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『野球少女』

2021年03月30日
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『母親残酷物語』

初めての子ども、初めての子育て、夢見がちで生活力のない夫、泣きつけない実家、たったひとりで生きているような感覚。
あの時、電車から降りようとしない娘にアイスを買ってあげなかったのは、アイスを買うお金がなかったわけじゃない。
買うお金が惜しくなったわけでもない。
目的駅についたから降りようと呼びかけた娘が、自分に見向きもしなかったからだった。
慌てて追ってくるだろうと先に電車を降りたのに、変わらず自分ではなくよそのこが持つアイスを見つめ続けていたからだ。
ほしいものを見つめる目。
あの目は、なぜ自分ではなく他の物に向いているのだろう。
自分はなにをさておいても、娘のことを第一に思っているのに。
そのために自分の人生を捧げたのに。

親になったものが子育てに不安を感じたり、愚痴を吐いたりするとき、よくこんな風な正しさを突き付けられることがある。
「自分たちがすきでつくったくせに」
すきで産んだくせに。 勝手に産んだくせに。 自分の都合で産んだくせに。
自分たちがつくったんだから、文句言わずに育てなさい。
それがあなたたちの責任ですよ。
もちろんそうだと思う。
命は勝手に芽生えない。 
そのための行為があって初めて芽生えるし、ある程度の苦しい期間を経ないと大きくならないし、100%出産できるとも限らない。
前向きか後ろ向きかの違いはあれど、なにがしかの「産む」という意志がはたらかなければ胎外に出てこられない以上、いざこの世界に出てきた子どもは、最低限育てなければならない、とわたしは思う。
最低限、とは子どもが親の支えなしでも生きゆける状態を指す。 
自立、と呼んでもいい。
自立に必要なもの、たとえば精神的な強さは甘えさせているだけでは育たないし、経済的な安定は夢見ているだけでは手に入らない。
最低限、を子どもに与えるため、親が見極めなければならない課題は多い。
子どもの性質、子どもの性格、子どもの才能、子どもの可能性。
いったいどれだけの親が正確にそれらを判断できるだろうか。
答え合わせなど、どこにも用意されていないのに。

親、と書いてきたのは、この悩みが本来性別にとらわれるべきではない事柄だから。
しかし、残念ながら現実その多くは女性にのしかかっている。
本作『野球少女』に登場する母親、シン・ヘスクの上にも。

シン・ヘスクはこういった「夢をおいかける子ども」の物語に出てきがちな親の典型のような女性だ。
口うるさく、頭ごなしで、子どもの才能を信じず、現実的なことばかり押し付ける、理解のない大人。
このような大人は、そうではない大人(やさしく、理解があり、子どもの才能を信じ、夢を後押しする)との比較のために出てくるようなものなので、本来いちいちひっかかるべきではないのかもしれない。
ここは本筋ではない、それはわたしもわかっている。
しかし、精神的に追い詰められたシン・ヘスクが娘にかけた言葉が、どうしてもわたしの胸に突き刺さって、つらくてくるしくて、結局最後までむくわれることのなかったシン・ヘスクを想うとやるせないのだ。
「諦めることは恥ではない」、彼女はそう言ったのだ。

リトルリーグ時代から一目を置かれていた娘は、たしかに他の子どもよりも才能があるのかもしれない。
天才野球少女としてマスコミに取り上げられ、シン・ヘスクも最初は誇りに思っていただろう。
しかし、本来男子しか入部を許されていなかった高校の野球部に入ることを目標にしたころから、誇りの中に不安が混じるようになってきたのではないか。
この子は野球をいつまで続ける気なのか? と。
慣習を土下座で打ち破った父親はさておき、シン・ヘスクはプロ野球界に女子がいないことを忘れなかった。
娘がその歴史を塗り替えるほどの才能を持っているかどうか、自分の目で確かめようとしなかったのは、決して褒められたことではない。
見てもわからなかったから見なかったのかもしれないし、見るのが怖かったのかもしれない。
いずれにしても、女子がプロ選手になれるわけはないのだから、判断しようとするだけ無駄じゃないか。
その偏見が、わたしからみればシン・ヘスク唯一のしくじりだ。
なれるわけがない。 自分の子が第一号になるわけがない。
そう思うしかないような価値観の中育ってきたシン・ヘスクが、我が子にまで偏見を押し付けようとした。
そのことだけは明確に間違っている。
そして、他のことはほとんど全部間違いじゃない。

娘の才能が本物がどうかの線引きを、シン・ヘスクは高校卒業までと定め、それまではなにがあっても見守ろうと決めていたのだろう。
それはひとつの目安としてありうると思う。
結果、卒業が迫ってもスカウトされない娘に、そろそろ夢を追うのをやめて就職しなさいとすすめるのもおかしくない。
とはいえ、娘は野球しかやってきておらず、勉強そっちのけの生活だったから普通の就職すら難しいかもしれない。
そこで、自分が勤める工場のえらいさんに話を通して、特別優遇で入社できるよう取り計らってもらった。
あなたはよくがんばった。 
たくさんいる野球少年・少女の中では才能もあった。
世間に注目され、高校の野球部にも入れた。
もう充分じゃないか。 これ以上望んでも手に入るものはないじゃないか。
夢を追うのは尊い。
でも、諦めるのもまた恥じゃない。
そう、諦めてきたことを恥じる必要などないのだ。

安定した収入を得るため、資格取得を目指す夫。 
大いに結構な計画だけれど、その間の収入はない。
娘にもせめて高校卒業までは野球という夢を追わせたい。
まだ幼いほうの末娘は手がかかる。
シン・ヘスクが彼らすべての生活を支えるため、これまで諦めてきたものは、一体どれぐらいあったのだろうか。
工場の食堂で身を粉にして働き、疲れ果てた体では帰宅後食事を作る余力もなく、けれど幼い娘にも育ち盛りの娘にも腹いっぱい食べさせたいから、残った食材を持ち帰る。
そこに刻まれたプライドはなかったのだろうか。 わたしはあったと思う。
本当はかわいい我が子のために温かい手料理をこしらえたい。でも無理。ごめんなさい。出来合いのおかずでごめんなさい。栄養はあるからしっかり食べて。
責めるべきでも責められるべきでもないのに、ひとつひとついろんなものを諦め、そのたびに自分を恥じてきたのではないか、シン・ヘスクは。
せめて夫にもっと生活力があれば。 
娘が母の苦労にほんのわずかでもいい、理解を示してくれれば。
けれど、娘から帰ってきた言葉は「お母さんはお金のことしか頭にない」という強烈な一言。 
あまりにつらい。わたしだったら徹底的にブチ切れてる。ちょこっと言い返すぐらいでやめたシン・ヘスクえらい。

与えるばかりで与えられることのなかったシン・ヘスク。
でも、失敗だったと思いたくない。 自分の人生を悔いたくない。
「諦めることは恥じゃない」
その言葉は娘ではなく、彼女自身に向けられた、彼女自身が己を肯定するため向け続けた言葉だったのではないだろうか。
本当は彼女だって、諦めなくていいよ、と言われていい人間のはずなのに。
母親の人生はあまりに残酷だ。

本作のラスト、見事プロ球団の二軍入りが決まった娘の契約のため、コーチとともに球団責任者のもとを訪ねるシン・ヘスク。
「娘さんの契約金は6000万ウォンです」、と責任者。
隣に座るコーチは、「おかあさん、この金額は決して悪くない金額ですよ」とささやく。
複雑な表情を浮かべるシン・ヘスクは、意を決したように、絞り出すような声で「わかりました、ただ、うちにはお金があまりないので、すぐには用意できないのです。どうか二か月くださいませんか?二か月でなんとか工面しますので・・・」と申し出る。
それはあなたが払うのではない、球団が娘さんに払うのですよ、とほほえむ責任者とコーチ。
これはハートウォーミングなシーンなのだろうか。
契約金というものすら知らない無知な母親。 
あらあら、かわいそうに。そんなことも知らないの。おかしいね。かわいいね。

じゃねえだろ。

わたしは、このシーンで隣に座っていたのが娘だったらよかったのに、と思った。
偏見を改め、応援すると決めた娘のため、6000万ウォン(日本円だと580万ぐらい)もの大金を二か月で工面しようとするシン・ヘスク。
娘だったら笑わない。 きっと笑ってない。
反発し、軽蔑したことすらあった母親に、過去自分が吐いてきたひどい言葉を振り返り、母親がどれだけお金のことを考えてきてくれたのかということに気付いてくれればいい。
今までの家族の暮らしは、母親がこんな風にして作ってきてくれたものなのだ、と気付いてくれればいい。
そして、「おかあさん、そのお金は払わなくていいんだよ、わたしがもらうお金なんだよ」と呼び掛けて、シン・ヘスクが長年ひとりで背負ってきたものをおろしてあげてほしかった。
もしそういうラストだったら、わたしはこの作品を手放しでほめていたかもしれない。
そんな直接的なやりとりを描かなくとも、この先母親と娘の関係が明るいものになることなど想像に難くないけれども、だ。
あくまで本作の主役は娘であることはわかった上で、だ。
女性が自由を得る映画はいい。
だが、母親残酷物語はもううんざりじゃないか。




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