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『MEN 同じ顔の男たち』

2023年01月02日
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あらすじ・・・
ひとりの女性が田舎でリフレッシュします。

(※ ネタバレしています)

「この映画については観客がそれぞれの体験をこの映画に投影して、それぞれに解釈してもらいたいと思っている。この映画は観た人によって違う解釈ができるように意図されている」
とアレックス・ガーランド監督がおっしゃっているので、以下わたしが観た『MEN 同じ顔の男たち』の感想です。


お と こ は ク ソ !!!!!


うそうそ!じょうだんじょうだん!帰らないで! もうちょっと続くからブラウザ閉じないで!
主人公・ハーパーが夫・ジェームズの飛び降りを目撃してしまうところから始まる本作。
離婚を求めるハーパーと拒絶するジェームズの間は言い争いが絶えず、だからこそやはり一緒にいるべきではないと諭すハーパーに対し、ジェームズは「オレを捨てるんなら死んでやる!」とすごくイヤなタイプの脅しをかける日々。
で、ある日ハーパーが親友に「夫がこわい」と愚痴メッセージを送っていたのを見つけたジェームズは、「オレのなにがこわいんだよ!」とハーパーの顔面に拳をめりこませます。
ふっとばされるハーパー。 殴ってしまったショックに落ち込むジェームズ。
ハーパーは烈火のごとくジェームズをなじり、家から追い出すのですが、なにを思ったか上の階のベランダからの侵入をはかったらしき夫がそのまま目の前を転落してゆくさまを目の当たりにしてしまうわけですね。
もうこの時点でクソ要素しかない地獄絵図。
死をほのめかして相手を支配しようとするクソさ、殴っておいて傷ついたみたいな被害者づらするクソさ、自分が相手に圧をかけ恐怖させていることに無自覚であるというクソさ、そしてアクロバット帰宅をかまそうとするクソさ、極めつけは死の瞬間を見せつけ罪悪感を背負わせるというクソさ。
最後のに関しては、計算して見せつけられるものでもないので、偶然なのかもしれませんが、普段から「死ぬことで一生忘れられなくさせてやる」みたいなことをいうような人ですから本人的には万々歳でしょうね。はいクソー!

トラウマを刻み込まれたハーパーは、心を癒すため、念願だったお高めのカントリーハウスで2週間のバカンスを過ごすそうとするのですが、最初こそ「田舎さいこう!大自然さいこう!由緒あるお屋敷さいこう!」とリフレッシュ方面へむかっていたものの、わりと早い段階から不穏な空気に振り回され始めてしまうのですよね。
それもそのはず、田舎で彼女を待ち受けていたのは、古今東西あいもかわらずクソな男たちのクソ態度だったから。

ものごしこそ穏やかなものの、一定の距離を保とうとするハーパーに「なんで予約が“夫人”なのにひとりなの?なんで?ねえなんで?」みたいな立ち入り方をする大家さん。
全裸でうろつく不審者。
セクハラがひどい警官。
モラハラがひどい聖職者。
クソみたいなガキ。
ぶしつけな視線をむけてくるパブの客。
「女」というだけで、どうして男をたてる控えめさを持っていなければならないのか。
「女」というだけで、どうして性的なものを求められなければならないのか。
「女」というだけで、どうして母性のようなものを与えてやらなければならないのか。
「女」というだけで、「おんな」というだけで。
これらの「男」たちは、すべて同じ役者さんによって演じられており、タイトルはその状態をあらわすものですが、実は劇中それに関して触れられるシーンはありません。
観ている我々にとってだけ、男たちの顔は同じであるというこの演出は、ハーパーがどのような過去をへて、どのような感情を男に抱いているかを大いに想像させて非常に興味深かったです。
同じ役者さんとはいっても、メイクや特殊効果でひとりづつ微妙に変えてあるので、「同じようにみえる」効果が最大限なのもよかったですね。
いやぁ、いい意味でうんざりするなぁ!!

夫につけられた心の傷を、田舎の男たちにえぐられ、次から次へと繰り出される加害に神経をすり減らしてゆくハーパー。
殴ってきた夫を追い出したように、彼女はただやられるだけの女ではなかったので、ひとりから攻撃されるごとに反撃してはいくのですが、なにせ同じ顔の男がなんぼでもわいてくるのできりがありません。
逃げる手段も奪われ、万事休す。
と、その時、男たちはついに真実の姿を彼女にさらけだすのでした・・・!

いやぁ、すごかった!
本作はR15+指定をうけているのですが、わたしのなかの映倫が「レイティングとはなんぞや・・・」と遠くを見つめてしまう程のクライマックス。
そこに至るまでも、なんどかスクリーンの後方付近から男性のうめき声や困惑のひそひそ声が聞こえてはきていたのですが、この最終局面で何人かのお客さんの姿が消え、そのまま戻ってきませんでした。
わかる!あなたたちの気持ちはわかる!
これがR15+でイケるんなら『屋敷女ノーカット版』もR15+でええよな!

ハーパーをしつこく追い回していた男の顔が植物に覆われ、急激に膨れた腹から同じ顔の男が産まれる。
産まれた男はかぼそく泣き、また腹を膨らませ同じ顔のあらたな男を産む。
その男がまた同じ顔の男を、次の男も同じ顔の男を、股の裂け目から腹の裂け目から背中の裂け目から口の中から。
途切れなく続く「男」の誕生に、最初こそ慄いていたハーパーもあきれ顔です。
そりゃそうですよ。 
いちいちハーパーに泣きついてきて、ハーパーにすがりついてきて、構ってくれといわんばかりに被害者めいた視線を送ってくるんですからね。
しんどいわ。 っていうかしつこいわ。 
わたしでも怖さ通り越して「もうええわ」ってなるわ。

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(男たちのねちっこく、恩着せがましく、無遠慮で、パーソナルスペースという概念無視なふるまいに「もうええわ」がとまらない・・・!)

「めんどくせえな・・・ いっそ殺るか・・・」とハーパーが斧を手にとった瞬間、あらたに産まれた男ははじめて別の顔であらわれました。
そう、アクロバティック帰宅の夫です。
ここで夫が登場するという表現、わたしはここでやっとハーパーの心に蓋をしていた「罪悪感」という重しがずれ始めたのかなぁと思いました。
人間の動体視力では落下する人間と目を合わせることなどできない、にも関わらず目が合ったと信じ込み罪の意識にさいなまれ続けていたハーパー。
「おまえがオレたちをこうさせたんだ」という激重感情を押しつけてくる「男」たちが逆に彼女を吹っ切れさせ、夫と対峙する準備を整えてくれた。皮肉なものです。
いや、準備していたのはハーパー自身だったのかもしれません。
亡くなった時の夫と同じように身体を損傷させた男たちを、なんどもなんども葬る。
「おまえがオレたちをこうさせたんだ」につきつけたノーという答え。
最後にやっとあわられた夫に「なにがほしいの?」と聞くハーパー。
「愛だよ」と答える夫。
「そうよね」とつぶやきながら、手に握った斧の刃先をもてあそぶ。
そうよね、なんですよね。 知ってた。 でも無理だった。 どだい無理な話だった。 応えられない要求だった。

翌日、深夜のSOSにかけつけた親友がカントリーハウスの庭園で目にしたのは、憑き物が落ちたように晴れやかで穏やかな表情を浮かべるハーパー。
彼女が切り捨てたのは、理不尽に背負わされた罪悪感であり、長年押しつけられてきた「女性性」なのでしょうか。
それともこの町に住む「誰か」なのでしょうか。
破損した車や床についた血糊が、この一夜が決して彼女の妄想ではなく、実際になにがしかの凶行が行われたことを示してしまっていますが、まあ、なんつうか、もし最悪2、3人やっちゃってたとしても正当防衛になるといいですね!!


- 余談 -

・ たったひとりの警察官を除き、女性がまったくいない町でしたが、きっとね、本当にいないわけではないと思うんですよね。 ただ、それ以外は徹底的に同じ顔の男しかでてこないというのは、ハーパーがそう感じているということなのかなぁ、と。 もしかしたら離婚でもめている間、彼女を失望させるようなことをした女性がいて、そのせいで同性にすら期待を抱けなくなっているのかもしれない。 だから女性がいたとしても視界に入ってこない。 精神的に追い込まれたことで、この世はクソな男ばっかりだという認識になっているのかと思うと非常に気の毒ですし、これはやはりリフレッシュが必要ですね。

・ 本作を観て、知っているようでほとんど知らなかった「禁断の果実(りんご)」について調べていたのですが、「わるいへびにそそのかされてイブが食べちゃった知恵の実」というのはそうなんですけども、そもそもエデンの園の中心には二本の重要な木があって、そのうちのひとつがこの知恵の実がついている「善悪を知る木」で、もうひとつがその実を食べると永遠に生き続けられる「命の木」なのだそうです。

・ アダムとイブをつくった神さまは、「善悪を知る木」の実を食べると絶対死ぬ仕組みだから、とその実を食べることを禁じていたのですが、まあご存じの通りふたりが食べちゃって、知恵をつけちゃうわけですね。 神さま、「人間ごときが神と同等の知恵をつけるとはなにごとだ・・・」っていう飼い犬に手を噛まれた的なアレな気持ちを抑えつつ、「これでもう死ぬ運命になっちゃったじゃん・・・せっかく何不自由なく暮らせる園に住まわせてやってんのに・・・」というより一層ウエメセなアレを決め込んできていとおかしいです。

・ ただしかし、ひとつ解せないことがありまして、ふたりが楽園から追い出されたのは、知恵をつけちゃったからではなく「命の木」の実まで食べて不死身になったら困るという理由かららしいんですけど、あれ?「善悪を知る木」の実を食べると絶対に死ぬ設定どこ行った? 神さま頭にきすぎて設定ガバガバになってもうた?

・ 知恵をつけた人間がもしも永遠の命を身につけてしまったら。 神さまのようにちゃんとしていない、おろかさに定評のある人間のことですから、彼ら独自の善悪のものさしで命をはかるようになってしまうだろう。 そんな危険なことがあるものか。 だからもう、いっぺん知恵をつけちゃった人間は、いつか必ず死ぬようにしよう。 それで毎回善悪の価値観をリセットできるようにしよう。 神さま、そう思ったのかもしれない。

・ 結果、たしかに人間の命は有限だ。 どんな邪悪な価値観を持っているものも、いつか必ず死ぬ。 その点は、神さまの思惑通りだったかもしれません。 しかし、人間は死ぬけれど、次に生まれてくる人間も価値観的には大差なかったりするんですよね。 不思議なことに。 だから人間は、同じ人間ではないはずなのに、なんどもなんども生まれてきては、なんどもなんども同じ過ちを繰り返す。

・ ある意味、「命の木」の実は食べなかったけれど「人間」の本質は永遠に続いてゆくのかもしれないし、そう思うと本作の「同じ顔で産まれてくる男たち」の姿は実にパンチが効いていてよかったです。


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『search/サーチ』

2018年10月29日
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あらすじ・・・
友達の家に勉強しに行ったっきり行方が分からなくなった娘をおとうさんが探します。



(※ 以下ネタバレしています)

・ ひとさらいや殺人など、おっかないニュースを見た時、娘はよくわたしに問いかけてきます。 「おかあさん、もしわたしが誰かに連れていかれたらどうする?」と。 わたしはいつも答えます。 「なにがあっても絶対探し出す」と。

・ もしも警察でも見つけられなかったら? もしも目撃者や証拠などの手がかりも乏しかったら? 娘の不安はつきないようですが、不安勝負ならおかあさんだって負けません。 なにせ、あなたたちがうまれた時からおかあさんはずっと不安と共に過ごしてきたのですから。 

・ ほんの一瞬目を離した瞬間姿をくらます子どもたち。 大きくなればなったで、目の届かない距離まで出かけるようになる。 当たり前のようにドタドタと家を出て、当たり前のように玄関のチャイムを鳴らし派手に靴を脱ぎ散らかしながら帰ってくることを、おかあさんは毎日毎日祈っているのです。

・ 本作はそんな「なにがあっても絶対探し出す」という親の気持ちが余すことなく描かれた、非常におもしろい映画でした。 出てくるのは母親を亡くした娘と妻を亡くした夫。 最愛の人をうしなったふたりは、哀しみから抜け出せていないがゆえに言葉を飲み、本音を隠し、そのことが大きな事件へとつながってゆきます。

・ まあねー! ホントによくできていましたよね! デジタルネイティブである今の子どもたちの成長を、パソコンの画面だけで説明しきってしまうオープニングの秀逸なことと言ったらもうね! Windows XPの大草原を背景に、家族の生活を記録するツールはどんどん進化し、喜びも悲しみも同じように書き込まれては消去される。 うまい。 うますぎる。 語り足りないものはなにもない、この一家の歩みや現状がすべて物語られている。 この時点でボロボロに泣いていましたから、もうそんなもん大勝利ってもんですよ!(誰のだ)

・ で、いつものようにメッセンジャーアプリとフェイスタイム(アップル製品に装備されているビデオ通話機能)で親子の会話をかわし、「現在友達の家にいること」「徹夜で勉強会をすること」を確認したおとうさんとむすめさんだったのですが、おとうさんの就寝中に入っていた着信を最後にむすめさんの消息は途絶えてしまいます。

・ はい悪夢きた。 外出中の子どもと連絡とれなくなるやつ。 もうね、常々思うんですけどね、携帯もパソコンもなかった数十年前、われわれの親世代はどうやってこの悪夢に折り合いをつけていたんでしょうね。 うちの父親も、だからあんなに門限厳しかったのかなぁ・・・ 今ならわからんでもないですもんね・・ 自由にさせたいけど不安もすごい。 ありがとうスマホ。もう君なしでは子育てできない。

・ 心当たりを手あたり次第探った結果、どうやら彼女は幼馴染とキャンプに行っているらしいと判明したおとうさん。 学校を無断で休んでいたのもそのせいでしょう。 きっとそうなんでしょう。 しかし、キャンプから戻った幼馴染から、むすめさんは結局こなかったとの連絡が・・・。

・ 徐々に狭まってゆくおとうさん包囲網。 さすがにこれは非常事態とばかりに通報しますが、普段むすめのプライバシーを大切にしていたおとうさんには、むすめの交友関係がさっぱりわかりません。 学校関係にあたってみるも、友達と思っていた子から出るのは「勉強が得意だから誘ってただけ」だの「親に言われたから誘っただけ」だのと、絶対本人には聞かせたくない残酷な言葉ばかり。 「うちの子、友達いなかったの・・・?!」とショックを受けるおとうさん。 いないならいないでいいけど、いないそぶりを見せていたということは、おとうさんに心配かけたくなかったってことですから、やっぱりショックはショックですね。

・ 気を取り直して、SNSはどうだ?と開いてみると、むすめさんのアカウントはすべて鍵アカ。 むすめさん、リテラシーすごいねー!! っていうか、今までむすめさんのアカウントを検索かけてみたことがなかったおとうさんも、ある意味ハートがつよいねー!!

・ 担当刑事に促され、むすめさんのパソコンからSNSへのアタッキングを開始したおとうさん。 実はIT企業勤務なので、ネットの使い方は心得たもの。 パスワードがわからなければ変更をかけ、変更メールの送り先のパスワードがわからなければさらにその変更をかける。 こういったネットあるある描写を駆使しているのも本作のうまいとこですよね。 身に覚えがあるからこそグッと引き込まれます。

・ やっと潜り込めたむすめさんのアカウント群。 ツイッター、インスタグラム、フェイスブック、Tumblr、ライブ配信サイト・・・。 見たことのない顔や知らなかった生活が、そこにはありました。 つながっている人たちはほとんどが薄いつながりでしたが、中には親身になって話し相手になってくれている女性もいました。 ここだけが娘の安らげる場所だったのか。 己の非力さを嘆くおとうさん。

・ しかし、頼みのSNSも捜査の結果は空振りでした。 その上、担当刑事はむすめさんがこっそり作っていたとおぼしき偽造免許書や不正なお金のロンダリングまで探し当て、これは失踪事件ではなく逃走だと臭わせはじめる始末。

・ たしかにむすめさんにはおとうさんの知らない一面がありました。 しかしそれは、あくまで母親不在に対する子どもなりのフォローであり、おとうさんに対する気遣いの延長でしかない。 おとうさんは諦めることなくネットの海を漕ぎ続け、ついにむすめさんが失踪時に乗っていた車を発見するのですが・・・

・ ここから先の展開もまた非常にエモーショナルで、わたしは何度も涙がこらえきれなくなりましたし、クライマックスは目が真っ赤になるぐらい泣きました。 なんでしょうかね。 やはり他人事と思えないんですよね。 本作のおとうさんが直面した恐怖は、わたしたちの身に起こらないとは限らない恐怖ですし、本作のおとうさんが貫いた信念は、わたしたちが持ち続けるべき信念だと思うから。 それは、子どもを信じるということ。 絶対あきらめないということ。

・ 皮肉なことに、本作の加害者側もその信念を持ち続ける人物だったというところがまた、罪深くてよかったですね。 

・ 「全編PC画面のみ」という設定から「映るのがPC画面だけなんだったらDVDが出てから家で観てもよくね?」なんて思っちゃってごめんねチャガンティ監督。 大きなスクリーンいっぱいに重なり合い開かれてゆくウィンドウからは、登場人物の愛情や逡巡、時に息苦しさや緊迫感がひしひしと伝わり、そして「こうあってほしい」という希望に対する答えが映し出された瞬間には、大きな感動の渦が押し寄せました。 よくできてた!ホントによくできてたよ!!(本日二回目)

・ ぜんぜん友達でもないでもないのに全国ネットに流れた瞬間しおらしい涙を流して視聴回数&イイネ稼ぎを始めるクラスメイト、「○○ならオレの隣で寝てるよ」と無責任な書き込みをはじめるクソ野郎、ネットに転がっている画像を無断使用して女性になりすますネカマ、ネットストーカーなどなど、今の時代ならではの曲者たちに翻弄されながら、むすめさんのもとへとひた走るおとうさん。 もちろん、おかあさんでもニーアム・ニーソンさんでも同じことをしたでしょう。 「子どもを絶対探し出す」という強い想いが導いた奇跡。 思う存分泣こうではありませんか。  『search/サーチ』、いい映画でした。

・ しかし、ほとんどのものは「あるある」と観ていたものの、お葬式のネット生配信サービスだけはちょっとびっくりしちゃいましたね・・。 あるのかそういうのが・・ そりゃまあ遠方で参列できない人もいるけども・・・  なんつうか、まだまだ時代についていけていない45歳おかあさんなのでした!
 


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『エル ELLE』

2017年10月10日
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あらすじ・・・
女の人が悪い男の人に引導を渡します。


(※ ネタバレしています)


女の子にとって、子どもから大人へと変わりゆく真っ只中のいちばん繊細な年齢、「10歳」。
そんな齢のころ、ある日国中の人々から一斉に注目されてしまうというのは、どんな気持ちなのだろう。
しかも、明るい話題からきた「いい注目」ではなく、全国民が恐怖と怒りと不安でいっぱいになるような、凶悪なことこの上ない「わるい注目」だとしたら。
自分は何もしていない、罪を犯したのは少女の父親で、わけもわからず巻き込まれただけなのに、まるで共犯だったかのように「注目」され、後ろ指をさされる。
正義感にかられた人々は、逮捕され一生牢屋に閉じ込められている父親を責められないかわりに、すぐそこで暮らしている少女に石を投げ、ありとあらゆる悪意をむき出しにしてきたことだろう。
どこにいっても「あの怪物の娘」という眼差しを向けられ、生きているだけで「よくもいけしゃあしゃあと」となじられる。
何かを殺さないと、少女は生きて行けなかったのではないか、とわたしは想像する。
自分のなかの何かを殺し、何かを捨て、何かを切り離すことでしか、少女はその社会で生きて行けなかった。
傍から見れば、冷徹、無感情、どことなくおかしい人、と思われるような生き方は、少女を守る盾であり、少女を前に進めさせるたったひとつのやり方だったのではないか。

物語に出てくる男たちは、揃いも揃って彼女を粗末に扱う。
よくもまあ、こんな立派な人でなしばかりが集まったものだ、と呆れたしゾッとすらしたけれど、彼女にとってそれは今までの人生で散々ぶち当たってきた「お馴染み」の光景だったのかもしれない。
「人殺しの娘なんだからひどい目にあっても仕方ない」。
カフェで彼女がかつての少女だと気づいた女性が、さも「正しいこと」をしているかのように毅然とした態度でゴミを投げ捨てるシーンと、その時の彼女の「あ、そうスか」みたいなどこ吹く風な表情を見ても、いかにその類いの行為が当たり前に行われてきたことかは歴然だ。
男たちは「あいつならこれぐらいしてもいい」と、彼女の過去を勝手に採点し評価する。
「人でなしの娘だから人として扱わなくてもいい」のだ、と。

彼女はそんな男たちに復讐をするのだろうか、とわたしはワクワクした。
ひとりよがりなクズどもを痛い目に遭わせてやればいい。 
いまだ、ミシェル、反撃の狼煙をあげろ。
しかし彼女はそんなわたしの独善的な気持ちにもまた、「あ、そうスか」といわんばかりの冷ややかな視線を浴びせる。
彼女は復讐しない。
男たちを血祭りにあげない。
そんなことは労力の無駄、とばかりに自分の生活を送る。
彼女のこの強さは、同時に彼女の悲劇でもある、とわたしは思う。
せめてもっと感情的に、「ふざけんなこのやろう」と暴れまわってくれるほうが、まだ救いがあるではないか。

そんな彼女に、ついに変化の時が訪れる。
母の死をきっかけに、事件以来一度も会っていなかった父との面会を決意するのだ。
彼女の人生に呪いをかけた父は、忌まわしいだけでなんの感傷も呼び起こさない存在だった。
けれど、父よりはマシだけれど普通に恨みつらみを抱いていた母が、彼女の謝罪や弁明を受け入れないまま死んでいったのを見て、彼女は「父までもが自分を置いていってしまったらどうしよう」と思ったのではないだろうか。
さみしい、という意味ではなく、引導を渡す機会を失うかもしれないという意味で、彼女はこれが最初で最後の機会だと思い、父がいる刑務所へ向かった。
父と会った時、彼女は罵倒しただろうか。 唾を吐きかけただろうか。 老いやつれた姿に心が痛んだだろうか。 「どうしてあんなことを?」と長年の疑問をぶつけただろうか。
どれもしなかった。 できなかった。
なぜなら、彼女の訪問を知らされた父は、ケツに帆をかけて逃げたからだ。
自死という方法で、この世の責任を放棄したからだ。
どれだけ卑怯な男なのだろうか。 
もっともつらい思いをさせ、もっとも苦しめた娘に、怒りをぶつけさせるチャンスも与えないとは。

この裏切りともいえる「死」を知らされた彼女は、ついに人生ですべきことを悟る。
彼女がすべきなのは、「人殺しの娘」としてすべての理不尽を受け入れることでもないし、自分の心と体を切り離し、毎日のように生まれ来る痛みを無視することでもない。
嘘をやめること。
隣人を救ってあげること。
父というおそるべき怪物を葬り去れなかった彼女は、別の形で、もうひとりの憐れな怪物に救いの手を差し伸べる。
そう、暴力的なやり方でしか欲望をかき立てられないタイプの病を抱えた隣人を罠にはめ、「正当防衛」という法的に正しいやり方で命を終わらせた(※奪ったのではない)のは、きっと彼女なりの救いだったのだ。
父に出来なかったことを、やっと成し遂げたのだ。

これからの彼女は、もっと自由になるはずだ、とわたしは思う。
周囲の人間がそうだったように、彼女もまた自分自身を「地面に叩きつけても壊れない人形」ぐらいに取り扱ってきた。
まわりはさておき、彼女がそうと思わなくなるだけで、人生はすこしばかり愛あるものになるではないだろうか。
男たちの愚かさを親友と軽やかに笑い飛ばし、彼女はしなやかに歩く。
その未来は、これまで以上にしたたかで、力強いものになるに違いない。



― 追記 ―

男たちの自滅っぷりとは裏腹に、本作に登場する女性たちのタフさったらないですね。
「殺人鬼の妻」として、ミシェルほどではないにしても相当の責め苦を受け生きてきた母イレーヌは、周囲の眼差しなど気にせず美しさを追求し、次々と若い恋人との恋愛に耽る。
ミシェルの息子の恋人ジョジーは、息子がお人よしなのをいいことに、別の男性との赤ちゃんをダシに結婚をとりつける。
ミシェルの親友アンナは、夫とミシェルの関係を知らされると、自分にとって誰が一番重要かを冷静に判断し、あっさり夫を切り捨てる。
強姦魔の夫を持つレベッカは、夫の犯罪行為を知りつつ野放しにし、隣人のミシェルを丁度いい発散場所として利用する。
みんな、それぞれのやり方で幸せだけを目標にひた走る。
その姿を、どこか清々しいと感じてしまうのは、彼女たちが単なる身勝手な人間というわけではなく、何がしかの理不尽さと闘ってきた人たちだからなのかもしれません。

まぁとはいえ、隣人をうまいこと使って夫に引導を渡したレベッカだけは別次元でこわいですけどね!
机の下でミシェルがモーションかけてたのも、気づいてたのかもしんないよ!
はい! 今回の選手権はレベッカが優勝!!! 隣に引っ越してきてほしくない隣人ナンバーワン!!


― 追記 その2 ―

ホントのホントにタフなのは、あのタイミングで「お金もらえるんですよね?」って聞けちゃうあの青年かもしれない!
それよく本人に訊ねられたな! どんな心臓してるんだよ! っていうかあげるわけねえだろ!バカ!おまえバカ!




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『アイ・スピット・オン・ユア・グレイヴ2』

2015年04月14日
スオイッツ

「レイプリベンジもの」というジャンルを代表する不朽の胸クソ映画『発情アニマル』。
その現代リメイク版『アイ・スピット・オン・ユア・グレイヴ』に、なんと続編が作られていたということで、今さらながら粛々と鑑賞。 いや、続編の存在は随分前から知っていたのですが、なんとなくもうこの手のヤツはいいかな・・という気持ちがね、無くもなかったというかね、反撃は観たいけど前フリ部分がしんどいというか・・・まぁ結局観ちゃうんですけども。

あらすじ・・・
NYで女優を目指すうら若き女性が、自分を凌辱した卑劣極まりない外国人男性にそれ相応のお返しをします。



スゲエよく出来てたコレー!

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こんなかわいらしい人が

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こうなって

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こう!

レイプリベンジ映画を「おもしろい」と言ってしまうことには躊躇いを感じてしまいます。
なぜならレイプはまったくもって「おもしろく」なんてないし、何の非もない女性が(もちろん女性だけでなく男性も)何者かの一方的な快楽のため体や心を踏みにじられ、ズタズタに引き裂かれるなんて、絶対にあってはならないことだと思うから。
だから本作のことも、「おもしろい」だなんてとても言えません。
おもしろくはない。
ただ、すごく、すごくよく出来ている!

大都会でカフェの店員をしながら女優を目指す美しい女性・ケイティ。
宣材用の写真が欲しいものの、プロのカメラマンを雇うお金がなかった彼女が、たまたま見かけたフリーの撮影サービスを利用するところから物語は始まります。
単身訪れたスタジオには、外国人らしき訛りの3兄弟。
ケイティに対し下心満載な目線をおくる三男と、撮影に関わる気ゼロの次男、そしてカメラマンの長男から、それぞれにものすごく失礼な態度をとられた彼女は撮影をキャンセルし、なんとか穏便かつ俊敏にその場から退散するのですが、時すでに遅し。
クズ野郎にロックオンされてしまったケイティは、ちょっとゴミを捨てに部屋を空けたほんの少しの間が命取りとなり、深夜スマホのシャッター音で目を覚ます羽目に・・・。

このあと延々、いや、ホントもうクドイぐらいの凌辱シーンが続いてゆくのですが、まずこのスタートがすごい!すごいイヤ!
防犯意識が決して低くないケイティが、何重にも鍵をつけ足したドアの、その内側で繰り広げられる醜くも残虐な行為。
何も自分を守ってくれない。 安全な場所などどこにもなかった。
家の外でヒドイ目に遭うのも相当イヤですが、自宅内で襲われる方がずっとずっとキツいですよね。
ほんでまた、すぐ襲うでもなく、寝ている自分の姿をじーっと見ているんですよ! ネットリしてる!なんかもう物凄くネットリしてる! 図々しいのか遠慮がちなのかどっちやねん!! っていうかどっちにせよイヤ!

その後、彼女の部屋の異変に気づきドアをこじ開けて助けに入ってくれた友人が三男の返り討ちに遭い憤死してしまったり、身勝手な本懐を遂げた三男が兄に泣きの電話を入れたり、悪知恵の働く兄が殺人の罪をケイティに擦り付けるべく偽装をはたらいたりなんかしてもう絶体絶命!というところで舞台は暗転。
大きな箱に入れられ、なにやら激しく揺れ動かされたケイティが目を覚ますと、そこは小汚い地下室でした。
そしてまたぞろ始まる下劣で醜悪な行為。

けっこうね、長いんですよね。 「第一幕・ケイティの部屋」「第二幕・謎の地下室」となるのですが、この第二幕が長いの。
で、もうそろそろ勘弁してくれ・・・ とわたしが音をあげるかあげないかという絶妙なタイミングで、ケイティが相手の隙を突き、なんとか地下室からの脱出を果たしてくれるのですが、半裸のような状態で街頭に飛び出したケイティの目に飛び込んでくるのは、全く見覚えのない文字の看板。
そう、なんと眠らされている間にケイティが連れてこられた場所は、アメリカから遠く離れた東欧の地・ブルガリア共和国だったのです!
そしてここから再度始まる「第三幕・ゆきて帰りし地下室」の陰惨なことといったら・・・!

そりゃね、反撃を際立たせるには前フリが凄惨であればあるほど効果的ですよ!
でもホントにクドいの! なんどもなんども絶望させられるの!ケイティが!
望みを抱きかけたら裏切られ、救われると思いきや見捨てられるという有り様で、ぜんぜん気が抜けないから、観ているこちらもめちゃくちゃ疲弊するの! 
この監督さんはわかってるわー!(いい意味とひどい意味の両方で)

拉致監禁からの脱出をありきたりな展開では終わらせないぞ、という気概の感じられるストーリー。
文字通り「体を張った」渾身の演技で、そんなストーリーに血の匂いと肉の重みを与えるジェマ・ダーレンダーさんがすばらしい。
レイプという、残酷な犯罪行為に対し、きっちり熨斗をつけてお返しする方法を選んだ女性と、想定を超えた全く別な方法を選んだ女性という真逆な二人を登場させることにより、観客はこの犯罪の恐ろしさと、その爪痕の計り知れない深さを、今一度見つめなおさせられるのではないかと思います。
やり返して終り。ではないのですよね。
命は助かっても、心は死んでしまう。 死んでしまうこともあるのです。
ホント、もっと重い処罰を与えられるべき犯罪だと思うなぁ。
以前も書きましたけど、わたしは性犯罪は殺人と同等に裁かれればいいと思いますね。 でなければ去勢でいいですよ。 ええ、極論ですよ。 気に入らない人は気に入ってくれなくていいです。

前作同様、「目には目を、歯には歯を」一直線な本作ですが、前作のようなスタイリッシュさもなければ「作家志望の女性が突然ピタゴラスイッチを作り出す」といった不自然さもありません。
前フリはとことん不快に描かれ、冒頭張られた伏線は後半工業系女子へと変ぼうを遂げることによりきちんと活かされます。
箱に入れられたぐらいで人一人がやすやすと空輸されてしまうという謎システムや、人権団体を名乗る女性がノーチェックで警察に信用されているという謎システムや、どれだけ大声を出しても誰にも通報されない地下廃墟という謎システムや、言葉が通じなかったはずのケイティが相手の罵り言葉だけは完璧に覚えて発音もバッチリになっているという謎システムなどなど、謎の多い物語ではあったのですが、もっとも大切な「ケイティが生まれ変わる過程」は疎かにされることなく丁寧に描かれており、わたしはとても胸を打たれました。
万力の正しい使い方もよかった! 弾けたのちにドロリと流れだすアレなんかもう、さいこうですね!殿方は直視できないかもだけど!

ラストシーン。 達成感のような、虚しさのような、新たな本能の目覚めのような、複雑な表情を浮かべるケイティですが、彼女の闘いはまだ終わっていません。
本国(アメリカ)に帰り、友人の死の真相を明らかにすることができてはじめて、彼女は「今までとは全く違ってしまった」人生を歩み直すこととなるのでしょう。 それはまた新たな、気の遠くなるような闘いのはじまりなのではないかと思います。

そう、やり返して終り、ではないのです。

無音の中、真っ暗闇に淡々と文字が浮かぶエンドクレジットを観ながら、内臓がズシリと重みを増すような、なんとも鬱々とした気持ちになったのでした。





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『エスケイプ・フロム・トゥモロー』

2015年04月13日
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「トゥモローからエスケイプする」だなんてタイトルだもんで、まさか「サザエさん症候群」みたいな映画じゃあるまいなぁ・・と思ってたらまさかのまさかでござった。


※ 以下ネタバレしています。



あらすじ・・・
さーて、今回のエスケイプ・フロム・トゥモローは?
平凡なアメリカのマイホームパパ・ジムです。 休暇を利用して家族で訪れたディズニーリゾート旅行も残すところあと一日。 明日のことなんて考えず、最終日もたっぷり楽しむぞ~!と意気込んでいたら、上司からのモーニングコールで思いっきり解雇されました。 寝耳に一斉放水です。 もちろん妻には言い出せません。 もう、明日なんてこなければいいのに! 
ということで今回は 「都市伝説は本当だった」 「出来れば妻以外も抱いてみたい」 「夢の国から出たくない」 の3本です!




■ 「都市伝説は本当だった」

「夢と著作権の王国ディズニーランド」で無許可撮影にチャレンジした意欲的な作品。という宣伝文句ばかりが目立っていたため、果たして内容の方はどうなっているんだ?といくばくかの不安を抱えつつ鑑賞に臨んだわたしだったのですが、いざ観てみたらなんつうか、すごくゲスくって、すごく憂鬱で、すごくディズニー愛が詰まっている怪作で、こりゃたしかにディズニーランド内でないと撮れないわなぁ・・と納得してしまったのでした。

一見相反しそうな、「ディズニー愛」と「ゲス」の結晶。 
それは何かというと、わたしたちにも馴染みの深い「ディズニーの都市伝説」でありまして。

かわいいトコロでは 
「カラス避けの謎電波が放出されている」 
というものから、ちょっとアダルティな 
「ディズニーの地下には会員制の秘密クラブがある」 
というもの、さらには 
「ディズニーでは臓器提供目的の児童誘拐が頻発している」
「スペ-スマウンテンの天井にはお札がビッシリ貼ってある」
「スモールワールドに幽霊が出た」 
といった物騒なものまで各種出回っているディズニーの都市伝説。
どうしてここまで、わんさかと伝説が湧き出るのか。
それは人々が「なんだかんだいってもディズニーランドは夢の国なのだ」と信じているからなのではないかと思うわけですよ。
「みんなが認める夢の国」だからこそ、その中におどろおどろしいものも潜んでいると言わずにはいられない。
たとえ夢の国でも、悪いことは起こるんじゃねーの、いや、起きてるんじゃねーの?というゲスい好奇心が、ディズニーの都市伝説の源なのではないか。

で、驚いたことに、どうやらこの手の都市伝説は本国アメリカにもバッチリ存在しているようで、本作には先ほど述べた都市伝説の一部がなんとそっくりそのまま登場します。 すごいよ都市伝説! やっぱ考えるこたぁみんな一緒なんだね!
その他にも、スモールワールドに幽霊は出ないものの、人形の中に怖い顔をしたヤツが混じっていたり、スペースマウンテンではなくビッグサンダー・マウンテンの方に死人が出たりと、日本でも流布しそうなネタが続々登場。
なお、オチに登場するネタは
「ストレスで精神崩壊したプリンセスの中の人がハグしていた幼女に鯖折りをお見舞いしたのち闇堕ちする」
というウルトラド級のネタです。 なるほど、ありそう・・・ ・・っていうかゴメン!さすがにこれは聞いたことない!
あと、
「現役プリンセスの正体は高級娼婦で、裏でアジアの富豪に抱かれている」
というネタも出てくるのですがなんかもう発想がおっさん! 

さまざまな都市伝説を本物のディズニーランド内で再現してみせた、というこの一点だけでも、その心意気やよし、と言いたくなりますし、ランディ・ムーア監督のディズニーに対する偏愛に胸が熱くなってしまいました。 オレはすきだよ、ランディのそういうとこ。


■ 「出来れば妻以外も抱いてみたい」 

ディズニーランドのような「夢と権利に厳しい国」の非現実的な甘さに浸れば浸る程、おのずと浮かんでくるのが現実への不満なのではないでしょうか。

そうでなくても「旅行中の夫婦喧嘩」というのは、犬が食わない一方弁護士のメシの種になりかねない危険なものですが、ここディズニーが舞台ですと、周りじゅうが浮かれまくっているだけに普段以上に些細なことが喧嘩のきっかけとなると思われます。 もはや魔法どころか黒魔術です。
本作の主人公・ジムとその妻エミリーもまた、まんまとその魔術にはまってしまい、これから入園しようというトコロでまずは子どものしつけを巡りひと悶着。
移動用のモノレールに乗れば、肌露出の多い同乗者のチャンネーを前に、鼻を伸ばしたり睨みをきかせたりで一触即発。
ランドに着けば、今度はアトラクションに乗る乗らないで子どもを交えピリピリムード。
思うような行動をとってくれない子どもへの苛立ちは、そのまま配偶者への不満へと変換され、徐々にお互いへの信頼感を失って行くジムとエミリー。
現実世界なら解決の糸口を探ろうとするところが、極彩色の立て看板とハッピーな音の洪水に思考を遮られ、「せっかくの旅行なのに」「たのしみにきたのに」というポジティブなプレッシャーで自分自身を追い込んでしまうことに。

「テンションあげなアカン」とばかりに妻にキスを迫るジムに、「子どもの前で何しとんねん」とばかりにマジ拒絶するエミリー。
「そういわんとダンスでもしようや」と手をつかもうとするジムに、「頭おかしいんとちゃうか」と冷やかな一瞥をくれるエミリー。
「こうなりゃ飲むしかない」と酒を浴びるジムと、最初こそたしなめようとするもバカバカしくなり完全に放棄するエミリー。
「テンションの差」という一言で片づけるには、あまりにあんまりな極寒地帯!
もうこの夫婦のヒリヒリとした空気感がすごい!
ぼんやりしてたら 「ブルーバレンタイン」並に削られるぞ!気をつけろ!


妻にとっては、毎日繰り返しているだけでごくごく当たり前になっている育児のマイルールが、ジムにとっては理不尽な命令としか感じられないとか、なにもここまでリアルに描かんでも・・・と戦慄してしまうような夫婦あるあるネタがギュっと詰められており、「きっとこれはこの旅行に限ったことではないのだ。そして数年前から既に、この夫婦にはズレが生じていたのだ。夜の営みの方もアレなのかもしれない。なんだったらジムはアッチの方の機能が(ry」というゲスパーまでも刺激してくれるのですが、もしやランディ・ムーア監督は過去にディズニーでイヤなことでもあったのでしょうか。
いいんだよランディ、オレに話してごらん。悪いようにはしないから。

ということで、家族に安らぎを見出せないジムは、必然的にそのリビドーを「パーク内で目についた女性相手の妄想」という形で放出させることに。 もうギャルから熟女まで手当たり次第の様相ですよ。
あのさ、ランディさ、ディズニーランドは夢の国だけど、そういう意味の「夢」じゃないからね!
いちいち射精やエレクチオンのイメージ挿入してくるのもね、「高く吹き上がる噴水」っていう抽象的なものならまだしも、「チェンネーがかぶりつくバナナ」とか、しまいには「白い物体でBUKKAKEプレイ」なんつう身も蓋もない描写になっちゃったりしてホント繰り返すようだけど発想がおっさん! ランディの愛読書は週刊現代か!


■ 「夢の国から出たくない」

都市伝説とリアルすぎる夫婦生活の危機を詰め込んだ本作ですが、それらをまとめる柱となっているのが「明日なんてこなけりゃいいのに」というサザエさん症候群、いや、ブルーマンデー症候群でありまして。
ただでさえ憂鬱な「休暇の最終日」に「解雇通告」が加わり、休みが終わらないどころか休みの終わりが見えないという究極の鬱状態陥ってしまうジム。
ジムが体験する都市伝説や、ジムが直面する夫婦の危機や、魅惑のチャンネールームのどこからどこまでが現実なのかわからないような作りになっているため、観ているわたしまでジムの戸惑いを強制的に共有させられます。
一部分だけが妄想なのか。 パーク内で起きたことが妄想なのか。 もしかしたら、冒頭モーニングコールを受けて以降のすべてがジムの妄想なのかもしれない。
夢とは決して美しいものでもたのしいばかりのものでもない。 不愉快な出来事が延々と続くのもまた夢なのですよね。
それでもジムは、その夢から出たくなく。 
なぜならどれだけ不快でも、どれだけ自分を傷つけても、しょせんそれは夢だから。 
現実ではないから。

物語の中盤、地下に設けられた秘密基地でのやりとりの中で、ディズニーランドはジムにとってずっと昔から特別な場所だったのだ、と思わせるシーンがありました。
ジムはディズニーランドを愛していた。 ジムにとってディズニーランドは文字通り「夢の国」だった。 
わたしは、旅行先にディズニーリゾートを選んだのもジムなんじゃないかと思うのですよ。
自分がたのしみたいがために来たジムと、子どもをたのしませるために来たエミリーが揉めるのは無理もありませんし、あれが妄想だったとしても、ジムの中に「オレはおまえよりもディズニー好き」という意識があったのならいろいろと頷けるのですよね。

妄想なのか現実なのかわからないまま、ジムは家族が眠る寝室の隣で毛玉を吐き、猫化して息絶えます。
ジムを回収に来た白いバンは、ジムがモーニングコールを受けていた時と日中ホテルに戻った時目にしていたのと同じ車で、助手席から降りてくる男がとる仕草も同じです。
男は仲間の作業員とともにジムの痕跡を丁寧に消し、ジムを見殺しにした息子の頭にたのしいアトラクションの記憶を植え付けます。
エミリーもまた、夫を失った悲しみに暮れていたものの、手に握ったスーベニアのベルを無意識に振り始める。
彼らに訪れた不幸が、みるみるうちに美しい思い出へと書き換えられてゆく。
この辺の、「ランドで死亡事故があっても特殊作業員が事故そのものをなかったことにする」というエピソードもまた、いかにも都市伝説っぽくていいですよね。 ランディは最後の最後までねじ込んでくるねー!強気だねー!

クライマックス、作業を終えたバンとすれ違うようにホテルにやってきた車から降り立つのは、秘密基地の中でジムが見た妄想の中の自分です。
ネズミの天敵・猫の姿で不本意な人生を終わらせた、つまり、ミッキーと自分にとっての「悪」を抱え込み一緒に排除したジムにもたらされるのは、永遠に終わらない夢なのでしょう。
ただし、今度は都合のいいことしかない癒しの夢。 
だいすきなディズニーランドと共にある夢。

おめでとうジム! おめでとうランディ!
本人たちにとっては最高のドリームズカムトゥルーだけど、観ているわたしにとっては「疲れをとりたくて寝たのにイヤな夢ばっか見て余計に疲れた」みたいな居心地の悪いひとときを与えてくれてありがとう! 


■ おまけ

・ だいたい、ディズニーランドが夢の国だなんて誰が決めたんだって話ですよね。 うちのいもうとちゃん(10歳)なんて、最初に乗った白雪姫のアトラクションが謎の「魔女ばあさん推し」だったせいで、そのあとはもうどのアトラクションも「やだ!こわい!」と完全拒否状態でしたからね。 まさしくリアルナイトメアですよ。 いまだに「もうディズニーランド行きたくない」と語るいもうとちゃんにとっては、ジムさんの妄想は現実なのかもしれません。 っていうか本編のしょっぱなにも同じ白雪姫のアトラクションが出てきてオラなんだかドキドキしたぞ!(こわがるポイントって万国共通なのでしょうね)

・ 結局シーメンス社の陰謀ってなんだったの。 ジムさんの妄想パワーが欲しかったのか、ジムさんの息子が狙いだったのか全くわからん。その割にはさらわれたの娘でしたし。 なんや、辻褄合わせる気ゼロか。 ぜんぶ妄想ってことで乗り切る気満々か。

・ シーメンス社の担当者が、ジムさんの妄想パワーをこともあろうにウォルト・ディズニーと並べて絶賛するシーンもすごいですよね。 だって、ジムさんの妄想ってことはつまり、ランディの妄想ってことですよ。 遠まわしにランディはウォルト・ディズニーと同じレベルだって言っちゃってるんですよ。 これほどまでに壮大な自画自賛がかつてあっただろうか!いや、ない!

・ あんなに愉快なアトラクションの数々が、その色調をモノクロに変換されただけで、ここまでたのしくなさそうな乗り物になるとは予想外でした。 こんなつまらなそうなハニーハント見たことないもん! なにあのハリボテ感! 返せ!オレのハッピーな刷り込みを返せ!

・ 詰め込みすぎてごちゃごちゃしてしまった感もありますが、悪夢ってそういうもんだろ?という気もしますし、ザックリでしたが本場のディズニーの雰囲気も味わえて、わたしはたのしく鑑賞しましたよ。 

・ 最後のシーンをティンカーベルが飾ることから、ジムは彼だけの「ネバーランド」に辿り着いたのだろうなぁと思いました。 「救いがないのが救い」みたいなオチですが、これはこれでアリなのではないでしょうか。 まぁもうジムにはすきにしてもらうとして、奥さんと子どもさんたちには幸せになって頂きたいものですねぇ。




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