもは幸せになれるのか。
たとえロクデナシでとんでもないクズでも、愛情さえあればそれでいいのか。
品行方正な生活を提供できるのであれば、愛情が感じられなくてもいいのか。

また、子どもが持つ「才能」に、生まれた環境は関係しないけれど、それを伸ばす過程においては、少なからず家庭環境が関わってくるのではないか。
実際、子どもの進路に親の学歴や年収など影響していることは、様々な調査の中で明らかとなっています。
学力は「親の収入」に左右されるだけなのか【Benesse(ベネッセ)教育情報サイト】

「才能さえあれば」? 「努力さえすれば」? 「なんとか工夫すれば」? 
それももちろんそうだと思います。
しかし、経済的な格差と子どもの将来とは無関係、と切り捨ててしまえないのもまた、悲しいかなひとつの現実なのではないか。

本編の主人公ジュリアと彼女の夫は、世界中の貧しい国を周り、アメリカ各地を巡り、そこに暮らす子どもたちを救うべく尽力してきました。
しかし、貧困は親の精神力を蝕み、子どもたちの可能性をひたすらに潰してゆくばかり。
行政は門前払い。
政治家は玉虫色のスピーチばかり。
失望と諦めから、惰性で生きているだけの親たちを前に、ジュリアたちはひとつの決断を下します。
「子どもたちの人生をリセットする」という決断を。

ジュリアたちによって誘拐され、地下に潜り、真っ暗な洞窟を通って生まれ変わる子どもたち、いや、生まれ変わらされる子どもたち。
経済的に裕福で学歴もしっかりしていれば、子どもはきっと幸せになれる、とばかりに「よかれと思って」法を犯し、自分たちには認めることのできない「わるい親」の子どもとして一度死なせ、認められる「いい親」の子どもとして新たな命を与えるジュリアたちは、「人助け」をしているつもりなのでしょう。
どうにもならない現実を打破するために。
彼女曰く、「ダメ親が子供たちを、自分たちと同じような壊れた大人へ育ててゆく」という悪循環に、終止符を打つために。

しかし、その行為は結局、状況の違いこそあれ実の親たちと同じで、「子どもの選択肢を大人が勝手に決めてしまっている」ことにほかならず、「寂れた田舎町のトレーラーハウスはダメ」で「都会のペントハウスはオッケー」という独善的な考えの押し付けといい、子どもを愛する親の気持ちを自分たちの理念のために無視するやり方といい、どこからどうみても間違っています。
絶対に間違っているのですよ。
間違っているはずなのですよ。
でも、でも、どこかで「ホントに?」と疑問符をあたまの上に漂わせてしまっているわたしがいるのです。

なぜなら、わたしには、子どもにとっての「幸せ」はコレ!と、はっきりと答えることができないから。
今、自分が我が子にかけている言葉が、善悪の判断が、将来についてのアドバイスが、習い事や学校の勉強についてのあれこれが正しいのかどうか。
どうすれば、何をすれば、自分たちが先立った後も子どもが幸せな人生を歩んで行けるのか。
そこにあるのは疑問と漠然として不安だけで、自信なんてまるでないのです。
もしもうちにもっとお金があって、子どもにありとあらゆる経験をさせてあげることができたなら、この子が持っているかもしれない才能を、もっと引き出してあげることができたのではないか・・・なんて思ってしまうことも、決して少なくはないのです。
だから、ジュリアたちの行為は間違いだとわかっていても、「バカ!アホ!ひとでなし!」と一方的に責め立てることが、どうしてもできなかった。

そんなこんなでモヤモヤし続ける中、訪れたクライマックス。
他の誘拐された子どもたちとは違い、唯一「もう幼くはない」年齢だった少女ジェニーが、絵に描いたようなクズ親のもとから、自らの意志で抜け出させてもらうことを決意します。
一人で自分を育ててくれた母のことは愛しているけれど、もっとマシな人生を送りたい。
強制的にリセットされるのではなく、自分で自分の未来を選択したジェニーが、裕福そうな養母のもと、充分な教育を受け、失語症も克服できている姿を見て、少しだけ「つらい選択だっただろうけど、よかったね・・」とマシな気持ちになれたわたしだったのですが、ホッとしたのも束の間、そんな自分の選択に対する疑念をぬぐい去ることができず、カメラのこちら側の「大人」に答えを求めるかのように「これでよかったんですよね・・?ね・・?」と瞳を潤ませるジェニーが画面いっぱいに映し出され、映画は終わってしまったのでした。

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ということで、鑑賞後の気分は『マーターズ』ほどではないものの相変わらず安定のどんより具合で、ロジェ監督はホントにすごいなぁ、テクニシャンだなぁ、と思いました。
その豪腕から放たれる「問題提議」という球は、今後も確実に観た者の心のストライクゾーンへとめり込んでゆくことでしょう。
考えよう。
考え続けるしかない。
いつの日か、自分にとっての答えが出るまで。
ああ・・・クライヴ・バーカーさんも太鼓判を押した(ものの結局スタジオにボツにされたという)ロジェ監督版『ヘルレイザー』、観たかったなぁ!



-おまけ-

・ おかあさん「うちの子をどこにやったの?」
  ジュリア 「体制はとうに破綻しているわ・・・どこでも同じよ・・子供たちは可能性に満ちていて、わたしたちはそれを伸ばしてあげなければならないのに限界を感じている・・・そして敗北と痛みだけが循環しているの・・ 何度でも・・何度でも・・・何度でも!!」
おまえ
(※ こういう目をしていたおかあさん)

・ と、全く会話のキャッチボールが成り立っておらず、観ているこちらも困惑しきりだったジュリアさんの独白シーンが、本編を全て観終わった後もう一度観直すと、ものすごくグっとくるシーンになっているという。 「真相は明かせないけど、察してつかあさい!」という精一杯の誠意・・オレはしっかり受け取ったぜよ! (ま、許せはしないけども)

・ 生まれたての赤ちゃんを、いきなり(寝そべった姿勢のまま)高い高いするシーンがあって仰天しました。 外国では首がすわっていない状態でも遠慮しないのか・・・

・ と思ったのですが、きっとあれは、周りに子育てについてアドバイスしてくれる大人もおらず、充分な教育も受けていない子どもたち、というあの町の現状を表していたのでしょうね。 そもそも赤ちゃんの父親っていうのが実母の内縁の夫ですし、ソーシャルワーカーもいないんだろうなぁ。

・ ヒロインがとある「崇高な目的」に捧げられる、という結末が『マーターズ』と共通していますね。 監督、そういうのすきなのかな・・。 よっ!ロジェこのやろ!どちらかというとMっぽいのがすきか!

・ 一度観終わったあと、二度、三度と観直したくなり、またその度に新たな楽しみ方が出来ますので、ついDVDを買いたくなってしまいますよね! よっ!ロジェこのやろ!商売上手!

 



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